1445

宮 林太郎さんの手紙を思い出す。
私は、宮さんを訪問したあと、玄関先でスナップ写真を撮った。それをさしあげたときの礼状の一節。

 

昔、ぼくが二十歳ぐらいのとき、だからそれは六十年ぐらい前の話です、新宿の武蔵野館でジャック・フェデの「面影」という映画を観ました。この映画は傑作中の傑作で、芸術家が映画というものに取り組んだ初期のものでした。
ある男がパリの街角の写真館のショーウインドーのガラス越しに女のポートレートを見ます。それからその男はその女の面影を追ってフランス中の旅に出ます。勿論、その女に出会うためです。
美しいプロヴァンスの林の中や、タバコの煙で一杯のマルセーユの居酒屋のテーブルや、フランスの田舎の町や村々や川のほとりを歩くのです。その美しい風景は郷愁となってぼくの頭に残っております。
ぼくは一枚の写真の話をしているのですが、中田さんが写してくれたこのミイラには死の影のみえる一人の老人が悲しそうに座っています。そして何か喋ろうとしています。
多分死についてでしょう。そしてこの老人はボルテールのような骸骨と目つきをしています。

 

日付は、1991年9月27日。もう、二〇年も昔のことになる。

当時の私は、評伝「ルイ・ジュヴェ」を書きはじめていたが、まったくの手さぐりで、いつになったら完成するのか見当もつかず、前途暗澹たる状態だった。
そんなときに、宮さんと親しくなって、祐天寺の「ヘミングウェイ通り」に、宮さんを訪問したものだった。

残念ながら、ジャック・フェデルの映画、「面影」を私は見ていない。
フェデルの初期の映画、「女郎蜘蛛」は、ある機会に見たが、これは、後年の「外人部隊」を予告するような部分があって、フェデルを理解するうえで役に立った。
それと、もう一つ、宮さん流にいえば、この映画で、「ある女の面影」を見たのだった。
だから、その女の美しい面影は郷愁となって私の頭に残っている。

それはさておき。
私は、親しい人たちのスナップ写真を撮っては、それをさしあげるのが「趣味」で、写真を撮られるのがお好きでなかった宮さんのスナップも撮影した。
その写真の宮さんは、けっして「ミイラ」のような「骸骨」ではなかった。ヴォルテールのような「目つき」をしているかどうか、ヴォルテリアンでない私にはわからない。

しかし、その写真の宮さんが「何か喋ろうとして」いて、それが「多分死について」だろうという、当時の宮さんの心境は、今にしてよく分かるような気がする。

ただし、私は、「何か喋ろうとして」、それが「多分死について」ということがあるだろうか。おそらく、それはない。
私は、毎日、死について考える。ただし、自分の「死について」語ろうとは思わない。まだ。  (つづく)

 

1444

10月下旬、映画女優、シルヴィア・クリステルが亡くなった。亨年60歳。

私は、この女優さんにあまり関心がなかった。しかし、彼女の映画をもう一度見ておこうと思った。一般に映画スターは、ただの固有名詞、たとえば「シルヴィア・クリステル」という女を越えた、一つの存在を私たちに感じさせるからである。
これは、少し説明しなければいけないかも。

シルヴィア・クリステルは、1952年、オランダ生まれの女優。中流の家庭に育ったが、カルヴィン派のきびしい教えを受けた。後年、彼女が、反教会的な映画に出たのも、厳格な宗教教育に対する反発があったと見ていい。
将来の希望は、英語教師になることだったが、家を飛び出して、秘書、ガソリン・スタンドのアルバイトをやっているうちに、スカウトされて、ファッション・モデルになった。

何しろスタイルが抜群だったので、ヨーロッパでも有名なモデルになった。「ミス・TVヨーロッパ・コンテスト」で優勝。1972年、オランダ映画に出るようになった。
彼女が世界的に知られるようになったのは、74年、「エマニエル夫人」に主演したからだった。

シルヴィアに関心がなかった私は、ビデオもDVDももっていなかったので、「エマニエル夫人」のシリーズ最後の作品、「さよなら、エマニエル夫人」を探し出して見ることにした。

インド洋に浮かぶ楽園、セーシェル島に、夫と移住した「エマニエル」は、島で知りあった黒人女性と夫を相手に、コンジュガル・ラヴ(夫婦愛)、レズビアニズムを楽しんだり、観光客とゆきずりの情事をくり返している。その「エマニエル」の前に、撮影のロケ地をさがしている映画監督があらわれる。……

「エマニエル夫人」のシリーズの性的イデオロギーは、女性が自分でのぞむかぎり、どのような性行動、性行為を試みてもまったく不都合ではないというもので、現在ではそれほど珍しいものではない。いや、女性に対する社会的、思想的な理解が大きく変化してきた時期、そして女性自身の経済的な地位の向上がもたらした性的な自由の獲得というプロセスのなかでは、「エマニエル夫人」のシリーズの性的イデオロギーは、ごく標準的なもので、今、映画を見直しても、さして驚くほどのセックス表現はない。

「エマニエル夫人」の性的イデオロギーは、フェリーニの「女の都」や、ゴダールの「女と男のいる舗道」などとはまったくちがった平凡な物である。

私にいわせれば――「エマニエル夫人」が、香港、シャム(タイ)、セーシェル諸島といったエグゾティックな土地で、それまで経験したことのない「性体験」を重ねる、というシチュエーションには――エグゾティシズムという衣裳に覆われているが、じつは白人の女が潜在意識的に抱いている異民族の性行動に対する、つよい関心、それもひそかな優越感に彩られた畏怖が隠されている。

ジェーン・オースティンが「高慢と偏見」で描いたのは、「結婚がもっとも快適に貧困を予防できるシステム」だったとしよう。
少し皮肉にいえば――「エマニエル夫人」は、ヨーロッパ、アメリカではなく、そして、戦後の日本や、さらに後の上海、北京ではなく、後進国のリゾート地域で、まったく隔絶した富裕な人妻だった。つまりは、「結婚がもっとも快適に不倫を実行できるシステム」だからにすぎない。

私は日本で公開された「エマニエル夫人」を、ニューヨークでも見直した。(「ディープ・スロート」や「ビハインド・ア・グリーン・ドア」も見た。ムフフ)
「エマニエル夫人」にも日本版でカットされた部分があった。そのカットはワイセツという理由でカットされながら、私は、そうした部分に、白人の黄色人種、黒人種の女性に対する潜在的な「恐怖」や軽蔑が隠されているのではないか、と思った。

ところで「エマニエル夫人」の成功は、なんといってもシルヴィア・クリステルの起用によると考える。シルヴィア・クリステルには性的な魅力があった。その「性的」という意味で、映画史的に見て、「エマニエル夫人」の出現は「春の調べ」のヘディ・キースラー(後年のヘディ・ラマール)の登場と似ていると思う。
「ディープ・スロート」が、その後のポルノ映画の最初のマイルストーンだったという意味では、「エマニエル夫人」は「春の調べ」のようなプライオリティーをもってはいないだろう。
だが、ヘディ・キースラーがもはや誰の関心も惹かないが、シルヴィア・クリステルは、まだしばらくは映画史に残るだろう。そして、もう一度死ぬことになる。わずかな例外はあっても美しい女優たちもまた、二度死ぬのだ。

シルヴィア・クリステル。この女優さんの代表作は、むしろ、オランダ映画なのだが、残念なことに私たちは見る機会がない。

 

 

1443

頭脳の老化はふせぎようがない。
それでも、少しは、脳の活性化を、と考えて、最近の私は、昔見た映画を、もう一度見直すようにしている。
これが、結構おもしろい。

もう一つ。
昔書いた自分の原稿を、もう一度読み直してみる。
これは、どうにも恥ずかしい。

 

今年の夏は、ほんとうに暑い日々がつづいた。さすがに仕事をする気になれず、ぼんやり本ばかり読んで過ごした。

あるエッセイの書き出し。
1990年9月30日の「日経」に、私は「いまはもう秋」というエッセイを書いているのだが、20年も前に、私は今とおなじことを書いている!

なんとも恥ずかしいかぎり。

ところで、このエッセイで、私は、ある三行詩を訳している。

 

ある日、おもしろいものを見つけた。
ロラン・バルトが、芭蕉の句、「名月や池をめぐりてよもすがら」を読んで作った三行詩である。前に読んだときは、うっかりして、そんな詩があることに気がつかなかった。
フランス語もろくに読めないのだが、自己流で訳してみた。むろん、ご愛嬌である。

この夏の港の朝の晴れゆきて去りにしひとを思う我かも夏の朝はただ晴れるにけり無為にして今は去りにし人を思うもこの夏の朝晴れにけりうら恋うる人と渚にいくみ寝しかも

バルトは俳句のつもりで詠んだらしいが、フランス語の明晰性がどうしても十七字では表現できなかったので、思いきって短歌にしてしまった。

 

これは失恋の歌なのだろう。去って行った恋人への思いが、こうした短詩形に凝縮する。日本人なら誰しも経験があるかも知れない。
夏の朝が美しく晴れわたっているのに、ぼんやり「恋人」のことを思いつづけている。ここには、やるせない内面の傷みがあふれている。
バルト流にいえば、はっきりした対象が頭になければ、恋愛を語ることも、失恋の傷みを語ることも不可能なのだ。

当時、私もまたあてどもない思いがあって、こんなことを書いていたのかも知れない。
今の私はこのエッセイを読んで、かなり違うことを考えている。

 

1442

 
 言葉の誤用の例としては――

 「舌先三寸」(本心ではなく、うわべだけの巧みなことば)を、ただしく使っている人は23・3パーセント。じつに56・7パーセントの人が「口先三寸」という。

 「食指が動く」は、38・1パーセントが正しく、31・4パーセントが「食指をそそられる」という。

 「のべつまくなし」を「のべつくまなし」という人は、32・1パーセント。おやおや。これは、幼児的な誤用だが、「隈なく」が影響したものか。
 正しく「のべつまくなし」といっている人は、42・8パーセント。しかし、これもいずれは、逆転するだろう。いや、その前に、死語、廃語化するだろうな。

 「物議をかもす」を「物議を呼ぶ」という。これは、まだ58・6パーセントの人が正しくつかっている。「呼ぶ」派は、21・7パーセント。

 「二つ返事」は、42・9パーセントの人が正しく使っているが、「一つ返事」のほうが、46・4パーセント。これは、もはや逆転している。

 これで思い出したのだが――私が大学で教えていた頃、学生のリポートを読むことが多かった。毎年、誤字、脱字の原稿を読まされるのに閉口したが、ときどき言葉の誤用にぶつかって呆然とした。
 学生のレポートで、「婚前一体」という熟語を眼にしたときは、抱腹絶倒したものだった。
 あげていうべからず。不可勝道。いちいちいっていたらきりがない、という意味。いまどき、こんなことばを使ったら、けげんな顔をされるか、笑われるだけだろうな。
 こちらも「けげんな顔」のかわりに、「ドヤ顔」でもしてみせるか。(笑)

1441

もう一つ、気になっていることがある。

これは「読売」(’12.9.21)「国語に関する世論調査」の記事による。

「ゆっくり、のんびりする」ということを「まったりする」という人が増えている。
「しっかり、たくさん食べよう」ということを「がっつり」という。
いずれも、調査対象の29パーセント。16歳~19歳では、約半数。二十代で、60パーセントを越えている。
「まったりする」は、おそらく関西系のことばがひろがって、イディオム化したのだろう。「がっつり」の語源は、ある人の説では、鹿児島の方言という。ひょっとすると、別のことが考えられないか。「ガッツ石松」というボクサーあがりのタレントにもかかわりがあるかも知れない。つまり、アメリカ語のGutsの変形かも。
私の見た例では――「女をがっつりイカせる」という用例があった。とすれば、フィジカルな行為に関して発生したのか。いずれにせよ、ろくなことばではない。

「中途半端でない」ということばを「半端ない」という。
「正反対」を「真逆(まぎゃく)」という。
これまた、16歳~19歳で60パーセント以上。二十代で約半数。

こうした言葉が、若い世代で半数を越えたということは、すでに文章表現にも転用されはじめるということだろう。

「まったりする」とか「がっつり」テナことばを使うのはまっぴらだが、もっと気になるのは、むしろ言葉の誤用で。イヒヒヒ。
(つづく)

 

 

1440

今年の私は、ひどいスランプに陥った、といってよい。
いくつかの理由はあるのだが、ここに書く必要はない。パソコンが故障したので、買い換えたのだが、それもすぐに故障した。われながらあきれた。
ほかにも、いろいろあったが、いずれ、忘れてしまえばすむことばかり。

忘れる。これはもう、どうしようもない。
自分ではよくおぼえているはずなのに、どうかすると思い出せない。字を忘れる。漢字が書けない。われながらあきれる。おいおい、それでも大丈夫かヨ、と嘆息する。そこで私はスランプになった、という顔をする。ボケ隠しの術である。

最近の日本人は、漢字を正確に書く能力が衰えているという調査が発表された。その調査は、文化庁によるもので、全国の16歳以上の男女を対象にした面接方式で行われた。

その結果、日頃、パソコンや、メールを使うことが多いため、漢字を正確に書く能力が衰えていると感じている人が、65・5パーセントにたっしている。10年前にくらべて、25・2パーセントもふえていることがわかった。

このことは、漢字を正確に書く能力だけではなく、読む能力も衰えているはずで、最近は、本を読む人、ひいては近代/現代の文学を読む読者層のいちじるしい減少と連動しているだろう。

これは、由々しき一大事である。(昔の講談に、よくこんなことばが出てきた。)

これでは、本を読む人がいなくなるのも当たり前だぜ。(この「ダゼ」は、最近、人気のタレントの真似だぜ。)
さっそく――「ゆとり教育」なるものを考案した文化省の官僚に「国民栄誉賞」をくれてやってもいいくらいだよ、まったく。「日本をダメにした功労者」として。

ただし、もっとおかしなことが出てきている。
手で字を書くことが面倒くさい。あるいは、直接、人と会って話をすることが、どうも面倒、と感じている人もふえている。
とくに、ティーンの世代では、42パーセント。
60歳以上の世代で、18・6パーセント。
いずれも、10年前にくらべて、10・1パーセント、7・3パーセントもふえていることになる。
ティーンは、10年前には、6歳から9歳だから、「手で字を書くことが面倒くさい」こともなかったはずで、問題の60歳以上の世代は、10年前には、50代だったのだから、この連中は、おそらく、ろくに本も読まずに過ごしてきたと見てよい。これから見えるものは「ゆとり教育」などという一部の文部官僚のプランが、日本人の識字能力、国語表現、ひいては世代的な「感性」にどれほど壊滅的な影響を及ぼしたか、ということになる。(むろん、パソコンや、メールの普及といった別の要因を考えないわけではない。)

若い世代が漢字を正確に書く能力だけではなく、読む能力も衰えていることの対策はどうするか。
たとえば、小学校の上級から英語の必修化をめざすなら、おなじ比重で重点的に漢字教育を行うべきである、と考える。
パソコンや、メールが得意な人は、かならずしも英語が上達するとはかぎらない。
だが、きっちりと漢字教育を受けた人は、かならず英語もよくできるようになる。

例外はあるけれど。(笑)

1439

もの書きがスランプになったらどうするか。

ある日、「近代文学」の同人たちの間で、そんな話題が出た。たぶん、佐々木 基一さんあたりが口火を切ったのだろう。戦後すぐの1946年、たぶん4月頃。
このとき、同席したのは、荒 正人、埴谷 雄高、山室 静、本多 秋五、平野 謙さんたちだった。
私は駆け出しもいいところで、いつも、「近代文学」の編集室に遊びに行って、隅っこで先輩の皆さんの話を聞いていた。ずっと、年下の私を相手に、この人たちがいろいろなことを話してくれたことを、いまの私は心から感謝している。

私は「近代文学」以外からの原稿の執筆依頼はなかった。つまり、原稿が書けない悩みなど経験したこともなかった。

このとき、それぞれの人がどう答えたか、もう忘れてしまった。しかし、埴谷 雄高のことばは心に残った。

どうしても原稿が書けないときは、原稿用紙にむかって、「原稿が書けない」と書けばよい、といった。埴谷 雄高の発言に、みんなが苦笑したが、埴谷さんの説には抜群の説得力があった。

ずっと後年になって、「シャイニング」という映画を見た。冬の季節、誰も客のいない空ホテルの一室で、「作家」が毎日、長編のタイプを打ち続けている。この「作家」をジャック・ニコルソンがやっていた。
スタンリー・キュブリックの演出は、あまりこわくなかったが、スランプに陥った「作家」の狂気が描かれている。当時、「山の上ホテル」にカンヅメになって、原稿を書きつづけていたので、この映画に出てくる作家のスランプがタイプされた「原稿」からわかるシーンはこわかったなあ。(笑)

1438

(つづき)
サリー・ホッグズヘッド著、「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」(PIE刊)を読んだのと、同時期に、最近、人気の高い作家、山口 路子の「恋に溺れて女になる」(中経文庫/’12.8.刊)を読んだ。読んだのは偶然だが、この本にも女が男を魅きつける条件がいろいろと出てくる。
サリー・ホッグズヘッドと、山口 路子の本をつづけて読んで、アメリカ的な乾いたプラグマティズムと、アメリカをよく理解しながら、日本の女性らしい「濡れたもの(wetness)」の違いが感じられて興味深かった。

山口 路子は、「ココ・シャネルという生きかた」で知られている作家だが、彼女のとりあげるさまざまな芸術家たちは私にも親しい人が多かった。たとえばマリリン・モンロー。女史の近作、「マリリン・モンロー」の「あとがき」に、わざわざ私の名をあげていただいて恐縮している。

山口 路子はこの著書で、みごとにマリリン・モンローの魅力を描き出しているのだが、たまたま、サリー・ホッグズヘッドもマリリン・モンローにふれていた。

心理学者のディヴイッド・ヒューロンは――マリリン・モンローの声を「濡れ
た声(wet)」と表現したのです。(中略)
マリリン・モンローの濡れた声は、快楽と包容力を伝えます。加えて、彼女の声は「気音」であるとヒューロンは説明します。モンローは声帯を通る空気の量を増やし、囁くように喋っているのです。私たちは、隣の人にひそひそ声で話しかけるとき、声に空気を含ませています。モンローの場合は、意図的に、自分のブランドイメージの一部である濡れた声というシグナルを採っていたのです。ステージ上でも「ピロー・トーク」の効果を利用し、観衆の一人ひとりと肉体的に親密な関係にあるような喋り方で話しかけたのです。(聴覚的にエロティックな彼女の傑作、「ハッピーバースデイ・ミスター・プレジデント」を頭の中で再生してみてください)。
(「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」)P・94.


この心理学者の説では、「濡れた声」は、暗黙のうちに相手を自分の身近に誘い込む、という。「ねえ、こっちにきて。すごくおもしろいことがあるの。いっしょにどう?」

マリリン・モンローにそういわれたら、誰だってメロメロになるだろう。(笑)

 

1437

(つづき)
21世紀のアメリカの文化、社会、ひいては、いつも自分の魅力を増大することに、みずからのプレステージ、価値を見いだそうとするアメリカの精神状況を知るために読まれてもいいと思う。
サリー・ホッグズヘッド著、「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」は、マーケティンクがThema のビジネス書だが、じつにさまざまな事例をあげているので、興味深い読みものになっている。

フェティシズムとは、特定の活動や、物に対する過剰な、あるいは異常な愛着を意味する。その対象には、乳房、口紅、女性のお下げのヘアー、絹のシーツ、のぞき見、そうした性的な傾向から、車のエンジン音まであるそうな。
ところで、私は、女性の乳房、口紅、お下げのヘアー、絹のシーツ、女に関するすべてのものが好きである。おまけに、作家といっても、ろくな作家ではないので、ヴォワイユーリズムにも大きな関心をもっている。してみると、私は どうやら心情のフェティシストかも。(笑)話題をかえないとヤバイね。(笑)

そこで、進化生物学の学者によると――

シンメトリー(左右対称性)は美を意味する。「ひじの骨の位置が左右対称というだけで、その男性はより魅力的であり、ベッドでセックスを楽しむ機会もより多く、より美しい女性とつきあうことができるとのこと。」
もっと若い頃に教えてほしかったなあ。(笑)

1436

まったく偶然に、二冊の本を読んだ。それぞれ、まったく関係のない本なのだが。

サリー・ホッグズヘッド著、「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」(PIE刊)を読んだ。真喜志 順子の訳がいい。
テーマは――私たちが、なぜ、これこれのブランドに惹かれたり、あるタレントに魅せられてしまうのか。
逆に、そうした背景に何が潜んでいるのか。

冒頭に、「オーガズム――まず、セックスの話から始めましょう」という章があって、さっそく読みはじめてしまった。

「人は生まれながらにして、異性からの特定のシグナルに魅力を感じるようにできているだけでなく、異性を魅了する術(すべ)も備えています」という。
なにしろ、私は「異性を魅了する術(すべ)も備えて」いないので失格だなあ。(笑)

魅力的な人びとは、私たちの心を奪い、強烈な渦の中に巻き込む。
心理学者のミハイ・チクセントミハイは――オーガズミックな経験を「フロー」と呼ぶ。「自分が現在おこなっていることに完全に没頭している時の精神状態」が、その「フロー」であって、特徴としては、「集中力が増す感覚」という。
「ほかのことがどうでもよくなってしまうほど、ある状態に没頭する状態、その経験はきわめて楽しいものなので、それをやりたいがために、人はどんなに大きな犠牲をはらってもやろうとする」と、説明している。

私は、ミハイ・チクセントミハイ先生の著作を知らない。この本で、はじめて知ったので、この説明に納得した。ただ、生理現象としての「オーガズミック」はしゃっくりに似ていると考えている。

魅力的なイメージや、魅力的な人々は、私たちの心を奪い、強烈な渦の中に巻き込む力をもっています。チクセントミハイは、これをフローの中毒性と呼び、「他のことがどうでも良くなってしまうほど、ある活動に没頭してしまう状態、その経験自体はきわめて楽しいものなので、それをやりたいがために、どんなに大きな犠牲を払ってでもやろうとする」と説明しています。

ほんとにそうだよ。私は、チクセントミハイ先生を存じあげないけれど、自分のまずしい経験からも、こうした状態は推測できる。
芝居の「演技」なども、そういうものかも知れない。

私は、評伝、「ルイ・ジュヴェ」で、そうしたエクスタシイを説明しようと思ったのだった。自分では、どうにもうまく描けなかつたのだが――オペラ歌手のカーティア・リッチャレッリのことばを見つけた。(「ルイ・ジュヴェ」第六部・第七章)

1989年、リッチャレッリはコヴェント・ガーデンで、プラシド・ドミンゴを相手に「オテロ」を演じた。
稽古中から最高の瞬間が訪れたという。Sternstunden だった。

「こういう瞬間はきわめてまれなのよ」とリッチャレッリは語っている。「ドイツ人がいうSternstunden で、芸術家の生涯でも、二、三度しか訪れてこないわ」

余談だが、私は、わざわざ、Sternstundenを、ドイツ語のまま引用したのだが、校正者は「好機」と訳し直してきた。冗談ではない。私は、すぐに、これを「たまゆらのいのちの極み」と訳した。

最近の私は――何かを見れば、すぐに何かを思い出す。これもその一例。

1435

今回、「レーピン展」で私が関心をもった一枚。

 「エレオノーラ・ドゥーゼの肖像」。(1901年)

110センチ×140センチ。大きなキャンバスに、木炭でデッサンをとっただけ。未完成のまま、放置したらしい。

この肖像画は、1891年3月から4月、サンクト・ペテルブルグで客演したときに描かれたもの、という。

カタログの解説によれば――

 

「尊大さを感じさせるほど、自信にみちた女優の眼差し、表情、手の位置、全体の姿勢などを木炭の黒だけで巧みに描いている」

 

という。

私は、「尊大さを感じさせるほど、自信にみちた女優の眼差し」というより、どこか放心したように、こちらを見ている女優の孤独を感じる。ドゥーゼは、レーピンのことなど知るよしもなかったにちがいない。遠く、サンクト・ペテルブルグまでやってきて、スケッチをとる画家などに関心をふり向ける余裕もなかったかも知れない。
椅子の肘にかけた右手と、おなじように投げ出した左手の大きさの狂い、そして、からだに置いたショールの位置、不安定な下半身。
「全体の姿勢を木炭の黒だけで巧みに描いている」とは思えない。レーピンは、なぜか、一瞬のうちに、お互いの立っている位置、姿勢、そして亀裂のようなものを感じとったのではないか。そんな気がする。

ついでに書いておこう。劇作家のチェーホフが、エレオノーラのペテルスブルグ公演を見ている。チェーホフは、「私は、かつて一度たりともこれほどの女優を見たことがない」と書いている。

この絵が完成しなかったのは残念としかいいようがない。しかし、デッサンとして、この「レーピン展」で私がいちばん気に入った一枚。

カタログの解説には――

 

エレオノーラ・ドゥーゼ(1858-1924)は4歳から劇団にくわわり、サラ・ベルナール(1844-1921)の当たり役をイタリア語で演じて有名になった。

 

こんな安直な解説はないだろう。
もう少し勉強して書くべきだったね。
エレオノーラ・ドゥーゼは、19世紀末、「あらゆる時代に生きているみごとな女神」と呼ばれ、「芸術の娘」(フィーリア・デラルテ)とうたわれた女優。
1895年、ロンドンで、サラ・ベルナールを相手に、ズーデルマンの「家」で競演した。バーナード・ショーは、サラの絢爛たる演技を見た翌々日、エレオノーラの静謐な演技を見た。その優劣を判断することはできないと書いている。

晩年のエレオノーラ・ドゥーゼは、愛人のガブリエーレ・ダヌンツィオと別れた。病身、老残の身だったが、パリで再起をはかった。その後、アメリカ巡業に出て、ピッツバーグで客死している。
若き日のマリリン・モンローは、ドゥーゼの伝記を読んで、女優を志したといってよい。後年、マリリンは、エレオノーラ・ドゥーゼの遺品を買いとった。マリリンの死後、演出家のリー・ストラスバーグが、マリリンの遺志をついで、これをコロンビア大学に寄贈している。またまた、余計なことを思い出したね。

「レーピン展」で、エレオノーラ・ドゥーゼに会えたことはうれしかった。帰りに、絵ハガキでも買いたいと思ったが、そんなものがあるはずもなかった。
ほとんど、誰も気にとめないだろう。
仕方がないので、カタログを買ってきたが、重くて閉口した。
外国の美術館のカタログのように、もっとコンパクトで、要領(容量)のいい、値段も安いカタログが作れないものか。学芸員の原稿料かせぎか、要領の悪い学術論文のような「解説」を読まされるのはうんざりする。

 

 

1434

今回、私が心を動かされたレーピンの絵の一枚。

「懺悔の前」(1879-1885年)。

帝政の覆滅を企図した革命家が、死刑の宣告を受けて、最後にロシア正教の司祭の前で、告解をうけようとしている。革命家は、暗い、汚い獄舎のベッドに腰を下ろしている。汚れた外套の下に、白いシャツがのぞいている。
ペトロパブロフスキー要塞の地下牢だろうか。

死刑執行まで、彼にのこされた時間はわずかしかない。
その表情は、うつろだ。

これは、ロシア革命史に大きなターニング・ポイントとなった「人民の意志」(ナロードナヤ・ヴォーリア)の秘密機関紙、創刊号(1879年10月)に載ったニコライ・ミーンスキーの詩に感動したレーピンが描いたもの。

ドストエフスキーが、死刑を宣告されたペトラシェフスキー事件から、じつに30年後のこと。

デカブリストの反乱から、ロシアにとって緊急の問題だった、農奴制の廃止、貴族階級の特権の停止、秘密警察の執拗な身辺調査、被疑者への虐待、暴行、帝政の廃止まで、ロシアの苦悶を、レーピンは、この絵に集約している。

レーピンが、この絵を完成して、5年後、劇作家、チェーホフは、突然、はるかな極東のサハリンに旅立っている。
なぜ、劇作家は縁もゆかりもないサハリンに向かったのか。
100年以上もたった現在、この問題は、まだはっきりわかっていない。

レーピンを見ながら、またしても、とりとめもないことを考えつづけていた。

1433

残暑のきびしい渋谷に、「レーピン展」を見に行った。
トレチャコフ美術館収蔵の作品展である。

じつは、モスクワに行ったときレーピンを見ている。当時のソヴィエトで、いろいろなものを見たが、現代美術の作品はまったくろくなものがなかった。
たとえば、「ドン河で督戦するブレジネフ少佐」と題する巨大な絵が壁面いっぱいに飾られていた。なにしろ、ルーヴルの「ナポレオン戴冠」に匹敵する大きさで、ドイツ軍の砲火の前に身をさらして、赤軍兵士を激励する若い指導者が描かれている。この絵を見たとき虫酸が走った。これが社会主義リアリズムなのか。

ロシアで心に残ったのは、「エルミタージュ」で見つけたたった一枚、フィレンツェの「コジモ大公」や、ゴーギャン、ピカソから、ヴァン・ドンゲンまでのフランスの美術コレクションばかりで、ロシア美術の作品としては、わずかにクラムスコーイ、レーピンの数点だけだった。

トレチャコフは富豪で、レーピンの友人だった。
1890年、トルストイにあてて、

絵彩なり、ポートレート、習作なり、いずれにせよ最高の位置にあるのは、レーピンでしょう。

と書いた。
今回の「レーピン展」で、私は「トルストイの肖像」を見た。
ロシアでは、かつてこれほどみごとな肖像画は書かれたことがない。はじめてこの絵を見たとき、私はそんなことを考えたものだった。
たしかに、「トルストイの肖像」はすばらしいものだったが、今回、「アクサーコフ」や「コロレンコ」を見ることができた。
ロシア文学が専門ではないのだが、それでもアクサーコフやコロレンコの作品は読んだ。だから、あらためて、ロシアの文学者たちに親しみと敬意を持った。
ウラジーミル・スターソフの肖像もすばらしいものだったが、残念ながら、私はこの人の芸術論をしらない。
ワシーリー・レーピンの肖像。画家の弟で、音楽家。私は、赤いカフタンを着たこの若い芸術家が、マルクス兄弟のチコにそっくりなので、おかしかった。解説によれば、絵のモデルになって描かれているあいだ、長時間じっとすわっていられない「落ち着きのない」性格だったという。そのせいで私はチコ・マルクスを連想したのかも。

母のタチャーナのデッサン。
私は、ガートリュード・スタインかと思った。服装といい、容貌といい、ガートリュード・スタインそっくり。

私の美術鑑賞は、たいていこんなものなのだ。(笑)

 

 

1432

No one ever learned literature from a textbook.
I have never taken a course in writing.
I learned to write naturally and on my own.
I did not succeed by accident;I succeeded by patient hard works.
Verbal dexterity does not ma kes a good book.

文学を教科書からまなんだものは一人もいない。
私は書くために(大学の創作科のような)授業を受けたことは一度もない。
ひとりでに書くことを身につけ、独力で書いてきた。
偶然に成功したのではない。忍耐づよい、くるしい仕事のおかげで成功したのだ。
ことばの器用さだけでは、いい本はできない

 

誰でも経験することだが、色々な本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うような言葉を発見することがある。
そういうことばは――たとえ、そのことばを読んだ本を忘れてしまっても――そのことば自体は、心に残るだろう。

私はヘミングウェイのようなえらい作家ではない。文学部で勉強してきたが、アメリカの大学の創作科のようなコースもなかったし、有名な作家たちの講義もいろいろと受けたが、創作の授業を受けたことは一度もない。
自分で、いろいろと書きつづけているうちに、なんとなく書くことを身につけたのだから、やはり独力で書いてきたといっていい。

私は作家として、まあ、無名作家に近いマイナーな存在にすぎない。そのことを恥じる必要はない。
ただ、しがないもの書きとして、それなりに「忍耐づよく、くるしい仕事」をつづけてきた。
私はいつも考えつづけてきたのだ。なぜ、ある人は才能に恵まれているのに、ある人は才能に恵まれないのか。

「忍耐づよく、くるしい仕事」をつづけることも才能の一つ。それは間違いない。
ただし、今年のように猛暑がつづくと、「忍耐づよく、くるしい仕事」なんかとても続けられない。
だけどさ、ヘミングウェイさん、あんただって猛暑の中で「アフリカの緑の丘」を書いたわけではないよね。地球の異常気象を知らなかったパパがうらやましいよ、まったく。

1431

今年の夏は暑かった。
暑くて、ろくに本も読まなかった。

たまたま古い「キネマ旬報」(1952年7月上旬号)が出てきたので、読み散らしていたが……

この中に、戦後のヨーロッパ映画3本の公開が予告されていた。
たとえば、「ベルリン物語」、「愛人ジュリエツト」、「二百万人還る」など。

「二百万人還る」(Retour a la Vie)は、いわゆるオムニバス映画で、私は「ルイ・ジュヴェ」(第六部3章)で、この映画をとりあげている。
ジュウェの出ているエピソードは、ジョルジュ・クルーゾーの演出。

評伝「ルイ・ジュヴェ」を書いていた時期には、この映画が作られた1949年か、その翌年、1951年には見たものと思っていた。

現実には、私はジュヴェが亡くなってから、この映画を見たことになる。「二百万人還る」をジュヴェの遺作として見たのか、それとも戦後フランスの「現実」を知ろうとして見たのか。たいした違いはないのだが。
しかし、スクリーン上でこの俳優をふたたび見ることはない、という感慨が自分の内部にあったことは間違いない。むろん、はるか後年、評伝「ルイ・ジュヴェ」を書くことになる、などとは夢にも思わなかった。

この時期、すぐれた映画がつぎつぎに公開されていた。

イギリス映画の「第三の男」(キャロル・リード)。
イタリア映画の「ミラノの奇蹟」(ヴィットリオ・デ・シーカ)、
フランス映画の「輪舞「(マックス・オフュールス)、「ドン・カミロの小さな世界」(ジュリアン・デュヴイヴィエ)。むろん、私は全部見ている。

アメリカ映画は、「誰が為に鐘は鳴る」(サム・ウッド)。
「地上最大のショウ」(セシル・B・デミル)。

「セールスマンの死」(ラズロ・ベネデク)、「真昼の決闘」(フレッド・ジンネマン)、「見知らぬ乗客」(アルフレッド・ヒチコック)、「砂漠の鬼将軍」(ヘンリー・ハサウェイ)、「怒りの河「(アンソニー・マン)など。
日本映画では――
「東京の恋人」(千葉泰樹)、原 節子、三船 敏郎。
「若い人」(市川 崑)、島崎 雪子、池部 良、(ただし、市川 春代、大日向 伝の「若い人」のリメーク。)
「振袖狂女」(安田 公義)、長谷川 一夫、山根 寿子。

おかしなことにこれらの映画を、私は全部見ている。貧乏なもの書きだったが、暇だけは、たっぷりあった。映画も芝居も身銭を切って見ていた。私は、芝居、映画を見たり、コンサートに行ったりレコードを買うだけの目的で原稿を書きとばしていた。
当時は何も気がつかなかったが、若い頃の一時期にこうした映画をつぎからつぎに見つづけてきた幸運を思う。
当時の私は――もうおぼろげな記憶しか残っていないけれど、こうした映画を見ることで、自分の進むべき道をさぐっていたような気がする。

そのうちに、映画は試写で見ればいいと気がついた。そこで、映画批評めいた雑文を書くようになった。

 

 

1430

 ロンドン・オリンピックは、私たちにさまざまな感動をあたえてくれた。

なかでも、私の胸に深く残ったのは、最後まで死力をつくして戦った選手たちのことばだった。

「あきらめなければ、夢は叶う」

と、寺川 綾がいった。女子競泳、200メートル背泳。美人の選手。

「いつでもどこでも眠れるのが得意技だったのに、(試合前夜は)ほぼ一睡もで
きませんでした。目をつぶると、対戦相手の顔がつぎつぎと浮かんできて……」

吉田 沙保里。アテネ、北京とつづいて、三連覇をなし遂げた。

「あきらめないでやってきたから、この舞台に立てた。」

一昨年、初めて世界選手権に出たとき、すでに23歳。ロンドン・オリンピックは、最初で最後の晴れ舞台。田中 理恵。結果は、16位だったが、「強い選手といっしょに戦えたのはうれしかった」という。

2000年、シドニーに出た選手たちのことばが、今でも私の内面に残っている。
たとえば――アップダウンのはげしいコースを走り抜いた女子マラソンの高橋 尚子は「もっとキツイコースで練習してきた。すごく楽しい42キロでした」と語っている。

今回のマラソンのコースは、まるっきりアップダウンのないコースだったが、日本選手は、あえなく敗れた。
私は、浅利 純子(1993年、大阪国際女子マラソンで、当時、日本の最高タイムを出した。2時間26分26秒)の記録を思い出して、現在の女子マラソンの、とくにアフリカ勢の驚異的なスピードアップに驚嘆した。これでは、とても勝てない。

私は、かつての高橋 尚子や、野口 みずきなどの残念な挫折を思いうかべながら、つぎのリオ・デ・ジャネイロでの、日本勢の捲土重来を期待したのだった。

こうして――
さまざまな思いを私の内部に残して、ロンドン・オリンピックは終わった。

 

1429

 ロンドン・オリンピック。テレビで中継される競技を、全部見たわけではない。しかし、運よく、見られた種目は、全部、楽しかった。

 登場する日本選手に声援を送った。とくに、女子サッカー、「なでしこジャパン」に、つきあって、睡眠不足の日々がつづいた。
 今回のメダルの獲得数が、北京オリンピックを越えたという。私は、メダルの獲得数にあまり関心がない。旧共産圏諸国のようにスポーツの振興、選手の育成に、じゅうぶんな予算をかければ、優秀な選手もふえるし、結果としてメダル数もふえてくる。
 そんな程度の認識しかないので、今回は、アテネ・オリンピックを上回る成績になったと聞いても、別にどうってこともない。

 ただし、柔道女子で唯一金メダルをとった松本 薫という少女選手の、強烈に闘志をむき出しにした表情には驚かされた。

 日本に最初に金メダルをもたらした選手が、松本 薫だった。
 日本の女子柔道の選手たちが、すべて途中で消えただけに、松本 薫としてはひそかに期するところがあったに違いない。
 あの表情は、まさに怒髪天を衝く、といった形容がぴったりで、まことに失礼ながら私は鬼か夜叉か、獰猛なオオカミを連想したほどだった。
 試合中も、相手の選手を射すくめるようなまなざしに、強烈な闘争心があふれていた。

 あとになって、テレビで見た少女の表情は、ごくふつうの女子高生のようだったので、また驚かされた。

 いろいろな表情が心に残っている。
 レスリングで、一度は引退しながら、復活して、最初で最後のオリンピックで、金を獲得した小原 日登美の表情にも感動した。サッカーの決勝に破れて、ゴール前に身を横たえ、天を仰いで涙していた「なでしこジャパン」の主将、宮間 あやの姿にも感動した。
 それぞれの表情は違うけれど、震怒(しんど)の表情を見せて戦った日本の女たちの姿は、私たちの心に忘れ得ぬ何かを刻んだと思う。

 ふと思い出した。しばらく前まで、女子柔道に天才的な少女がいて、マンガのヒロインのモデルになったとかで、「やわらちゃん」というニックネームでたいへんな人気があった。
 シドニー・オリンピックで、女子柔道48キロ級、競技初日に金メダルをとって、日本じゅうを沸かせた。
 「夢のよう。初恋の人にやっとめぐり会えたような気もち」といった。
 最高でも金、最低でも金と豪語した女の子であった。

 その後、絶大な人気を利用して参議院議員になったが、いまや、最高でも「小沢チルドレン」のひとり、最低でも「国民の生活が第一」の一員、つまり、まるっきり頭の中味の「やわらちゃん」になり果てている。
 どうか松本 薫はこういう例を見習わないように。

1428

ロンドン・オリンピックの開会式。
あれほど大規模なイベントだから、どんなに周到に準備しても、小さなトチリは起きるだろう。
この開会式で、オープニングに登場したポール・マッカートニーが、歌いだしたとき、奇妙なことが起こった。マッカートニーの歌声が、少しずれて、ダブって聞こえてくる。誰もが、そういう「演出」なのかと思って見ているうちに、やはり何かの事故が起きている、と感じた。口パクでやる予定になっていたのか、録音してあったものが流されたらしい。マッカートニーは動揺を見せずに歌いつづけ、まもなく、生の歌声だけになった。
(このあと、各国の選手団の入場式が行われる。折しも、日本選手団の場内行進が、じつに不快なかたちで妨害された。この事態は、ポール・マッカートニーの件とはまったく違う。)

もうひとつ。
サッカーで、日本vs韓国戦で、日本は敗れた。
その直後、韓国の選手が、何か大書したプラカードを高々と掲げた。韓国語だったから、そのときはどういう内容か分からなかったが、「竹島は韓国領」という趣旨のものだった。
この選手は、韓国で英雄視されたという。

私はこの行為がオリンピック憲章に違反するものと考える。そして、きわめて品位のない行為と考える。

日本側のサッカー協会に対して、韓国のサッカー協会から、非礼を詫びるメッセージが届いたという。

この始末も、日本のジャーナリズムはほとんど報道しなかった。

私は、これらの事件をロンドン・オリンピックの汚点と見る。
日本人はこうした「侮辱」を見逃すべきではないと考える。
日本のジャーナリズムが、この事件に関して「頬かむり」をきめ込んだことも忘れてはならない。
「ことなかれ主義」が、継続的にくり返される小さなできごとの累積で、最後にどういう結果をもたらすか。私たちは、これまでにも嫌というほど見せつけられてきたではないか。
些細な行為だから、黙って見過ごせというのだろうか。

誰も何もいわないまま見過ごした事件だが、ここに記録しておく。

 

 

1427

オリンピック劈頭から、日本人としては見過ごすわけにいかないことが起きた。

ロンドン・オリンピックの開会式に、日本代表も参加した。当然のことである。ところが、あの大祝典のなかに日本代表の姿はなかった。なぜか。

ギリシャからはじまって、アルファベット順に各国の選手団がつぎつきに場内に登場する。満場の歓呼と喝采にオリンピックの祭典は揺れつづけていた。日本はジャマイカにつづいて登場した。
選手団は場内をぐるっと行進して、開会式に列席するのだが、日本の選手団が入場して最初のコーナーまできたとき、長身の男が出てきて、右手をふって、進行方向を指示した。そのまま直進せよ、という指示だった。
各国のチームには、国名を示すプラカードを掲げた若い女性が付き添っている。このとき、日本チームに付き添っていた女性は、どう対応したのか。
残念ながら、日本の新聞は、この付添いの女性に関してまったく報道しなかった。異変に気がついたテレビ・クルーが、急いで日本チームのあとを追ったとき、一瞬、旗手の吉田 沙保里をとらえていた。
吉田選手は、直進の指示を受けたとき、ちょっと不審な顔をみせたが、付き添いの女性の姿を目で追ったはずである。しかし、うしろから、日本選手がつめかけてくる。
吉田選手は、そのまま指示に従って、直進した。
――結果的には場外に出てしまった。

国際中継のテレビ・カメラは、このときは、もうつぎのチームの入場をとらえていたから、その後、日本チームがどうなったか、日本チームだけが競技場外に出てしまったことをまったくつたえなかった。

日本のジャーナリズムは、このハプニングをとりあげなかった。(翌日の新聞は、どの新聞も大々的に、開会式の模様をつたえていた。ほとんどが開会式の盛り上がった雰囲気を伝えていたが、日本チームが「コケ」にされたことをとりあげなかった。
(開会式当日が、日曜日だったことを考えれば、各紙の記者があらかじめ「予定原稿」を書いておいて、それを送ったのではないかと私は想像する。あるいは、現場にいて、何も見なかったのか。本社のデスクが、テレビ中継だけを見て、原稿を整理したか。)

NHKは、この夜、テレビ・ニューズで、ほんの数分、この「ハプニング」をつたえたが、その後はまったく報道しなかった。(私は報道局長以下、ニュース担当の全員の責任を問うだろう。)

日本選手団の場内行進がまだ一周もしないうちに、何者かが、行進の進路を変えて、日本選手の旗手(吉田 沙保里)をたばかり、日本選手団はそのままEXITに出て、競技場の外に出てしまった。
かりにも、一国を代表する選手団全体の列席を、故意にオミットすることが許されていいのか。
日本側は国際オリンピック委員会に抗議したが、ごく簡単に、誠に遺憾な手違いだった、という趣旨の謝意が返答だったらしい。

私は、日本選手団の行進の妨害は――はじめから仕組まれた悪意ある行動と見る。

ロンドン警視庁は、ただちにこの犯人を検挙して、その行為の違法性をただすべきだった。(テレビには「犯人」がはっきり撮影されていた。)

(これは、オリンピックが終わったあと、尖閣諸島をめぐって、反日機運が高まった中国で、日本大使の乗用車が2台の高級車に進路を妨害され、国旗を奪われた事件に劣らない「侮辱行為」である。  後記)

1426

とにかく暑い。例年、猛暑が続いているのだから、きびしい暑さにも慣れている。それでも暑かった。
2012年8月。連日、猛暑。
私は、ただ、ロンドン・オリンピックを見ていた。

オリンピックのどの競技をみても、かならず日本の選手の活躍を期待している。実際にはそのスポーツに関して何も知らないのに、日本の選手が出ていれば、ただもう勝ってほしいと思う。まことに単純な民族主義者になっているのだった。
競技についても、当然、いろいろな感想を抱く。しかし、そのスポーツに関しての知識がないのだから、感想も書けない。

たまたまパソコンが故障したため、以前に使っていたワープロを引っ張りだして書いてみたが、何を書いても新聞記事のレジュメのようになる。あきれた。
そんなものを書いても仕方がない。

ロンドン・オリンピック。あまり人の書かなかったことを書いておこう。

ロンドン・オリンピックの開会式の冒頭に、「ウィンストン・チャーチル」が出てきた。これには驚いた。まさか、こんなところにチャーチルが出てくるとは思わなかった。
よく見ると、映画、「英国王のスピーチ」で「ウィンストン・チャーチル」を演じたテイモシー・ホールズではないか。たいした名優でもない。
つづいて、「バットマン」らしいキャラクターが出てきて、これまたびっくり。そして、ヘリコプターに乗った女王陛下の身辺を「OO7」が警護している!

「ジェームズ・ボンド」は、ダニエル・クレイグ。
驚いたのは、次のシーン。

にこやかに機内に姿を見せたご高齢のエリザベス二世が、次のシーンでは空中にもんどり打って飛び出し、スカイ・ダイヴィングを……

まさか女王陛下が、パラシュートでご降下遊ばされるとは思ってもみなかった。思わず、目を疑った。そして――笑った。
そのエリザベス女王がロンドン・オリンピックの会場に臨御あそばされて、開会宣言をなさる、という演出。イギリスらしい、ひねりのきいたユーモア。ヒチコックを思い出した。
これには、笑ったね。イギリスらしいユーモア。外面はニコリともしないが、世界じゅうを驚倒させるようなユーモア。
日本では絶対に考えられない。こんな「演出」を考えたヤツは、非難囂々、たちまち、クビになる。それどころか、日本のオリンピック委員会や、宮内庁の連中は、恐懼して、骸骨を乞いたてまつる、という次第。新聞も騒ぐだろう。(「骸骨を乞う」なんてことばは、もう辞書にも出ていないだろうなあ。)

私は、この瞬間、ロンドン・オリンピック開会式に好意をもった。
その直後、見過ごすわけにいかないことが起きた。
(つづく)