1465

庄司 肇は、こう主張する。

 「作家はその書かれた作品によって評価されるものであり、作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」

この考えがただしいかどうか。というより、こういう論理の展開を私個人はどう考えるか。
私は庄司 肇の意見に同意しない。

どういう作家であれ、その作家が書いた作品によって評価されるべきことはいうまでもない。あたりまえのことではないか。だが、「作家はその書かれた作品によって評価されるもの」だったろうか。
私は「評価されるべきもの」とはいうが、「評価されるもの」とは思わない。

たとえ、文学史に残るほどの作品を書いた作家であっても、全部の作品が「文学史に残る作品」かどうか、わからない。たいていの作家は作品を書くときに「文学史に残る作品」をめざして書いているなどと考えるものかどうか。バルザックのような作家はハンスカ夫人に当てた恋文を書きながら、原稿料に換算すればいくらになるか、そんなことを考えていたという。バルザック自身は自分が「文学史に残る作品」を書いているという自負をもっていたにせよ、「作品以外の個人的な動向を調べ」れば、バルザックという作家がもっとよく理解できるにちがいない。
(つづく)

1464

庄司 肇を紹介してくれたのは、福岡 徹だった。産婦人科の医師。庄司 肇とおなじく「文芸首都」で小説修行をつづけ、作家としての代表作に乃木 希典の評伝「軍神」がある。
断っておくが――私は福岡さんに紹介されて、庄司 肇の恩顧をこうむったというわけではない。「文芸首都」という雑誌にまるで関心がなかった。千葉県在住の庄司さんが同人雑誌を主宰していることも知らなかった。したがって、私は庄司 肇に私淑するとか、影響を受けたなどということはまったくなかった。

私は庄司 肇とはまるで違った文学観をもっていた。しかし、庄司さんのおかげで、氏の周辺にいた人形作家の浜 いさを、作家の高木 護、竹内 紀吉、宇尾 房子、佐藤 正孝のみなさんを知ることになった。こうした人々を紹介してくれたのが庄司 肇だった。その後、竹内 紀吉、宇尾 房子たちと親しくなったが、それだけに、私は庄司さんに恩義を感じていた。
ずっと後年になって、庄司さんの「日本きゃらばん」に書く機会を与えていただいた。私が長編「おお、季節よ、城よ」を書いたのも、庄司さんが「日本きゃらばん」に書く機会を与えてくださったおかげだった。

中村 俊輔の「真説 真杉静枝」のこの部分を読んで、庄司さんの風貌を思いうかべてなつかしかった。と同時に、あらためて私と庄司 肇の考えの違い、考えかたの違いに気がついた。何が決定的に違うのか。
(つづく)

1463

しばらく、このブログを休んだ。私としてはめずらしいことだったが。
昨年、夏過ぎて、どうも眼がかすんできた。英語のテキストが読めない。そのうちに、普通の本も読みづらくなってきたので、診察を受けた。
白内障という。
手術の結果、順調に視力を回復したのはうれしかった。

眼がかすんできたせいで、あまり本を読んでいない。というより、ずっと怠けて、本を読まなくなってしまった。同人雑誌、「朝」32号だけは読んだ。この雑誌は、竹内 紀吉、宇尾 房子が同人だったので、必ず読むことにしていた。現在でも、執筆者には知人がいるので、今でも送って頂いている。

同人の中村 俊輔が「真説 真杉静枝」という評伝を連載している。すでに、22回におよぶ連載で、今回は「宇野千代から林真理子まで」という章の第一回である。

冒頭の部分に、こんな記述があった。

 

この真杉静枝を書き始めた頃、「作家はその書かれた作品によって評価さ
れるものであり、作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは
調べるに値しない」と諭された。
諭してくれたのは、小説や評論など沢山書き残した眼科医の庄司肇であっ
た。作家を対象に書くのなら作品を論じるべきであり、個々の動向につい
て目を向けるのは邪道である。評価するに値しない作品しか残さなかった
真杉静枝を取り上げるのは無駄であると、諭された。そして調べるに相応
しい作家の名を数人告げられた。趣味で書いている者としてはありがたい
事であった。しかし文学史上に残る作品を書いた作家でなければ、取り上
げるに値しないということはないはずと考えている。

 

この記述から私は作家の庄司 肇さんを思い出した。
(つづく)

1462

 

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********北 杜夫について*******

 

今、ヤングの間でもっとも読まれている作家のひとり、”どくとるマンボウ”こと、北 杜夫。たぐいまれなユーモアと、少年のようにみずみずしい魂をあわせもった作家――その魅力の秘密をさぐってみよう。

中学生、高校生に人気のある作家は多い。
遠藤 周作や、星 新一と並んで、北 杜夫は熱心に読まれている。彼らがなぜよまれるのか。
理由はいろいろあるに違いない。しかし、北 杜夫の場合は――若い人たちがもっている、澄みきった、純粋な何かが作品にあって、それが若い人たちの共感を喚ぶのだろう。

北 杜夫は、本名、斉藤 宗吉、昭和2年(1927年)5月1日、東京で生まれている。つまり、「昭和の子ども」というわけで、評論家、奥野 健男、磯田 光一、村松 剛、中田 耕治たちと同世代の作家である。

父君は、大歌人、斉藤 茂吉。茂吉は、伊藤 佐千夫の創刊した「アララギ」に加わった歌人で、「赤光」、「あらたま」などの歌集で、日本の近代短歌の巨人だった。
第二次大戦後に――

最上川逆白波のたつまでに ふぶくゆふべとなりにけるかも

といった絶唱をうんでいる。

北 杜夫はこの茂吉と、夫人、輝子のあいだに生まれた。次男である。この輝子は、わが国の精神病院としてはじめて近代的な設備をそなえた青山脳病院を建てた斉藤 紀一郎(のちに紀一とあらためた)の次女で、茂吉は15歳のとき、紀一郎にひきとられ、後年、輝子と結婚した。
この輝子夫人については、北 杜夫の兄にあたる斉藤 茂太に「快妻物語」という作品があるし、北 杜夫の「楡家の人びと」のなかにも登場する。
世界中を旅行して歩くのが趣味で、たいへんな行動力をもっている「快妻オバサマ」である。「偉大な人の妻は、みんな、悪妻にきまっている」と信じている。

ある日、輝子はパリに行った。花の都、パリは、長い歴史の埃をかぶって薄汚れている。そこで、当時、文化相だったアンドレ・マルローが、パリの清掃を命じたことがある。
北 杜夫と、母(輝子)の対談では――

 

輝子  ほとんどヨーロッパは変わりませんね、昔と。ただ、パリだけ、大きく変ったのは……
杜夫  そう、白くなっちゃったの。
輝子  ドゴールがクリーニング始めて、すっかり白くなっちゃったでしょう。……
(中略)
杜夫  お母さまね、ドゴールっていうのはお母さまよりももっと威張ってた男なの。
輝子  そうですか、知りませんね。(笑)
杜夫 ただ、パリを白くしちゃったのは彼の最大の失敗ね。僕の「マンボウ航海記」に、こう書いてあるんですよ。「建物もどすぐろく煤けており、さながらゴマ
ンの煙突掃除人が行進したあとのようだ」と、その黒さを表現しているわけです。これはすごい表現力、我ながら見事ね。僕、若い頃からあんな才能があった。いまよりももっと才能があった。(笑)

 

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
北 杜夫は、昭和9年、青南小学校に入学。
5年生の頃から、昆虫採集に熱中した。この頃の愛読書は、ファーブルの「昆虫記」で、アリやコガネムシ、トンボ、ウスバカゲロウ、ガ、チョウに熱中した。こういう経験が、のちに「どくとるマンボウ昆虫記」のような、おもしろい読みものになっている。
昭和15年、麻布中学に入学。この中学は、いわゆる名門校だが、吉行 淳之介、山口 瞳、なだ・いなだ、福田 善之などの作家を輩出している。北 杜夫は、中学生で、昆虫の権威で、自分で採集した尨大なチョウの標本をもっていた。
成績優秀で、級長をやっていた。戦時中のことで、文科系の学生は徴兵猶予がなかった
。ある年齢に達すると、すぐに実戦部隊に編入されてしまう。ちちの茂吉が心配して、灯
台の付属医専を受験させた。医専に入学して、三日間通学したが、父の茂吉が、北 杜夫
の年齢をまちがえていたため、徴兵にはまだ1年之猶予があることがわかって、麻布中学
に復帰した。
昭和20年、松本高校に入学。一級上に、作家になった辻 邦生がいた。

斉藤 茂吉の息子がくるそうだというニュースが松本高校の寮に流れた。辻 邦生をはじめとするバンカラ寮生たちが、ストームで洗礼しようと、よからぬことを企てた。
古ぼけた寮の一室で、斉藤 宗吉はみんなにとり囲まれた。いまなら、さしづめ総括リンチ。一人が怒号する。
「斉藤 宗吉よ、お前はわが寮にきて何をもっとも心に感じたか」
一瞬、室内に沈黙が流れる。
「あのう、ぼく、この寮のお手洗いの水が出ないんで、困る、と思いました」
若き日の北 杜夫のエピソードである。

 

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 

松本高校に在学中、北 杜夫は非常な勉強家だった。
文学書、哲学書をワッサワッサと読みふける。夏目 漱石、芥川 龍之介、ドストエフスキー、シェイクスピア、ゲーテ。手あたりしだいに何でも読破した。
やがて、短歌を作りはじめ、父に見てもらったが、途中から父のきびしい譴責を食らった。
中学時代にも、将来、昆虫学者になりたいといい出したところ、茂吉は烈火のごとく怒って、「絶対に医学をおさめろ」と申しわたした。
やがて、父にナイショで、詩を書きはじめ、高村 光太郎、萩原 朔太郎、室生 犀星、立原 道造、大手 拓次などの詩に親しんだ。

高校を卒業する前に、北 杜夫は大きな精神的開眼を経験する。
トーマス・マンを読み、とくに「トニオ・クレーゲル」に心酔した。北 杜夫というペン・ネームはもこのトニオをもじって、はじめは、浦 杜二夫、のちに北 杜夫になった。
昭和24年、詩を発表し、やがて小説を書きはじめた。

どういうわけで 小説など書きだしたか奇妙で不思議ではあるが、仙台の医学部にいた頃、私は原稿用紙を買ってきて平仮名や漢字を書きつけた。初めは原稿用紙のます目がだだ広く、もったいなく、どこいらに句読点を打ったものか困惑したので、主に大学ノートに書いた。

 

その翌年、同人雑誌の「文芸首都」に加わった。この雑誌から、佐藤 愛子、なだ・いなだなどの作家が輩出する。

北 杜夫はつぎつぎに短編を発表し、やがて長編、「幽霊」に着手した。
短編「岩尾根にて」を発表した頃から作家として大きく前進し、第36回、第37回、第41回と、3度にわたって、芥川賞候補にあげられたのち、昭和35年、「夜と霧の隅で」を発表、第43回、芥川賞をうけた。

 

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 

この作品は、重症の心身障害児がガス室に送られるところから始まる。
ナチス・ドイツが、アウシュヴィッツその他の強制収容所で、ユダヤ人や政治犯を虐殺していた時代である。
各地の精神病院に収容されている患者たちが、隠密裡に、どこかに連れ去られて行く。あとに残された患者の家族は、簡単な通知を受けとる――氏名、XXは死亡したため、遺体は火葬に付した、云々と。
こうした時代に、ある精神病院に勤務するケルセンブロックという医師、シェラーという院長、独逸に留学し、ユダヤ娘と結婚した日本人で、少し精神に異常をきたした医師などがおもな登場人物で――戦争という狂気と、人間の精神に生じる狂気を描いている。

この昭和35年(1960年)、北 杜夫は書き下ろしエッセイ、「どくとるマンボウ航海記」を発表した。彼がこの航海に出掛けた理由は――

 

あれは出航の四日前だったかな、友人から船にくる医者が全然いなくて困っていると聞いたのは。それもインターンでもいいというので安心して応じたわけですが、生来の怠けもののぼくは、ただゴロゴロ寝られて、外国へ行かれるというだけで飛びついたのですよ。

 

という。
この船は、インド洋、アフリカ西海岸、大西洋などで、マグロの分布や成熟度などを調査してまわったので、港もシンガポール、スエズ、リスボン、ハンブルグ、ロッテルダム、アントワープ、ル・アーブル、ゼノア、アレクサンドリアなどをまわった。
船医としての北 杜夫は、船の機関長がマッチ棒の先に綿をつけて、耳をほじっていたら、綿だけ耳の中に残ってしまった。それもいちばん奥の鼓膜のところにはりついてとれない。ところが――

彼はいかなる魔術を用いたのか自分で突っつき出してしまった。
「ドクター、あれ、とれましたよ」
とうれしそうにいうが、”外聴道異物”などと書くのもバカバカしいから、私は治療簿にこう記入した。
「天下の奇病。 使用薬品な 。処置、魔術」

 

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 

最近(昭和52年)の北 杜夫は、ひと頃の鬱状態から躁の時期に変わってきたらしい。母堂の斉藤 輝子と対談した「躁児マンボウvs快妻オバサマ」のように――躁になると、話題もつぎからつぎに出てきて、とどまるところを知らない。
夜遅く、遠藤 周作のところに電話がかかる。遠藤が受話器を耳にあてると、押し殺したような作り声で「ミスター・エンドオ?」と訊く。
いっしゅん、どこの外人かと思うが、すぐにイタズラだとわかる。その声は、
「アイ・アム・ミスター・マブゼ」
マブゼというのは、怪人マブゼ博士。戦前の無声映画では、怪物のフランケンシュタインや、表現派映画のカリガリ博士と並んで有名なキャラクターだった。
ある日、未だ夏も終わらない季節に、北 杜夫は、遠藤 周作の山小屋にやってくる。九月のはじめなのに、毛糸のスキー帽に、大きなマントを羽織り、近所の人がびっくりするような調子っぱずれの大声で、
おれはマブゼだ マブゼだぞ
どうだ 皆ちゃん こわいだろう
という歌を歌いつつ出現したので、さすがの狐狸庵先生(遠藤 周作)も仰天した。

しかし、北 杜夫がいつもふざけたことばかりしている、ノーテンキな作家だと思い込むのは間違い。

長編「幽霊」や、短編「渓間にて」、「星のない街路」、「不倫」、「遙かな国 遠い
国」、「河口にて」といった傑作がある。

 

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 

「楡家の人びと」は、日本でははじめての市民小説といってよい。この長編は、トーマス・マンの「ブッテンブローク家の人びと」を頭に置いて書かれた。

大正末期(1920年代)から敗戦(1945年)まで、楡家の人びとの運命が悠々たる筆致で展開する。
全体は三部にわかれていて、第一部は、楡病院の創業期から、失火の為消失するまでの、いわば上昇期。第二部は、世田谷の松原に分院を開設する苦難の時代。第三部では、太平洋戦争で、病院が壊滅してゆく姿が描かれている。
主人公の「楡基一郎」は、小学校を出たあと、隣村の農家に養子に出されたが、そこから舞い戻ったり、行方不明になったあと、ひょっこり村に戻ったときは、医師の免状をもっていた。やがて、青山に大病院を建て、代議士になり、のちに男爵を授けられるほどの人物になる。
この「基一郎」の長女、「龍子」と、「徹吉」という婿、ふたりの間にうまれた「峻一」、病院の婆(ばあ)や、「下田ナオ」をはじめとする多数の病院関係者たち、そして「欧州」とその妻、「千代子」、欧州の弟、「米国」。親のきめた婚約者をすてて、好きな男と暮らす「聖子」。その妹の「桃子」。そうした楡家の家族たちが、この長編のなかに動きまわっている。

楡病院が思わぬ失火で消失し、入院患者に犠牲者を出したため、再建計画は、うまく進まない。失意のうちに「基一郎」は亡くなる。

第二部では、あきらかに北 杜夫とおもわれる「周二」が登場してくる。
「龍子」と、「徹吉」の三人目の子どもで、正真正銘の昭和っ子だが――「震災から立ち直った新時代のいきいきした活力、たくましい斬新さを少しも表わしていない」という頼りない世代である。

この長編は、「楡家」の人びとが生きた歴史であるとともに、近代日本が必然的に背負わなければならなかった歴史でもある。そのなかに流れているものは、個人はもとより、一つの国家の運命さえ、いつしか押し流して行く歴史の意志といったものではないか。
この長編は、やみがたい歴史の力ともいうべきもののおそろしい作用が描かれている。

私が、今の高校生だったら――
北 杜夫の文学を知るために、まず、「少年」から読みはじめるだろう。
つづいて、「牧神の午後」、「白きたおやかな峰」と、読みつづけて、高校の最後の年に「楡家の人びと」を読む。
むろん、「船乗りクプクプの冒険」も読む。やがて、「どくとるマンボウ青春記」を読んでも、やっぱり「楡家の人びと」にたどりつくだろう。
そして、もう少したったら――(大学に入るとか、就職した時期から)自分でも何か書いてみようと思うかも知れない。作家になる、とか、どこかに自分の文章を発表するということとは無関係に。

 

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 

あとがき

これは、高校生の雑誌、「高1コース」(学習研究社)昭和52年8月号に発表したエッセイ。

高校生たちに、北 杜夫がどういう作家なのか紹介する記事なので、私の批評というわけではない。

私は、個人的に北 杜夫と親しかったわけではないが、彼の文学について書く機会はあった。現在、すぐに読めるものは、「船乗りクプクプの冒険」(集英社文庫)の解説ぐらいだろうけれど。

北 杜夫は、2011年10月24日、亡くなった。享年84歳。

私は追悼を書く機会がなかった。そこで、高校生のために書いた昔のエッセイをこのブログに入れておく。

1461

遊佐君。
戦時中から、「戦後」、そして、21世紀まで、お互いによく長生きしてきた。
きみは今、老いてなお矍鑠として、教え子たちを相手に、きみ自身の編曲したシューベルトや、ヴェルデイの合唱曲を指揮している。そういうきみを見ていると、きみはほんとうの人生の幸福というものを体現しているのではないか、と思う。

私たちは、太平洋戦争の末期に知り合った。
じつに、68年後に、白頭翁として相逢い、すでに三度、蓋を傾けて語りあった。
互いに似たような境遇なので、よく互いの心を知り得て、あらためて、友人を得たことをよろこびあった。

キェルケゴールの言葉を思い出す。

希望は魅力的な少女だが、指の間をすり抜けて行く。回想は美しく成熟した女だ
が、すぐに使いものにならなくなる。反復は一度も飽きることのない最愛の妻で
ある。なぜなら、人は新しいものだけに飽きるからだ。古いものには決して飽
きることはない。それを理解したとき、人は幸福になる。……人生は反復であ
り、それは人生の美点なのだ。    (真喜志 順子訳)

年老いた私はもはや希望など持っていない。魅力的な少女が私の前にあらわれるなど、虚妄の夢にすぎない。回想は美しい熟女にちがいないが、私にとっては、そういう女たちもまた「指の間をすり抜けて行く」だけなのだ。
しかし、反復はさして飽きることのない楽しみといえるだろう。私はかつて一度だけ見た映画を、くり返してDVDで見たり、自分が好きな画家の作品を見るために、わざわざ美術館に足を運んだりする。ただし、キェルケゴールのように、反復を「最愛の妻」などと思ったことはない。

私自身は、長生きできたことをうれしいとは思っていない。むしろ、老年は無間地獄と観ている。さりとて、不幸とも思ってはいないのだが。
いまの私は、一人の悲しい、気むずかしい人物、はたから見て不愉快な、ひとりの孤独な老人、たとえば、あのスガナレルのような老人になり果てている。

しかし、その私が、じつに、70年ちかい歳月をへだててきみに再会できた。
きみに会ったのは、老いさらばえた男ではない。まだ、人生について何も知らないまま、それでもおのれの困難に立ち向かおうとしていた少年なのだ。
いま、私は、きみとともに過ごした少年時代のこと、戦時中のお互いに似かよった状況、戦後のはげしい混乱の話をする。戦争など、もう誰の記憶にも残っていない時代に、他人にとってはおそらく意味のない話ばかりだが、そういう話をしているとき、お互いに幸福なのだ。
むろん、キェルケゴールのいう、反復とはちがうかも知れない。

遊佐君。
今年、私たちに共通の友人だった歌舞伎俳優、岩井 半四郎(仁科 周芳)が亡くなった。彼の死がきっかけできみに再会できた。
仁科の死は、お互いに残された時間がもはや限られていることを知らせてくれたが、私たちが再会できたことを心から感謝している。
また会う日まで、お互いになるべく元気で生きていることにしよう。

1460

敗戦直後の8月17日、遊佐少年は、日暮里に住んでいた友人、関口 功を訪れた。ここで、偶然、中田 耕治に会う。

 

中田耕治君が僕の”日暮れ”を読んで言った。朔太郎を読みなさい。
それからツァラトゥストラも。さうすればきっと詩の何たるかを知るだろう。
詩人はいつも強くなくってはいけない。
わからない。僕にはわからない。

 

現在の私は――このやりとりをまったくおぼえていない。関口 功は、私と同期で、後年、アメリカのフィスク大学に留学して、黒人文学を研究して、英米文学部の教授になった。

私が、遊佐君に、萩原 朔太郎を読むことをすすめたのは事実だろうが、詩人を志望している若者に対する助言としてはただしかったかどうか。
ただし、同年代の友だちにむかって――朔太郎を読めば「詩の何たるかを知るだろう」などとヌカしている少年が「中田耕治君」だったことに、現在の私はつよい嫌悪をおぼえる。なんとも恥ずかしいかぎりである。詩について何も知らないくせに、詩を語るなどという傲慢さにヘドが出る。

しかし、遊佐 幸章の日記のおかげで、敗戦直後の、あの激動の時代がまざまざとよみがえってきた。

遊佐少年は、混乱をきわめる東京を去って、戦災をうけた仙台に戻ってゆく。
このあと、しばらく「日記」は中断している。

敗戦直前から遊佐君は、キリスト教に接近してゆく。

結果として、遊佐君の「日記」は、1944年12月21日にはじまり、敗戦後まで飛
び飛びに書きつがれて、翌年の1946年2月9日で終わっている。
(つづく)

1459

遊佐 幸章の「日記」から、敗戦をはさんで3週間のことが、私の記憶によみがえってきた。

8月9日、はじめて、吉田 甲子太郎の「文学概論」の講義があった。(木曜日だったことがわかる。終戦まで、あと6日。まだ、誰ひとり、この戦争がおわることを知らない。)
遊佐は、吉田 甲子太郎の「明治大正/文学概論」について、あまり面白くない。つまらない講義だと思った」と書いている。
私もいっしょだったが、ほんとうにおもしろくない講義だった。
吉田 甲子太郎先生は、もともと作家志望で、山本 有三に師事したが、まともな作家にはなれなかった。ただし、「朝日壮吉」というペンネームで、いろいろな雑文、通俗読みものを書きつづけ、一方では「サランガの冒険」などの少年小説を書いていた。敗戦直後に、こうした少年小説がじつはアメリカの少年小説のリライトや、翻案ばかりと知って、あきれたおぼえがある。

そして、この8月9日、夕方、ソヴィエトが日本に対して宣戦布告し、満州に進出したのだった。

8月10日、豊島 与志雄先生の「芸術論」の講義はあった。ヒロシマに原爆が投下された直後である。もはや、授業どころではなかったはずだが、豊島先生は、ご自宅が本郷だったこともあって、大学においでになったのではないかと思う。

講義の内容は、戦時中の雑誌、「文芸」(野田 宇太郎編集)、それも終刊号に、豊島さんが発表した「短編小説論」を、私たちにもわかるようにやさしく解説したものだった。私は、はじめて小説の読みかたを教えられた様な気がした。

このときから豊島 与志雄という作家に敬意をもった。(後年、私は「豊島 与志雄論」めいたものを書いたが、豊島さんの自宅を訪れて、話をうかがったこともある。今でも、豊島さんの風貌や、そのときのお話はよく覚えている。)

8月13日、残念ながら小林 秀雄の講義はなかった。ヒロシマに原爆が投下されたような状況だったから、授業どころではなかったにちがいない。遊佐君は大学に行ったが、誰ひとり学校にいなかった。(むろん、私も行かなかった。)

そして、日本は連合国に降伏した。遊佐の「日記」にこの日の記述はない。
(つづく)

1458

八月八日、遊佐 幸章は、朝のラジオで、故郷、仙台が空襲されたことを知る。被害状況は伏せられていたが、東京、横浜、さらには川崎、とくに扇町の被害をみれば、仙台の被害も相当深刻なものと推測できた。
少年は、自分のそだった仙台の面影をなつかしみながら、涙を流した。

大学が授業を再開するという。
大学側は、工場が被災したため、ただちに授業を再開すると決定した。
当然ながら、山本 有三科長、吉田 甲子太郎(きねたろう)、大木 直太郎の三先生が、決定したものと思われる。
大学の教務課としては、大学が被爆した場合の消火、書類の避難の要員の確保を目的としたのではないか。大学は、まるで廃墟のように荒れ果てていた。

授業は八月九日から、開始ときまった。在籍者は、二年、一年の残存学生、十数名だったはずである。三年生は、病欠者、二、三名以外は、すべて、出征していた。

遊佐 幸章は「日記」にこの講義の内容、担当者、時間割りを記録している

 

月 13~18  作文修辞学      吉田 甲子太郎
火  〃     日本文化史      小林 秀雄
水  〃     読書解説       斉藤 正直
木  〃     明治大正/文学概論  吉田 甲子太郎
金  〃     芸術論        豊島 与志雄
土 12:30  西洋文芸思潮史    今 日出海
~14:30

教課時間がひどく長いのは、激化する空襲によって、授業が中断することを考慮したのではないかと思われる。
(つづく)

1457

遊佐 幸章の「日記」のつづき。

やがて彼(中田 耕治)は東京に出てきた。さうしてM中学に入ったのである。この話は明治大学への入学試験の当日の話から始まった。そして久しぶりで再会した僕と中田氏との模様を思ひ出し、彼が僕と一目でわかったのは(僕は彼を忘れていた)中学一年当時の僕が深く印象づけられてゐたからだといふところまで、発展して行ったのである。

これが、昭和十九年(1944年)12月22日のほぼ全文である。

「やがて彼(中田 耕治)は東京に出てきた。」とあるのは、この「日記」を書いた遊佐 幸章自身が、東京に在住していたからで、本来ならば、「やがて彼は東京に去った」と書いてもよかったはずである。「この話は明治大学への入学試験の当日の話から始まった。」とあるのは、遊佐君にとっては中田 耕治との「再会」は、明治大学の入学試験当日に始まっている、という意味だろう。

遊佐君は、翌年(1945年)1月18日、急性肝臓炎にかかって仙台に帰っている。

私は仙台に戻った遊佐君に見舞いの葉書を出していて、その全文が記録されている。これは、とても引用できるようなものではない。
ただ、それによると、私はガリ版で、同人雑誌を出そうとしていたらしく、2月15日には、仙台に送ると知らせている。

遊佐 幸章は、やがて肺浸潤にかかっていることを自覚する。そして、少しづつキリスト教に接近して行く。そして、彼の身辺から、友人たちがぞくぞくと出征して行く。一方連日の空襲で、親族からも戦災の死者が出る。
彼の日記にたんたんと書かれている事実に、私はおもわず嗚咽した。

そして、八月。遊佐少年は再び上京する。

八月七日、工場に行ってみると、学生は誰ひとりいない。工員たちの姿もなかった。だだっ広い工場は、空襲を受けて壊滅したままの姿をさらしていた。焼け跡に異臭がたちこめている。少年は、焼けただれた会社の敷地を歩きまわって、焼跡の敷地に急造されたバラックの事務所にたどり着く。戸板にワラ半紙一枚の掲示がビョウでとめられているだけだった。

文芸科学生はすぐに明大文芸科研究室に行き、掲示を見ること。

少年は、無残に焼亡して瓦礫の山になった工場をあとにして、また、扇町の駅から、川崎に引き返し、京浜線で東京にもどり、さらにお茶の水にとって返した。
暑さと、空腹、疲労に倒れそうになりながら、やっとたどり着いた大学も、職員も、学生の姿はなかった。文科以外の学生は、まだ操業していた軍需工場に就労していたため、職員や学生の姿もなく、大学はまるで廃墟のようだった。
研究室のドアにもワラ半紙の掲示が出ていた。

明大文芸科の学生は、八月八日 午前十時に、当研究室前に集合すべし
吉田 甲子太郎
大木 直太郎
斉藤 正直

この記述は思いがけないことを物語っている。
つまり、私たち明大文科の学生は、敗戦まであと3週間という時点で、動員を解除され、全国すべての大学にさきがけて授業が再開され、その授業はそのまま「戦後」に継続された、ということ。
つまり、私たち、明大文科の学生は、戦後の大混乱のなかで、どこの大学、高専、中学の学生生徒たちよりまっさきに「戦後」の学業をはじめたのではなかったか。
(つづく)

1456

この「日記」の「中田耕治」(大学一年)は、仙台に帰省した彼にあててハガキを出している。
それによると、「純粋」という同人雑誌を出すことをつたえ、共通の友人だった小川茂久が、覚正 定夫といっしょにアランを勉強しはじめていること、都城 範和は、チェホフの「煙草の害について」を独演したことなどを知らせている。

(小川 茂久は、後年、明治の仏文の教授になった。覚正 定夫は、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。都城 範和は、戦後、「太陽」の編集者になったが、フランスに留学し、画家をめざしたが、若くして亡くなっている。)

この「純粋」という同人雑誌は、3月10日の空襲で焼けた。

関口(功)君の手紙によれば、渡瀬・金子富雄の二君も行方不明とのこと、多分
死亡したのでしょう。中田氏は、埼玉の親類の家にいるそうです。二年生には四
人の罹災者があったそうです。

この関口 功は、小川とおなじように、後年、明治の英文の教授になった。渡瀬 明は、白皙の美少年で、工場でも、おなじように動員されてきた女子学生を相手にいろいろと艶聞があったが、3月の大空襲で、おそらく深川で死んだらしい。金子富雄は、まじめな学生だった。ある日、私に向かって、
「ぼくをきみの弟子にしてくれないだろうか」
といった。
私は、彼にイリヤ・エレンブルグの小説を読ませた。つぎに、ソログープかなにかを読ませようとしていたときに、やはり、この空襲で亡くなった。私には、金子富雄は忘れられない学友だった。

やがて、7月、私たちが勤労動員で働いていた工場が、空襲をうけた。このときは、私はもとより遊佐君も工場にいて、必死に逃げたひとり。
(つづく)

 

 

1455

遊佐 幸章の「日記」はつづいている。

 

その当時、中田氏は、いろいろな事情から孤独であり、又、相当に悩んでゐた。
そこへ僕が現れたのである。僕の歌はとてもきれいで美しかった。そして、彼の荒みかけた心を幾分なりとも慰めた。
中田氏は僕とさうやってゐることに一つの楽しみを得てゐたのである。つまり中田氏は僕をひそかに愛してゐたのださうである。純真だった僕を。

 

この部分を読んで、私は意外な気はしなかった。当時の私が「遊佐君」を「ひそかに愛してゐた」というのは、なんともテレくさい。思春期の少年にありがちな同性愛的な感情だったはずである。この「日記」を読む人は、同級の美少年にあわい愛情を抱いた思春期の少年を想像するかも知れない。(笑)
だが、私が「相当に悩んでゐた」ことは事実で、今でいう「いじめ」にあっていたこともその原因の一つだった。だから、遊佐君と親しくなったことが、私にとって救いだったとしてもおかしくない。

この「いろいろな事情」には――6歳で亡くなった弟の死によって、家庭にいつも沈鬱な気分がひろがっていたこと、そのため父母のいさかいがつづいていたこと、さらに自分が入試に失敗して、すべり止めに受けた中学に入ったこと、その中学に入ってすぐに、悪質なイジメを経験した。近くに住んでいた二級上の不良少年につきまとわれて、毎日、帰宅するまで、恐怖にかられていた。誰にもいえないことで、これがつづけば、今でいう登校拒否、引きこもりの生徒になっていたかもしれない。
この少年の顔、名前は、今でもおぼえている。

もう一つの悩みは――
現在(2012年)の日本では、かなり多数のサラリーマン、キャリアー・ウーマンが外資系の企業に勤めているだろう。それでも、日本全体の全雇用者の数は、51万人。全体のわずか1パーセントに過ぎない。
戦前、それも1930年代の軍国主義日本で、外資系の企業に勤めていた日本人がどれほど少数だったか。
私の父、昌夫は、外資系の石油会社、「ロイヤル・ダッチ・シェル」に勤めていた。それだけに、父の価値観が子どもの私に反映していたはずだが、世間一般と違って、戦争の予感は私の一家には切実な問題になっていた。

そして、戦前、第二師団が置かれていた仙台が、どれほど封建的で、軍国主義的だったか。戦前の日本の憲兵や警察がどれほど残酷だったか、想像を絶するものがある。

私の家の近くに東北学院に勤務していた英語教師が住んでいた。この人は、ハワイ出身の日系二世だった。だが、ハワイ出身の日系二世という理由だけで、憲兵ににらまれて尋問をうけた。身におぼえのないアメリカのスパイという嫌疑をかけられたという。
この人の妻は妊娠していた。
その教師は、釈放された直後に、市内の八木山の吊り橋から、投身自殺した。その死は新聞にも出なかった。
こういう時代のいまわしさは、幼い私にも影響したと思われる。

だからこそ、私は「遊佐君」が「現れた」ことで救われたにちがいない。
(つづく)

 

1454

中学1年で知り合った友人、しかも、1946年の2月から、お互いに音信不通のままで過ごし、じつに70年の歳月をへだてて、その友人の「日記」を読む。
ふつうでは、なかなか考えられないことだろうと思う。

遊佐君が、1944年、45年、46年当時に、とびとびながら「日記」を書いていたというのも驚きだった。当時、上京、帰郷、戦災、そんなときにもこの「日記」だけは手元に置いていたので、残ったのだろう。
「日記」の冒頭に、「日記」をつける動機、心構えのような説明がある。

 

この「日記」は、強いて文学的に作ろうとか他に野心とかいふものをもつてゐない。/本当に只の日記といふ気持で僕はかいている。/自分の心のままを、その日の心をここにうつし、そしてこんなものでもあとに思い出としてのこしたく、筆をとっている。
こういふことをいふのも、又、僕は誰にでもない。空虚に向かって言いたいから言っているのだ。

 

これは、1944年1月18日の記述。体調をくずしていた少年は、この日、夜行に乗って、翌日、仙台に帰省している。敗戦間近の東京で、食料の配給さえ滞りはじめていた時期、ひとりで下宿しながらふなれな工場暮らしを続けていた孤独な少年の姿が眼にうかんでくる。

当然のことながら、この「日記」に、「中田耕治」が登場する。

まず、中学生の頃の私が、遊佐君には、どう見えていたのか。

「日記」に出てくる(中学一年生の)私は、土樋に住んでいた。
戦後はなくなってしまったが――柳川 庄八という浪人者が、青葉城外で、伊達藩の家老、茂庭周防守(すほうのかみ)を暗殺し、その首級をひっつかんで、ひた走りに走りつづけ、やがてあたご橋のたもとでその首を洗い、さらに逃亡をはかった、という伝説があった。
柳川 庄八は戦前の講談に出てくる仇討ちのヒーローである。その「首洗いの池」のすぐ隣が私の家であった。

遊佐 幸章と遊んだのは、あたご橋の先の越路という地区。広瀬川のほとりの原ッパに寝ころんで、よく晴れた空をながめながら、幼い文学論でもかわしたのだろう。
遊佐 幸章は美少年だった。私は、彼の美声を聞いて、淡いあこがれをおぼえていた。
このとき、彼が何を歌ったのかおぼえていない。
(つづく)

 

 

1453

遊佐君が日記に、「毎日、空襲があるので、やりきれない」と書いている。やはり、私と同級だった詩人の進 一男は、短編のなかで、そうした気分を観察している。
これも、ついでに引用しておこう。

その頃……東京ではB29が、翼と胴体を太陽に反射させて、軽い金属音を響かせていた。前の年の十二月に米機の来襲があってから、東京も何時大空襲があるか予想できないことではなかった。(中略)
通勤の電車は何時も工員や動員の学生たちで混んでいた。次第に逼迫の度を増してくる時の流れにつれて、皆にも緊張感が強く漲ってくるのがかんじられるようだった。何時も片隅に群がっている挺身隊の少女たちや動員の女子生徒たちの顔にも、女らしさの蔭に険しい感じが漂ってきているような気がする。

進 一男の記述のおかげで、当時、私たちが働いていた「三菱石油」扇町工場(防諜上の理由から「皇国5974工場」と呼ばれていた)のことを思い出した。遊佐君も私も、おなじ現場で働いていたのである。
私たちの仕事は、きわめて小人数の現場で、ドラム缶を作る部署だった。同級と、一級下の学生を合わせても20数名。
もともと、クラスは50名で、動員された当初は、まだ1小隊単位で動いていたが、学生たちで徴兵猶予の期間を越えた連中は、つぎつぎに招集されて、軍隊に入っていた。
残された私たち20名足らずの学生に、「中島飛行機」の工場が罹災したため、上級生たち10名ばかりが、合流して、やっと30名ばかりの人員がそろった。
そのため、もともとはだだっ広い工場の隅っこで、作業するようになってしまった。

誰しもほとんど沈黙して作業していたから、工場の内部はひどく静かで、その中で、ドラム缶の胴板や天地板を截断する音や、ドラム缶をころがして、別の工場に運ぶ音などが、つよく響いた。
作業場の片隅では、溶接の火花が散った。私の仕事は、溶接工の前に座って、轆轤のような台に乗せた鉄板を、ぐるぐるまわす係だった。
作業衣のポケットに文庫本を隠して相手が溶接をしている間に、2、3行、さっと目を通す。そして、すぐにまた轆轤をまわす。その間、読んだ部分を頭に入れる。
俳句、短歌など、かんたんに読めるものが多かったが、中編でも、ほんの10分程度で読めるのだった。私の軽業めいた読書は、誰も気がつかなかったに違いない。
これも一種の速読法で、私はそんな早業を身につけたのだった。

ときどき、もう中老の、おだやかな工場長が作業のようすを見にきては、責任者と話をして戻って行く。進 一男の短編、「ドラム缶と詩」では、主人公は、工場の外のドラム缶のかげで、本を読んでいるところを見られて、工場長に叱責されるのだが、私は、そんなことはなかった。
(つづく)

 

 

1452

今年の夏は猛暑がつづいていた。そのため、せっかく再会できた遊佐 幸章に会うこともむずかしかった。
10月になって、いくらか秋の気配が感じられるようになって、私たちは、また会うことができた。体力、気力がおとろえている老齢なので、ただ会うだけでも、けっこうたいへんなのである。

遊佐 幸章は、戦後、勉強し直して、教育者になった。音楽教育に力を入れ、八王子の上館小学校校長として、有終の美をかざり、現在は「ホッホナーゼ・グループ」という合唱団の指導にあたっている、という。

遊佐君は、別れ際に思いがけないものを見せてくれた。

1944年12月21日から書きはじめて、1945年8月の敗戦、さらに翌年、上京して、敗戦後の東京をさまよっていた時期の日記であった。
若き日の「日記」2冊。

「日記」の最初の1冊が、1944年12月21日に書き起こされて、1946年2月9日まで。
もう1冊は、1944年2月12日から、1946年7月30日まで。
つまり、敗戦を挟んで、「戦後」のもっとも初期に書かれている。

粗末な紙質の日記だが、多感な少年が、折々のことを万年筆で書きつづっている。1944年12月21日の書き出しは――

 

毎日、空襲があるので、やりきれない。
工場から帰って来て銭湯に入って、直ぐに空襲である。(中略)
今日僕達の工場に二年生が入所した。もう相当の年輩の人がいるので驚いた。今日此頃の組の空気は、どうもにごっている。皆な浮かない顔をしている。木村さんは行ってしまうし(兵隊)、試作時代の主だった人々は体抵休学してゐるし、何やかやと面白くないことばかりである。
今日の工場からの帰りの電車の内でのこと。僕は中田耕治氏とよもやまの話をしてゐた。中田氏は僕が中学一年のとき、一寸遊んだことのある友達である。
彼は昔の思い出話しをした。
僕が彼と遊んだのはあたご橋の近所の松が五六本立ってゐる小ぢんまりとした草原が主だ。といっても、中田氏とは、一、二度きり遊んだことは無かったが……
或日、僕は彼の前で草の上に寝ころびながら歌をうたったのださうである。(僕は忘れたが)。

 

ここに出てくる「木村さん」は、私より三、四歳年上で、軍隊生活も経験していた。本名、木村 利治(としはる)。頭のなかに、太宰 治の作品しかなくて、小説家志望だった。当時、出征して中支戦線に配属され、陸軍中尉になった。敗戦後、武漢から上海まで行軍し、身長が3センチも縮んで復員した。岩手県にいる両親のもとに戻ったが、1947年、肺結核で亡くなっている。私にとってはかけがえのない親友のひとりで、後年、長編、「おお 季節よ 城よ」のなかで、木村のことを書いている。
「試作時代」は、当時、私と同期の小川 茂久、木村 利治、進 一男、青山 孝志たちが、はじめた回覧雑誌。戦時なので、ガリ版の同人誌を出すことさえできなかった。だから、みんなの作品をあつめて、それをクツヒモで閉じただけのもので、とても同人雑誌などといえるものではなかった。
それでも、小川は「太宰 治論」を書いたし、私は「小林 秀雄論」めいたものを書いている。
(つづく)

 

 

1451

夏の暑い盛りに、私は遊佐 幸章に会いに行った。
彼は夫人を介護する日々で外出もままならないため、私が千葉から会いに行ったのだが、お互いにすぐにみわけがついて、再会をよろこびあった。
なにしろ、68年ぶりの再会で、お互いに見るかげもなく老いさらばえていたが、会ってみれば、お互いの境遇や、戦時中の悲惨な生活、共通の友人たちのことなど、話はつきなかった。

お互いの話題は、私たちが経験したすさまじい空襲や、おそろしい飢餓のこと。
その後の遊佐は、東京の友人たちの安否を気づかいながら、敗戦前後の時期、すさまじいインフレーション、食料難、親族たちに冷眼視され、傷つきながら、文学作品を読みつづけ、音楽に対する愛をたしかめ、イエスにたいする接近を経験する。

私たちの話題は、もっぱら少年時代のことに集中した。

戦争中に、仁科 周芳の指導で菊地 寛の「父帰る」を稽古したことがある。この芝居に私も遊佐 幸章も丁稚の役で出た。そんなことなども、今となってはお互いに楽しい笑い話になっている。
岩井 半四郎に関しては、遊佐と私しか知らない「武勲の歌」の数々も、いまとなっては、故人をしのぶコント・ドロラティクとして笑いながら話せるのだった。

少年時代の友情が、自然によみ返ってくるようで、お互いに老年になってからこういう時間をもてることをありがたいものに思った。
(つづく)

 

1450

 
 少年時代に別れたきり、お互いにまったく消息がないまま数十年が過ぎた。ところが、2012年、お互いに共通の知人が亡くなったことから、そのことがきっかけでお互いに再会した。
 こうして私は68年ぶりに友人の遊佐 幸章に再会した。

 いきなりこんなことを書いても、わかりづらいだろうと思う。

 このブログを読んでくれる人々のために、話を整理しよう。

 遊佐君はまず、中学1年のときの同級生だった。美少年で、しかも美声だった。
 私はおなじ中学で同級生になった。たまたま席が近くだったからすぐに仲よしになった。ただし、せっかく親しくなっても、父の転任で私が東京の中学に転校したため、それ以後の交渉はなくなった。

 1944年(昭和19年)、太平洋戦争の戦時特別措置で、中学生の上級学校へのスキップが認められた。私は中学4年を終えて、すぐに明治大学文科文芸科に入った。
 たまたま、遊佐 幸章は、仙台から上京、おなじ明治大学文科に合格した。

 1945年、日ごとに敗色が濃くなっていた時期、私たちは、おなじ工場に動員された。いわゆる勤労動員である。

 東京がアメリカ空軍の空爆をうけて、廃墟と化す寸前の時期、遊佐君と私は、学徒動員で、「三菱石油」扇町工場で労働者として働かされた。

 1945年3月、東京が大空襲をうけ、焼土と化した。遊佐君は両親に呼び戻されて、仙台に戻ったため、私との交際も終わった。もう一度、上京したが、動員先の工場が被災し、あまつさえ遊佐君のご両親も仙台で被災した。

 そして、日本は敗戦を迎える。

 それ以後、じつに68年にわたって、私たちはお互いに音信不通のまま過ごしてきたのだった。かんたんにいえば、そういうことになる。

 今年、仁科 周芳が亡くなった。
 歌舞伎俳優、岩井 半四郎である。私たちは文科文芸科で同期で、当時、私の親しかった仲間だった。
 岩井 半四郎の死を知った遊佐 幸章は、私にハガキで、追悼の思いをつたえてきた。遊佐君も、岩井 半四郎と親しかったからである。
 私は遊佐君が私に対して、仁科追悼をつたえてきたことに驚いた。彼の悲しみがつたわってきたからである。私は、すぐに返事をして、一度、会いたいといってやった。
 こうして、思いがけないことから、私と遊佐君は、少年時代の友人として再会することになった。                   (つづく)

1449

年があらたまったからといって、別にうれしくもない。ただ、今年が平安豊寧であることを望む。
巳年であることにちなんで、何かいいことばでもないかと探した。気にいった一句が見つかった。

 蛇蛇碩言

蛇蛇だから、ジャジャ、あるいはダダと読むのか、と思いきや、イイと読むらしい。意味はよくわからない。「詩経」のことばだから、中国人だってわからない。私なりの解釈では――「しなやかにのびやかに言の葉をつみ重ねる」という意味になる。いいことばを見つけた。
ジャジャと読んで、蛇たちがニョロニョロしなやかに川原に動いていると思ってもいい。ダダと読んで、何かわけのわからないことどもが、くねくねと蟠踞しているさまを思い描いてもいい。

さて、今年のブログは――できるだけ、のびやかに、いろいろなことをとりあげてゆく。これが、私なりのささやかな覚悟なのである。

 

 

1448

2012年は、私にとっては悲惨な年だった。どうも、ろくなことがないまま終わろうとしている。

何も書く気が起きない。スランプというわけではないのだが、少しでもまとまった作品としては「バーバラ・ラマール」ぐらい。サイレント映画のスターで、ほとんどニンフォマニアックな奔放な性生活のうしろに何がひそんでいたのか。これは「映画論叢」に発表した。

 

歳末、俳句を詠む。

眼を病んで 師走の街の 日の翳り
冬 舞台 影 実体と 仮面劇

どうも拙劣だが、こんな句がふと口に出た。

年の瀬や 書くべき文も書かずゐて
年の瀬や 逢うて詮なき もの思い
年の瀬に ロワール・ワインの果報かな
つごもりや 八十五翁のもの忘れ
冬ざれの雨 思い出のマルセイユ

 

そして、冬の一日、飼っていたネコが急死した。春秋すでに高き私にとっては大きな痛手になった。

山茶花の 散りしく庭に チル眠る

 

「チル」の死後、私は不淑(ふしゅく)を悲しんでしばらく筆をとらなかった。
そして、いよいよつごもりである。
このブログを読んでくださる皆さんのご多幸を祈って。

 

 

1447

 宮さんの辞世は、前にあげた二句につづいて、


こういうのは芭蕉も書けなかったと思います。

木枯らしや 夢はパリを駆けめぐる

 とあった。
これを、宮 林太郎の辞世の句と見てもいいだろう。

お彼岸にはローソクを一本もってきて、それに火をつけて、燃えつきるまで、本を読むことにした。申しわけないが、宮さんの本ではない。
私の読んだ「老人学」に関する本で思いがけず、日本人の辞世の句、それも俳人の絶命詩をとりあげていた。


いまわの際にある日本の詩人や僧侶たちは――おそらく、この世での最後の行為として――この世との別れを「辞世の句」に詠んだ。これは、一八四一年、有名な俳人である大梅が七十歳のときに詠んだ句である。

七十や

あやめの中の
枯尾花


猿男は一九二三年、六十五歳のときにこう詠んだ。

食いかけた
団子に花の
別れかな

次に挙げる二句は、いずれも盛住と呼ばれる二人の俳人の作品である。

盛住(1776年)七十五歳。

しばらくも
残るものなし
木々のいろ

盛住(1779年)八十六歳。

水筋を
受け手異なる
青田かな

いずれの句においても、読み手は、あやめの花、青田の影、木々の色を観て愛
でる存在として現れている。人生のうちの永遠なるものがより大きな意義をもた
らすようになる……            (つづく)

「老いることでわかる性格の力」ジェイムズ・ヒルマン著 鏡リュウジ訳
河出書房 2000年9月刊

 宮さんの手紙から、別のテーマに移ってしまったが、日本人が、辞世句を読む独特な心性をもっていることは、アメリカ人にも知られてきたのかも。
してみると、宮さんの俳句も、なかなか稚気があっていいような気がする。

 

1446


宮 林太郎さんの手紙に私は感動していた。
この手紙は、さらにつづく。


中田さん、ぼくが死んだときにはローソクを一本もってきてください。
それに火をつけてください。それをぼくの一生だと思ってください。ローソクは小さいのでも大きいのでも適当に。
ぼくには関係がないがローソクは燃える。あのローソク、ぼくには意味がないと思っていたが、あれでなかなか素晴らしい。彼は燃えるのです。それがやがて消えるのです。その間あなたはそれを見守っていてください。まあ、それぐらの時間はあるでしょう。
それが一人の男の人生です。燃えて消えてゆく、そいつです。燃えているあいだは浮気もする。悪事もする。やがて消えてゆきます。どうも僕は説教くさくなってきた。まあ、ローソクは持ってきてください。それに火をつけてください。そこで、変な俳句、

一本のローソクなりし我が身かな

愚かにも燃えてつきたる我身かな

 

 私は、お彼岸にはローソクを一本もってきて、それに火をつけて、燃えつきるまで、本を読むことにした。申しわけないが、宮さんの本ではない。真喜志 順子が訳した本で、日本人の辞世が引用されていた。
宮さんの俳句から、私は別のことを考えはじめた。     (つづく)