********北 杜夫について*******
今、ヤングの間でもっとも読まれている作家のひとり、”どくとるマンボウ”こと、北 杜夫。たぐいまれなユーモアと、少年のようにみずみずしい魂をあわせもった作家――その魅力の秘密をさぐってみよう。
中学生、高校生に人気のある作家は多い。
遠藤 周作や、星 新一と並んで、北 杜夫は熱心に読まれている。彼らがなぜよまれるのか。
理由はいろいろあるに違いない。しかし、北 杜夫の場合は――若い人たちがもっている、澄みきった、純粋な何かが作品にあって、それが若い人たちの共感を喚ぶのだろう。
北 杜夫は、本名、斉藤 宗吉、昭和2年(1927年)5月1日、東京で生まれている。つまり、「昭和の子ども」というわけで、評論家、奥野 健男、磯田 光一、村松 剛、中田 耕治たちと同世代の作家である。
父君は、大歌人、斉藤 茂吉。茂吉は、伊藤 佐千夫の創刊した「アララギ」に加わった歌人で、「赤光」、「あらたま」などの歌集で、日本の近代短歌の巨人だった。
第二次大戦後に――
最上川逆白波のたつまでに ふぶくゆふべとなりにけるかも
といった絶唱をうんでいる。
北 杜夫はこの茂吉と、夫人、輝子のあいだに生まれた。次男である。この輝子は、わが国の精神病院としてはじめて近代的な設備をそなえた青山脳病院を建てた斉藤 紀一郎(のちに紀一とあらためた)の次女で、茂吉は15歳のとき、紀一郎にひきとられ、後年、輝子と結婚した。
この輝子夫人については、北 杜夫の兄にあたる斉藤 茂太に「快妻物語」という作品があるし、北 杜夫の「楡家の人びと」のなかにも登場する。
世界中を旅行して歩くのが趣味で、たいへんな行動力をもっている「快妻オバサマ」である。「偉大な人の妻は、みんな、悪妻にきまっている」と信じている。
ある日、輝子はパリに行った。花の都、パリは、長い歴史の埃をかぶって薄汚れている。そこで、当時、文化相だったアンドレ・マルローが、パリの清掃を命じたことがある。
北 杜夫と、母(輝子)の対談では――
輝子 ほとんどヨーロッパは変わりませんね、昔と。ただ、パリだけ、大きく変ったのは……
杜夫 そう、白くなっちゃったの。
輝子 ドゴールがクリーニング始めて、すっかり白くなっちゃったでしょう。……
(中略)
杜夫 お母さまね、ドゴールっていうのはお母さまよりももっと威張ってた男なの。
輝子 そうですか、知りませんね。(笑)
杜夫 ただ、パリを白くしちゃったのは彼の最大の失敗ね。僕の「マンボウ航海記」に、こう書いてあるんですよ。「建物もどすぐろく煤けており、さながらゴマ
ンの煙突掃除人が行進したあとのようだ」と、その黒さを表現しているわけです。これはすごい表現力、我ながら見事ね。僕、若い頃からあんな才能があった。いまよりももっと才能があった。(笑)
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北 杜夫は、昭和9年、青南小学校に入学。
5年生の頃から、昆虫採集に熱中した。この頃の愛読書は、ファーブルの「昆虫記」で、アリやコガネムシ、トンボ、ウスバカゲロウ、ガ、チョウに熱中した。こういう経験が、のちに「どくとるマンボウ昆虫記」のような、おもしろい読みものになっている。
昭和15年、麻布中学に入学。この中学は、いわゆる名門校だが、吉行 淳之介、山口 瞳、なだ・いなだ、福田 善之などの作家を輩出している。北 杜夫は、中学生で、昆虫の権威で、自分で採集した尨大なチョウの標本をもっていた。
成績優秀で、級長をやっていた。戦時中のことで、文科系の学生は徴兵猶予がなかった
。ある年齢に達すると、すぐに実戦部隊に編入されてしまう。ちちの茂吉が心配して、灯
台の付属医専を受験させた。医専に入学して、三日間通学したが、父の茂吉が、北 杜夫
の年齢をまちがえていたため、徴兵にはまだ1年之猶予があることがわかって、麻布中学
に復帰した。
昭和20年、松本高校に入学。一級上に、作家になった辻 邦生がいた。
斉藤 茂吉の息子がくるそうだというニュースが松本高校の寮に流れた。辻 邦生をはじめとするバンカラ寮生たちが、ストームで洗礼しようと、よからぬことを企てた。
古ぼけた寮の一室で、斉藤 宗吉はみんなにとり囲まれた。いまなら、さしづめ総括リンチ。一人が怒号する。
「斉藤 宗吉よ、お前はわが寮にきて何をもっとも心に感じたか」
一瞬、室内に沈黙が流れる。
「あのう、ぼく、この寮のお手洗いの水が出ないんで、困る、と思いました」
若き日の北 杜夫のエピソードである。
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松本高校に在学中、北 杜夫は非常な勉強家だった。
文学書、哲学書をワッサワッサと読みふける。夏目 漱石、芥川 龍之介、ドストエフスキー、シェイクスピア、ゲーテ。手あたりしだいに何でも読破した。
やがて、短歌を作りはじめ、父に見てもらったが、途中から父のきびしい譴責を食らった。
中学時代にも、将来、昆虫学者になりたいといい出したところ、茂吉は烈火のごとく怒って、「絶対に医学をおさめろ」と申しわたした。
やがて、父にナイショで、詩を書きはじめ、高村 光太郎、萩原 朔太郎、室生 犀星、立原 道造、大手 拓次などの詩に親しんだ。
高校を卒業する前に、北 杜夫は大きな精神的開眼を経験する。
トーマス・マンを読み、とくに「トニオ・クレーゲル」に心酔した。北 杜夫というペン・ネームはもこのトニオをもじって、はじめは、浦 杜二夫、のちに北 杜夫になった。
昭和24年、詩を発表し、やがて小説を書きはじめた。
どういうわけで 小説など書きだしたか奇妙で不思議ではあるが、仙台の医学部にいた頃、私は原稿用紙を買ってきて平仮名や漢字を書きつけた。初めは原稿用紙のます目がだだ広く、もったいなく、どこいらに句読点を打ったものか困惑したので、主に大学ノートに書いた。
その翌年、同人雑誌の「文芸首都」に加わった。この雑誌から、佐藤 愛子、なだ・いなだなどの作家が輩出する。
北 杜夫はつぎつぎに短編を発表し、やがて長編、「幽霊」に着手した。
短編「岩尾根にて」を発表した頃から作家として大きく前進し、第36回、第37回、第41回と、3度にわたって、芥川賞候補にあげられたのち、昭和35年、「夜と霧の隅で」を発表、第43回、芥川賞をうけた。
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この作品は、重症の心身障害児がガス室に送られるところから始まる。
ナチス・ドイツが、アウシュヴィッツその他の強制収容所で、ユダヤ人や政治犯を虐殺していた時代である。
各地の精神病院に収容されている患者たちが、隠密裡に、どこかに連れ去られて行く。あとに残された患者の家族は、簡単な通知を受けとる――氏名、XXは死亡したため、遺体は火葬に付した、云々と。
こうした時代に、ある精神病院に勤務するケルセンブロックという医師、シェラーという院長、独逸に留学し、ユダヤ娘と結婚した日本人で、少し精神に異常をきたした医師などがおもな登場人物で――戦争という狂気と、人間の精神に生じる狂気を描いている。
この昭和35年(1960年)、北 杜夫は書き下ろしエッセイ、「どくとるマンボウ航海記」を発表した。彼がこの航海に出掛けた理由は――
あれは出航の四日前だったかな、友人から船にくる医者が全然いなくて困っていると聞いたのは。それもインターンでもいいというので安心して応じたわけですが、生来の怠けもののぼくは、ただゴロゴロ寝られて、外国へ行かれるというだけで飛びついたのですよ。
という。
この船は、インド洋、アフリカ西海岸、大西洋などで、マグロの分布や成熟度などを調査してまわったので、港もシンガポール、スエズ、リスボン、ハンブルグ、ロッテルダム、アントワープ、ル・アーブル、ゼノア、アレクサンドリアなどをまわった。
船医としての北 杜夫は、船の機関長がマッチ棒の先に綿をつけて、耳をほじっていたら、綿だけ耳の中に残ってしまった。それもいちばん奥の鼓膜のところにはりついてとれない。ところが――
彼はいかなる魔術を用いたのか自分で突っつき出してしまった。
「ドクター、あれ、とれましたよ」
とうれしそうにいうが、”外聴道異物”などと書くのもバカバカしいから、私は治療簿にこう記入した。
「天下の奇病。 使用薬品な 。処置、魔術」
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最近(昭和52年)の北 杜夫は、ひと頃の鬱状態から躁の時期に変わってきたらしい。母堂の斉藤 輝子と対談した「躁児マンボウvs快妻オバサマ」のように――躁になると、話題もつぎからつぎに出てきて、とどまるところを知らない。
夜遅く、遠藤 周作のところに電話がかかる。遠藤が受話器を耳にあてると、押し殺したような作り声で「ミスター・エンドオ?」と訊く。
いっしゅん、どこの外人かと思うが、すぐにイタズラだとわかる。その声は、
「アイ・アム・ミスター・マブゼ」
マブゼというのは、怪人マブゼ博士。戦前の無声映画では、怪物のフランケンシュタインや、表現派映画のカリガリ博士と並んで有名なキャラクターだった。
ある日、未だ夏も終わらない季節に、北 杜夫は、遠藤 周作の山小屋にやってくる。九月のはじめなのに、毛糸のスキー帽に、大きなマントを羽織り、近所の人がびっくりするような調子っぱずれの大声で、
おれはマブゼだ マブゼだぞ
どうだ 皆ちゃん こわいだろう
という歌を歌いつつ出現したので、さすがの狐狸庵先生(遠藤 周作)も仰天した。
しかし、北 杜夫がいつもふざけたことばかりしている、ノーテンキな作家だと思い込むのは間違い。
長編「幽霊」や、短編「渓間にて」、「星のない街路」、「不倫」、「遙かな国 遠い
国」、「河口にて」といった傑作がある。
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「楡家の人びと」は、日本でははじめての市民小説といってよい。この長編は、トーマス・マンの「ブッテンブローク家の人びと」を頭に置いて書かれた。
大正末期(1920年代)から敗戦(1945年)まで、楡家の人びとの運命が悠々たる筆致で展開する。
全体は三部にわかれていて、第一部は、楡病院の創業期から、失火の為消失するまでの、いわば上昇期。第二部は、世田谷の松原に分院を開設する苦難の時代。第三部では、太平洋戦争で、病院が壊滅してゆく姿が描かれている。
主人公の「楡基一郎」は、小学校を出たあと、隣村の農家に養子に出されたが、そこから舞い戻ったり、行方不明になったあと、ひょっこり村に戻ったときは、医師の免状をもっていた。やがて、青山に大病院を建て、代議士になり、のちに男爵を授けられるほどの人物になる。
この「基一郎」の長女、「龍子」と、「徹吉」という婿、ふたりの間にうまれた「峻一」、病院の婆(ばあ)や、「下田ナオ」をはじめとする多数の病院関係者たち、そして「欧州」とその妻、「千代子」、欧州の弟、「米国」。親のきめた婚約者をすてて、好きな男と暮らす「聖子」。その妹の「桃子」。そうした楡家の家族たちが、この長編のなかに動きまわっている。
楡病院が思わぬ失火で消失し、入院患者に犠牲者を出したため、再建計画は、うまく進まない。失意のうちに「基一郎」は亡くなる。
第二部では、あきらかに北 杜夫とおもわれる「周二」が登場してくる。
「龍子」と、「徹吉」の三人目の子どもで、正真正銘の昭和っ子だが――「震災から立ち直った新時代のいきいきした活力、たくましい斬新さを少しも表わしていない」という頼りない世代である。
この長編は、「楡家」の人びとが生きた歴史であるとともに、近代日本が必然的に背負わなければならなかった歴史でもある。そのなかに流れているものは、個人はもとより、一つの国家の運命さえ、いつしか押し流して行く歴史の意志といったものではないか。
この長編は、やみがたい歴史の力ともいうべきもののおそろしい作用が描かれている。
私が、今の高校生だったら――
北 杜夫の文学を知るために、まず、「少年」から読みはじめるだろう。
つづいて、「牧神の午後」、「白きたおやかな峰」と、読みつづけて、高校の最後の年に「楡家の人びと」を読む。
むろん、「船乗りクプクプの冒険」も読む。やがて、「どくとるマンボウ青春記」を読んでも、やっぱり「楡家の人びと」にたどりつくだろう。
そして、もう少したったら――(大学に入るとか、就職した時期から)自分でも何か書いてみようと思うかも知れない。作家になる、とか、どこかに自分の文章を発表するということとは無関係に。
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あとがき
これは、高校生の雑誌、「高1コース」(学習研究社)昭和52年8月号に発表したエッセイ。
高校生たちに、北 杜夫がどういう作家なのか紹介する記事なので、私の批評というわけではない。
私は、個人的に北 杜夫と親しかったわけではないが、彼の文学について書く機会はあった。現在、すぐに読めるものは、「船乗りクプクプの冒険」(集英社文庫)の解説ぐらいだろうけれど。
北 杜夫は、2011年10月24日、亡くなった。享年84歳。
私は追悼を書く機会がなかった。そこで、高校生のために書いた昔のエッセイをこのブログに入れておく。