1485

「武玉川」を読んでいて、60代、70代はほとんど言及がない理由を考えてみたが、どうもよくわからない。死亡率に関係があることは間違いないけれど。
そんなことを考えていて――70代という連想から、司馬 江漢(1738-1818年)のことを思い出した。
鎖国時代の洋画家。銅版画で地球全図を作ったり、寛政から文化にかけて、洋学者として「天球図」、「和蘭通舶」、「刻白爾天文図」(コペルニクス天動説)、「天地理譚」などの著作で知られている。
その司馬 江漢は、74歳、「春波楼筆記」という自伝で、それまでの開明的な立場から、なぜか懐疑的な思想を展開するようになった。
「われ七十有余にして始めて壮年よりの誤りを知れり」という自己否定が、彼の内面にひろがってくる。
文化10年には、「江漢辞世の語」という通知を知友に送った。
その内容は――「江漢先生は老衰して絵の求めに応じられなくなって、蘭学の勉強にもあきました。さきほど上方に出立しましたが、鎌倉の円覚寺の誠拙禅師の教えをうけて、ついに大悟して亡くなりました」というものだった。
知人たちは驚いて、芝/宇田川の江漢先生宅に急行したが、もぬけのから。このとき、江漢先生は麻布に引っ越していた。しばらくして、知人に見つけられると、「死人が口をきくものか」とどなって逃げたという。

江漢先生のおふざけは――おなじように自分の死亡通知を配った山崎 北華に似ている。北華は、葬式の途中で棺桶から出てきて、みんなを唖然とさせ、かねて呼んでおいた芸者たちと飲めや歌えの大騒ぎのあと、所在をくらました文人。江漢先生の行動には、北華よりももう少し暗い、nihilisticな鬱に近いものが感じられる。

ただし、江漢先生はその後4年も生きて、文政元年(1818年)に、81歳で亡くなっている。

私のブログも、江漢先生のひそみにならって「香チ庵辞世の語」としたいところだが。

 

1484

五十代の句も少ない。

 

転寝(うたたね)の夢には長し五十年 (第18編)
人五十 天から着せる頭巾哉    (第14編)
五十年 能く納りし無筆なり    (第6編)
五十を越すと 殖る 毒断     (第14編)


この程度しか見当たらない。
ここには「松風は老行く坂の這入口」どころではない、あきらめ、または、孤独感がただよっているような気がする。あえて言えば、社会的に孤独な生活を強いられるか、実質的に、性的なコンタクトから疎外されている老人の姿がうかびあがってくる。
現在の老人にとって、人生はもはやスタティックなものでさえもない。老人は、自分の住む町の空間、いかなる場所にもむすびついていない。江戸のご隠居さんの盆栽、あるいは朝顔などの栽培には、何か別の「意味」がひそんではいなかったか。

「武玉川」には60代、70代の世界は、まったくない。80代になると、(これも特徴的に見えるのだが)年齢が特定されてくる。

 

八十七は 欲の出る年       (第14編)
八十七も なぶらるる年      (第14編)
八十七は 手をあてる年      (第14編)
八十八は うま過ぎた年      (第14編)
八十八の耳に 毛がはへ      (第14編)

 

80代になって、なぜ年齢が特定されるのか。87歳という「措定」は、おそらく米寿という観念が作用しているせいだろうと思う。しかし、「八十八の耳に毛が生える」というのは、生理的な現象としてはわかるのだが、実質はどういう意味なのか。
90代の句は、わずかに、

 

九十九の人は 大かた口ばかり   (第14編)
九十九は 嘘を冬瓜の咲て見せ   (第18編)

 

これしか見つからなかった。

ところで、私が身につまされた一句は、(第16編)の

 

貧乏によく生きた八十

 

貧乏作家がいまさら「武玉川」を読み直す必要なんてないよなあ。(笑)

1483

芭蕉を弟子たちが翁と呼んだのは、芭蕉、37歳の頃という。芭蕉だから、翁と呼んでも恰好がつくが、今の30代の作家を翁と呼んだら、どうなるか。(笑)

芭蕉は、伊勢への旅で、弟子が、

 師の桜 昔拾はん 木葉哉

 と詠んだのに対して、

薄(すすき)に霜の 髭(ひげ)四十一

 と付けた。41歳で、ひげに白いものが見えてきたという意味だろう。
これが、「誹諧武玉川」では、

四十ほど はしたな年はなかりけり (第9編)
まだ年も 四十で居れば 面白き  (第14編)
四十から 心の猿に毛がふゑる   (第5編)
いへばいふ 四十はいまだ 花の春 (第9編)
正月が 四十を越せば飛で来る   (第6編)
うつくしい女の四十 物すごさ   (第15編)
四十にて 握拳のありがたさ    (第10編)

これが「武玉川」に詠まれている四十代である。

つづく五十代の句は少ない。六十代、七十代はまったく言及がない。

ここで、私が考えるのは――江戸の庶民たちは、職業の違い、成熟期に入った年齢も、都市と農村の区別もなく、すべて年代でひとくくりにしていたということ。
かんたんにいえば、女は40代で終わり、60代、70代の男は、はじめから揶揄や嘲笑の対象でさえなくて、まるっきり存在していない、ということではないか。
「四十にて 握拳のありがたさ」などと笑ってはいられない。
(つづく)

1482

「誹諧武玉川」初編から十八編まで。
年齢がわかるものを挙げてみよう。


いつまでか 十九十九のしら拍子  (第12編)
怖かりし十九の年も 無事で過ぎ  (第13編)
奥歯にものの 十九 二十五    (第17編)

二十五と十九の間も 因果なり   (第7編)
二十五は 娘の年でなかりけり   (第8編)
二十五から 竹になる年      (第17編)
錦木をはふり捨て捨て 二十四五  (第18編)

 

江戸人の観念には十九・二十五歳の男女関係がつよく意識されていたのかも知れない。
これは婚姻だけではなく、性的な成熟期という意味で。当たり前だというだろうか。それでは、30代の句を拾いあげてみよう。

三十で 恐ろしいもの 緋ぢりめん (第5編)
三十は 落着としの はじめ也   (第17編)
地黄と聞いて笑ふ 三十      (第16編)
三十を過ると 縞が眠う成     (第11編)
まだ顔も 三十三で面白き     (第6編)
松風に ふっと気の付く三十九   (第11編)
分別の四十に遠き三十九      (第18編)

緋縮緬どうもセクハラだなあ。
三十歳が「落ちつく年のはじめ」というのは、男性の性的能力がピークを過ぎているという意味にもとれる。そこで、「地黄と聞いて笑う」ことになる。
「地黄」は、地黄丸という生薬。強精薬。井原 西鶴の「好色一代女」に、「いまだお年も若ふして、地黄の御せんさく(詮索)」という一節がある。「武玉川」にも、「地黄はやりて天下泰平」(第13編)という句がある。
「まだ顔も三十三で面白き」は、女を詠んだものだが、松風の句は、「松風は老行く坂の這入口」(第11編)があって、これは男を詠んだものだろう。
(つづく)

 

 

1481

なんとか本が読めるようになったので、なんと昔の川柳を読みはじめた。

「誹諧武玉川」初編から十八編まで。今どき、こんなものをまとめて読むなんざ酔狂な話だが。川柳なら短いので、それほど眼が疲れない。

紀逸(四季庵)が川柳(付句)を集めて編纂したもの。四季庵が途中で亡くなったため、二世/紀逸(四時楼)があとをついで、十八編まで編纂したものという。
読みはじめたのはいいのだが、江戸文学の素養のない私には、ほとんどの句がよくわからない。難句といった、はじめからむずかしいものではなく、当時の江戸(宝暦年間)の風俗、文化、男女の機微万般にわたって無知なので、どこがおもしろいのかわからないものばかり。たとえば、


干からびにけり 伊藤源介   (第5編)


さて、この「伊藤源介」がどういう人なのか見当もつかない。「干からびにけり 中田耕治も」だなあ。それでも、たまには


戀しき人に逢へば 日がくれ  (第9編)
腰帯を締ると 腰が生きてくる (第6編)
吉祥寺 泉岳寺より面白き   (第5編)


などという句にぶつかって、思わずにんまりしたくなる。
吉祥寺は、中央線の「吉祥寺」ではなく、八百屋お七の吉祥寺。泉岳寺は、むろん赤穂浪士の墓所。こんな句に、当時の江戸庶民の感情があざやかにうかびあがってくる。
何日もかけて読んでいるうちに、「武玉川」の「誹諧」には、どうやら老齢に対する無意識の恐れがあるのではないかと思うようになった。

こんなことしか考えないのも、相当、頭にガタがきている証拠だが。(つづく)

 

1480

私が、サイレント映画のスターたちに関心をもちはじめたのは、ジャック・フィニーの「マリオンの壁」(福島 正実訳/1973年)を読み直したからである。
これは福島 正実の仕事でも、すぐれたものの一つ。内容は、サイレント映画のフィルム収集家の話なのだが、ジャック・フィニーらしい「幽霊小説」といってもいい。
冒頭に、スターだった人々の名前を列挙して、最後に――

その他、過去、現在、そして未来の何千人もの映画人たちに 愛をこめて

という献辞が添えられている。

私がサイレント映画の女優たちのことを書きはじめたのは、ハリウッドの裏面史といったものを書くことが目的ではなかった。私なりに、「過去の映画人たちに、愛をこめて」何か書きたかったからである。

これまで私が書きつづけてきたサイレント映画の女優たちをあげておく。ただし、最近のものだけ。

(1)アイリーン・リッチ    (2)エスリン・クレア
(3)マーサ・マンスフィールド (4)ナタリー・ジョイス
(5)メァリー・ノーラン    (6)シャーリー・テンプル
(7)ビリー・バーク

今の映画ファンも、シャーリー・テンプルぐらいは知っているだろうか。ほかの女優さんたちは、もう誰も知らないだろう。
たとえば、マーサ・マンスフィールドは、舞台女優としてかなりすぐれた女優だったが、映画では成功せず、さらにスキャンダルにまき込まれた。私たちもグラフィックなどで見たことがある、例のHollywood という大看板の上に登って投身自殺を遂げた悲劇的な女優。
少女時代のベテイ・ディヴイスが、マーサのイプセン劇を見て、自分も女優になろうと決心したという。(「ベテイ・ディヴイス自伝」に出てくる。)
私はなぜこんな女優たちについて書いておくのか。それは「映画史上に残る作品に出た女優でなければ、取り上げるに値しない」などということはないからである。(これについても、直ぐ近く書くつもり。)

たいていの国の少年少女は自分が大人のように強くなれるのだろうか、と考える。アメリカの少年少女は、これに加えて、はたして自分は両親の愛情をつなぎとめていられるのだろうか、いつまでつなぎとめていられるのだろうか、と考えるという。
こういう「観点」を、私は――勝手に自分流に展開させる。そんなことも――映画女優として成功しながら、実人生ではさまざまな困難にぶつかって挫折してしまう女たちのことを書くようになった。

今月は、ビビ・ダニエルズのことを書いた。(去年の冬、川村 正美からもらったネコに「ビビ」という名前をつけた。これについても、そのうちに書く予定。)

久しぶりで「コージー・トーク」を再開したが、ついつい長く書きすぎる。
しばらくブログを書かなかったので、書きたいことがたくさんある。つい、長く書きすぎて、「均衡を失って」しまった。やはり、文字の飲(もんじのいん)を忘れたせいだろう。ボケたなあ。(笑)

 

1479

父の昌夫のことを思い出した。
父は、正直で、上にバカがつくような真面目な男だった。少年時代に実父(私の祖父)が早世したため、実母(私の祖母)の手を離れ、イギリス人の家庭で育てられた。
イギリス人の家庭で育てられたというと、恵まれた境遇と思われるかも知れないが、本人にとっては不幸だったと思われる。

少年時代、まだ実父(私の祖父)が在世中に、昌夫は、晩春から初秋まで、毎日のように水泳の練習に出かけた。明治40年代の少年たちは、朝のうちに学校をすませて、炎天下を歩いて、隅田川の遊泳場にかよったらしい。

その頃の隅田川は、シラウオがとれたほど水が綺麗だった。中流に船をうかべて、川水でお茶会をするほど流れが澄んでいた。夏ともなれば、たくさんの遊泳場が開かれる。

当時の水泳は、いろいろな流派があった。

厩橋の向こう河岸に、山敷向井流。
両国橋ちかくに、伊東、土屋、大塚、鈴木の向井流の各派。
荒谷の水府流、太田派。
その少し下手、浜町河岸に、永田の向井流。
ここに、水府流、太田派の遊泳場があった。昌夫が水泳の練習に出かけたのは、ここの遊泳場だった。

こうした水練場には、それぞれの定紋(じょうもん)を染め抜いた大きなまん幕が張りめぐらされていたという。
この水練場では、夏のあいだ、二、三人の者が泊まり番をしていた。この連中は、朝、火をおこして飯を炊く。一人が川向こうの安宅河岸に泳いでわたる。そこで、シジミをしゃくって、また泳いで戻る。だから、朝はシジミのミソ汁ということになっていた。

水練場には、厠がなかったので、毎朝、川向こうのアシの茂みまで泳いて行って用を足した。

昌夫は、太田派の水練でいろいろな泳ぎ方を身につけた。

少年時代の私は、よく父にプールにつれて行かれた。それはいいのだが、父が泳ぎはじめると、プールにいる人たちがみんな水泳をやめるのだった。はじめは誰も気がつかないのだが、父の泳法がまるっきり違うので、プールサイドから見物するのだった。

昌夫の得意は、二重伸(ふたえのし)、小抜手(こぬきて)といった泳ぎ方で、プールの底を蹴伸(けのし)という潜水泳法で泳いだり、右手を枕に体と左足を水に浮かせ、左手と右足だけで泳ぐ。とれも、その頃(昭和7、8年代)でさえ見たこともない泳法ばかりだった。

ようするに、日本古来の武道に根ざした水泳である。父は立ち泳ぎのまま、筆で手紙を書いたり、胸から上を水中から出して諸手(もろて)で槍や刀を使う端技(はわざ)も、できるといっていたが、子どもの私は、父がそんな泳ぎを披露すればみんなが見物すると思うだけで恥ずかしかった。

私はごく初歩的なクロール、平泳ぎがやっとで、とても泳げるとはいえない。
夏になっても、水泳に関心がなかった。

 

 

1478

私の父、昌夫は、少年時代にイギリス人の家庭でそだてられた。そして、生涯の大部分、外資系の会社に勤めていた。太平洋戦争が勃発直前、外国資産が凍結されたとき、父は徴用されて、「石油公団」に移り、横浜の小さな造船所で、陸軍の上陸作戦用舟艇のエンジンの製造にあたった。戦後、しばらくしてアメリカ資本の食料輸入の企業に就職した。

そんな経歴のせいか、父はイギリスふうの生活習慣を身につけていた。
戦前の1930年代当時の、ふつうの中流家庭の和食中心の食事と、父の食事はどこか違っていた。

朝食は、だいたいポリッジにきまっていた。オートミールとおもえばいい。
私の祖母はオートミールが大嫌いで、あんなネコのヘドみたいなものが、よく食べられるものだといっていた。私も少年時代にはオートミールが嫌いだった。

トーストも出されるが、これも、今のようにあたたかいパンではなく、冷たいパンに、バタ、あるいはマーマレードをぬって食べる。
それに、半熟のタマゴ。これが、かならず食卓に出る。
ほかに、ゆでたホーレンソウ、ベーコン、それに、トマト。
飲みものはティーときまっていた。(ただし、チョコレートを飲む。)

その後、私たちは下町の本所に住むことになったが、戦争で食生活は激変した。

戦後の大混乱のなかで、戦後のはげしいインフレーションと、ひどい食料難が襲いかかってきた。この冬だけで、数百万の餓死者が出ると予想された時期だった。
宮城(いまの皇居)前で空前の大デモがあり、「米よこせデモ」と呼ばれた。日本の深刻な食料不足の視察に、フーバー元大統領が緊急に来日するといった時代だった。

当時の厚生省が、日本人の栄養状態を緊急に調査した。
この調査で、東京都内から十数人が選ばれたらしい。父は、栄養失調の日本人のサンプルに選ばれたのだった。外国資本がまだ日本に戻ってくる前で、父は失業していた。父は、連日、(厳密なカロリー計算の上で)一定量の食料を与えられて、連日、肉体の変化を調べられたのだった。
お父さんが選ばれたのなら、おれたちも「日本人の栄養失調」の代表だよ。私たちはそんな冗談をいって笑いあった。せいぜい笑うしかないあわれな敗戦国民だったが。(笑)

はるか後年、グレアム・グリーンの最後の作品においしいポリッジの描写が出てきたので、戦前の父を思い出してなつかしかった。

今の私は、父とおなじように、毎朝、オートミール、メダマ焼きを作って、ティータイムに、自己流でイングリッシュ・マフィンを焼いて食べている。

 

1477

久しぶりに、ブログを書いた。われながら呆れるほど、長い。そして、つまらない。
もっと、短く書かなきゃ。

彼がパンを落とすと、きまってバタを塗ったほうを下にして落ちた。

ある女の私立探偵が恩師を思い出して。この恩師というノは、あまりめぐまれないまま人生を蕩尽して自殺してしまった人だが。

こういうセリフを書いてこそ作家というものだろう。

 

1476

あるとき、私の娘が訳したアメリカの小説のオビに常盤君はこんな推薦文を書いてくれた。(彼が直木賞を受けて、一流作家になった頃だろう。)

リタ・マエ・ブラウンは、私も読んでみたいと思っていた。それで、どんな小説かと聞いてみた。レズビアンの小説よ、だけど、カラッとした小説。こともなげにそう答えたのは、中田えりかさんである。私の記憶にある、この小説の訳者は、目の大きな、実に可愛らしいお嬢さんだった。今は、美しい健康な若い女である。この変わった(しかし、そんなに変わっていない)小説を中田えりかさんの訳で読めるとは。

もはや、茫々たる過去である。
しばらくして、私たちはお互いにまったく会うことがなくなった。お互いに話すに話せぬ地獄を見つづけていたせいかも知れない。

最後に、常盤 新平に会ったのはいつだったのか。
偶然、乗りあわせた電車のなかで常盤 新平に会った。
彼がすわっていたシートの前に私が立って、
「常盤君」
と声をかけた。私が前に立っているので驚いたらしい。あわてて、席をゆずろうとした。
「いいんだよ、すぐ下りるから」
そんなやりとりだけで、お互いの距離はまったくなくなっていた。
「今、何をしていらっしゃるんですか」彼が訊いた。
「ルイ・ジュヴェの評伝みたいなものを書いているんだよ」
それだけで別れた。
若き日の私が、ルイ・ジュヴェにつよい関心をもっていたことは「遠いアメリカ」にも出てくる。だが、これまた茫々たる過去のことになった。

お互いの共通の友人たち、西島 大、若城 希伊子、藤田 稔雄、鈴木 八郎たちも、ことごとく鬼籍に移った。そして今、私は若き日の友人、常盤 新平を失った。もはや言葉もない。だが、はるかな歳月を隔てて、「遠いアメリカ」の思い出は、かけがえのないものとして私の胸に生きている。
ありがとう、常盤 新平君。きみと親しくなったことは、私にとってかけがえのないものになっている。

ときは今 語りつくせぬ桜かな

1475

その後、常盤 新平は「ハヤカワ・ミステリ」ではじめて翻訳を手がけることになった。これも「遠いアメリカ」に書かれている。私が福島 正実から、ガードナーをもらってきたのだった。これはアール・スタンリー・ガードナーの法廷ものだが、じつは、その前に常盤 新平は別の仕事を手がけている。これについては書く必要はない。
そして、常盤 新平を早川書房の編集部に入れたのも私だった。

このブログを書くために、あらためて常盤 新平の手紙や、「遠いアメリカ」に書かれている時代に私が書いたものなどを読み返した。
常盤 新平が早川書房に入社したのは――
福島 正実が、早川書房でいよいよ念願のSFのシリーズ化をはじめようとしていた。都筑 道夫は「ハヤカワ・ミステリ」全巻の解説を書きはじめる。
北 杜夫の「どくとるマンボウ航海記」、井上 靖の「敦煌」、謝 国権の「性生活の知恵」がベストセラー。
若い女の子たちが、腕に「ダッコちゃん」をからませて歩いていた。タレントでは、「ザ・ピーナッツ」、松島 トモ子。吉永 小百合はまだ登場しない。
大島 渚が「日本の夜と霧」を、今村 昌平が「豚と軍艦」を。三島 由紀夫が「空っ風野郎」に主演する。
手塚 治虫が「シャングル大帝」を描きはじめる。そんな時代だった。

作家のベン・ヘクトが亡くなったのは、1964年だったが、私は常盤君の依頼で、「ベン・ヘクト追悼」を書いた。そのなかで、

この四月、ヘクトの訃がつたえられた。もっとも私は新聞のオビチュアリに興味がないので、そのことは少しも知らなかったが、常盤 新平君が教えてくれたの
だった。
「ほう、ヘクトが死んだの?」私はいった。
「いやだなあ、ちゃんと知っててトボけてるんでしょう」彼がいった。
「とんでもない」私はいった。「ぼくは、自分が一つでも作品を読んだことのある作家の死には、いつも敬虔な気もちになるんだ」
私はそれからヘクトについて、その死について、しばらく考えた。たしかに私はヘクトの作品を少しは読んでいるので、敬虔な気もちになったのだった。

半世紀も昔のことなのに、こんなやりとりもはっきりおぼえている。
私は自分が一つでも作品を読んだことのある作家の死を知ったときは、かならずその作品を読み返すことにしていた。追善というよりも、むしろ、その作品を読み得たことのありがたさを思い返すためだった。
今、こうして、常盤君から贈られた「遠いアメリカ」を読み返す。さまざまな思いが押し寄せて、胸ふたがるる思いがあった。
(つづく)

 

1474

ある日、常盤 新平が遊びにきたとき、私はこんなものを見せてやった。

戯れに歌える
「裁くのは俺だ」と私立探偵の
行く手は「人の死に行く道」
「ヴィア・フラミニアの女」を腕に
互いに交わす「死の接吻」

「地獄の椅子」に腰かける勇気を
「持つこと持たぬこと」
胸にさわめく「春の奔流」

とかなんとかいったって、金がめあての
「ポットボイラー」
「みんなわが子」のためなれど、
翻訳稼業のどんじりにひかえし野郎の

めざすは遙か「宇宙島に行く」
いっそこのまま「消えたロケット」
中田耕治の、夢は虚空をかけめぐる

常盤君はニヤニヤ笑っていた。

私たちは毎日のように会っていた。なにしろ、お互いに暇だけはたっぷりあったから。
当時、彼は台東区の竹町に住んでいた。その頃のハガキに、

 

毎日、映画ばかり観ています。暗くなったので、わざわざ火を起こすまでもないと、自炊生活を止めて、日中は外出。夜は寝床の中でいろんな事をします。

この頃、私は、ある小劇団の文芸部に入った。ここで、はじめて芝居の世界にかかわることになったのだが、つづいて、ある劇団の俳優養成所の講師になった。ここで講義を続けた時期に、演出を始めた。
そのとき、私のクラスに、仲代 達也、平 幹二郎、昨年亡くなった佐藤 慶たちがいた。女優のタマゴたちのなかに、「遠いアメリカ」に出てくる「椙枝」がいた。
ある日、常盤君に「椙枝」を紹介したのは私だった。

やがて、彼は戸塚に移り住むことになる。その頃のハガキに、

小生、この度表記に移転しました。西日のよくあたる暑い家です。駅から歩いて三分ぐらいで近くには本屋、映画館、喫茶店、のみや、一杯あります。

と書いてきた。「遠いアメリカ」では、

電車をおりると、駅前のガード下まで急ぎ足で行く。パチンコ屋から、ターミー・ターミー・アイ・ラヴ・ユー・ソーというデビー・レイノルズの切ない、かすれた声が聞こえてくる。
巴館にはいると、客は一人もいない。重吉が七、八人で満員になる小さなこの鮨屋に来るようになって、二年になる。いつも椙枝がいっしょである。はっきりとおぼえていないが、椙枝を知ってまもないころ、二人とも空腹を感じて、たまたま巴館にはいったのかもしれない。

と書いている。
その二年間、私は「重吉」と「椙枝」の愛の行方を近くで見守ってきたのだった。それは喜びにみちた燕約鶯期というべき時期だったが、常盤君にとっては、ある意味ではつらい時期だったにちがいない。
その頃の常盤は、新婚の私の家によく遊びにきた。そして、帰りの電車がなくなって、そのまま風呂に入って、泊まった。お互いに話はいくらでもあったし、なによりも暇だったから。常盤君も食いつめてころがり込んだというのがほんとうだろう。
(つづく)

 

1473

「遠いアメリカ」の中に、たくさんの作家の名前、作品の題名が出てくる。
たとえば、テネシー・ウィリアムズの「ストーン夫人のローマの春」、ジェームズ・ボールドウィンの「山に登りて告げよ」、アーウィン・ショーの「若き獅子たち」。
そして、レイモンド・チャンドラーの「湖中の女」、「長いお別れ」。エヴァン・ハンターの「暴力教室」。
ジョン・オハラの「ファーマーズ・ホテル」、ジョン・ロス・マクドナルドの「我が名はアーチャー」や「犠牲者は誰だ」など。
なつかしい作家たち。私も、それらの作品が出たときにペイパーバックで読んだ。大半は、神田の露店の古本屋のおじさんから買ったものばかりだった。
ここで常盤 新平があげているジョン・ロス・マクドナルドの「我が名はアーチャー」や「犠牲者は誰だ」は私が訳している。
常盤 新平に読むことをすすめたのも、おそらく私だったにちがいない。

アーウィン・ショーをはじめて訳したのも私だった。はるか後年、一流の翻訳家になった常盤君が、私の訳したアーウィン・ショーを訳し直している。おなじように、常盤君がはじめて訳した作品を(私は常盤 新平訳が出ていると知らずに)訳して、別の出版社から出したこともある。

「遠いアメリカ」の中で、「重吉」が恋人の「椙枝」に、「遠山先生」が新婚の夫人にキスするところを見たと話す。そのとき、常盤君は、ハガキで、

一昨日、昨日とお邪魔してご馳走になり、有難うございます。母は、「新婚家庭
によくもぬけぬけとご馳走になったり、泊まったり、私は恥ずかしい」と僕の図
々しさを責めました。
今日、神田の古本屋(露店、ひげのおじさん)で、中田さんの名を言ったら、百
五十円の本を百円にまけてくれました。
ウィスビアンスキーはわかりました。古本屋(近くの)デモルナールやチャペク
などといっしょになったアンソロジーを見つけたのです。
この頃はコーヒーを飲む必要がないので、安本を買い集めておりますが、読みき
れません。では又

と書いてきた。
「この頃はコーヒーを飲む必要がない」というのは――恋人の「椙枝」が劇団の旅講演に参加したため、会えなくなっている、という意味。私は、有楽町の「レンガ」、銀座の「トリコロール」、神田の「小鍛冶」という喫茶店以外は立ち寄らなかったので、常盤君の行動半径も、だいたいこのあたりに集中していた。
当時、まだ大学院に在籍中だった常盤君の将来を心配なさって母上(常盤とよさん)から何度も手紙を頂いたが、私が手紙で「椙枝」のことをくわしくつたえたため、いくらか安堵なさったようだった。
(つづく)

1472

「遠いアメリカ」に、最初に「遠山さん」が出てくるシーン。

「ペイパーバックを読んでいて眠くなったら、どうすればよろしいでしょうか」
と重吉は師匠の遠山さんにきいてみたことがある。
「さっさと眠ればいいじゃないか。きみ、人生って長いんだよ」
と重吉とは年齢が四つしか違わない遠山さんは明快に答えている。

戦後の混乱のなかで、焼け跡の銀座に闇市ができはじめたのは1945年9月だった。アメリカ軍が日本に上陸した直後の銀座だった。私は、このときはじめてペイパーバックなるものを見たのだった。
仙台にいた常盤君が、戦後のこの時期の銀座の状況を知っているはずもない。

神保町の近く、「神田日活」という映画館があった。その先、5メートルばかり離れた狭い路地に、ゴザをひろげて古本を並べているオジサンがいた。
白髯をたくわえた老人で、私ははじめてペイパーバックを買って読んだ。このとき、私が手にしたのは、ダシール・ハメットと、ウィリアム・サローヤンだった。むろん、当時の私の語学力では歯が立つはずもなかった。
このときから、私はそれこそ手あたり次第に、アメリカの小説を読みつづけた。

「遠いアメリカ」で、「重吉」がペイパーバックを読みふけっていた時期は、やや遅れて1955年と推定できる。
恋人の「椙枝」といっしょに映画を見る。
「マリリン・モンローがとてもよかったわ。不思議な女優さん」
と椙枝が重吉にいう。このとき、椙枝は20歳。重吉は24歳。
ふたりは、有楽町の映画館で「七年目の浮気」を見たあと、銀座のほうにぶらぶらあるいている。

「七年目の浮気」は、1955年11月1日に公開されている。
私は、その後、マリリン・モンローについて、日本でははじめてのモノグラフィーを書くことになるのだが、その頃(1955年)は、マリリン・モンローについて自分が何かを書くことになろうなどとは、まったく考えもしなかった。
小説の中で、「重吉」の恋人として登場する「椙枝」は、1960年代、「俳優座養成所」で私のクラスにいた若い「女優のタマゴ」で、「ジャミ」というあだ名で呼ばれていた。
「ジャミ」(小説の中の「椙枝」)が――「不思議な女優さん」と語っていることばがあらためて胸に響いた。

「遠いアメリカ」には書かれていないのだが――「椙枝」が「重吉」の恋人になる前に、私は、ある劇団で、まだ無名の「椙枝」を起用したのだった。私の演出は成功とはいえなかったが、「椙枝」という「不思議な女優さん」の魅力は、ある程度まで引き出せたと思っている。

「遠いアメリカ」に書かれているのは――常盤君の青春だが、同時に、私自身の、おなじように「デスパレート」な生きかたではなかったか。

私は戦後すぐにもの書きとして出発したが、偶然のことから翻訳をするようになった。
そのあたりの事情は、宮田 昇の「新編 戦後翻訳風雲録」(みすず書房/2007年刊)に書かれているとおり。私の名前はチラッと出てくるだけだが、若き日の私が「ハヤカワ・ミステリ」の出発にかかわったことは間違いない。

この時期、私の友人たちには、福島 正美、都筑 道夫がいた。少し、先輩には、田村 隆一、北村 太郎などがいた。
当時、私をふくめて、福島 正美、都筑 道夫はきそってペイパーバックを読んでいた。私はアメリカの作家たち、戦前から戦後のハードボイルド系のミステリーを読みつづけていた。福島 正美はイギリスのミステリー、そして、まだほとんど人の関心を呼ばなかったSFを、都筑 道夫はミステリーからSFというふうに、それぞれの嗜好は違っていたが。
私も常盤 新平も、それこそ手あたり次第にペイパーバックを読みつづけていた。
(つづく)

1471

2013年1月22日、作家、常盤 新平が亡くなった。

その晩、かなり遅くなってから、私の妻が私に告げた。私は、少なからぬ驚きをもって常盤君の訃報をきいた。茫然としたといっていい。常盤 新平が亡くなったという、信じられない思いと、彼と親しかった頃の思い出が胸にふきあげてきた。

翌日、オービチュアリを読んだ。

 

直木賞作家で、アメリカ現代文学の翻訳や洗練されたエッセイでも知られた常盤新平さんが、22日午後7時12分、肺炎のため東京都町田市の病院で死去した。
81歳。
岩手県出身。早稲田大卒。早川書房に入社し、「ミステリマガジン」編集長などをつとめた後、文筆活動に。アメリカ文化やジャーナリズムを紹介したほか、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインの「大統領の陰謀」等の名翻訳が評判になった。
1986年には、アメリカにあこがれる青年を主人公にした自伝的作品「遠いアメリカ」で小説家デビュー。翌87年、同作で直木賞を受賞した。

 

 その夜、私は常盤君から贈られた「遠いアメリカ」を読み返した。

 

重吉は「ハーパース・バザー」の目次を開いてみる。このファッション雑誌には一流作家や詩人のエッセイが載る。
「サルトルやカミュなんかが載るから、僕は「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」を買うの」
そう言ったのは、重吉にときどき下訳の仕事をくれる遠山さんだ。詩人をポーエットと言ったり、喫茶店ではミルクティーしか飲まない。気障な人だけれど、重吉をわりと可愛がってくれている。椙枝を重吉に紹介したのも、養成所で教えていた遠山さんだし、重吉が「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」の名前をおぼえたことも、遠山さんがいなかったら考えられない。    (P.17)


この「遠山さん」は、あきらかに私をモデルにしている。

私は、「椙枝」と「重吉」のふたりにとって「師匠」だった。私がある劇団の俳優養成所で、戯曲論めいたものを教えていたが、「ジャミ」は私のクラスにいた生徒のひとりだった。
「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」は、いわゆるスリック・マガジン(豪華ファッション雑誌)で、ひどく高価な値段だった。当時の私は、占領軍の家族が読み捨てた古雑誌を「俳優座」の向い側の古本屋で見つけては買ってきた。ただし、いつも貧乏だったので、数十冊の「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」を手にとってもせいぜい1冊、2冊しか買えなかった。

今でもおぼえているのだが、「ハーパース・バザー」ではディラン・トマスの詩劇や、べンジャミン・ブリッテンのオペラ台本などを読んだ。
私はその「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」を、常盤君にも読ませた。彼が、モデルのスージー・パーカーが好きになったのも、そのあたりからだろう。
(つづく)

1470

私にはいつも「好きなヒロイン」がいた。

どれほど多くのヒロインにめぐりあってきたことか。「ナスターシャ」や「ソーニャ」たち、あるいは「エマ」ヤ「ジャンヌ」たちにめぐりあうことがなかったら、私の人生はどんなに貧しい、あわれなものになっていたことか。
彼女たちの一人ひとりは、けっして私の期待を裏切らない恋人たちだった。

むろん、私が好きになったヒロインたちは――現実の恋愛とはなんのかかわりもない、いわば夢の造形といったものだった。たとえば、映画のヒロインたちに対する関心は、そのまま女優に対するあこがれや、性的な関心と切り離せなかったけれど。

映画で思い出すのは、「不良青年」のダニエル・ダリュー。
ダリューは、戦前のフランス映画を代表する美女だった。「不良青年」(1934年)はもっとも初期の映画で、はじめての主演作といっていい。内容は、つまらないボーイ・ミーツ・ガールもので、もう覚えてもいないのだが、まだ、17歳の彼女が、パリのアパッシュふうに男もののスーツを着こなしていた。ディートリヒの男装も見たことがなかったので、ダニエル・ダリューの妖しい魅力に思わず息をのんだ。

後年、私が「男装の女性史」を書いたのも、このときのダニエルの姿が心に刻まれたせいだろう。ほんの数カットだが、シガレットを口にくわえてこちらを見るまなざし。その彼女を思い出すと、いつも幸福になった。
戦前の「暁に祈る」や「禁男の家」など、繊細で、どこかはかなげな美少女だったダニエルは 戦後、「赤と黒」、「チャタレー夫人の恋人」など、シックでエレガント、ソフィスティケートながら、しかも強烈な性格をもつ女性に成熟して行く。

戦後、対ドイツ協力派として執拗に左翼の攻撃にさらされたが、ダニエル・ダリューはみごとに復活する。その後は、国際的な大スターとしてヨーロッパ、アメリカの映画に出た。
さすがに晩年はワキにまわったが、シャンソン歌手としても独自な世界を切り開いた。ダニエル・ダリューのシャンソンは深みがあって、人生でさまざまな経験をかさねてきた女でなければあらわせない何かがあった。その意味で、私はシャントゥーズ・レアリストのひとりと見ている。

パリの「ソワール」のビルの横の坂道で、一瞬、私の横を通り過ぎていった車にダニエル・ダリューが乗っていた。
私は、茫然として走り去って行く車を眺めていただけだが、その日いちにち、幸福だったことを思い出す。

 

1469

睡眠中は誰でも夢を見るが、眼がさめた時は忘れていることが多いという。もともと私は夢を見ても、まったくおぼえていないタイプなのだが。
ところが、どういうものか、最近になって夢を見るようになった。自分でも、かなり変わってきたような気がする。もっとも、ヤキがまわったのかも知れないな。

ある日、どこかで私は、中年のアメリカ人女性と会っている。どこだろう? アメリカではない。私は、まだ30代のもの書き。こちらは相手のことをかなりよく知っているのだが、相手は私のことを知らない。なにしろ、かぎりなく無名に近いのだから。しかし、一瞬、私はドキッとした。え、どうして彼女が?
私が見かけた相手はハリウッドの女優さん。ただし、二流どころのスターである。
美人ではない。ハテ、このおばさん、誰だっけ? ちょっと思い出せない。そのうちに、私は彼女に接近して話をしている。

「あなたが初めて出た映画を見ています」と私がいう。
相手はぼんやりした顔になる。そんな映画を見ているはずがないと思って。
「『市民ケーン』でしたね」
かすかな驚きが彼女の顔をかすめる。
「あなた、いくつだったの?」
「あの映画を見たの戦後ですが」

私は相手の顔をよく見る。どこかで見た顔なのだが、別に美人ではない。だが、このおばさん、誰だろう? どうしても思い出せない。そのうちに、私は彼女と別れて歩いている。

昨夜、こんな夢を見た。どうしてこんな夢を見たのか。どうもへんな夢だなあ。
そこで夢に出てきた場所を考えているうちに、40年も昔、ジュネーヴの駅で、現実にこの女優さんを見かけたことを思い出した。
ジュネーヴの駅は閑散としていた。たまたま通りかかった乗客も誰ひとり彼女に気がついた様子はない。おそらく、この程度の女優では、ヨーロッパでは知られていなかったに違いない。

私が、はじめてこの女優さんを見たのは、クローデット・コルベール主演の「君去りし後」(ジョン・クロムウェル監督)がはじめてだった。
当時、「風と共に去りぬ」が公開されたばかりで、この映画のクローデット・コルベールも、いっしょに出たシャーリー・テンプルも、ジョゼフ・コットンもまったく評判にならなかった。
やっと、思い出した。
アグニス・ムアヘッド!

アグニスが「市民ケーン」に出たのは、オーソン・ウェルズのやっていた「マーキュリー劇団」の女優だったから。つづいて「偉大なるアンバーソン一家」にも出ていた。
眼がさめてから――夢の中の女優さんがアグニスと思い当たったときのうれしさを思い出して私は笑った。幸福な気分だった。どうして、こんな夢を見たのか。
後年、日本のテレビで「奥様は魔女」のシリーズが放送されたし、私はアグニス・ムアヘッドの出た映画をかなり見ていた。

なぁんだ、きみはアグニス・ムアヘッドだったのか!

私は、現実にアグニス・ムアヘッドと話をしたわけではない。だから、夢のなかの会話はまったくの虚構にすぎない。

その後、私はパリに飛んだ。そして、パリを歩きまわっているあいだに、ダニエル・ダリューを見かけた。すごくりっぱな車に乗っていたから、誰だろう? そんな眼でみたとたん、ダニエル・ダリューと眼があった。
このときこそ、一瞬ドキッとした。いや、そんなものではなかった。不意に時間がとまって、私のまわりに何が異様なものが雪崩れ落ちてきたような気がした。信じられないものを見たと思った。

ダニエル・ダリューは私を見た。車はたちまち坂の上に走り去った。

私の夢に、ダニエル・ダリューが出てきたことはない。
アグニスではなく、ダニエル・ダリューが夢に出てくれればいいのに!(笑)

 

 

1468

中村 俊輔の「真説 真杉静枝」は、真杉 静枝という、昭和期の女流作家の生涯を「その書かれた作品によって評価」しようとした一種の研究といってよい。

真杉静枝は、1905~1955年。福井県生まれ。大阪で新聞記者をしていたが、当時の大作家、武者小路 実篤と知りあい、その推輓によって作家になった。(推輓というべきかどうか私は知らない。)
当時の女流作家のなかでも奔放な生活を送ったひとりで、有名な作家、詩人たちを相手にさまざまな恋愛遍歴をつづけた。戦後は、林 芙美子、平林 たい子、円地 文子などとともに、流行作家になった。
私は真杉 静枝に関心がないので、ほとんど読んだことがない。
しかし、中村 俊輔の「真説 真杉静枝」を読んで、はじめてこの女流作家の「あはれ」が理解できるような気がした。

それは、さておき。

庄司 肇は、中村 俊輔にむかって、「評価するに値しない作品しか残さなかった真杉 静枝を取り上げるのは無駄である」と諭した、という。
私なら余計なお世話だと反発するだろう。
低い評価しか与えられない作品しか残さなかった作家を取り上げるのは無駄であるというなら、まだしも話はわかる。だが、評価するに値しない作品しか残さなかった作家などといういいかたに批評家として傲慢が感じられないか。
中村 俊輔はおだやかに、庄司 肇は「調べるに相応しい作家の名を数人告げた」という。ここでも、私はため息が出た。調べるに相応しい作家の名をあげたら、とても数人ではすまない。

庄司 肇は、いつも狭い文壇のことばかり考えていたから、「調べるに相応しい作家の名を数人」しかあげなかったのかも知れない。
たとえば――

葉鶏頭の 十四五本も ありぬべし

この俳句が、ただの身辺諷詠と見えながら絶唱と思えるのは、不治の病床にあった子規の末期の眼にうつった一句と、私たちが知っていればこそではないか。この一句、ただに自然を詠んだものとして理解してもいっこうにかまわないが、子規の闘病という「個人的な動向を」理解することも必要だろう。

ふと、思い出した。
石川 淳は、天明狂歌がそれまでのいかなる狂歌とも性質を異にしているとして、その理由を――かつて狂歌師の狂名は、一般文人の雅号、俳諧師の俳名とおなじく、その名のなかに作者がいた。つまり、その名をもつ存在だった。しかるに、天明の狂歌師は、その名のなかに作者がいない。つまり、無名の人ということになる。
石川 淳は、そのことにふれて、

狂名がふざけていると、ひっぱたいてみても、作者はそこにいない。この簡単な
事実を説明するためには、複雑きわまる天明狂歌師の列伝を本に書かなくてはな
らないだろう。

という。さすがは、石川 淳であった。
この作家が、庄司 肇のいう「作家はその書かれた作品によって評価される」こと、ゆえに「作品以外の個人的な動向など調べるに値しない」という言葉を聞いたら、どんな顔をしてみせるか。 (笑)
おそらく、ちいさな人間と仕事しか見ようとしない同人雑誌作家の低い了見として、あざ笑うだろう。

さて、中村 俊輔はつづけて「しかし文学史上に残る作品を書いた作家でなければ、取り上げるに値しないということはないはずと考えている。」
どんな文学史を見ても、その時代に「評価するに値しない作品しか残さなかった」作家は掃いて捨てるくらいいる。しかし、そうした作家のなかに、自分の心に響く作家がいないともかぎらない。まして、「しかし文学史上に残る作品を書いた作家でなければ、取り上げるに値しないということはない」。
私の想像では――こんな簡単な事実を説明するために、中村 俊輔は、「真杉静枝」という、けっこう複雑な作家の足どりをここまで克明に書かなければならなかったのだろう。
ちなみに――同人雑誌、「朝」は私の友人、竹内 紀吉、宇尾 房子たちがはじめた雑誌。竹内君が亡くなってすでに8年、宇尾さんは、昨年、白玉楼中の人となった。

私は中村 俊輔の「真説 真杉静枝」を、毎号、愛読している。

 

1467

地方の同人雑誌を主宰するもの書きによくあるタイプだが、残念ながら、庄司さんの文学観はきわめて狭いものだった。
庄司 肇は、坂口 安吾、向田 邦子、榛葉 英治などを対象にしてすぐれた作家論を残している。私は、この庄司 肇に敬意を払っているが、「評価するに値しない作品しか残さなかった真杉静枝を取り上げる」ことに反対する庄司 肇に反対する。
「作家はその書かれた作品によって評価されるものであり、作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」という考えかたは――じつは、庄司肇の文学的な出発(「文芸首都」で文学修行を始めたこと)と、その志向(いつも文壇小説しか視野になく、最終的には文壇作家として認められること)に深く根ざした考えと見ていいだろう。

庄司 肇は、そのときそのときの文壇の動向にしか関心がなく、「群像」、「文学界」といった文学雑誌をつよく意識し、しかも作家たらんとする確固たる信念さえあれば、いつの日にか文壇人として通用すると信じていた。
ただし、反面では――同人雑誌の主宰者は、けっして作家になれないという、これまた弱気なドグマを信じていた。自分の文学的な営為が、しょせんは「旦那芸」にすぎないと思っていたらしい。
同人雑誌の主宰者であろうとなかろうと、同人雑誌の書き手には、よくこうした人を見かける。文壇的な作家になるということが究極の目標で、そのときそのときの文壇の動向に敏感に反応する。
もう少しはっきりいえば、自分がそうなりたいと思うからには、すでにその資質が自分にそなわっているという考えかたである。

逆にいえば、庄司 肇という「作家はその書かれた作品によって評価される」ことを期待していたのだろう。そして、「作品以外の庄司 肇の個人的な動向は調べられるに値しない」と考えていたことになる。
これはつまらない考えだと思う。
(つづく)

1466

たとえば、こんな例をあげてみよう。

アントナン・アルトーは、まだ作家になる前のアナイス・ニンにむかって、
「世間ではぼくのことを気ちがいだと思っている。きみもぼくのことを気ちがいだと思っているのか。それで、こわいのか」
といったという。(アナイスの「日記」/1933年6月)
その瞬間、彼の眼によって、アナイスはアルトーの「狂気」を知って、それを愛した。
アナイスはアントナン・アルトーとキスをする。
「アルトーにキスされることは、死へ、狂気へ引き寄せられることだった、とアナイスはいう。
ふたりは、このとき狂おしいセックスに導かれたに違いない。(これは、私の想像だが。)
アルトーは、アナイスにいった。
「きみのなかにぼくの狂気を発見するとは思ってもみなかった」と。

アナイスは「書かれた作品によって評価されるものであり、作品以外のアントナン・アルトーとのプライヴェートな<動向>を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」といえるだろうか。
冗談ではない。

ところで、「作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」のか。そんなことは誰にも断定できないだろう。
私は庄司 肇ふうには考えない。

レイモンド・チャンドラーの小説を読む楽しみのひとつは「フィリップ・マーロー」という探偵の性格的な魅力を知るところにある。30年代のロサンジェルスを知らなくても、チャンドラーの小説に描かれている、けばけばしいハリウッディなstreet sceneの背後に、なぜかもの哀しい、いたましさがひそんでいることに気がつく。そのとき、「フィリップ・マーロー」というキャラクターは、ほんとうのタフネスがどういうものかを教えてくれる。
では、その「フィリップ・マーロー」をアイコンとして、人生の重みやキャラクターの魅力を吹き込み、ほとんど「伝説」に仕立てたレイモンド・チャンドラーとは、いったい何者だったのか。そう思ったとき、「作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」などとはいえないだろう。
(つづく)