「武玉川」を読んでいて、60代、70代はほとんど言及がない理由を考えてみたが、どうもよくわからない。死亡率に関係があることは間違いないけれど。
そんなことを考えていて――70代という連想から、司馬 江漢(1738-1818年)のことを思い出した。
鎖国時代の洋画家。銅版画で地球全図を作ったり、寛政から文化にかけて、洋学者として「天球図」、「和蘭通舶」、「刻白爾天文図」(コペルニクス天動説)、「天地理譚」などの著作で知られている。
その司馬 江漢は、74歳、「春波楼筆記」という自伝で、それまでの開明的な立場から、なぜか懐疑的な思想を展開するようになった。
「われ七十有余にして始めて壮年よりの誤りを知れり」という自己否定が、彼の内面にひろがってくる。
文化10年には、「江漢辞世の語」という通知を知友に送った。
その内容は――「江漢先生は老衰して絵の求めに応じられなくなって、蘭学の勉強にもあきました。さきほど上方に出立しましたが、鎌倉の円覚寺の誠拙禅師の教えをうけて、ついに大悟して亡くなりました」というものだった。
知人たちは驚いて、芝/宇田川の江漢先生宅に急行したが、もぬけのから。このとき、江漢先生は麻布に引っ越していた。しばらくして、知人に見つけられると、「死人が口をきくものか」とどなって逃げたという。
江漢先生のおふざけは――おなじように自分の死亡通知を配った山崎 北華に似ている。北華は、葬式の途中で棺桶から出てきて、みんなを唖然とさせ、かねて呼んでおいた芸者たちと飲めや歌えの大騒ぎのあと、所在をくらました文人。江漢先生の行動には、北華よりももう少し暗い、nihilisticな鬱に近いものが感じられる。
ただし、江漢先生はその後4年も生きて、文政元年(1818年)に、81歳で亡くなっている。
私のブログも、江漢先生のひそみにならって「香チ庵辞世の語」としたいところだが。