1525

私のブログ、わずかな期間、インターミッションがあった。

ある日、「コージートーク」を書こうとして、マシンを起動させようとした。いつもは素直に応じてくれるのに動かない。フリーズしている。
おやおや、きみは、すこしご機嫌がよくないらしいね。

動かない。

おい、どうしたんだい? 不安になった。どうしても動かない。

ヘッ、てめえも、とうとうヘバっちまったか。

しばらく、ガタガタやっているうちに、ワォ、やっこさん、息を吹き返した。やれ、うれしや。

ついさっきまで書いていた文章のつづきを出した。と、私は驚愕した。
何もない!
私は、太陽系から離れて、ただ暗くひろがる無限の空間のなかに放り出された「ボイジャー」のように、立ちつくしていた。

この二日、ぶっつづけに書いていた文章が、全部、消えていた!

ウソだろ? こんなことがあっていいのか! ショックだなあ!

もともと機械オンチである。アナログ人間。いや、それどころか、江戸でいえば、鈴木 春信から英泉あたりに生きているアナクロ人間といっていい。
<iPhone>の新型機種の発売に、三日前から並んで、一刻も早く手に入れようとするような情熱が皆無。だが、アナクロ人間に特徴的なショック反応と見るのは、正確ではない。
私のショックは、ノン・デジタル人間の、本能的、かつ、伝統的な状況がつくり出す感情的な距離なのだ。
逆にいえば――デジタル人間のみなさんは、私の立場に身を置くことはもとより、私の身に起きていることを想像することさえできない。

消えたのは、原稿用紙で、40枚程度。ま、この程度で済んだのは、不幸中の幸いというべきだろう。ずっと昔、まだワープロなるマシンが世の中に存在していた頃、私は、あるテーマで、長い原稿をワープロで書きはじめた。十二章ぐらいまで書き進めていたとき、誤操作で、7章を消してしまったことがある。
このときほど、おのれの愚かさを呪い、おのれの運命のつたなさを嘆いたことはない。
私はこの打撃から回復できず、その本を書くのをあきらめた。

今回、消えたのは、原稿用紙で40枚程度だったから、書いた内容は大まかに頭に残っている。すぐに書き直そうと思ったが――やーめた。(笑)

 

そりゃまたなぜに。
たとえ、ブログが止んだとて、
堪忍、信濃の善光寺。
牛のよだれの山門に
ウソを築地のご門跡(もんぜき)。
なんと、このシャレ、古いこと。
その上、wit もないとあれば、こりゃどうしたらよかろうぞいな。
聞けば聞くほど、みっともねえ。ブログを書いては、後日の難儀。
はてさて、何も気づかいなこたあねえ。
ト、思い入れ、
まず今日(こんにち)はこれぎり。(笑)

 

 

1524

青山 孝志は、1968年(昭和43年)に亡くなっている。享年、42歳。
その年の9月、詩人、諏訪 優編、「青山孝志詩集」(思潮社)が出た。その付録に、私は追悼を書いている。

 

青山孝志が亡くなったと聞いて、暗然たる思いと哀惜の念にとらえられた。
死がわれらを隔てるより前に、青山と私はおたがいに、あまりにも遠く離れてしまったが、かつて青山を知り、彼と文学上の同志だったことを、私は終生忘れないだろう。
戦時中に青山と相知ったが、当時の彼は堀 辰雄に私淑し、プルウスト、コクトオの世界を憧憬していた。あの苛烈な日々、彼があれほど繊細な作品を書きつづけていたことが、現在の私に深い感慨を強いる。
当時、私たちは、彼こそやがて詩人として名をなすであろうことを疑わなかった。
だが、おそらく彼は不遇であった。それにしても詩人における不遇とは何か。もはや蕪雑な措辞しか用いられぬ時代に、なお詩人たる者は、わるびれもせず、傷つきもせず、恐れも抱かぬ人間として生きるだろう。すなわち、不遇とは、詩人にとって意味をなさない。
彼の遺作集は、まぎれもなく詩に生きた青山孝志の魂の美しさをあますことなく物語っている。

 

友人の死を悲しむ思いはわかるが、何ほどのことも語っていない拙劣な文章だった。

つい最近、書斎を整理していて、戦後すぐに、青山 孝志にあてた手紙を見つけた。

自分のハガキを公開するのはおこがましいが、青山は、戦後すぐに、私に映画論めいたエッセイを書かせようとしていたらしい。その思い出が、胸にふきあがってきたので、恥をかえりみず、ここに引用しておく。

 

JULIEN DUVIVIER論は、”La Fin du Jour”を見なければ書けません。坂田(多岐 淳)が編集で、演劇・映画特集だそうですから、それに書きたいと思います。
LOUIS JOUVET論は、書くところが別にありますから。「駿台論叢」のために、「映画俳優としてのLOUIS JOUVET」といふのを書いてもよいのですが。
親愛なる友よ、君の返事をまっております。

 

ひどく粗末な紙質のハガキで、切手がはがれているので日付はわからない。おそらく、1946年1月か、2月と思われる。

当時の私は、大宮市大成に住んでいた。

戦後すぐの私はてあたり次第に映画を見ていた。「旅路の果て」 ”La Fin du Jour”は、戦前(1938年)の作品だが、戦前の日本では公開されず、戦後になって公開されている。むろん、敗戦直後の日本では公開されなかった。
ただ、戦前の日本に輸入されていたことを知っていた私は、ただ、ひたすらこの映画の公開を待っていたのだろう。
ルイ・ジュヴェについて、「書くところが別にある」と書いているのは――戦後すぐに親しくなった野間 宏の紹介で、「大学」という雑誌に発表した「ルイ・ジュヴェに関するノート」という短いエッセイをさす。
このエッセイが――半世紀の後に、私が書いた評伝「ルイ・ジュヴェ」の最初の試みになる。

青山の生涯とおなじだけの42年の歳月をへて、彼のことを思いうかべる。私たちがはじめて文学にめざめた戦時中、そして敗戦直後の日々が、まるで昨日のことのようにあざやかによみがえってくる。

こんなハガキから、私が青山 孝志に、ルイ・ジュヴェのことを語っていたことが想像できる。未決定の将来に向かって歩みはじめようとしている若者の希望と、はるか後年のその実現がどんなにささやかなものだったか。
感慨なきを得ない。

1523

 

 

もう1編、「青山孝志詩集」の最後の詩を引用しておきたい。

 

羊飼いの娘

……雨に洗われて、牧場のみど
りは生き返ったが、そのかはり、
一匹の羊が、天使の掌に盗まれて
いった、それを弔うように、牧草
は、真白な花を咲かしつづけ……
そうして、その日から……

優しい羊飼いの娘は、重たい布団
のなかで病んでいた。
<あのね、肩をおさえて! 肩が飛んでゆきそうなの>
と、何度もうわ言を繰返しながら。……
そういう少女を、折からの高熱が、するすると、日
だまりの夢想の国へ運んでいった……。

そこは、ひろびろとした谷間で
あり、風に騒ぐ樹々の葉ずれが、
笑い声のように奇矯に聞こえるほか
一日は何事もなく一日につづき。
…………

遠くには、湖が光り、十字架が
見え、何やら白いものが、少女を
差招いていた。あたかも羊の霊魂
のように。

そのとき、突然、湖畔の教会か
ら御告げ(アンジェラス)の鐘が鳴りわたり、少女
の歩みを止めさせた。水晶のよう
に澄んだ空間をよぎりながら、鐘
の音は、不思議な一つの言葉を、
少女の耳に伝えたから。
…………この夕べ、お前は、胸に白
鳥(スワン)を抱け! と…………

気がつくと、少女の枕もとには、
アンデルの本が置かれ、美しい白
鳥の挿絵が、風にめくられていた。
そうして、その絵のなかの、快い
白鳥の遊泳のように、少女は、病
んだまま、自らの成長の道を辿っ
ていた。…………

 

1963年(昭和59年)の作品という。

私は、青山 孝志と親しい時期があったが、こういう詩を好まなかった。どうして、こういう詩を書くのか、わからなかった。私は、青山 孝志のセンチメンタルな少女趣味として、こういう詩を認めなかった。

私の好きな女たちは、たとえば、「マルタの鷹」の「フリジット」のように、優雅で、自尊心をむきだしにする高貴で邪悪な女。あるいは、優雅で、洗練された人生とペルソナで、「フィリップ・マーロー」に劣らない勇気をみせる「アン・ライアーダン」。

だから、堀 辰雄に私淑し、立原 道造、津村 信夫に親しんでいた少年らしい、繊細な詩に心をひかれることはなかった。

青山自身、病んだまま、自らの成長の道をたどっていた若者だったから、いつもプシケーのような「少女」を夢みたのだろうが、しかし、いまや、老残の身となり果てた私は、青山 孝志の繊細な詩、そこにあらわれる少女になぜか慰められるようだった。
(つづく)

 

 

 

1522

 青山 孝志は、明治の同級で、私の親友だった。

1945年5月の大空襲で本郷・曙町の邸宅が消失、四国、愛媛県越智郡弓削村に疎開していた。私は知らないのだが、弓削島という島だつたのではないか。
そして、敗戦を迎えた。その10月には家族とともに、北多摩の小平町野中新田に戻っていた。私は、その青山あてに、ハガキを出したのだった。

私の一家は、本所で戦災を受けたあと、渋谷で焼け出されたため、大森・山王の叔父の家にころがり込んでいた。

青山の遺著となった、「青山孝志詩集」の年譜によれば――

昭和一九年(1944年)四月、明治大学文科文芸科、入学。
中田 耕治、久米 亮、小川 茂久、関口 功、能勢山 誠一(梶哲也)、仁科周芳(岩井半四郎)、進 一男氏らと同人誌「試作時代」を、覚正 定夫(柾木恭介)、木村 利治、中田 耕治、小川 茂久、坂田 保夫、関口 功氏らと同人誌「純粋」をはじめた。
つづいて中田氏(前出)と「黒猫」、小川氏(前出)と「陰翳風景」などの同人誌をそれぞれ出す。最初の小説らしい作品として「雪の映る花の如く」を、この「陰翳風景」に発表した。
この頃は、主として堀辰雄に私淑。ジャン・コクトオ、レイモン・ラディゲなどの影響もうけた。
同年11月、戦時学徒動員令により、三菱石油川崎製鉄所に勤労動員されるも、
翌年に入るや健康を害し、徴用を免除さる。

ここにあげられている同人誌「試作時代」、「純粋」、「黒猫」、「陰翳風景」は、じつは印刷物ではない。なにしろ、戦時中は、紙の統制がきびしく、雑誌など出せる状況ではなかった。
だから、れいれいしく同人誌などといえるものではなく――仲間の原稿を集めて、麻ヒモで綴じたものを、回覧しただけだった。
「純粋」は、数人の原稿が集まった日に空襲で焼失した。それでも「黒猫」は、私が2ページ、青山が10ページ、自分でガリ版をきって綴じた小冊子。むろん同人誌の体裁をなしてはいなかった。これに青山 孝志が書いた作品、「少年の手帖」を引用しておく。

くらひ手帖をもう焼いておしまひ
(あろうことか君はそれに詩を書こうとした……)
待ちぼうけを喰わせた友達の、逢ふ時刻を書いた手帖を。
枯草の匂いがするたらう
かば色の、しめった皮のその手帖は。……
他に書いてあるものといへば試験の日課だ。
住所録には男の名が多い、……男の名ばかりじゃないか!
君は若い。
君は美しいとさへ言へる少年だ。
君は驟雨の山麓に望遠鏡なんかを持つのが応はしい
さあ、くらひ手帖を焼いておしまひ、破っておしまひ。
思ひ切り、笑って、
ほら、駄目だな、……笑ってだったら!

1943年(昭和18年)の作品。

堀 辰雄に私淑し、立原 道造、津村 信夫に親しんでいた少年らしい、繊細な詩といえるだろう。
この詩には、少年期のイノセンス、純真さが、ほのかに同性愛を感じさせる。それもユーモラスな感じではなく、もう少し、切迫した、息づかいが感じられる。
(つづく)

1521

ところで――
「有名な作家ならいざ知らず、私のように無名のもの書きが、れいれいしく自分の日記を披露するなど、烏滸の沙汰」と書きながら、1977年の「メモ」をご披露しているのだから、ざまァねえが――35年前のおのれのぶざまな姿をさらけ出して、現在の老残のあわれと比較するのもおもしろいだろう。

いまさら、過去をふり返ってみたところで何も出てこないと承知のうえの所業である。
そこで、5月5日のメモ。

朝、テレビで、ミセス日本・美人コンテストを見た。
審査員は――高峰三枝子、和田静郎、神和住純、沖雅也など。最終審査に7人の美女が残ったが、最後に優勝したミセスは感激のあまり嗚咽した。外国の美人
コンテストなら、満面に笑みをうかべて投げキッスでもするところだが。
司会の高田敏江の要領のわるさに驚いた。ああいう女性は、いつもきめられたセリフをしゃべるしか能がないのか。

翌日、5月6日のメモ。

今月から地下鉄、タクシーなどが値上げになる。かなり影響があるだろう。
景気回復の兆候はまだあらわれない。というより、現状では、たえず不況の影におびえながら暮らしてゆくしかないだろう。
成田空港の反対同盟の鉄塔が倒された。夜、ルネ・クレマンの「危険がいっぱい」THE Love Cage を見た。アラン・ドロン、29歳の映画で、ジェーン・フォンダが美しい。64年度の作品。

そして、5月7日のメモ。

「ユリイカ」特集、「ジュール・ヴェルヌ」を読む。少年時代にヴェルヌを耽読したので、あらためてジュール・ヴェルヌを知ることに興味があった。論文とし
ては、和市保彦の「夢想家ヴェルヌ」にいちばん啓発された。
従妹のカロリーヌを愛した少年は、珊瑚の頸飾りを手に入れて贈ろうと考える。こっそり家をぬけ出したが、そのまま「コラリー号」に乗り込んでしまったとい
うエピソード。家に連れ戻されてから、母に「ぼくはもう空想のなかでしか旅をしないんだ」といったとか。
和市保彦は、この事件のなかに、後年のヴェルヌの作品の構造をとく鍵があると見る。マルセル・モレは、Coralie が Caroline の、そしてCorail と Collier のアナグラムと見ている。こういう暗合から、和市保彦は、現実の船旅への憧憬があったというより、言葉の暗示への執着、それがもつ謎への挑戦という、より強い感情につき動かされたのではないか、
という。
私が少年時代にヴェルヌに熱中したのは、やはり似たような傾向があったためか、という気がする。私もアナグラムが好きなのだ。千葉に移った当座、新検見川と Hemingway、稲毛と Inge といったアナグラムめいたいたずらを小説に書いたことを思い出す。アナグラムに特殊な関心があって、カザノヴァのアナグラムなどを見ると、どうにかして解いてみようという気になる。

「映画ファン」の萩谷さんに原稿、書評2本をわたす。彼女は大学に在学中、近代映画社のアルバイトをしていて、卒業後もそのまま編集者になった。おとなしいタイプ。映画ジャーナリストになったが、映画をあまり見る暇がないという。夜、板東妻三郎の「無法松の一生」(稲垣浩監督)を見た。戦時中に見たこともあって、この映画を見ているうちに、少年時代のこと、戦時中に見た映画、そして戦争のことを思い出した。

とにかく、映画ばかり見ている。そして、夜は、神保町界隈でアルコール、という生活だった。

その翌日(5月8日)の「メモ」。

めずらしい人から電話があった。西島 大が千葉にきているという。せっかくきたのだから、ぜひ立ち寄るようにすすめる。
西島は、「M」といっしょだった。「M」は、「芸術協会」にいた女優のタマゴで、一時、TBSに出ていたが、女優としては成功しなかった。昨年から銀座の高級バーのママになっている。西島 大はずいぶん痩せて、あごひげをたくわえている。いまは、TBSのドラマを書いている。いろいろ話をしたが、矢代静一、山川方夫の話になったとき、西島は、「われわれはえらくなれなかったな、けっきょく」といった。
つまり、お互いに、という意味だろう。私は、「そうだね」といっただけだった。

西島 大は、昨年(2012年)に亡くなった。若き日の西島は演劇関係の同人誌、「フィガロ」の鈴木 八郎、若城 紀伊子たちの仲間だった。私は「フィガロ」には参加しなかったが、イラストを描いた。「青年座」で彼の芝居を2本演出したのも私だった。

おのがじし生きる人生航路の船のブリッジから、つぎつぎに降りて行った仲間たち。そして、もう誰も残っていない。

私の「日記」はまだ続いているが、ブログに引用するのは、ここまでにしておこう。
そもそも、私ごときが日記を披露するなど、まさしく烏滸の沙汰。西島 大のいうように、「えらくなれなかった」作家の日記など、誰の興味も惹かない。

さて、残りはすぐに焼き捨てよう。

 

 

1520

 

(5月4日)の「メモ」――ジョルジュ・シムノンが13歳のときから、じつに1万人の女性と関係したと語ったことに関して。私はただのゴシップではなく、作家とエロスの問題という方向で考えたらしい。当時の私が何を考えたのか、これももうわからない。それでも、エロスを形而上学的にとらえるのではなく、現実の作家の内面的な輪郭に沿って考えようとしたはずである。私は、いつもそういう批評家なのである。

私はシムノンが「1万人の女性と関係した」ことを不道徳と考えない。むしろ、「1万人の(顔のない)女性」のことを考える。

作家が「1万人の女性と関係した」ことを不道徳と考えるならば、その「1万人の女性」もまた不道徳ということになる。世界的に有名な作家を崇拝し、尊敬している女たちが、シムノンと「関係する」ことで、彼の作品に投影することを願ったとしても、それは、不当なことではない。ひょっとすると、それは虚栄心、性的なモラルへの背信ではなく、女のヒロイズムからくる行動だったかも知れない。

かりに、これが老齢の女性作家が、13歳のときから、じつに1万人の男性と関係したと語ったとしたら、私たちは何を考えるか。

私は、女性のファッションが好きだ。だが、彼女たちが、いつもおなじ型にはまろうとすることに――ヘア・スタイル、服装、はてはキャラクターまで、それぞれの時代の流行や、セクシネスのモデルにしたがおうとする傾向に疑問をもっている。

テレビで見たのだが――「ぱみゅぱみゅ」のアメリカ公演に、完全に「ぱみゅぱみゅ」スタイルのアメリカの女の子たちが、(むろん、まだ少数だが)ブロードウェイの路上でダンスを踊っていた。私は、いまや日本の少女アーティストが、ブロードウェイで通用するほどの存在感を見せていることがうれしかったが、同時に、こうした少女のパッケージ化は、あくまでファラシーに過ぎないと考えた。

これは、また、後で考えてみよう。
(つづく)

 

 

1519

5月3日の「メモ」に――「人間が人間のぎりぎりの底に達することはついにあり得ないだろう。そして、人間は、自分自身の姿を、おのれの獲得する認識のひろがりのうちに見出すのではない」と書いている。すっきりしない内容(ようするに、頭がわるい証拠)だが、当時の私はこんなことばかり考えていたのかも知れない。
さて、翌日(5月4日)の「メモ」。

朝、「サンケイ」の原稿を書く。ジョルジュ・シムノンが13歳のときから、じつに1万人の女性と関係したと語ったことに関して、作家とエロスの問題を考える。
12時少し前、「サンケイ」佐藤氏に原稿をわたす。文化部は3階に移った。
12時15分、「日経」吉沢(正英)君のところで、映画評――「華麗な関係」(ナタリー・ドロン、シルヴィア・クリステル)「ビリー・ジョー 夢のかけ橋」、「合衆国最後の日」(バート・ランカスター、リチャード・ウィドマーク)について。「日経」のレストランで。「週刊小説」の原稿、アナイス・ニンの「デルタ・オヴ・ヴイーナス」の紹介と書評を書く。
3時半、「南窓社」岸村氏と会い、「アメリカ作家論」(仮題)の出版をきめる。出版は10月1日の予定。ゼロックスのコピーをわたす。少し時間の余裕があるので、神保町に。「北沢」で本をあさっているうちに、思いがけない掘り出しもの。長いあいだ考えてきた評伝の資料。読んでみなければわからないが、本を見た瞬間、何かゾクッとするような感覚が背すじを走った。
また、銀座に戻った。「資生堂」で吉沢君と会う。買い込んできた本の話をしているところに、「二見」の長谷川君、「映画ファン」の萩谷君がくる。長谷川君には申しわけないが、原稿ができていない。萩谷君の原稿は、「日経」のレストランで書いた。しかし、書評の原稿を書くのを忘れた。神保町に行かなければ書けたはずだが。
そのあと、「富士映画」の下川君がきた。7月封切りの「遠すぎた橋」の宣伝の件。吉沢君に依頼する。各国のスターが十数人も出演する大作で、製作費が90億ドル。6月7日にジャーナリスト試写の予定。
その後、吉沢君とガスホールに行き、「ザ・チャイルド」を見た。スペインの映画。冒頭、第二次大戦中のユダヤ虐殺、ビアフラ内戦、ヴェトナム戦争、バングラデシュで飢えや病気、瀕死の状態の子どもたちの映像がつづく。戦争、破壊、飢餓で犠牲になるのはいつも子どもたちという主題で、この映画もそういうテーマの映画なのかと思ったが、まるで違っていた。若いイギリス人夫妻(妻は妊娠している)がスペインに観光旅行に行く。行き先はアルマンソーレ島。ところが、この島には大人がひとりもいない。子どもたちは、町の人びとを殺し、観光客を殺してしまった。若いカップルは、自分たちが子どもたちに狙われていることに気づく。
原題は Who Can Kill A Child で、これは逆説。この映画が何を寓意しているか、わかりにくい。しかし、よく見ると、フランコ体制のジャスティフィケーションとして見ることもできるだろう。スペイン映画の大きな変化が感じられて興味深い映画。「熱愛」につづくスペイン映画として記憶しておこう。

フランコ独裁以後のスペイン映画には、アルモドバルや、アントーニオ・セラーノなど、すぐれた映画監督がぞくぞく登場する。今にして思えば、「ザ・チャイルド」もそうした流れのなかで評価できたはずだが、当時の私はそこまで思い及ばなかった。
当時、私の見たスペイン映画は「汚れなき悪戯」だけ。どこの国の映画でも、輸入されなければ何もわからないのだから、仕方がないけれど。
(つづく)

 

1518

この日の午後、テレビで私は、フランス映画、「舞踏会の手帳」を見たらしい。これで十数回見たと書いているが、20年後に「ルイ・ジュヴェ」を書いていた時期に、何度も見直している。
私は、この5月の「メモ」で、「舞踏会の手帳」について書いている。

 

シナリオによると、「クリスティーヌ」がイタリアの古城のような邸にもどってくるところから話がはじまっていて、彼女が舞踏会にはじめて出たのが16歳。
1919年6月18日。第一のエピソード(フランソワーズ・ロゼー)の「ジョルジュ」は、「クリスティーヌ」の婚約を知って自殺するが、それが1919年12月14日。室内のカレンダーの日付は、なぜか12月19日になっている。はじめてこの映画を見たときは、ロゼーの演技を鬼気せまるものに思ったが、この前見たときはさして感心しなかった。今回は、まあ、ロゼーらしいブールヴァルディエな演技だと思った。

つぎに、ルイ・ジュヴェのエピソードがつづく。オープニングがジャズ。3人の悪党がナイトクラブの支配人、「ジョー」(ルイ・ジュヴェ)の部屋に入ってくる。この頭株がアルフレ・アダム(戦時中に「シルヴイーと幽霊」という戯曲を書く)。この部屋で、ジュヴェは悪人たちに指示をあたえるのだが、背景にポスターやブロマイド写真が貼ってある。ジョゼフィン・ベーカーのポスター、ダニエル・ダリューのブロマイドがあった。驚いたのは、そのポスターの横に、ヴァランティーヌ・テシェの写真があったこと。机の中に、ヌード写真が入っていた。戦前の日本の検閲がよく通したと思う。

三つ目のエピソードは、音楽家だった「アラン」(アリ・ボール)が、「クリスティーヌ」に失恋し、息子を失ったあと、神に仕え、いまは「ドミニック神父」になっている。これは雨の日。

四つ目の「エリック」(ピエール・リシャール・ウィルム)のエピソードで気がついたのは、「エリック」が「クリスティーヌ」をつれて山小屋に向かおうとするとき、あれがモン・ペルデュだという。こんなところにも意味があったのかと驚いた。

五つ目の町長(レイミュ)の場面は、楽しい喜劇と見るだけでいいが、町の名前が出てくる。前のエピソードが冬山なので、コントラストとして夏の南フランスにしたものか。

六つ目「ティエリ」(ピエール・ブランシャール)のエピソードで、ほとんど全部のシーンを斜めにカメラで撮影しているようだが、じつはそうではなかった。

「サイゴンでおめにかかりましたね」というセリフと、女(シルヴィー)の「サイゴンでは別荘もありましたよ」というセリフがくり返されていること。最後に「ティエリ」が自殺すると思っていたら、女を殺すこと。(この演出は「望郷」の密告者殺しとおなじ構図だということがわかる。)

この映画は、1時間57分。当時は気がつかなかった。オープニングの話(友人にすすめられて舞踏会の手帳の人びとを再訪することを決心するまで)が15分。ジュヴェのエピソードは、8分程度。アリ・ボールのエピソードが10分。ピエール・リシャール・ウィルムのエピソードは7分。ピエール・ブランシャールのエピソードが10分。
「クリスティーヌ」は最後に古城に戻ってきて、「ジェラール」の遺児が湖の対岸に住んでいたことを知り、その遺児「ジャック」(ロベール・リナン)と会う。そして「ジャック」をはじめての舞踏会につれて行くエンディングが5分。

それにしても、この映画を見ていると、やはり私自身の青春と重なってくる。デュヴイヴィエの「望郷」とこの作品は、私の青春と切り離せない。いまから見れば、ずいぶん甘い感傷的な作品だが。

なつかしい名優たち。ロゼーも、ジュヴェも、ピエール・ブランシャールもみんな亡くなっている。アリ・ボールは、44年にナチの収容所で非業の死をとげたし、ロベール・リナンは対独抵抗派として銃殺された。マリー・ベルも死んだのか。

夜、原稿7枚書く。9時55分、微震。

 

「舞踏会の手帳」についてこんなに長い感想を書いていたとは。
この「メモ」から20年後、評伝「ルイ・ジュヴェ」を書くとは夢にも思っていなかった。まして35年後、このブログにこんなものを書くとは想像もしなかった。
(つづく)

1517

1977年のメモ。さっそく読んでみたが、今となっては、まるでおぼえていないことばかり。
それでも読んでいるうちに、なんとなく思い出したが、他人の書いたものを読んでいるような気がした。
1977年、私はけっこう多忙だったらしい。
5月2日の「メモ」によると、

とにかく電話が多く、「二見」の長谷川君、「牧神社」の萩原君、「映画ファン」など。「南窓社」の岸村氏に会う日時を変更してもらう。
植草甚一さんの「J・J氏の男子専科」を読む。虫明亜呂無の解説。
ほかに読んだもの。中村 光夫の「雲をたがやす男」。これはくだらない。「七七年推理小説代表作選集」。斉藤 栄「河童殺人事件」。
ヘラルド「テンタクルズ」の特別試写。
夜、チャプリンの「独裁者」を見る。これで三度目。ひそかに疑う。映画人としてのチャプリンは、この作品から衰退を見せているのではないか。

私はこの試写を見るために、「ヘラルド」に行ったはずだが、「テンタクルズ」の内容はおぼえていない。この映画は公開されたかどうか。

すぐに気がつくのは、私の「メモ」に映画についての記述が多いこと。私は「日経」の映画評を書いていた。だいたい週に2本、多いときは4本ぐらい書いていたと思う。私の担当だったのは吉沢 正英(日経・文化部)君だった。
1977年当時、たいした映画も公開されていない。「キャッシュ」、「キャリー」、「スター誕生」。 ポール・ニューマン、バート・ランカスターの「ビッグ・アメリカン」(ロバート・アルトマン監督)、ピーター・フォンダ、ユル・ブリンナーの「未来世界」、ジャクリーン・ビセットの「ザ・ディープ」、ライザ・ミネリの「ニューヨーク・ニューヨーク」ぐらいしか記憶にない。
あとは「ドッグ」や「スクワーム」、「スヌーピー」、「ベンジー」、そんな映画ばかり見せられていた。
(つづく)

 

 

1516

書庫にある本、雑誌などを整理している。知りあいの古本屋にきてもらって、引きとってもらうことにしている。私にとっては貴重な資料も多いのだが、外国語の本などは誰も読まないだろう。それでも、とにかく払い出すことにした。
片づけているうちに、昔、書きかけたまま途中で放棄した原稿、下手くそなデッサン、安もののカメラで撮ったスナップショット。自分で作った絵のプリント。そんなものが、ごっそり出てきたが、これまた、思いきって全部焼き捨てることにした。

書きかけたまま放棄した原稿の中に、日記が出てきた。日記というより、ノートに書きとめたメモのごときものである。

有名な作家ならいざ知らず、私のように無名のもの書きが、れいれいしく自分の日記を披露するなど、烏滸の沙汰。だが、35年前のおのれのぶざまな姿をさらけ出して、現在の老残のあわれと比較するのもおもしろい。

いまさら、過去をふり返ってみたところで何も出てこないと承知のうえの所業である。

この「日記」は、1977年5月1日から始まっている。

 1977年5月1日

久しぶりで登山をする。まだ完全に復調したわけではないので奥多摩の楽なハイキングコースを選んだ。午前8時、新宿駅で、吉沢君ほか。新顔として、桜木、飯田、坂牧、島崎、下沢(ネコ)たち。
コースは御嶽から怱岳、岩茸石、黒山、棒ノ嶺。名栗に下りた。帰京、午後8時半。半年ぶりなので疲労したが、精神的には快調。

 

「まだ完全に復調していない」理由は思い出せない。おそらく、3月から4月にかけて外国に旅行したので、帰国後すぐに原稿生活に戻ったり、大学の講義がはじまったせいだろうと思う。

吉沢 正英は、「日経」の映画評のコラムを担当してくれた「日経」の記者。私の数少ない親友だった。この頃の私は、これも親友の安東 つとむ、吉沢君、私の三人で、いつもいっしょに山に登っていた。
三人だけの登山では少しむずかしい山をめざしたが、このときは、私のクラス(大学)にきていた女の子たちといっしょで、初心者向けのハイキングコースを選んだらしい。棒ノ嶺(棒ノ折山)のコースにしたのは、女の子たちがバテた場合、岩茸石から高水に折れて、そのまま軍畑(いくさばた)に下山すればよい。たかだか3時間のコースだったからだろう。そんなことまで考えたはずである。
桜木 三郎は、当時、集英社の編集者。私のクラスにいたが、ずっと後年、「プレイボーイ」の編集を担当した。

下沢 宏美は、その後、吉沢 正英(日経・文化部)の夫人と親しくなった。さらに後年(つまり現在)彼女は書道家になっている。
この「メモ」の記述で、このハイキングがとても楽しかったことを思い出した。

翌日、5月3日の「メモ」――

人間が人間のぎりぎりの底に達することはついにあり得ないだろう。そして、人間は、自分自身の姿を、おのれの獲得する認識のひろがりのうちに見い出すのではない。
竹内(紀吉)君から電話。上野に出てこられないかという。急なことなので、断らざるを得ない。残念。午後、テレビで「舞踏会の手帳」を見る。これで十数回、見たことになる。しかし、またもや、いろいろな「発見」があった。今回は、わざと場面の細部にことさら注意を向けたからだろうか。

竹内 紀吉君も、私の親友だった。

 

1515

(14)
ミーガン・ヒルティは、1981年3月29日、ワシントン州ベルヴュー生まれ。キャサリンより、3歳上。

「SMASH」ではじめて見たはずだったが、どこかで見たおぼえがあった。どこで見たっけ。しばらくして、「デスパレートな妻たち」で見たことを思い出した。
ミーガンの芸歴は長い。ミュージカル、「ウィッキド」の「グリンダ」で認められた。「白雪姫」で歌っている。(ただし、声だけ)。
2012年、「紳士は金髪がお好き」(ニューヨーク・シテイ・センター)で、 「ローレライ・リー」を演じている。これが成功して、「SMASH」に出ることになったらしい。
「SMASH」に出て、最初のアルバム、「イット・ハプンズ・オール・ザ・タイム」を出した。私は、田栗 美奈子にこのCDを探してもらった。
曲もよかったが、ミーガンの「ノート」が気に入った。

ここ何年も、アルバムを出すことに抵抗があった。なぜなら、わたしに語るべき
ことがあるなどと思ってもみなかったから。自分が出た舞台の歌とか、単純に好
きだからレコーディングするというのは、どうも納得できない。でも、今年にな
って、少し違ってきた。歌手として挑戦してみたいというだけでなく、もっと深
いレベルで自分でも納得できるミュージックを見つけたい、創造したいと思う。
ここに入れた歌はどれもたいへん個人的なものばかり、苦しいと同時に刺激にみ
ちたわたしの人生のある部分を表現している。わたしをささえて下さったみなさ
んにどれほど感謝しても足りないし、わたしが楽しく作ったこのアルバムを、み
なさんにも楽しんでいただければと思っている!

これが新人シンガーの最初のアルバムの「あとがき」だろうか。
芸術家として、何をめざすのか、何ができるのか、そのあたりをしっかり考えて仕事に立ち向かおうとしている、あくまで真摯で謙虚な姿勢がすばらしい。

キャサリンの「ノート」、ミーガンの「ノート」、それぞれ短い文章ながら、それぞれのみごとな資質、個性の輝きが見える。

80年代に、フェイ・ウォン(王菲)を中心に、香港ポップスを聞いていた。
ソヴィエト崩壊の前後は、リューバ・カザルノフスカヤ。マリーア・グレギナ。
21世紀になって、あまり気に入ったアーティストが見つからなかった。
ところが、ここにきて、キャサリン・マクフィーと、ミーガン・ヒルティに出会った。このふたりは、これからどういうアーティストになって行くのか。私は、久しぶりに、音楽を聞く気になっている。

さしあたって、「SMASH」の感想はここまで。
いずれまた書く機会があればいいのだが。

 

 

1514

     (13)
キャサリンのデビュー・アルバム、「キャサリン・マクフィー」(2010年)に、長文の「謝辞」がある。
収録した全曲の関係者の名前を列挙しているのだが、その冒頭の一節。

ここまで私を支えて下さったすべての方々にどんなに感謝しているか、どこから
書いていいのか。まず最初にマクファビュラスなファンのみなさんに――ここま
でこられましたこと、夢が実現できたこと、みなさんすべてに感謝。アメリカン・
アイドル――私にいつも優しく、こんなにうれしいチャンスをあたえて下さ
ったケンとナイジェル、ほんとうにありがとう。

「マクファビュラスなフアン」というのは、マクフィーという名前に、Fabulousということばをつけたキャサリンの造語。
こうした謝辞がこの4、5倍もつづいて、最後に家族に感謝している。

私の家族、ママ、ダディ、姉さん、リリィに――みんなをすごーーーく愛し
てるわ。とくに、みんなの理解に感謝。うちの生活がてんやわんやになっちゃっ
たときも、みんなして支えてくれたわね。ニックに。ことばでいいあらわせない
くらい愛してる。サン・フラン(シスコ)に送ってくれたとき、オーディション
に落ちて舞い戻ったりしないように自信をもたせてくれた。本当はドキドキだっ
たのよ! 夢を現実のものにしてくれたみんなにあらためて感謝。私ってほんと
うに恵まれてるのよね。XXX

キャサリンのつぎのアルバム、「クリスマス・イズ・ザ・タイム」の「謝辞」も、さらに長文で、

メリー・クリスマス、エヴリワン! 一年でいちばんすてきな季節。このレコー
ドを作ったおかげでとてもしあわせ、みなさんのご家庭にも喜びを届けつづけた
いと願っています。ぜひ感謝したいのは――いちばんにファンのみなさん!

ここから、作詞、作曲、制作関係者の一人ひとりに感謝を捧げている。

あなたがいなかったらこのレコートはできなかったわ。あなたは私の人生に絶大
な音楽的影響をあたえてくれたの。自分の声を発見させてくれて、わるびれずに
自分自身であるように。とても貴重なことだったわ。私は自分たちの歌をあああ
あいしています! ほかの人たちにもあいしてほしい。まだあるわ。愛する夫、
親友、マネジャー。私にとってかけがえのない人たち。ことばにならない。ヴァ
ケーションに行きましょうね。ウワォ 永遠にキ・ス・を! 家族の一人ひとり
に。毎年クリスマスにみんながあたえてくれたインスピレーションの数々のすば
らしい思い出に。

「歌をああああいしています」は、I loooove our songsの訳。ま
るで、ティーネイジの女の子の手紙のようだが、これがキャサリンなのである。
「クリスマス・イズ・ザ・タイム」は、まさに「アイ・ラヴ・ユー」をいう季節。

このキャサリンの「謝辞」は、出発してすぐに自分が人生の頂点に立っているという自覚、あるいはせつないほどの充実感にあふれている。

 

 

1513

(12)
キャサリン・マクフィー、ミーガン・ヒルティー。

まだ、20代という人生のうちでいちばん輝かしい時期に、一流の芸術家であることについて。私のノート。

キャサリンの本名は、キャサリン・ホープ・マクフィー。1984年3月25日、ロサンゼルス生まれ。シンガー、女優、モデル。
2006年、「アメリカン・アイドル」のコンテストで準優勝。
2010年12月、デビュー・アルバム、「キャサリン・マクフィー」(RCA)は、全米アルバム・チャートで2位。38万1千枚。
2011年11月、セカンド・アルバム、「アンブロークン」(Verve Forcast Record)4万5千枚。

「カレン」と「アイヴィー」は、このドラマですべてコントラストを強調してえがかれる。ということは、キャサリン・マクフィーがどういう演技をしても、ミーガン・ヒルティーと比較される。
「アイヴィー」の孤独感、ドラマの進行につれて募ってゆくライバルリ、憎しみ、ミーガンの芝居がいいだけに、キャサリン・マクフィーの「芝居」が見劣りする。
視聴者の目がきびしく、キャサリンに「ダイコン」Bad actress という悪口を浴びせる連中も多い。

私は、こういう批評を読んであきれた。というより、キャサリンに同情した。
芝居、とくに「演技」について何も知らない意見が多すぎる。
キャサリンが「ダイコン」に見える――稽古場で、演出家にガミガミいわれつづける。たとえば、「アーサー・ミラー」とのやりとりで動きを間違える。(第11話)そんなシーンが、アタマのヨワい視聴者に、キャサリンが「ダイコン」に見えたのだろう。
ドラマ構成で、「カレン」と「アイヴィー」はコントラストの例。
映画スター、「レベッカ・デュヴァル」(ユマ・サーマン」が稽古場に到着して、はじめて歌うシーン。その前に、キャサリンが歌っているので「レベッカ」の歌がなおさらヘタに聞こえる。これも、コントラスト。(第11話)

第9話、「堕天使たちの街「Hell on Earth では――「カレン」が、別のオーディションに合格して、ジュースのCMに起用される。一方、ワークショップで「マリリン・モンロー」を演じた「アイヴィー」は、別の劇場のコーラスに舞い戻って、舞台で大きなドジを踏む。このふたりの境遇が逆転した。その夜、酒に酔った「アイヴィー」は、彼女の身を案じた「カレン」といっしょに、ブロードウェイの通りで、歌い、踊る。(このシーンは、キャサリン・マクフィー、メーガン・ヒルティのデュエットで、全編のハイライトの一つ。)

 

1512

(11)
「SMASH」には、インド映画のダンス・シーンまで登場する。キャサリン・マクフィーがもっとも美しいシーンで、真紅のインド衣裳をまとって、へそを出して歌い、踊る。
相手は、それまで「カレン」の「恋人」で、ニューヨーク市の報道担当官だった「デーヴ」(ラザ・ジャフリー)。ドラマでは、オクスフォードを首席で出てNYの報道官になっているエリート。その「デイヴ」が、(「カレン」の空想で)インド映画のダンス・シーンをリードする。驚いた。
ドラマの展開としては、インド料理の高級レストランに、「レベッカ・デュヴァル」と「カレン」、「デーヴ」が会食するのだから、別に不都合はないのだが、インド映画の定番の群舞シーンでときた。
おそらく、終盤に近くドラマの展開がいくぶんダレてきている部分を、キャサリン・マクフィーに挽回させようとした苦肉の策と見える。と同時に、あきらかに、このドラマの「戦略的なリーニュ」(表に出さないテーマ)として、インド市場を視野に入れたドラマ作りと見てもいい。

なぜ、インド音楽なのか。
このドラマには、さして必要なシーンとも思えないのだが、にもかかわらず、このドラマが、強烈に中国やインドなどを意識していることに気がつく。
中国やインドの存在が、グローバルな影響を及ぼしている時代には、こんなささやかなミュージカルにも、いわば国境をこえた社会的デザインの構想も必要があると(プロデューサーは)判断したとみていい。
スティーヴン・スピルバーグの指示だったのかも知れない。プロデューサーとしては、おそらくそのあたりまで計算しているだろう。
(すでに述べたように、スピルバーグの会社がインドの巨大な映画資本に買収された影響もおおいに考えられる。)

まるでインド映画のスターといっても通用するキャサリンの美貌と、歌唱力。音楽的には、「キャサリン・マクフィー」の中の「デンジャラス」Dangerousの発展と見ていい。逆にいえば「デンジャラス」Dangerousを歌っているからこそ、インド映画をパロデイできたと見ていい。

この映画のキャサリン・マクフィーの「演技」をケナしている連中は、何も見ていない。何も見えていない。この連中はインド映画も見たことはないだろう。キャサリンがインド映画のスターのような美貌と、歌唱力、才能を見せていることに気がつかないのだ。これはミーガンにはない才能だろう。

この部分のコレオグラフィーも、ジョシア・バーガッセなのだろうか。

1511

(10)
「カレン」は、演出家、「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)から逃げるが、「アイヴィー」は「デレク」と寝てしまう。
こういう男と女の色模様は、芸能界によく見られるふしだらな「関係」に違いないが、このドラマは、主要な登場人物が、それぞれの愛の物語によって傷を受ける。ただし、「芸能人」だから、という暗黙の理解、ないし共感、といった甘やかなものがあるわけでもない。といって、原作者(テレサ・リーベック)が、こうした色模様に冷やかなまなざしをむけているわけでもない。

「あいつらが恋人だったとしても、おれとしては別にどうってことはない。おれの芝居に支障をきたしたりしなければ。」

これが、演出家、「デレク」の基本的な姿勢。

ところが、「デレク」は、アンサンブルの連中には、邪悪 Evil、ワル Jerk、劇壇の「悪の帝王」Dark Lord。はじめて「デレク」の演出を受けた「カレン」は「ヘンタイ」サイコパスという。
ジャック・ダヴェンポートは辣腕の演出家を演じて魅力のある俳優だが、実際のドラマでは、すべてが「デレク」に収斂するほどの「役」なのにさしたる「しどころ」がない。

「マリリン」がスターたり得た社会(芸能界)は――ダリル・F・ザナックの時代だった。ザナックはハリウッドきっての権力者で、「カウチ」(プロデューサーが新人女優をイタダクこと)でも悪辣な人間だった。
「デレク」は自分の芝居で「主役」クラスの女優をモノにする。しかし、ダリル・F・ザナックの「カウチ」ではない。それに、ザナックのような冷酷なドン・ファンではない。ほんらい、彼は自分の「マリリン」を作るために、女を裸にするのとおなじ視線を自分にもそそいでいる。

「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)の眼。落ち窪んだ眼の奥底に、芝居を作ってゆく眼と、主役を演じさせる「カレン」と「アイヴィー」のセックスを見据えているまなざし。その網膜に灼きついている孤独のすさまじさ。
このドラマの「主役」のひとりだが――稽古場で、芝居の進行を見ているのと、「アイヴィー」とのセックス・シーン、ワークショップの後に「カレン」を変身させるあたり。いよいよ芝居の初日に、プロデューサー、「アイリーン」(アンジェリカ・ヒューストン)をどなりつけるシーンなど。ジャック・ダヴェンポートは、みごとにこなしている。ただし、役者としてはあまり「しどころ」のない役といっていい。

このザナックのシーンを、作曲家の「トム」(クリスチャン・ボール)がやってみせるが、クリスチャン・ボールという俳優もたいへんな才能の一人。

ワークショップが終わって、芝居がブロードウェイに進出することになったが、ボストンの試演(トライアウト)前の手直しで、「カレン」に、それまでの音楽とまったく異質の曲、新世代の「マリリン」、エロティックな「Touch Me」を歌わせる。

「Beautiful」や、ユダヤの「バル・ミツバ」や、教会の聖歌のキャサリンの歌と違って、サド・マゾヒスティックな強烈なエロティシズムが表現される。(このシーンで、キャサリン・マクフィーの圧倒的な魅力がふき出す。)
「デレク」の「謀叛」は失敗する。

このときから、「カレン」は、もっとタフで、打たれづよく、忍耐づよいキャラクターに「変身」する。

 

1510

(9)
キャサリン・マクフィーの美しさは、ただたんに、女性的なおもざしの美として映るだけにとどまらない。おなじ女優でも、キャサリンのような声は、深く心にきざまれる。
美しい女はその美によって人の心を支配する。

ミーガン・ヒルティのほうが、いつもマリリンをパロディしている。ふつうのブロンドから、アッシュ・ブロンドまで、さまざまに変化した「マリリン」に似ている。
だが、キャサリンのような「黒い髪というよそおい」は、ある種の男にとっては、エロティックなオブセッションになる。

ミーガンの「アイヴィー」も、じつは「マリリン」に似ていない。「マリリン」に似ていないのに、キャサリンよりも「マリリン」に似て見えるのは――濃い口紅、ブロンドのウィグが、「マリリン」の魅力として訴えてくるからだろう。
母親が、ブロードウェイの大スターという設定で、自分は下積みのコーラスガールとして生きてきた。誰とでも寝てしまうパーティー・ガール、安手な娼婦のようなキャラクターだが、極度に起伏のはげしい感情を、なんの妥協もなしにその頂点まで生き抜こうとする。ブロードウェイの下積み女優。

ミーガン・ヒルティのむっちりした体型、ふくよかな乳房、輝くようなブロンド。燃えさかる炎のような気質は、「マリリン」という「役」に重なってくる。
ドラマの前半の「カレン」は、「マリリン」の不器用さ、臆病さ awkwardness を感じさせるのに、「アイヴィー」は、ブロードウェイで生き延びて行くのに必要な、努力と才能をじゅうぶんに身につけている女優の賢さ、悪くいえば、ずるさが目立ってしまう。つまり「悪女」タイプに見えてくる。

ミーガン・ヒルティの声、歌唱力も抜群で、劇中の「スター/マリリン・イメージ」に近い。概念的には、ありきたりのブロードウェイ・ミュージカルの、けばけばしいエロティシズムをみごとに体現している。

あるミュージカル女優のことば。

I shake my tits a lot.If you don’t want
to listen,you can just watch.

ベット・ミドラー。むろん、「SMASH」にはなんの関係もない。
ミーガン・ヒルティは、タイプとして、このベット・ミドラーに近いかも。

 

 

1509

(8)
マリリン・モンローという女優は、どこに魅力があったのだろうか。

「SMASH」で、「カレン」(キャサリン・マクフィー)がいう。
マリリンは、上唇をうごかさないで声を出す、と。
なるほどと思った。

マリリンの魅力の一つは、セリフの独特のエロキューションにある。相手のセリフをひきとつてから、瞬間的に呼吸をととのえるといった感じのもので、舌ったるい、そのくせ、エロティックなものだった。
キャサリン・マクフィーは、マリリンらしい不器用さ、臆病さ awkwardness を感じさせる。キャサリンの演技はその「マリリン」を出している。それを「ヘタ」な女優と批評されたら立つ瀬がないだろう。

キャサリンは、いつもひかえめで、ごく自然な演技を見せている。いい例は、演出家、「デレク」が、(マリリンとアーサー・ミラーのシーンで)はじめて「カレン」に「マリリン」を見るシーン。これは、「デレク」のファンシー(幻視)であって、彼か実際に見ているのは、「マリリン」の行動を支配したいという欲求なのだ。
キャサリンの歌がうまいだけに「演技」は見えないのだが、じつはキャサリンの自然な演技がプラスになる。
逆に、第12話の、インド舞踊のシーン――これは、「カレン」のファンシー(幻視)で登場人物が全部出てくる。キャサリン・マクフィーは、じゅうぶんに魅力的だが、ドラマのシーンとしては、不必要な(インドに対する関心)お遊びにしか見えない。
スピルバーグの会社がインドの巨大な映画資本に買収されたという。そのせいだろうか。

キャサリンが、「ヘタ」な女優に見えるのにはもう一つ別の理由がある。
ほかの俳優、とくに「フランク」(ブライアン・ダーシイ・ジェームズ)、「デイヴ」(ラザ・ジャフリー)などが、いかにもメソッド俳優といった芝居を見せる。「ジュリア」の不倫を知った「フランク」は、まるでサイレントの喜劇俳優、ハリー・ラングドンのようなご面相で、メソッドまる出しのクサい芝居をやってみせる。

第4話、故郷のアイオワで、友人たちとカラオケで歌うあたりのキャサリンの演技はほんとうに自然でいい。かえって、いかにもブロードウェイの練達な舞台俳優といった父親の芝居のほうがクサい。

「SMASH」で、不倫と家庭の破局 Break up に悩む「ジュリア」(デブラ・メッシング)は、たしかな演技力をみせるが――ドラマで「ジョー・ディマジォ」に起用された俳優(ウィル・チェース)との「関係」が復活し、家庭に風波が起きてしまうというメロドラマなので、女優としては「もうけ役」、少し実力のある女優なら誰がやってもウケる「芝居」に過ぎない。

 

1508

(7)
「SMASH」に、二人の名女優が出ている。

バーナデット・ピータース。日本ではほとんど知られていない。
1944年、イタリア系移民の子としてニューヨーク生まれ。おなじイタリア系移民の血をひくロバート・デニーロより1歳年下。シルヴェスター・スタローンより2歳上。
5歳のときから、テレビに出演。以後、舞台、ナイトクラブ、TV、映画に出た。
6〇年代から、ブロードウェイ・ミュージカルに出て、1968年、「ドラマ・デスク賞」、アンドリュー・ロイド・ウェッバーの「歌とダンス」でトニー賞を受けた。
日本では公開されなかった映画だが、私は「W・C・フィールズと私」(1973年)をアメリカで見た。個性のつよい女優、ヴァレリー・ペリンが出た映画だが、はじめて見たバーナデットという女優の凄さに気がついた。
私たちは――わずかに「アニー」(ジョン・ヒューストン監督/1982年)のバーナデットしか見られない。
「SMASH」では「アィヴィー」の母親、「リー・コンロイ」として登場する。

もう70歳近くなのに、40代にしか見えない(失礼!)細おもてのオバサマが出てきて、稽古場でみんなに歌ってみせるエナジーがすごい。
(この最後のシーンが、「SMASH」の最後のシーンにつながる。つまり、伏線になっている。)

「SMASH」に出ているもうひとりの名女優は、アンジェリカ・ヒューストン。

バーナデット・ピータースが出た「アニー」の監督、ジョン・ヒューストンのお嬢さん。お嬢さんといっても、こちらも、もう60歳のオバサマ。ジョン・ヒューストンが、アンジェリカの母親と離婚したとき、アンジェリカ、11歳。
「SMASH」で、離婚でモメている夫に、カクテルを3回もブッかける。きっと溜飲がさがったにちがいない。(笑)

「SMASH」の第12話で――映画スターの「レベッカ」(ユマ・サーマン)にいう。「わたしも、男でいろいろ苦労してきたから」という。思わずニヤニヤした。アンジェリカは、ジャック・ニコルソンと、17年間、実質的に夫婦関係にあったが、アカデミー賞をもらってから、ジャックと大ゲンカして別れている。

はじめてアンジェリカを見たのは「郵便配達は二度ベルをならす」(1981年)。私は原作を翻訳したので、この映画を何度も見た。すごい大女という印象が残った。
しばらく泣かず飛ばずだったのに、父のジョン・ヒューストン監督の「女と男の名誉」(1985年)で、アカデミー賞/助演女優賞をさらってしまった。
その後も「敵、ある愛の物語」(1989年)、「グリフターズ 詐欺師たち」(1990年)とつづけて、アカデミー賞にノミネートされている。

どうして、こんなことをおぼえているのか。映画、「郵便配達は二度ベルをならす」公開とほとんど同時に「死の接吻」と「ネイキッド・タンゴ」が公開されたのだった。
このブログを読んでくれる人なら、私が「死の接吻」と「ネイキッド・タンゴ」を気にしていた理由は想像してもらえるだろう。)

それはさておき――
「SMASH」のアンジェリカと、「バーレスク」のシェール、どちらを選ぶかと考えるのと、「カレン」と「アイヴイー」のどちらを選ぶか。どちらもむずかしい。
どっちを選んでも、私の趣味がバレそうな気がする。ウシシ(笑)

 

1507

(6)
清純派vs肉体派。
こうしたカテゴライズは、はるかな過去のサイレント映画から連綿と続いている。
たとえば、永遠の清純派、メァリ・ピックフォードvsフラッパー、クララ・ボウ。

どういう時代でも、女優自身、どちらかに属して、みずからステロタイプ化するか、あるいは自分がスターであるという光栄を正当なものにする。

「風と共に去りぬ」のオリヴィア・デ・ハヴィランドvsヴィヴィアン・リー。
「我等が生涯の最良の年」のテレサ・ライトvsヴァジニア・メヨ。

そんな例はいくらでもある。

「SMASH」の魅力は、ひたすら清純派の「カレン」と肉体派の「アイヴィー」のコントラストに収斂してゆく。この二人のコントラストが、「マリリン」の二重性に対応している。まるで、二つの同心円がつながった楕円形のように。

「冬のソナタ」のように、ひたすら男と女の純愛を描くドラマ、あるいは「デスパレートな妻たち」のように、複数の男女の錯綜する不倫な愛を描くだけのドラマよりも、「SMASH」では、「ゲイ」がブロードウェイを牛耳っているという背景もあって、「ジュリア」とチームを組む作曲家「トム」(クリスチャン・ボウル)が同性愛(ゲイ)なので、ドラマのなかで男性同士の関係に焦点があてられる。
「トム」(クリスチャン・ボウル)は、保守的な男性(白人)とセックス・フレンドになる。

しばらく前のアメリカでは、公然たるホモセクシュアル、バイセクシュアルは、社会的に受けいれがたいタブーだった。
「SMASH」では「ゲイ」の人たちの生きかたが、ごく自然な関係として描かれる。

「ゲイ」の人たちは、「関係」ができた当初は、「ノン・ゲイ」の人たちのカップルよりもセックスの頻度が高い。ただし、10年後は、そうした回数の頻度が少なくなる。

ゲイのカップルの場合、自分より相手(パートナー)がより魅力的と誰かに判断される(周囲がそんなふうに見ている、と思う)と、たいていケンカになる。
どちらか一人だけが、他人に関心をもたれたりすると、お互いの連帯感、セックスという「絆」が消えてしまう。
作曲家の「トム」と、母親に「ゲイ」であることをカミングウウトしたばかりの、共和党(リパブリカン)の青年弁護士の場合。「トム」が親しくなる「黒人俳優」が、自分たちの「関係」に潜在的に脅威になると感じて、防衛的に支配力を強めようとする。
「トム」は、はじめのうち、この「黒人俳優」を「ゲイ」と知らない。このあたりの展開がおもしろい。
そして、この「黒人俳優」は、じつは清純派の「カレン」に近い。

ひょっとして――「SMASH」は、清純派の「カレン」と肉体派の「アイヴイー」の(潜在意識的な)ラヴ・ストーリーかも知れない。あるいは、(まったく表面にあらわれないが)レズビアンのラヴストーリーとさえ見える部分がある。

 

1506

(5)
新作ミュージカルの演出家、「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)は、作曲家の「トム」(クリスチャン・ボール)とは犬猿の仲。
ドラマは、「マリリン・モンロー」という「役」をめぐって、「カレン」と「アイヴィー」がはげしい競争をくりひろげる。

新作ミュージカルに関心をもつプロデューサー、「アイリーン」(アンジェリカ・ヒューストン)は、夫の「ジェリー」と離婚協議中。夫は「アイリーン」を妨害しようとして「マイ・フェア・レデイ」の公演をぶつけようとする。
もう一方では――「マリリン」ミュージカルにかかわる人々の「愛」と「傷」を描いたソープ・オペラ。

「SMASH」の登場人物には、夫婦という婚姻関係、同棲、ゲイ、さらに(比重はかるいけれど)レズビアニズムまで、さまざまな「愛」が描かれる。これに、親子の愛情がからんでくる。
「カレン」と「アイヴィー」のライヴァル関係、ひいては価値観の対立は、「女」としての「カレン」と「アイヴィー」、「女優」として「役」のなかで解決しなければならない、それぞれの愛情のありかた、豊かさ、そうした演技の多様性がだせるかどうか、という問題に重なってくる。

ふたりにとって、ドラマの「マリリン」は、60年代の偶像(アイコン)ではない。(原作者のチーム、「ジュリア」と「トム」にとっても、アイコンではない。)
「マリリン」は、一般大衆の憧憬、願望、欲求によって作られる。ところが、そんなものは、もはやあり得ない。(「アイリーン」(プロデューサー)と離婚係争中の夫(大プロデューサー)は、「マリリン」の出てくるミュージカルなんか誰も見にこない、と断言する。)ところが、そんなミュージカルなど、もはやあり得ないからこそ、「マリリン」という偶像(アイコン)があり得る、というロジックも成立する。

「第8話」The Coup――ワークショップ終了後の手直しで、演出家「デレク」が見せる、「現代」の「マリリン」の変貌が、そのロジックを象徴している。「デレク」は――「純粋なマリリン」の極致は、エロスにあるとして、新しい「マリリン」のポテンシャルな演出を見せる。
この ”Touch Me”のシーンは、「オール・ザット・ジャズ」(ボブ・フォッシー監督/振付・1979年)でアン・ラインキングが見せた、高度にエロティックなダンス・シーンに匹敵するハイライト。
作詞・プロデュースは、ボニー・マッキー。

「カレン」と「アイヴィー」、ふたりの、孤独感、嫉妬、羨望、ドラマの進行につれて募ってゆく憎しみ。それは感情の領域から――「女」としてのステータス獲得という目的にかかわってくる。