エレオノーラ・ドウーゼ、カタリーナ・シュラッツの時代から、さらに半世紀後の、メァリ・ピックフォード、リリアン・ギッシュの時代にも、天才的な子役は無数にいたに違いない。しかし、子役から、名女優、大女優になった人は極めて少ない。
サラ・ベルナールよりは年下だが、エレオノーラ・ドゥーゼ、カタリーナ・シュラッツと、ほぼ同年だった日本の俳優を調べた。
市川 中車。エレオノーラ・ドゥーゼより、一歳年下。(中車といえば、最近、香川照之が二代目を襲名した。)
この中車は、団菊時代の芸を、後輩の菊五郎(六代目)、羽左衛門、幸四郎、吉右衛門につたえた名優。
中車が、子役の躾け方について語っている。
私が仕込まれた頃の子役といふものは、コマッチャクレて器用な事でもすると、頭から嫌はれて了ひました。つまり子役は何処までも子役らしく、可愛らしくするのが本格で、全体にあまりキチンとまとまり過ぎないやうに、是を分りよく言へば余り隅々まで行届いて、怜悧(りかう)が勝って小憎らしく見えるよりは、子供の可愛らしさを残して置いて、それでゐて極る所の正しいのをいいとしてありました。只さへ芝居の子役は年に似合はないませた台詞を言はせてありますから、どちかといへば生意気にならないやうに、少しは間延びのする位が、却ってオットリとあどけなく見へるものなのです。それが近頃では時勢の故(せゐ)もありませうけれど、子供の性根の置き所は放り出して了って、本人の腕一杯器用にも怜悧にも、動けるだけ動かせて見せる大向ふ受けを覘(うかが)ふやうなやり方は、結局小器用に悪達者に、小さく纏まって了ふ譯(わけ)で、所詮将来大きい役者にはなれないものなので、余計なお世話焼かも知れないが、真に困った事だと思ってゐます。
単純に舞台芸術としての歌舞伎を、19世紀後半の、フランス、ドイツ、イタリアの芝居と比較するわけにはいかない。しかし、役者の「性根」の問題ならば、中車の「芸談」は、外国の「子役」の躾けにも、おそらく共通する。
サラも、エレオノーラも、一座のなかで「何処までも子役らしく、可愛らしくする」ことを躾けられ、みずからもそれをめざしたのではないか。
小器用で悪達者に小さく纏まってしまって、結果的に、大きい女優にはなれなかった例として、シャーリー・テンプルや、マーガレット・オブライエン、テイタム・オニールをあげてもいい。そのなかで、女優、ジョデイ・フォスター、高峰 秀子は例外といっていい。
誤解されると困るので一言。私は、こうした女優たちを思いうかべて、過去をなつかしんでいるわけではない。
2013年9月、テキサスで「ファンタスティック・フェスト」が開催された。映画、「コドモ警察」(福田 雄一監督)に主演した鈴木 福クン(9歳)が、喜劇部門の主演男優賞を受けた。
私は、この鈴木 福クンや、芦田 愛菜チャン、その他たくさんのチビッコたちの将来を見つめているだけなのだ。