1545

エレオノーラ・ドウーゼ、カタリーナ・シュラッツの時代から、さらに半世紀後の、メァリ・ピックフォード、リリアン・ギッシュの時代にも、天才的な子役は無数にいたに違いない。しかし、子役から、名女優、大女優になった人は極めて少ない。

サラ・ベルナールよりは年下だが、エレオノーラ・ドゥーゼ、カタリーナ・シュラッツと、ほぼ同年だった日本の俳優を調べた。

市川 中車。エレオノーラ・ドゥーゼより、一歳年下。(中車といえば、最近、香川照之が二代目を襲名した。)
この中車は、団菊時代の芸を、後輩の菊五郎(六代目)、羽左衛門、幸四郎、吉右衛門につたえた名優。
中車が、子役の躾け方について語っている。

私が仕込まれた頃の子役といふものは、コマッチャクレて器用な事でもすると、頭から嫌はれて了ひました。つまり子役は何処までも子役らしく、可愛らしくするのが本格で、全体にあまりキチンとまとまり過ぎないやうに、是を分りよく言へば余り隅々まで行届いて、怜悧(りかう)が勝って小憎らしく見えるよりは、子供の可愛らしさを残して置いて、それでゐて極る所の正しいのをいいとしてありました。只さへ芝居の子役は年に似合はないませた台詞を言はせてありますから、どちかといへば生意気にならないやうに、少しは間延びのする位が、却ってオットリとあどけなく見へるものなのです。それが近頃では時勢の故(せゐ)もありませうけれど、子供の性根の置き所は放り出して了って、本人の腕一杯器用にも怜悧にも、動けるだけ動かせて見せる大向ふ受けを覘(うかが)ふやうなやり方は、結局小器用に悪達者に、小さく纏まって了ふ譯(わけ)で、所詮将来大きい役者にはなれないものなので、余計なお世話焼かも知れないが、真に困った事だと思ってゐます。

単純に舞台芸術としての歌舞伎を、19世紀後半の、フランス、ドイツ、イタリアの芝居と比較するわけにはいかない。しかし、役者の「性根」の問題ならば、中車の「芸談」は、外国の「子役」の躾けにも、おそらく共通する。
サラも、エレオノーラも、一座のなかで「何処までも子役らしく、可愛らしくする」ことを躾けられ、みずからもそれをめざしたのではないか。

小器用で悪達者に小さく纏まってしまって、結果的に、大きい女優にはなれなかった例として、シャーリー・テンプルや、マーガレット・オブライエン、テイタム・オニールをあげてもいい。そのなかで、女優、ジョデイ・フォスター、高峰 秀子は例外といっていい。

誤解されると困るので一言。私は、こうした女優たちを思いうかべて、過去をなつかしんでいるわけではない。
2013年9月、テキサスで「ファンタスティック・フェスト」が開催された。映画、「コドモ警察」(福田 雄一監督)に主演した鈴木 福クン(9歳)が、喜劇部門の主演男優賞を受けた。
私は、この鈴木 福クンや、芦田 愛菜チャン、その他たくさんのチビッコたちの将来を見つめているだけなのだ。

 

 

1544

 1939年、ドイツ軍がフランスに侵入し、フランスは降伏した。これ以後、フランス演劇の上演は、すべてドイツ占領軍の検閲を受け、上演の許可、不許可がきめられた。
 「アテネ劇場」のルイ・ジュヴェは、ジロドゥーの「オンディーヌ」をはじめ、すべての現代劇のレパートリーが上演不許可の処分を受けた。
 ドイツ占領軍の検閲官は、「オンディーヌ」のかわりにクライストの「ハイルブロンの少女ケートヘン」の上演を勧告した。ジュヴェは拒否した。このときから、ジュヴェは占領軍のブラックリストに載せられた。

 私はこうした事情を評伝「ルイ・ジュヴェ」(第五部、第一章)で書いた。そのとき、評伝には書かなかったが、クライストも読んだのだった。
 「ハイルブロンの少女ケートヘン」で登場したカタリーナに興味をもったのも、そのときだった。カタリーナは前途洋々たる女優だった。

 カタリーナは、フランスのサラ・ベルナールのような名女優にならなかった。イタリアのエレオノーラ・ドゥーゼのような大女優にもならなかった。

 1870年、プロシャ/フランス戦争の勝利で、ウィーンは、パリの位置を奪う。空前の繁栄がやってくる。

 だが、その後、ウィーンは、破局的な大不況に見舞われる。自殺が増え絶望、暗鬱な気分がひろがる。

 この気分を一掃しようとして、1873年、皇帝、フランツ・ジョゼフは、国立劇場に行幸して観劇。このとき芸術監督のラウベが選んだのは、シェイクスピアの「じゃじゃ馬馴らし」で、20歳のカタリーナ・シュラッツが主演。皇后、エリザベートから「たいへん美しく、私によろこびをあたえました」という言葉を賜った。

 これがきっかけで、少女は、なんと、皇帝フランツ・ジョゼフの愛妾になる。

カタリーナ・シュラッツはサラ・ベルナールや、エレオノーラ・ドゥーゼに劣らない才能にめぐまれながら、ついに大女優になれなかった。
        (つづく)

1543

 

 エレオノーラ・ドゥーゼから、これまた無関係なことを思い出した。いや、思い出したというより、ちょっと調べたくなった。

 サラ・べルナール、エレオノーラ・ドゥーゼと同時代のドイツの女優。
 ウィーンで、16歳で女優をめざしていた少女、カタリーナ・シュラッツ。

 この少女は、ある女流作家の部屋に寄宿して、キルヒナー・アカデミーに通い、女優をめざしていた。カタリーナは、マリア・テレジア女帝の皇太子、ヨーゼフ二世が創始した「ブルグ劇場」をめざしていたのだが、この劇場に入ることは皇帝・王立劇場専属俳優になるということで、俳優、女優にとっては最高の名誉だった。

 オーストリア/ハンガリー帝国は、フランツ・ヨーゼフ皇帝の治世で、政治的な記事は、厳重に監視されていたため、新聞、雑誌は、劇評、文学論に紙面を割いていた。高い教育をうけたブルジョワジーのヒーローは、政治家ではなく、芸術家、作曲家、俳優、女優たちだった。カタリーナは、ウィーンのジャーナリスト、作家、俳優たちと交際した。

 カタリーナが、ウィーンに登場した時期、キルヒナー・アカデミーや、ウィーンのコーヒー・ハウス、クラブで、もっとも話題になったのは、十八年にわたって「ブルグ劇場」の監督をつとめたハインリヒ・ラウベと、ドラマのセリフ、古典的な演技を教えたアレクザンダー・シュトラコシュの「演出」についてだった。「ラウベは神、シュトラコシュは予言者」といわれた。
 カタリーナは、このふたりの薫陶を受けた。やがて、彼女はベルリンの劇場と契約し、シラーの劇で初舞台を踏む。さらに、クライストの「ハイルブロンの少女ケートヘン」で、圧倒的な評判を得た。ある劇評は、「美しいブロンド、あどけない少女の表情で、第一声を発する前に観客の心をとらえた」という。

 どうして、こんな女優に関心を持つのか。私は、カタリーナが「ハイルブロンの少女ケートヘン」で登場したことに関心を持ったのだった。
        (つづく)

1542

 

 この秋から、フランスの19世紀のものを集中的に読み続けている。

 系統的に読んでいるわけではない。もう二度と読むこともないだろうから、もう一度だけ読んでおこうか、そんな気もちで、気に入ったものを少し読む。
 「いずくへか帰る日近きここちして」かつて見た、映画をもう一度見直すようなものである。

 ミュッセに、「五月の夜」という詩がある。「ロミオとジュリエット」に、インスパイアされたらしい。

   La fleur de l’eglantier sent ses bourgeons eclore.

 上田 敏の名訳がある。

   はつざきのはなさうび、さきいでて

 さすがに、この詩の美しさをとらえている。この野ばらの花は、自分の芽が萌え出ることを感じている。そんなところが、上田 敏の訳にはある。

 19世紀の大女優、エレオノーラ・ドゥーゼは、ヴェローナで、「ロミオとジュリエット」を上演して成功した。まだ、14、5歳だったはずである。
 エレオノーラは、ヴェローナ出身ではないが、イタリアの女優にとって、ヴェローナで成功したことの意味は説明しなくてわかるだろう。
 「ロミオとジュリエット」は、ヴェローナの恋人たちの物語だから。

 最近の私は、そのあたりのことを調べている。

 「ロミオとジュリエット」は、グノーによってオペラ化された。この初演は、1867年、パリの「リリック劇場」だった。このオペラは、パリの万博の期間に発表されたため、たちまち大入り満員の盛況を見せた。これが、7月に、ロンドンの「コヴェント・ガーデン」で上演されて、イギリスをはじめ、ヨーロッパ各国で、「ロミオとジュリエット」が競演された。
 1873年のエレオノーラ・ドゥーゼの公演は、この「ロミオ」フィーヴァーを背景にしていた。そして、ヴェローナでの公演は、期せずしてバレエに対する演劇の反撃だったことになる。

 1867年というと、慶応3年である。

 孝明天皇、崩御。明治天皇、践祚。
 高杉 晋作、没。
 岩倉 具視、薩摩・長州とともに、討幕、王政復古を決す。
 坂本 龍馬、暗殺。

 こんな時代に、オペラ「ロミオとジュリエット」が初演されたのか。私は、この事実になぜか心を動かされた。
        (つづく)

 

 

1541

 次の授業のとき、小川 茂久は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」について質問した。このときも私は緊張していたので、小林 秀雄が何を話したのかおぼえていない。私はフローベールの手紙にあった詩について質問した。
これは、良く覚えている。

 私のあとに久米 亮が質問に立って、
 「最近まで中支で、兵隊をやっておったものでありますが、召集解除になりました。小説を書きたいと思って、大学に入りました。小林先生にお伺いいたします。小説を書くために、必要なことがあるでしょうか。何か、秘訣というか、勉強のコツといったものでもあったら教えていただきたい」
 と聞いた。

 このときの小林 秀雄の答えが、先にあげた細川 半蔵の言葉によく似ていた。

 「小説を書くつもりなら、いつもいろいろなものを見ておくことだ。それをしっかり心にとどめておく。それが経験というものになる。そして、いつでもその記憶を思い出せるようにする。そういう記憶と経験を積んでおけば、何か新しいものにふれたとき、すぐに反応できるようになる。」

 小林 秀雄は、私たちに何をつたえようとしたのだろうか。私はプルーストを連想した。あとになって、小林 秀雄の思想は、アランや、ベルグソンに近かったのではないか、と思った。まさか、このときの小林 秀雄が、寛政の細川 半蔵を思い出していたとは思えない。
 少年の記憶だから、小林 秀雄のことばが正確にどうだったか、おぼえていない。しかし、この考えかたは私の内部にずっしりと残った。

 私の質問に対して、小林 秀雄が答えてくれた内容についても、いつか書くつもり。私は、そのことばを何度も思い出しては自分の世界を作りだしてきたのだった。

 

1540

 太平洋戦争の末期。空襲も激化していたし、戦況は悪化するばかりだった。むろん、大学での授業などあろうはずもない。
 昭和19年(1944年)私たちは、いわゆる勤労動員(戦時学徒動員令)で、三菱石油川崎製鉄所の石油精製工場で働いていた。
 私たちというのは、小川 茂久、関口 功、仁科 周芳(岩井半四郎)、進 一男、覚正 定夫(柾木 恭介)たちだった。なかには、中国戦線に配属されて、軍曹として復員してから、大学に入った久米 亮のように、すでに三十代に入っていた学生もいたが、ほとんどが二十代の若者で、文学書を、やっと読みはじめたばかりといった連中ばかりだった。

 その工場の一室で、小林 秀雄先生が特別に講義をなさることになった。

 小林 秀雄ははじめての講義のとき、何か質問はないか、と聞いた。私たちは緊張していたし、私などは小林 秀雄におそれをなしていた。たから誰も質問をしなかった。
 小林 秀雄は、
 「あ、聞くことがないのか」
 といい捨てて、あっさり帰ってしまった。
 文学の講義は、先生のレクチュアではなく、生徒たちが先生に質問して、それに先生が答える形式のものなのか。
 私は度肝をぬかれた。
 あとに残された私たちの間から、ため息のようなどよめきがもれた。

 小川 茂久は――せっかく工場まで授業にきてくれた小林 秀雄に何も話をしてもらえなかったことをしきりに残念がっていた。
 「中田、この次はきみも何か質問しろよ。おれも質問を用意してくるから」
 こうして次の講義のときは、何人かが質問を用意しておくことになった。質問する順番もきめたのだった。
     (つづく)

1539

何かで読んだことばが、自分の内部に刻み込まれる。そのことばは、それだけで、しっかり心に根を張って、やがて、ほかのことばと重なりあってゆく。
それは、いつか慣れ親しんで、自分の思想になるかも知れない。

18世紀、それも世紀末の江戸に、細川 半蔵という人形作りの達人がいた。からくり人形を作ったらしい。
からくり人形は、当時の日本の技術をささえた江戸の職人技術の最高の達成だった。
その、からくり人形の最高の技術は歯車の創作で、西洋では、19世紀なかばになってから実用化されたインボリュート歯車とおなじものという。

寛政8年(1796年)に、細川 半蔵が出した本に、精巧な和時計や、からくり人形の制作過程が記録されているという。私は残念ながらこの本を知らない。

この本のなかで、

多くのものを見てそれを記憶して心にとどめること。そうした記憶と経験が蓄積されたとき、新しいものにふれる心の機転が働く

と書いてある、という。

私はこの文章をメモしておいた。なぜ、こんなものをメモしておいたのか。いまとなっては、そのときの私の心の動きが自分でもわからない。しかし、こういうことばの正しさを、私は疑わない。
そして、私は思い出した。
戦争の末期に、小林 秀雄から聞いたことばだった。
(つづく)

 

1538

「宝島」には「動き」と「色彩」、そして、さまざまなコントラストが見られる。

冒険小説としての「宝島」のテーマは「宝探し」が中心になっているが、地図に隠された秘密の解読、宝の争奪のサスペンスを成立させるために、スティーヴンスンはいろいろな作家から「借用」している。

ワシントン・アーヴィングの「ビリー・ボーンズ」。「宝島」の冒頭の「小道具」や、オープニングの展開に、アーヴィングの影響が見られる。

エドガー・アラン・ポオの「黄金虫」。「骸骨島」の名前や、海賊の「スカル・アンド・ボーンズ」の旗に。

「ジョン・シルヴァー」の肩にとまっているオーム。これは、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」とおなじ趣向。むろん、「ロビンソン・クルーソー」の場合は、絶海の孤島に生きる男の孤独を慰め、かつ、孤独をつきつけるトリだが。

海賊どもの唄に出てくる「死人の箱」(デッドマンズ・チェスト)は、チャールズ・キングズリから頂戴したもの。

島の砦は、海洋ものの先輩作家、マリアットの「マスタマン・レデイ」。

これに、スウィフトの「ガリヴァー旅行記」。

チャールズ・ジョンソンの私記、「世にも悪名高き海賊/略奪・殺戮大概」の写本。

今なら、こんな部分の利用だけでも、ジャーナリズムはスティーヴンスンの盗作として騒ぎ立てるかも知れない。
スティーヴンスンは小説に必要な「雰囲気作り」のために、ごく一部を「利用」したとみていい。もとより「盗用」とか「パクリ」といったものではない。

げんに、ポオにしたところで、「ゴードン・ピム」は、ベンジャミン・モレルの回想を粉本にしている。

スティーヴンスン以後に、ライダー・ハガード、アーサー・ランサムなどの、少年冒険小説があらわれる。
現代のファンタジーの、狭い空想の世界、神話的な衣裳の下にひそむおぞましくも卑小な恐怖のイメージより、19世紀の作家たちの、いきいきした空想と冒険のほうがずっと現実的、かつファンタスティックなのだ。

 

 

1537

少年時代にスティーヴンスンの「宝島」に夢中になった。

これまでに読んだ作品で、いちばん面白かったものをあげよといわれたら、少年の私は答えを拒否するだろう。いくらでもあげることがてきるから。それでも「宝島」は間違いなくベスト・テンに入るだろう。
そのくせ、その後、スティーヴンスンの作品は読んだが、「宝島」を読み返したことはない。

「宝島」を書いた頃のスティーヴンスンは病身だった。ある山荘に、両親、11歳年上の妻をともなって静養していた。たまたま、妻の連れ子のロイドが、休暇で、この山荘に戻ってきた。
ある雨の午後、スティーヴンスンはロイドと、いっしょに絵を描くことにした。その絵は、「地図にない島」だった。空想の地図だけではなかった。その「島」に繁茂している森林を描いているうちに、その「島」に上陸しようとして入江に姿をみせる帆船(スクーナー)や、「島」に隠された秘宝をめぐってあらそう海賊たちの剣のきらめきを描きはじめた。

スティーヴンスンは、その「島」を「宝島」と命名することにきめたが、絵を描いているうちに、空想がどんどんひろがって行って、「島」に上陸した海賊船の船長、「ジョン・シルヴァー」の姿がはっきりしてきた。
すぐにも、小説を書きはじめたい気もちがしきりに動いたという。

作家は、誰しもこういう瞬間を経験することがあるだろう。私のようにかぎりなく無名に近いもの書きでも、そんな心の昂りを知っている。自分でも思いがけないテーマにぶつかって、一瞬書いてみようか、と心が動く。つぎの瞬間には、まず不可能だろうという抑制が働くことが多いのだが。

スティーヴンスンがまず「島」の地図を描いたことが、私の興味を惹きつけた。
それと、「ジョン・シルヴァー」というキャラクターの設定はどこからきたのか。
ある作家が、あるアイディアを実現してゆくプロセスを想像することも、批評のダイナミックスの一つ。私の関心はそのあたりに集中していた。
(つづく)

 

1536

これはもう何度か書いたおぼえがあるのだが――少年時代の私は、架空の島を想像しては紙に描くのが好きだった。

地図にない島。
その島には、山や川があったし、崖が海辺に続いているかと思えば、リヤス式の複雑な海岸線があって、季節風が吹きつけると、海辺に魚の大群が押し寄せたり。小さな島なのに、そこには誰も行ったことのない(つまり、地図上で空白のままになっている極地や、砂漠など)人跡未踏の秘境があったり。

その渚には、ヤシや、火焔樹が、いのちの氾濫を見せているかとおもえば、別の地帯には、狼や、北極熊、キリンが、群れをなして移動していたり。

およそ荒唐無稽な「島」だが、そのなかに小さな都会があって、劇場や映画館があったりする。もっと重要なことは、交通手段であって、一つの都市から、別の都市まで、鉄道が走っている。その沿線には、温泉があるかと思えば、滝や吊り橋、洞窟もある。

この島には、ほとんど誰も住んでいない。したがって、混沌たるカオスから、暗い冥界(エレボス)や、夜(ニュクス)が生まれることはない。にもかかわらず、大気(アイテール)と、昼(ヘーメレー)の世界なのだ。

たあいもない空想の島だったが、少年にとっては、さまざまな空想を思うさま羽ばたかせることができる場所だった。その地図を描いている時間は、自分の日常とは違って、うきうきするような、ディヴェルティスマンの時間だった。

少年の私は、マンガの「冒険ダン吉」から、南 洋一郎(池田 宣政)の少年小説、やがて矢野 龍渓の「浮城物語」、さらには「ロビンソン・クルーソー」や、「宝島」、やがては、ジュール・ヴェルヌ、ハーマン・メルヴィル、マーク・トゥウェンなどを読みふけるようになったのは、ごく自然なことだったと思われる。
(つづく)

 

1535

和田垣先生は、つづいてメーテルリンクをあげて、

「あだし仇波 やるせなき 沖にただよう 捨小舟」的の惨憺たる逆境を巧みに描出して、読者をしておぼえず暗涙にむせばしむる。」
という。さらに、「ベリアスとメリサンド」という歌劇のために、「デブシイ」(ドビュッシイ)の作った楽譜を聞け。いわゆる「怨むが如く、慕ふが如く、泣くが如く、訴ふるが如く」嫋々として尽きざる余情に富んでゐて(中略)、さなきだに神秘的なる歌劇は、更に神秘的なる雰囲気を加へてゐるではないか」という。

明治末期の日本人の印象派・理解が、これほどのものだったことに私は感動する。同時に、現在の私たちの考えとは違う、性急な、誤解とはいえないまでも強引な理解に気がつく。

私は、このあとの和田垣先生の記述にとくに注目する。

また悲劇に於てはヂュース(Duse)とサラー・ベルナール(Sarah Bernhardt)とを比べて見よ。舞踏に於てはダンカン嬢(Duncan)とデニス嬢(Denis)とを比べて見よ。舊派と印象派との相違は顕著で、眼あるものは之(これ)を観分け、耳あるものは之(これ)を聞き分けるであらう。即ち前者は無闇に舞台を飾り立て、大袈裟な衣裳や、型や、科(せりふ)やを用ひて、一挙手一投足の微細なる点まで多大の注意を払ふのに汲々としてゐる。
然るに、後者は具象的の型や、姿勢やには重きを置かず、主として肉眼よりは心眼に訴へて、不用意の中に観客をして暗示によって或る物を感得せしめねば止まない。一は菊五郎的、手芸的、一は団十郎的、腹芸的である。具象的の形骸を離れて、一種微妙なる芸術的、精神的、感興的打撃を与へずんばやまない。かく彼らは従来の古典的臭味を脱して、いわゆる印象派的の新呼吸、新生命、新趣味、新精神を伝へんとするのである。
    (「西遊スケッチ」大正四年)

この和田垣先生の解釈は、現在の私にはまったくの誤解に見える。

遠く時代をへだてた先達の誤りをいいたてて、貶しめようというのではない。この和田垣先生のエレオノーラ・ドゥーゼ、サラ・ベルナールの比較、ひいては印象派、レアリスムの理解には、じつに微妙な視差があることに気がついたのだった。
私としては、できれば近い時期にそれを検証してみたいと思っている。

和田垣 謙三に対する敬意をこめて。

1534

和田垣先生は、ベル・エポックのパリを見物した日本人で、印象派についてもっとも早く紹介をした人物だった。

先生いわく――印象派は、もともとは絵画の一流派の一用語に過ぎなかったが、その後、より広く、より大きな意義をもつようになった。
「今日では之(これ)を広義に解すると、殆ど一切の現代思想を包括してゐるといっても可い位、即ち、文学にも、美術にも、その他、教育、宗教、社会、政治等にも之を応用するものがあるに至った」という。
そして、先生はゾラを引用する。

「印象主義は事物の真を写し出すに当り、之を周囲(ミリュー)の中に置いて、その微細なる点は之を描かず、周囲を描いて観者に強烈の暗示を与へることに努力する。」と。
これいわゆる「此時無声勝有声」(このとき声なくて、声あるにまさる――中田注)である。千言万語の雄弁は銀にして、無言却ってこれ金なりである。」

という。
ここから、イギリスのジョージ・エリオットと、キプリングを比較して、前者は、「きわめて微細なる点までも微細に叙述して」いるのに対して、後者は「全てを語らずして、つとめて読者の想像力に訴え」ている、とする。
(つづく)

 

1533

和田垣先生は、東大で教鞭をとられたが、農大の教授に転じられたらしい。きっと、おもしろい講義をなさったのだろう。

 

神さまと悪魔が、腕くらべをやった。

神は、バラの花を作り、黄鳥を作り、男を作った。
これに対して悪魔は、イバラを作り、オウムを作り、女を作った。

花鳥においては、神の作ったものがすぐれていた。しかし、人間を作ったときは、悪魔の作った女人の美は男よりもずっとすぐれていた。

神さまは負けた。くやしまぎれに、神さまは叫んだ。
「今にきっと思い知らせてやるぞ、おぼえておけ」

女性の美しさは、たしかに美そのものだが、男性に比して女性には悪人が多い。アダムをそそかして、罪を犯させたイヴをはじめとして、犯罪の蔭に女ありというではないか。

「以上は仏国(フランス)の或るwoman-hater から聴いた話であ
るが、女無くては夜の明けぬ仏国に於てかかるこちを耳にしたのには一驚を喫
せざるを得なかった。」

 

和田垣先生のオトボケだろう。

 

「清貧」と題した一首がある。

持てばモテ 持たねばモテぬ 世の中に
持たねどモテる 人ぞたふとき(尊うとい、貴うとい)

和田垣先生の述懐かも知れない。

 

 

1532

和田垣 謙三先生の随筆を読んでいて、こういう俗謡にぶつかった。

「竹に雀は しなよく とまる とめてとまらぬ色の道」

これを、英国の粋人、J.J.C.クラークが訳した。

The sparrows perch on the bamboo tree,
And fly away,
But 0nce perchs upon my heart,
”T is there forever,

この訳は、「家庭のミスター&ミセズ・ジャパン」という本に出ているとか。

随筆を書いたのは、経済学者の和田垣 謙三。万延元年(1860)~大正8年(1919)。草創期の東大、経済学部の基礎を作ったえらい先生。
先生は「その訳し方は如何にも大胆なれども、free translation としては、絶妙なり」と評されている。

和田垣先生は、英、仏、漢の語学の大家で、ご自分でも、和歌、俗謡の英訳を試みていたらしい。粋な学者だったのだろう。訳例をあげてみよう。

「鐘が鳴ります 上野の鐘が 引いた霞の消えぬほど」

How soft sounds the bell,・・・
The bell of Ueno Hill,
So soft as not stir
The haze that overhangs the Hill.

ついでに、もうひとつ。

別れの風だよ あきらめしゃんせ
いつまた逢うやら 逢わぬやら

Farewell my love!
What a cruel breeze that parts us asunder!
’Tis fate decides our destinies;be resigned,my love!
When shall we meet again or shall we never? Farewell once more,my love!

昔の学者はえらいなあ。私など、足もとにも及ばない。   (つづく)

 

1531

オリンピック開催前に、国交省と東京都は、永田町の国会議事堂の標識をあらためる、とした。
「国会前」は、KOKKAI から THE NATIONAL DIET に変更されたという。
東京メトロのホームでは、Kokkai-gijidomae というローマ字表記なので、これも変えられるだろう。

私は標識の改正に反対はしない。ただし、わかりやすくするためには、定冠詞のTHE は、少し小さくして、NATIONAL DIETという概念がはっきり分かるようにしてほしい。
そして、ローマ字表記は、日本語の発音に近いものにすべきだと考える。
「青梅」をOMEとした場合、外国人の発音は私たちの耳には、「おーめ」とは聞こえない。日本語の発音に近くするためには、遠慮なくアクセント記号を使うべきである。
ハイフン、アクサンテギュ、アクサン・シルコンフレックス、ウムラートなどの使用は、必要なのだ。

今度の標識の改正で、東京は、また変わって行く。

”A Londoner is in it,about it,but not of it,London is only a name,a mass of building or the network of thoroughfares.”

右は、英人が倫敦ならびに倫敦人について言へる所なるが、移して以て東京ならび
に東京児を評すべし。往時の江戸趣味なるものは日を追うて滅却し、今日の東京は
東北または西南より闖入したる田舎者の集合地のみ。趣味は田舎的に成下がれり。
これ勢の免るべからざる所か。

もし和田垣 謙三先生にして、七年後の東京を見そなわしたまうて、いかがおぼしめすや。

 

 

1530

数年前のことだが、地下鉄の神保町で、フランス人の旅行者に道を聞かれた。私のカタコトの外国語でもなんとかつうじたが、地下鉄の路線系統図はわかりにくい。しかも、とっさに切符の値段がわからない。江戸ッ子の私のほうがうろたえた。

例えば、地下鉄の標識や、地名。

TOCHO
SORIKANTEI MAE
KOKKAISEIMON

こんなものが、外国人にわかるはずがない。
在日外国人でも、TOCHOを、すぐに「都庁」と理解できる人は少ないだろう。
そこで、オリンピック開催を機会に、英語にしようということになった。

都庁は TOKYO METROP0LITAN GOVERNMENT OFFICE
総理官邸前は PRIME MINISTER’S OFFICE
国会正門前は NATIONAL DIET MAIN GATE になる。

意味はわかる。しかし、私のように高齢者には、ひどく読みづらい。

通り、街道も、外国人にわかりにくい。
KANETSU JIDOSHADO
OME KAIDO
これを、KANETSU AUTO-MOBILE WAY
TO OME-KAIDO AVE.
としたところで、ゴチャゴチャしてわかりづらい。

私は、標識の英語化に反対ではない。しかし、1986年の「改正標識令」の様な、機械的なアルファベット併記の指示が、実情を無視したものだったことを肝に銘ずべきと考える。
このとき、ローマ字化、英語訳に統一的な基準をきめなかったため、
HIBIYA PARK
AOYAMA DORI
などという混乱を招いた。

今度の標識の改正には、もう少し、頭を使ってもらいたい。
(つづく)

 

 

1529

この夏、2020年のオリンピック/パラリンピツクの開催地を選ぶ国際オリンピック委員会が、ブエノスアイレスで開かれて、その投票の結果、東京が開催地にきまった。

私は、たまたまテレビで、決定の瞬間を見ていた。IOCのロゲ会長が、大きなカードを見せるまで、場内が静まり返っていた。そのカードにTOKYOの文字があった瞬間、場内にいた日本人関係者たちが、歓声をあげて抱きあったり、フェンシングの太田 雄貴選手は感きわまって泣きだした。
日頃、私はああいう熱狂(アントゥジアズム)に、あまり心を動かされない。古い日本人のタイプなので、恥ずかしさが先に立つ。ところが、このときばかりは感動した。
招致関係者の中にいた滝川 クリステルも、この決定に感激して、顔をくしゃくしゃにして跳ねまわっていた。
美女は、顔をくしゃくしゃにしても美女なのだと思った。

東京は、イスタンブール(トルコ)、マドリ(スペイン)と選考にのぞんだが、マドリが、最初の投票で落ちた。最終選考で、イスタンブールを60票の大差で引き離し、開催地にきまった。

その後、色々なことが、いっせいに動き出した。これから七年後まで、オリンピック・フィーヴァーはつづくことになる。
その一つに、地名標識の英語化がある。
(つづく)

 

 

1528

もう、すっかり秋になっている。だから、今年の夏の悪口を書く。
あるエッセイスト(女性)から手紙をいただいた。その一節に、

今年の夏はどえらい奴でした。
私は暑さマニアなので、冷夏とかだとしょげてしまいますが、さすがに今年の夏は少々バテました。

とあった。私ははじめからバテて、夏という季節に悪たれをついていた。

じつは、この手紙をくれた彼女とおなじように、私は以前から夏が好きだった。長い仕事はたいてい夏場に書きはじめた。だから夏になると、きまって長い仕事にとりかかって、汗まみれになって仕上げたものだった。
今年の夏も、少し長いものを書きはじめたのだが――あまりの暑さで何も書けなくなった。夏のバッキャロめ。去年の夏は、せいぜいバーローぐらいだったが。

大ベラボーのコンコンチキめ。本も読めやしねえじゃねえか。

バーローぐらいの夏だったら、仕事ができなければ、絵でも描こうか、などと思ったものだが、今年のバッキャロは、こっちがクタバっちまう気さえ起きない。ただ、もう炎熱地獄を這いずりまわっていた。

まったく、今年の夏はどえらい奴だった。

そんな夏場に、ある作家(女性)から手紙をいただいた。いよいよ、新作にとりかかるという。

私が快哉の声をあげたのは、いうまでもない。この女性作家は蒲柳の質で、小説を書きはじめると、「書けないんです」とか「才能がないんです」とか、独特のラメンタリシ(なげきぶし)を歌いつづけながら、きっちり書きあげてしまう不思議な作家であった。 その彼女が、まさにジョクショ(ムシムシと暑苦しい)にあたって、あらたに創作の筆をとる。爛燦たる気象、ほむべし。この作家の決意のときに立ち会うことができたのは、大いなるよろこびであった。

老耄(ろうぼう)、来者(らいしゃ)なお追うべし。(ボケ老人も、あとをついて行こう)。

ようやく、私も少し元気になった。

そして、もうひとりの友人(女性)が、出たばかりの訳書を送ってくれた。午後に届いたので、すぐに読みはじめて、夜の7時半には読み終えた。最近のボケ老人にすれば、驚異的なスピードである。読みはじめたら、おもしろくておもしろくて、一気に読み終えることができた。
なんといっても、翻訳がすばらしい。

11歳の少年が、たったひとりでコロンボからイギリスに渡航するだけの話だが、最近こんなに感動した小説はない。マイケル・オンダーチェという作家の力量の大きさに感心した。「イングリッシュ・ペーシェント」の作家と知った。

この本を読んで、ようやく秋の気配が感じられた。

  わが待ちし秋は来ぬらしこのゆふべ 草むらごとに虫の声する

良寛さんの歌。

私は、青息吐息ながら、やっと自分の仕事に戻っている。

1527

自分の生活にまるで関係のないニューズだが、ブログに書いておく。

1977年に、アメリカの宇宙基地から「ボイジャー」が打ち上げられた。木星、土星の観測が目的だったらしい。

その「ボイジャー」が、昨年(2012年)8月、太陽圏を飛び出して、星間空間という、未踏の空間に入ったと発表された。(2013年9月22日)
こういうニューズははじめから私の想像を越えているのだが――いろいろなことを連想してワクワクした。

まず、太陽圏について。太陽が放出する帯電性の、しかも超高速の粒子(太陽風)が届く範囲という。これも、私には想像もできないが、半径が180億キロメートル。
すごい距離だなあ。
「ボイジャー」1号は、その180億キロを越えて、時速6万キロで、190億キロあたりを飛んでいる。

星間空間というのは、恒星と恒星のあいだにある空間。太陽の光もほとんど届かない。そこにあるのは、水素ガスや、なんだか知らないけれど、チリみたいなものがチョッピリあるだけ。
ただ、太陽風がないため、宇宙のどこかから飛んできた電子が無数に飛び交い、その密度は太陽圏よりもずっと高い、みたい。
太陽から数兆キロ~~十数兆キロの場所に「オールトの雲」という領域がある。
ここが、太陽系の果て。

「ボイジャー」1号は、もう動力が尽きて、惰力で飛びつづけている。
通信用の電池も、2025年頃にはオシマイ。

「ボイジャー」1号は可哀そうだなあ。

そうやって、必死に飛びつづけて、「オールトの雲」のへりにたどり着くのは、300年後。その領域を通って、ついに、太陽系を走り抜けるのは3万年後。

300年後に、きみのことをおぼえている地球人はいないだろう。

私がワクワクするのは――3万年から以後に、ひょっとして別の宇宙人が、きみを「発見」した瞬間なのだ。その宇宙人は、きみを見て何を考えるだろうか。なんという幼稚なオモチャだろうか、とあきれるだろうか。あるいは、3万年か、4万年ぐらい前に、別の宇宙の下等生物が、こんなヘンなモノを送ってきたと判断して、さっそく返事をしようと、何かお返しを送ってくるだろうか。

それが地球に届くのに、また3万年か4万年ぐらいかかったら――

才能があれば、短編でも書いてみたいところだが。

 

1526

暑い夏がつづいていた。
ある日、藤 圭子の訃報を聞いた。(8月21日)
西新宿 の高層マンションから飛び降り自殺した模様。

彼女が死ななければならなかった事情は知らない。知る必要もない。だが、夏に死を選ばなければならなかったことに胸を衝かれた。

藤 圭子と面識はなかった。彼女のファンでもなかったが、テレビの放送で新潟に行ったとき、たまたまいっしょになった、というだけである。
美少女だった。

はじめて、藤 圭子の歌を聞いたのは、「新宿の女」(70年)だった。暗いトーンをもった女の子が出てきた、と思った。時代が暗かったわけではない。むしろ、狂騒の時代と見ていたので、時代の空気に同意しないような藤 圭子の歌は、シャンソンでいえばシャントゥーズ・レアリストの歌のような気がした。
たいていの演歌歌手のコブシや、ファルセットーなどと違って、藤 圭子の特質は、もっと成熟した才能といったものではなかったか。彼女に近いシンガーとしては、ちあきなおみ、梶 芽衣子とおなじ、シャントゥーズ・レアリストに属する。
「さいはての女」や「知らない町で」といった歌は、あてどもなくさすらう女の漂泊のモノローグだったと思う。
少女時代の藤 圭子が、貧しい暮らしをつづけていたことを知った。小さい頃から、目の不自由な母親といっしょに、流しで歌っていたという。幼い頃から、地方巡業をつづけていた。地方巡業といえば聞こえはいいが、ドサまわりだったのだろう。
おそらく人にいえない苦労もあったに違いない。

五木寛之のコメント。
「デビュー・アルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。「演歌」でもなく、「艶歌」でもなく、間違いなく「怨歌」だと感じた」。

私は、五木寛之論めいたものを書いたことがある。その中で、五木 寛之の、藤 圭子評価については、ほとんどふれなかった。そういう角度から、五木 寛之を論じてゆくのは私にはむずかしかった。
五木 寛之が、藤 圭子の「怨歌」に高い評価をあたえていることは知っていた。五木 寛之が、藤 圭子について、「演歌」でも「艶歌」でもない、「怨歌」だという見方を語っているのを知って共感したことをおぼえている。

藤 圭子は私たちの前から姿を消した。

私たちは、彼女の死とともに多くのものを失ったような気がする。

不謹慎だが、アメリカにいる宇多田 ヒカルは母の死をどう聞いたのか、そんなことを考えた。そして、歌手としての藤 圭子が、もう少し「艶歌」でも「怨歌」でもいいから歌いつづけてくれればよかったのに、と思った。私は、藤 圭子の選んだ死は、ヘミングウェイや、マリリン・モンローの死に近い「困難な死」だと考える。
なぜか、香港のスター、レスリー・チャンの死を連想した。

今はただ彼女の冥福を祈りたい。