1565

「どうすれば、上手にしめくくれるだろうか」などと考える人には関係がないのだが、ある長編のオープニング、そして、エンディングを思い出した。
まずは、オープニング。

「灰色にどんよりと夜が明けた。雲は重苦しく垂れこめて、雪になりそうな寒気がただよっていた。」

この長編は1915年に出たから、今から100年も前の作品だが、発表当時はあまり成功したとはいえなかった。批評家にも黙殺された。ただし、誰より先に称賛のことばをあげたのは、意外にもアメリカのシアドー・ドライザー。
この新人作家は3年後に「月と6ペンス」を発表して、あらためてこの長編も再評価されるようになった。「人間の絆」である。

そのエンディング、つまり「しめくくり」をあげておこう。

「彼は微笑して、彼女の手をとり、じっと抑えた――二人は手すりにしばらく佇んでトラファルガー広場に眼をやった。いろいろな馬車が、四方八方に走っていて、人影があらゆる方向に通り過ぎて行く。そして、陽が輝いていた。」

エンディングだけを見ると、簡潔だが、単調で、平凡に見える。しかし、「人間の絆」が、苛烈で、深刻な物語であることを知っている読者には、こういう「しめくくり」こそ、この大長編にふさわしいと思えるのだ。
新聞や雑誌で読んだ上手なしめくくりを採集し、キーワードで分類してパソコンに入力することを始めるような(ちょっとした工夫で)小説を読む楽しさが広がっていくようなことはない。

 

また、そんな工夫で文章が上達するだろうか。

 

 

1564

このエッセイの筆者は楽しそうに書いている。

文章を書き終えて、「しめくくり事典」を開く。関連する項目に目を通し,ヒントになる結びを見つけ、しめくくりの文章をさらに磨きをかける。これも結構楽しい自添削作業だ。難しいと思っていた結末の文章を書くのが、少し楽になっていく。

文章に上達しようと思ったら、まず他人の文章を模倣すること。もっとも効果的な方法は「書きうつす」ということ。

この助言はたぶん正しいだろう。志賀 直哉に私淑していた作家の尾崎 一雄は、まだ無名の頃,志賀 直哉の作品を筆写して自分の文体を作りあげて行ったという。
してみれば、他人の文章を模倣することは間違いではない。
ただし、「新聞や雑誌で読んだ上手なしめくくりの部分を採集し、キーワードで分類してパソコンに入力した」ところで、はたして参考になるだろうか。かつは、文章が上達するだろうか。

どうすれば文章が上達するだろうか。もし、私がそんな質問を受けたら――他人の文章の模倣はあまりすすめない。感銘を受けた結びの文章に出会ったら書きうつしてストックしたところで、実際には役に立たないだろうと思う。
(つづく)

 

 

1563

ある同人誌のエッセイを読んでいて,こんな一節を見つけた。

……文章に上達しようと思ったら、まず他人の文章を模倣することです。その
もっとも効果的な方法は何かといえば「書きうつす」ということでしょうか。

これは葉山 修平のことば。これをうけて、エッセイの筆者は考える。

感銘を受けた結びの文章に出会ったら書きうつしてストックし,それを模倣すれ
ばいいのではないか。学ぶは”まねぶ”なのだ。新聞や雑誌で読んだ上手なしめ
くくりを採集し、キーワードで分類してパソコンに入力することを始めた。

これを読んで思わず笑ってしまった

この筆者は、「新聞や雑誌で読んだ上手なしめくくり」を分類する。その分類項目は、期待、推測、疑問、楽しみ、反省など、50項目におよび、約700例を集めたという。奇特な人もいればいるものである。この分類は、「しめくくり事典」だそうな。

たとえば――「楽しみ」の例を見よう。

・生まれ変わったつもりで、ゆったりと生活を楽しもう。
・(日々の暮らしは、こんなちょっとした工夫で)楽しさが広がっていく。
・力を抜いて楽しんで生きるに限る。
・生きている限りは、若い日も老いた日も、それなりのたのしみ方をしたい。
・~になるなんて、なんだか胸がときめくではないか。
・ささやかな贅沢である。
・極楽だ。
・~を、今から楽しみにしたい。

この「しめくくり事典」を使えば、たちまち文章が上達して、このエッセイを筆者のように楽しそうに書けるかも。
(つづく)

 

 

1562

ジッドが「ロシア紀行」のなかで、レニングラードを憂愁にみちた都会と呼んでいるように、この街には滅びを見届けてきた翳(かげ)りのようなものがある。ツァールスコエ・セロに民衆が押し寄せて革命がはじまったことを知っているせいでそう見えるにしても、この街にはたしかに翳(かげ)りのようなものが隠されているのが感じられた。

ある日、私はネフスキー・プロスペクトを歩いている。
あの旧ロシア海軍省から、アレクサンドル・ネフスキー修道院に向かっているもっとも美しい街路だった。
ひろい交差点をわたって、帰宅をいそぐ人たちにまざりながら、ゆっくり歩道を歩きつづける。ここでも、さまざまなロシア小説のヒロインたちとすれ違うのだった。
ナスターシャの美しいまなざしが私に向かって、まっすぐ突き刺さってくる。タチアーナが、よろこびに全身をふるわせて、逢曳きの相手にむかってよく透きとおった声をあげる。ジナイーダの黒いスーツに、もう秋の気配の濃い黄昏の光りが動く。マーシェンカのまわりには靄のようなものがまつわりついて、彼女が恋を失ったばかりだということに気がつく。
ふと足もとに眼を落とすと、ふとい足、細い足、痩せた男のような胸や、まるで樽が歩いているような中年女のでっぷりした腰。まるで、ゴーゴリの民話に出てくる妖女、ウェージマや、地霊、ヴィーのようなおそろしげな女たち。いちようにサンクト・ペテルスブルグの街の顔をつけているのに、近づいて見ると、そうした人びとの隠しおおせない秘密な部分が、次第にはっきり眼についてくる。
それがまた、未知の旅にあるという私の心の揺れを誘うようだった。私の旅は、いつも気ままで、たいした目的もない、とりとめのない小さな街歩きなのである。

 

 

1561

1968年、渋沢龍彦の責任編集で、「血と薔薇」という、エロティシズムを中心にした高級な季刊誌が出た。
その後、2003年、「血と薔薇」の復刻版が「白順社」から出た。そのとき、私は、短いエッセイを書いた。以下、それを再録する。

 

「血と薔薇」のことを語るとすれば、やはり渋沢龍彦の思い出に重なってくる。
その渋沢龍彦を語るとすれば、矢牧一宏、内藤三津子夫妻や、松山俊太郎、種村季弘のことが重なってくる。
はじめてその風貌に接した人々。いずれも名だたる文人であった。といっても、私は誰とも親しかったわけではない。もともと野暮を絵に描いたような男だった。それでも「血と薔薇」の編集会議は、今思い出してもおもしろいものだった。そうそうたる酒豪がそろっているので、それこそ談論風発だった。渋沢龍彦はサド裁判を終わったあとだったが、席上、当時のジャーナリズムにかかわる話題は一
切出なかった。まして文壇を賑わせている人々のことは、誰ひとり口にしなかった。はじめから誰の関心も惹かなかったといえるだろう。
むろん、話柄にこと欠きはしなかった。なかには閨中のことにかかわる艶話もあったが、すべて風流滑稽譚で、皆で笑いころげたものだった。巫山風雨のことを語って、これほど高雅、剽逸な人々がいるのだろうか、と、野暮な私はひたすら感嘆していた。
あるとき、酒がまわるにつれて、座興のひとつとして松山俊太郎が連句を巻くことを提案した。渋沢龍彦を筆頭に、加藤郁也、高橋睦郎という巨星が居並ぶ席だった。だが、このとき、松山俊太郎が私を見てすぐに翻意した。ヘンリー・ミラーなどを翻訳する無風流、おそらく雪月花を知らず連句の作法に通じない愚頓と見たのだろう。私は恥じた。同時にほっとした。どんなに恥をかいたかわからなかったから。まことに筆の道はいとも尊きことにして、無筆の者の心にはものかがざるをうえもなき恥ずかしき事に思うべし。
ただし、今でも惜しい気がする。あのとき列席の人々による連句が試みられていたら「血と薔薇」を飾ったはずである。
渋沢龍彦も矢牧 一宏もすでに白玉楼中の人となった。孤り愴然たる思いがある。
 
 

「血と薔薇」の出発にあたって、渋沢龍彦が声をかけてくれたのは、私の不遇、非才を憐んでくれたのかも知れない。しかし、声をかけてくれたことはうれしかった。
私の「ブランヴィリエ侯爵夫人」という短い評伝は「血と薔薇」に発表するつもりで書いたもので、内藤 三津子さんの尽力で、おなじ「出帆社」から出版されたが、私はこの作品を渋沢龍彦に捧げている。いささかの文学的な敬意をこめたつもりであった。

松山俊太郎氏は病床にあると聞く。遠く離れている身にはいかんともなしがたいが、一日も早いご快癒を祈っている。

 
 

1560

ブログに何か書きたいのだが、うつらうつらして何も書けない。

寒中、アメリカに行ったときの俳句を披露させていただいた。
恥のうわぬりと知りながら、またまた、くだらない雑詠をおめにかけよう。

 

冬ざれや競輪場にいそぐ人

風をだに恋ふるを冬の茶をたてて

冬の夜やわけありしこと数えつつ

寒中や柳北の書ののびやかさ

女ひとりと言葉もなくて冬の午後

寒の街失語症めく午後にいて

食事してただ別れたり冬の宵

木枯らしに遠く夕焼け小焼けかな

たはれ男の恋のおろかや冬日和

焼酎にやや苦みあり冬の鍋

たちまちに盃の酒冷えにけり

小春日や逢うも別れもこの日まで

ふたたびは逢うこともなし冬の街

土砂降りの氷雨のなかを別れけり

冬ざれや贈られし著書二、三冊

冬ざれや頤(おとがい)細くなりしひと

寒空もおけら街道の師走なり

たちまちに日の昏れにけり師走六日

すれ違う人と目の合う師走かな

年の瀬や寄せ鍋かこむ娘たち

水鳥の 澪ひく池や 年の暮れ

句も詠まずせわしきばかり年の内

なにやかや焼き捨てている師走かな

去年の雪美貌の女流作家なりき

忙中閑あり師走に牡蛎を焼いて食う

大つごもり牡蛎雑炊を食いしのみ

大つごもり還らぬ日々を忘れめや

趣きは六道遊行の大晦日

大晦日なすべきほどのことをして

1559

そうこうするうちに、関八州を吹きまくる、あの空ッ風もようようおさまって、春がふたたびやってきた。

あのXXの境内(けいだい)、人ッ気(け)のない閑静な庭先に、枝垂(しだれ)桜がみごとに咲いていたつけ。

これが昔なら、
「湯にでも行って、せいせいしてこよう」
手拭いと、ヌカ袋を引ッつかんで飛び出すところだが。

下町育ちの私は銭湯が好きだった。

ご常連の爺サマ、ご近所の旦那衆は、たいてい二階にめいめい浴衣をあずけてある。
外から銭湯にやってくるなり、浴衣に着替えて、階下の番台に声をかけて、藤の籠に浴衣を入れる。素ッ裸になると、カランの並ぶ横を通って、湯につかる。
十分にぬくもってから、また二階にあがる。

冬ならば、お出花。夏ならば、砂糖水に咽喉をうるおす。さて、居合わせた知り合いの誰彼相手に、将棋の一番でもさして帰るという、悠長な仕組みになっていた。
町内のどら息子などは、半日、一日、湯屋の二階で、のんべんだらりとすごしていた。

私などは、まだ小学校のチビで、母親につれられて女湯に入っていた。昼間ッから、若い女たちが真ッ裸で、顔を見るなり、
「ボーヤ、いいねえ、お母さんといっしょで」
とか、
「おや、ちょっと見ないうちに、こんなに大きくなっちまって」
などと、笑顔の一つもみせてくれるおなご衆もいた。

叔父(私の母、宇免の弟)、勝三郎が、いわゆる零細企業ながら職工の四、五人も使って段ボールの函の製造業をやっていた。(私の父、昌夫が半分出資したので、名前も半分づつで「昌勝商会」という看板を出した。)
そんな職工たちが、仕事を終わって湯屋に行く。小梅橋のすぐ先の銭湯か、源森橋の手前の銭湯で、私もつれて行ってもらうことが多かった。
若い職工たちは、幼い私にはよくわからないことばで、近所の町工場の若い衆としょっちゅう悪所通いの相談をしていた。

「そうかい、すまねえな。だがな、オンブ(背負う)で行くなぁ肩身が狭いや、出し合
いで行こうじゃねえか。ウン? 案内してもらうからおごるッて。そうかい、すまねえな。
じゃ、ナンだ、次はおれがモツってことにしよう。初会(しょかい)からウラカベよ。
そィでもって三度目から、はじめてお馴染みてェことになるから、女郎買いも安かねえや。
XXちゃんなんざ、金にお構いはねえだろうが、ナンだぜ、アンなとこで見え張っちゃ
ぁいけねえ。なるべく安くあげて、おもしろく遊ぶのが道楽の極意とくらぁ。ま、おいら
にまかしときな。湯を出たら、どっかその辺で、一杯(いっぺえ)引ッかけて行こうじゃ
ねえか。エッ、酒が飲めねえ。飲めなくっても、飲んで行くんだ。シラフで出かけるなぁ、
ヤボッてえ(たい)じゃねえか」

幼い私の周囲には、落語に出てくるような人たちがたくさん生きていた。

1558

2020年のオリンピック招致がきまったとき、女優の滝川クリステルが、お・も・て・な・し・ということばを使った。これが一種の流行語になった。

おもてなし。たしかに、いいことばの一つ。

持て為す。または、以て成す。ふるまう。とりまかせる。

そこで、考えたのだが――これは、関東のことばなのか、関西のことばなのか。

東京の人が、大阪の人を訪問したとき、「まぁ、おあがり」といわれる。こういうノは、東京では、目下の人につかうことばで、かなり、ぞんざいな口のききようだね。東京者なら、「さぁ、どうぞ、おあがんなさいまし」というのが、ふつう。
ところが、大阪の「まぁ、おあがり」というのは、けっして失礼ないいかたではない。

逆に、東京ではおかしく聞こえるのが、物品に、さんをつけること。

「お豆さん」、「お芋さん」。

オリンピックで、外国のお客さんが、競技場にきて、ウロウロ自分のシートを探していたら、
「よッ、XXXの旦那、遠慮しないでおくんなせえ。こっちだ、こっちだ。さ、みんな、異人さんのすわるとこをあけて、おとりもちしてあげやしょう」

なんてコトは――ないだろうナ。(笑)

1557

昨年(2013年)「SMASH 2」が、アメリカではじまった。(日本では、おそらく字幕翻訳の関係で、ずっと遅く歳末から2014年2月まで放送された。)

私は、このブログで「SMASH 1」をとりあげた。「マリリン・モンロー」がテーマと知ってぜひ見ておきたかったし、マリリン・モンローについても、何か「発見」があるかも知れないと思って。

私は、キャサリン・マクフィー、ミーガン・ヒルティーという、ふたりの女優/シンガーの魅力を「発見」した。ふたりとも演技力はあるし、なによりも歌がすばらしかった。
当然、「SMASH 2」も見たのだが、驚いたことに、この第二部はまったく期待を裏切った。まるっきり精彩がない。信じられないことだった。
「SMASH 2」には「SMASH 1」の、あのいきいきとしたドラマとしての緊張がない。なぜなのか。
第二部の「カレン」(キャサリン・マクフィー)と「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティー)も、なぜか魅力がなくなっていた。「SMASH 2」全体に、ドラマとして緊張がなく、フォーカスもさだまらず、最後には見るかげもない駄作になっていた。

あのみずみずしい作品が、どうしてこれほどの失敗作になってしまったのか。

「SMASH 2」は2月に終わってしまった。日本でも、まったく評判にならなかったのだろう。最後には、ソチの冬季オリンピックの開催の影響もあったのだろう、放送時間までコロコロ変わってしまった。こうなると、シーズン・オフを目の前にしたプロ野球の、優勝チームがきまったあとの「消化試合」のように、このドラマは誰の関心も惹かないままいつの間にか哀れにものたれ死にしてしまった。

ただし、私は、なぜ「SMASH 2」がひどい失敗に終わったのか、その理由を考えている。批評家というものは、失敗作から多くのことをまなぶものなのだ。長年、おびただしい作品を読みつづけてきたので、たいていの人々よりは、小説やドラマの作法なり「結構」については考えつづけてきたと思う。
いずれ、このブログであらためて書いてみよう、と思う。

今は失望感がつよくて、何も書く気になれない。

1556

昨年の歳末からはじまったTVドラマ・シリーズを見た。「SMASH 2」。

「SMASH 1」のストーリーは――女優,「マリリン・モンロー」の生涯をミュージカル化する企画から、ベテランと新人2人の女優が「マリリン・モンロー」の役をめぐって競争する。これがメイン・テーマで、この公演をめぐってブロードウェイの演劇人たちの生態が描かれる。2012年、スティーヴン・スピルバーグのプロデュースということもあって、話題をさらった。

「SMASH 1」では――「マリリン・モンロー」の役をベテラン女優、「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティー)と、新人女優「カレン」(キャサリン・マクフィー)が争うのだが、稽古中に、劇作家/作曲家のチーム、演出家と「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティー)の「関係」や、「カレン」と恋人の緊張がからんでくる。
ドラマは、いよいよボストンでの試演(トライ・アウト)までこぎつけるが、最後の最後まで主役がきまらない。開幕まで数時間というピンチに、ぎりぎりのタイミングで、新人の女優「カレン」(キャサリン・マクフィー)が起用される。この試演(トライ・アウト)が成功すれば、次の段階で、いよいよブロードウェイでの本公演ということになる。

このTVドラマ・シリーズ、「SMASH 1」は、スティーヴン・スピルバーグのプロデュースで、視聴率もよく快調に展開していた。すぐにシリーズ化がきまったという。

 

1555

 
 私はアメリカに何を見たのか。

 たとえば、グレーハウンド・バス,ミッドナイト・フライヤー、サンダーバード・フォード、フリーウエイ、ジェット、ジュークボックス、ゴールデン・ウエスト。
 それらは、フルトン蒸気船、エジソンのレコード、チョコレートのハーシー、リグレーのガムなどと、ごっちゃになって私のアメリカになった。

 私は、ルイス・ジョーダン、ルシル、メイベリーンを聞きながら、一方で、ボブ・ディラン、ジェファーソン・エアープレーンを聞いた。ペリー・コモを聞きながら、リリー・ジャネルを聞いている。だから、私の「アメリカ」は、まるでごうごうと渦を巻く混沌とした世界なのだった。

 当時の私は、 ミュージカルの「シルク・ストッキング」、リリー・パーマーのノエル・カワードを見ながら、「W・C・フイールズと私」を見たり、マークー・トーウェンを読みながら,毎日,オスカー・ワイルドの戯曲を訳していた。私自身が、(他人から見れば)わけのわからない「おかしな、おかしな、おかしな世界」を生きていたような気がする。

 ようするに,アメリカの混沌は、いってみればそのまま私の「現実」なのだった。

 そんな私のニューヨーク雑詠を。

    異国(とつくに)に名なし小草の花を摘む

    騎馬警官のアヴェニュー 春を彩りて

    ブロードウェイ あやしき化粧 春の宵

  植草 甚一先生の泊まったホテルを選んで。

    ここにして古書集めてや 紐育の春

    春寒や ホテルの部屋に眼の疲れ

    ニューヨーク 坂緩やかに 春の朝

    花曇り ミモザの女に逢いに行く

    風のなか 紫と白のリラ揺れる

1554

 アメリカで見た映画で、いまでも鮮明におぼえているのは、日本映画の「愛のコリーダ」だった。日本で、はじめてファック・シーンが撮影された映画という。
 私は日本人として、この映画の公開にひどい恥ずかしさをおぼえた。ファック・シーンがあったからではない。きわめて程度の低い映画だったからである。

 劇場はほぼ満席だったが、映画の途中で、観客がゾロゾロ席を立って帰って行った。みんな、失望と、やるかたのない怒りを見せていた。ただ、黙って席を立った観客ばかりではない。スクリーンに向かって、大声で、「ジャパニーズ・ガール・キャント・ファック!」と罵声を浴びせる観客が何人もいた。

 私は、おそらくこの映画館にいたほんの数名の日本人のひとりだったはずだが、れいれいしく芸術作品と称してこんな程度の映画を撮った映画監督に対して怒りをおぼえた。
 私は、席を立たなかった。最後に、この映画の終映後、映画監督が挨拶すると聞いていたからである。

 たしかに、映画監督がステージにあらわれた。
 あろうことか、この映画監督は、銀色のラメのような生地で、まるでインド人のような服装で、舞台上手から緞帳の前に出てきて、残った観客に向かって、うやうやしく一礼し、おおげさに合掌してみせた。それも、日本人の行住座臥に、自然におこなう合掌ではなく、まるで横綱の土俵入のように両手を大きく肩の前につき出して、その手を胸もとでパチンと合わせるような大仰な仕種だった。私はあきれた。

 と同時に、この監督に怒りをおぼえた。以来、この監督にいささかも敬意をもたなくなった。名前は大島某という。

 おなじ、エロティックな映画監督でも、小森 白や、神代 辰巳の映画のほうが、大島某の愚作よりはるかにすぐれている。おなじように、エロティックなシーンを含む映画でも、ルイ・マルや、パゾリーニ、ズルリーニの映画のほうがずっと美しい。

 その日、私は別の映画を見に行った。不愉快な気分を癒すために。なんでもいいから映画を見たかった。どんな映画でも、「愛のコリーダ」以下ではないだろう。
 もう、私は何の映画を見たかおぼえていない。しかし、アメリカ人の観客といっしょに笑いながら見た。むろん、たいした映画ではない。しかし、たくさんの笑いが私の気分を明るくしてくれた。それだけでもうれしかった。

1553

毎日のように活動写真を見た。見たことのない映画ばかりだったから。
UCLA「バークリー校」には,キャパシテイー200、小講堂の映画館があって、日替わりでハリウッド映画、さらに世界各国の映画を上映していた。私は毎晩通いつめたので、モギリの女子学生が私の顔をおぼえてくれた。とても綺麗な女子学生だった。

私が見たサイレント喜劇は,ビビ・ダニエルズ、リア・デ・プチ、コリン・ムーアなどの2巻もの。長くても5巻もの、7巻ものばかり。途中でフランスのルイ・マルの映画も見た。(むろん、これはサイレント映画ではない。)
ある晩、市川 崑の「ビルマの竪琴」を見た。私は「俳優座」の養成所の講師だったことがあって、この映画には私のクラスにいた生徒たちがたくさん出ていた。
いい映画を見た感動と、遠い異国で思いがけなく知人に再会したような感傷もあって、暗い座席で私は涙を流した。

バークリー在住のレバノン人のレストランで。

春日遅く 異国の店のシシカバブ

1552

バークリーに行った頃の私は、映画女優、マリリン・モンローに関してモノグラフめいたものを書いていたし、もはや「戦後」でもなかった。私は、最初のアメリカ旅行中に、オスカー・ワイルドの戯曲をかかえて、ホテルで少しずつ訳していた。(これは、帰国後すぐに内藤 三津子女史の担当する「オスカー・ワイルド全集」(出帆社版)におさめられた。)

バークリーに行った頃の句作を。

春寒に 日替わりの活動写真見て

フラッパーのサイレント喜劇に 春たけて

メリケンの活動写真に 残る花

霧のシスコ 坂の残花の 散るばかり

はるばると来て見つ 花の水着美人

サイレントの笑(え)まう女に 昼の月

オペラを見て、サンフランシスコの、月の傾きかかった狭い街をとぼとぼと帰ってくるとき

劇場の灯火消えて 春の街

 

 

1551

私は、長いこと映画批評を書いてきた。
そのせいもあって、アメリカでも、ほとんど毎日のように活動写真、映画を見た。たまたま、UCLAの「バークリー校」の小ホールで、毎晩、映画のクラシックを上映していた。さすがに映画発祥の国だけあって、日替わりで上映される映画は無尽蔵といっていいほどだった。
私は毎晩通いつめたが、なんと私の原作を映画化した作品が1週間前に上映されていたと知って、残念だったことを思い出す。(日本では、今年になってはじめてDVD化された。)

戦争が終わって、空襲の恐怖が去ったあとにやってきたのが外国の映画だった。旧作映画が映画館に氾濫したといっていい。
戦意高揚を目的とした日本映画は、戦争が終わった瞬間まったく顧みられなくなった。戦後の大混乱と、はげしいインフレーションが、庶民の生活を直撃した。
戦後、一番はじめに公開されたのは、「ユーコンの叫び」という3流の「リパブリック映画」だった。1945年12月。これは、戦前に輸入されながら、戦争のためにオクラになっていた映画で、映画としては、ほんとうにくだらない活劇ものだったが――たいへんな大当たりになった。
なんといっても、敗戦直後なので、アメリカ人の国民性や、その気質、生活、ようするにアメリカに対する絶大な関心が、私たちを動かしていたせいではなかったか。

そのつぎに見たのが「鉄腕ターザン」だった。戦前に公開されたが,そのまま倉庫で眠っていたフイルムを、戦後のドサクサのなかで配給業者がいそいで持ち出してきたものらしい。この旧作も、たいへんな大当たりになった。
むろん、ジョニー・ワイズミュラー主演。再公開は1946年1月。つまり、お正月映画のハシリだった。

その翌月から、アメリカの占領政策で、ハリウッド映画がぞくぞくと公開されるようになった。(イギリス映画、フランス映画の公開は、ずっとあとになる。当然、ソヴィエト映画の公開もさらにあとのことになる。もっとも、当時のソヴィエト映画は、ほとんど見るべきものもなかったはずだが。)
アメリカ映画にかぎらず、外国映画に関心をもちはじめた私は、ストーリーのおもしろさもさることながら、映画で見るアメリカと、アメリカ人の生活を知ることに大きな関心があった。むろん、アメリカ映画に出てくる若い女優たちの美しい肢体に見とれたことのほうが多かったが。

1550

 ある時期まで私はアメリカ文学を勉強してきた。アメリカにも行ったことがある。そのアメリカでどこが好きかと聞かれたら、プロヴィンシァルな意味、サン・フランシスコをあげたい。
 もっとも、「ニュー・オーリーンズ」や、「ボストン」のチャールズ・ストリート、「ハックルベリ・フイン」のセント・ピーターズ・バーク、たとえば「ヨクナパトゥフア」(これは架空の土地だが)などを歩いたら、アメリカの印象もずいぶん違ったものになったはずだが。
 少し違ったいいかたをすれば、アメリカで美しい貞淑なブロンド娘、美しいけれど危険なまなざしをもつ、陰鬱で腹黒い女、あるいは、よく手入れされた口ひげの男たちにでも出会っていたら、私の俳句ももう少しダイナミックなものになっていたかも知れない。

   サン・フランシスコ雑詠

    美しき黒人娼婦よ 春の坂

    春に佇つ 黒 白 黄色 夜の花

    春浅く 足萎えの鳩の多きこと

    シスコには春の気配と 浮浪者と

    ホームレスひとり 坂の日を浴びて 春

 

 

1549

 

 まだ、寒い日がつづいている。
 高橋 淑子さんから、寒中見舞いをいただいた。その一節に、「わたしはほとんど隠居のように俳句などひねって暮らしています」とあった。これが、私の心を揺さぶった。私の境遇も、さしずめ横町の隠居のようなものだから俳句などひねってもおかしくないだろう。そんな気がしている。

しばらく前に……書いたのだった。
 「俳句や、歌舞伎、遊女のことなど、これまで書く機会がなかったテーマも、ときどき書くつもり」と。
 ただし、自分でもこれはと思う俳句などあろうはずはない。まして、人に披露するなど、聞かされる側にすればさぞや片腹いたいだろう。
 にもかかわらず、「横町の隠居よろしく」このブログで披露させていただく。

 題して「亜米利加紀行」。まずは、バークリー雑詠。

    シスコ湾(ベイ)の波のきららを横断す

    路上に遊ぶ 幼き姉妹の肌黒く

    黒人少女の眸(め)のきらめきも 春なれや

    杏咲く バークリーの街のたたずまい

    古書を買う バークリー 春のバーゲンセール

    春の路上 ノーベル賞学者とすれ違う

    春の朝 バークリーの起伏をジョギングして

1548

 昨年の歳末、杉崎 和子先生がアナイス・ニン研究会に私を招いてくださった。
 この研究会は年に何度かメンバーの方々が集まって、アナイス・ニンに関してそれぞれの研究成果を発表するという。

 私はたまたま日本で最初にアナイス・ニンを訳したというだけのことで,この研究会の集まりにお招きをいただいたのだった。杉崎 和子先生のご要望で、私はアナイスについて何か話をしなければならないことになった。
 私はアナイスの研究家ではないので、研究者の方々の前で話をするなど想像するだけでひるむ思いだった。

 ただ、私の周囲にもアナイス・ニンを好きな人たちは多い。その人たちに、あらためてアナイス・ニンについて考えてもらうことができるかも知れない。

 私は、立石 光子,谷 泰子,田村 美佐子,神崎 朗子たち、親しい作家の山口 路子に声をかけた。路子さんは、「軽井沢夫人」、「女神(ミューズ)」などの作品、あるいは、マリリン・モンロー、ココ・シャネルなどの「生きかた」のシリーズで知られている。路子さんは、日頃、アナイス・ニンへの愛,共感を語ってやまないひとり。彼女なら、現在の私がアナイス・ニンについて何を語るか,いささか関心をもってくれるかも知れない。

 むろん、短い時間にレクチュアするのだから、はじめから深いテーマを選ぶわけにはいかない。
 私は、16歳のアナイスが書きはじめた「日記」を読んだ。熱心に読み続けているうちに,ふとおもしろいテーマを思いついた。

 おそらく研究会のどなたも考えないようなテーマだろう。
 1915年、当時16歳の少女、アナイスは、どういう映画(サイレント)を見ていたのか。そんなところから、私なりの「アナイス論」を展開してみよう。

 現在、アナイス・ニン研究が、どういう展開を見せているのか私は知らない。私がはじめてアナイス・ニンを翻訳した頃は,わずかな文献上の資料があっただけで,モノグラフィー的な研究はまったくなかった。
 私が翻訳した時期、アナイスの「日記」もやっと1巻が出たか出ない時期で、ある程度まで、文学批評の対象として、その批判に耐えられる可能性をもった批評を書くことさえむずかしかったといえよう。
 そうした事情を考えながら,16歳の少女がどういう自意識をもって作家をめざしたのか、皆さんに考えていただくつもりだった。

 16歳のアナイスが書きはじめた「日記」は、今年、杉崎 和子先生の綿密なノートつきで刊行されるという。これはアナイス・ニン研究会の席上で伺ったことだが、私はうれしかったのと、アナイス・ニン研究が、杉崎 和子先生の努力で、ここまできていることに感慨をもった。
 そして、この日、山口 路子さんが、いつかアナイス・ニンについて書いてみたい、と語ってくれた。私は,この作家がアナイス・ニンをどういうふうに描くか、想像するだけで、うれしくなった。 

 

1547

少し長い引用を試みる。

イサク・ディーネセンの短編集「最後の物語」(1957年)I、処女性検査のありようを美しく描いた話がある。

この物語のトポスは、ポルトガルの深い山中にひっそりと建っているカルメル会女子修道院。物語はここに住んで、貴族の結婚の夜に用いられる純白の敷布を織っているなにやらあやしい歯のない女のナレーション。
この敷布を軸に、ディーネセンは、処女性の証明、子を生むことの不安、貴族社会の虚飾、状況を巧みに描いていく。

婚姻の夜、貴族の執事は、宮殿のバルコニーに王女の初夜の敷布を広げて人々に見せながら、作法どおりのラテン語で「ヴィルギネム・エアム・テネムス」(――われらは花嫁が処女であることを宣する)と告げる。

こうした布は――と物語はつづく――けっして洗われることもなければ、再び使われることもない。中央の「ヴァージナル・ブラッド」についた染みは切り取られて、敷地内の農園で布用の亜麻をそだてる女子修道院へもどされ、美しい贈り物用の額に入れられて、修道院の回廊の壁に飾られる。
それぞれの額の下には、小さな金の銘板がつけられている。

 

しかし、長い額の列の真ん中に、ほかのとはちがう布がある。額縁はほかのものに劣らず美しく、重く、そして誇らかに王冠を標した金の銘板があることも変わらない。ただ、この銘板にだけは名前が刻まれておらず、額縁のなかの亜麻布はは隅から隅まで雪の白さで、空白のページ。

 

イサク・ディーネセンの物語で、この空白のページが、大きな、そして深沈とした興味の対象となる。人目を引く形見の品――だが何の? 推量はされず、憶測もない。ディーネセンは、この汚れのない布をどう判断するかを語らず、女子修道院へ巡礼に訪れる貴婦人たちが、その額の前にじっと佇み、どのような思いにふけっているかの手がかりも与えない。

単一の処女の肉体、処女の存在、処女の膣というものはない。疑問はただひとつ――この女性が処女かどうか、どうしたらわかる? 無数の解答がなされてきた。ミョウバン、ハトの血、尿、ミントやハゴロモグサの煎じ薬などで。表、グラフ、臨床写真などで。しかし、幾度それを刻みこもうとしても、どれほど紙にペンを押しつけても変わりなく、わたしたちには永遠に同じ空白のページが残される。

私はこの部分を読んで、心を動かされた。感動したといってよい。
私は、しばらく本を読むのをやめて、ディーネセンのことを考えた。むろん、何も答えはない。ただ、私は「空白のページ」を見つめていたのかも知れない。

*「ヴァージン 処女の文化史」第六章 p.141
ハンナ・プランク著
堤 理華、竹迫 仁子訳

 

 

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Mistakes are part of the price to be paid for a full life.

ソフィア・ローレン。

 

へえ、こんなことをいう女優だったのか。

いいことばだと思う。

「人生の終わりを間近にして、このままの状態で生涯を終わらせたくない気持ちが日に日に募ります」という老人の言葉が胸に残った。
この言葉を聞かせてやりたい。