1585

「自分の人生のいくつかの時期に、いつまでも忘れられない、意味深いシーンがある」
若い頃の私が書いた一節。

「これもいつか、テレビで、ルイ・ジュヴェを見た。ぼくは学生時代から、雑誌の原稿を書きはじめたのだが、当時、「ルイ・ジュヴェに関するノート」などという、愚にもつかないエッセイを書いたほど、この俳優に関心をもっていた。いまでも、機会があったら、この偉大な俳優の評伝を書いてみたいくらいなのだが」と書いているのだった。

それから4半世紀後に、評伝、「ルイ・ジュヴェ」を書いた。さすがに感慨なきを得なかった。

古い雑誌をひっくり返していて、こんな文章を見つけた。

佐藤忠男氏の「アメリカ映画論」もさることながら、中田耕治氏の「私の点鬼簿」、菊地章一氏の「私の昭和二十二年」は、この人たちならではのモニュメンタルなものと感銘した。中田氏は一九四七年の太宰治に触れておられるが、学生だったぼくは、一九四一年に文京区本郷千駄木町の小さな喫茶店で、何人かの二・三十歳台の男たちに囲まれた太宰氏を見たことがある。コ-ヒ-もそろそろ手に入りにくくなりはじめたころで、銭湯から下宿に帰る途中であった。菊地氏も一九四六年あたりの思い出をしておられる。そうしたものを読むうちに、ぼくも昔のことを「体験」として書いてみようかなと考えはじめた。

 

筆者は、木原 健太郎。「国立教育研究所」の名誉所員、創価大学講師。このエッセイ
は、「公評」(1997年7月号)に発表された「戦中・戦後の体験」の冒頭の部分。

こんな短い文章でも、私には、いろいろなことどもが折り重なって押し寄せてくる。
一九四一年の太宰治は見たことがなかったが、太宰治の作品は読みはじめていた。
ただし、「右大臣実朝」も、「正義と微笑」も、まだ出ていなかった。だから、「新ハ
ムレット」あたりから読みはじめたような気がする。

じつは、私はどこで「一九四七年の太宰治に触れ」たのかおぼえていない。戦後すぐに
太宰治に会える機会があったのに、生意気な私は会いに行かなかった。太宰治に関心がな
かった。太宰治には小川 茂久が会いに行った。

1941年の私。私は中学生だった。この年の12月にアメリカ相手の戦争がはじまった。

 

 

1584

 サマセット・モームの「劇場」を読み返している。

 ヒロインは46歳になる名女優、「ジューリア」。小説のオープニングで、名女優を訪問した若者がいう。
 「ぼくが見に行ったのは、芝居そのものではなく、あなたの演技なんです」
 同席した夫の「マイケル」がいう。
 「イギリス演劇華やかなりし頃だって、大衆は、芝居を見に行ったんじゃない。役者を見に行ったんだ。ケンブルや、シドンズ夫人が何をやるか問題じゃなかった。ただ、役者を見に行くことだけが問題だった」と。

 こんな数行から、私の夢想がはてしなくひろがってゆく。

 「忠臣蔵」六段目。「早野勘平」が、帰宅する。猟着を脱いで、浅黄、羽二重に着替える。
 観客にうしろを見せて肌襦袢ひとつ。その背中に「お軽」が着物をかけてやる。袖に手を通す。「勘平」は正面をむいて前を袷、帯びをしめる。ただ、それだけの動きだが、羽左衛門(15世)のすっきり洗練されたてさばきのみごとさ。中学生の私でさえ、見ていてほれぼれとした。
 私も歌舞伎を見に行ったのではない。役者を見に行ったのだった。

 モームの「劇場」のヒロイン、名女優、「ジューリア」は、18歳で、プロデューサー(といっても、芝居に関することなら何でもこなす根っからの芝居者)「ジミー」に認められる。
 「あんたは、あらゆる要素をそなえている。背丈はよし、体格はよし、顔はゴムみたいだし」
 つまり、ゴムのように伸縮自在ということ。いまどきこんな褒めことばを聞いたら、たいていの女優さんはいやな顔をするだろう。こんなセリフひとつにも――「ジミー」の押しのふとさが見える。ニタリとしているモームの顔も。

 「とにかく、そんな面(つら)こそ、女優にゃ打ってつけなんだ。どんな表情でも見せられる。美しくさえみせられるお顔(ハス)ってもんだ。心をかすめる、ありとあらゆる感情をジカにだせる顔ときている。あのドゥーゼのもっていた面(つら)だ。昨夜のあんた、自分じゃ気がついていねえが、そいでも、きらっきらっと、セリフが表情に出ていましたぜ」

 ドゥーゼは、イタリアの名女優、「エレオノーラ・ドゥーゼ」。
 ただし、ドゥーゼが「劇場」に出てくるのは、ここだけ。 

1583

 地中海に面して、あまり観光客の寄りつかない、小さな岬にその美術館はあった。

夜の漁港で男の子が釣りをしている。このピカソの版画は、カンヌに行く途中で見た。小さな美術館だが、ピカソの版画をたくさん展示していた。

ピカソの版画、とくにヌードを見ながら、女子学生、Nを思い浮かべた。

画家志望。ヌードを描きたいが、モデルがいない。女の子の誰かと交換でヌードになってもいい。ある日、Nは私に語った。

Nは特定の恋人はいないけれど、あるロック・グループの男の子と寝ている。セックスの快感はふつうではないかと思う。
ウィグが好き。ファッションも好きで気に入ったものもあるけれど、貧乏な女子学生なのでなかなか買えない。
本はよく読む。しかし、読んでいるうちにその世界に入ってしまうので、自分でも収拾がつかなくなる。
今はすごく幸福だけれど、そのうちに「鬱」がやってくるような気がする。落ち込むと自殺したくなる。
「私が死んだら、先生、泣いてくれるかしら」

Nは、私のクラスにきていた。

当時,私は9時20分から授業をはじめるのだった。Nは欠席している。どういうものか、今朝の授業はあまりうまくいかない気がする。
何か質問は? と水をむける。生徒たちのほうも、授業なんか聴きたくない。「先生の青春時代のことを話してください」

こういう質問はうれしくない。
私に青春時代などどこにもない。戦争中の勤労動員、すさまじい戦災の話など、女の子たちに聞かせても仕方がない。しかも、そんな話は何度も話しているので、自分でも話の段どりができてしまっている。それでも女の子たちは、はじめて聞く話なので、神妙な顔をして聞いてくれた。

授業のあと、一階の「生協」の前で休んでいると、別のクラスのMが絵をもってきた。私が企画した「マリリン・モンロー展」に出品する絵だった。私は「マリリン展」に、旧知の画家、スズキ シン一と、人形作家の浜 いさをの作品を並べるつもりだった。ほかには、この美術大の女の子たちに協力してもらうつもりだったが、これに芸術学部の助手、吉永 珠子が協力してくれた。

夕方、新宿の「伊勢丹」で「アルベール・マルケ展」を見る。
落ちついた画風がいい。ヌードは2枚しかないが、どちらもすばらしい。この絵を見ているうちに、Nにもぜひマルケのヌードを見せてやりたいと思った。

その半年後、Nは私のクラスに出なくなった。

 

 

1582

宮 林太郎さんのことを思い出す。

「日記」に、私あての手紙が出ている。私が送った写真の礼状の最後の部分に、

 

「中田さん、ぼくが死んだときにはローソクを一本もってきてください。それに火をつけてください。それをぼくの一生だと思ってください。ローソクは小さいのでも適当に。ぼくには関係ないがローソクは燃える。あのローソク、ぼくには意味がないと思っていたが、あれでなかなか素晴らしい。彼は燃えるのです。それはやがて消えるのです。そのあいだあなたはそれを見守っていてください。まあそれぐらいの時間はあるでしょう。それが一人の男の人生です。燃えて消えてゆく。そいつです。燃えているあいだは「七年目の浮気」もする。悪事もする。やがて消えてゆきます。
どうもぼくは説教くさくなってきた。まあ、ローソクは持ってきてください。それに火をつけてください。そこで変な俳句、

一本のローソクなりし我身かな

愚かにも燃えてつきたる我身かな

こういうのは芭蕉も書けなかったと思います。

木枯らしや 夢はパリを駆けめぐる       宮 林太郎 」

  

今の私は、これを書いた宮 林太郎さんとほぼおなじ年齢になっている。

こういう手紙は私には書けない。たとえ書いたとしても送るべき相手がいない。

宮さんはほんとうに幸福な作家だったと思う。いろいろな意味で。むろん、私は宮さんを羨望しているわけではない。

宮さんは、この手紙のあと、また私のことにふれ、発売されたばかりの雑誌「フィガロ」を私のために一冊余分に買っておいて「中田耕治さんが我が家によってくれたときに、お渡しすることにしている。パリを少しばかり中田さんにおすそわけしたいからである」と書いている。

私は、何冊か「フィガロ」を頂戴した。宮さんが、「パリを少しばかりおすそわけして」くださる好意はうれしかったが、この雑誌で美しい肢体を見せている美女たちにまったく関心がなかった。
たとえば、コンコルド広場の正面に建っている「クリヨン」を見て、昂奮することはない。裏通りにあって、部屋代が、数十フラン、色褪せた赤いカーテン、大きな鏡、蝋燭のほうが似合っている燭台、純白とはいえないが、いちおう白いシーツ、やたらに大きなベッド、これまた大きな姿見。そんなホテルのほうが私の好みにあう。
「フィガロ」の美女には及びもつかないが、麿身をおびた肩、それなりにきれいなカーヴをえがく下腹部、腿から下がきゅうに細くなっていたり、洋梨のような乳房に少し疲れが見える女たち。そんな女の伝法なフランス語に、イタリアなまりを聞きつけるほうが、私にはうれしいのだった。

しかし、今の私は、宮 林太郎さんが、貧寒な私の人生に「パリを少しばかりおすそわけして」してくださったありがたさを思う。

 

1581

竹本 祐子の絵本、「桜の花の散る頃に」を読んだとき、私は惨憺たる敗戦前後の日々を思い出していた。「貴佑」の世代にとっては、戦争は私の世代よりももっと苦しい記憶に彩られているだろう。
私自身は、「学徒出陣」しなかったが、最後の第二国民兵という兵籍に編入されて、戦争の暗い記憶を心に刻みつけている世代である。

「桜の花の散る頃に」のなかに、印象的な一節がある。

 

めぐりあわせで、

運がよかったと思っても、
結果として、ちがっていることもある。

運がわるかったと思っても、
よい結果にかわっていることもある。

 

私は、「学徒出陣」の日、神宮外苑の大スタジアムの片隅にいた。首相、東条 英樹の肉声で、英米撃滅の激励演説を聞いた。それにつづいて、すべての大学の先輩の学生たちが、小銃を担って、降りしきる雨のなかを行進してゆく。会場をゆるがす大歓呼のなかにいて、私も声をからして、「貴佑」の世代につづくことを誓ったひとり。

そして、桜の花の散る頃になると、私も、「貴佑」とおなじように、若くして死ななければならなかった友人たちのことを思い出す。なにしろおなじクラス50名中、26名が帰らぬ人となったのだから。

竹本 祐子の「桜の花の散る頃に」は、私にとっても痛切な思い出が重なっている絵本だった。  (2)

☆注 竹本 祐子著、「桜の花の散る頃に」¥1600
(郷土出版社/〒399-0035 松本市村井町北1-4-6
Tel 0263-86-8601)
http://www.mcci.or.jp/www/kyodo/

 

 

1580

今年の春、ちょうど桜の花の散る頃に、竹本 祐子が、絵本、「桜の花の散る頃に」を
出版した。

長野県松本市の「郷土出版社」から出ている「語り継ぐ戦争絵本シリーズの1冊で、テ
ーマは「学徒出陣」である。

主人公は、大正10年にうまれた「貴佑」(たかすけ)という少年。5人兄弟の末っこ。「たあ坊」と呼ばれている。負けずぎらい。子どもの頃、跳び箱の練習をしていて、手を複雑骨折した。

昭和15年、少年は早稲田大学に入学する。

翌年、太平洋戦争が勃発する。
「たあ坊」の兄たちも、軍需工場に働きに行くようになる。

昭和18年、戦局は日本に不利になり、それまで徴兵を猶予されていた学生も、戦争にかり出されることになった。
「学徒出陣」であった。

「貴佑」は、同郷の学生たちといっしょに、松本の部隊に入隊する。機関銃隊に配属されたが、豊橋の予備士官学校に入学。やがて、松本に戻り教官として新兵の訓練にあたるよう命令される。ほかの生徒たちは、南方に配属されて、それぞれの戦線に送られた。

戦時中・・・卒業、または学業終了のかたちで応召した学徒兵は、それぞれの原隊に配属されたとき、軍事訓練の成績で、「士官適」、「下士官適」、「兵適」、「不適」というふうにカテゴライズされる。私の場合は、中学からスキップして、大学にはいったが、徴兵猶予の年齢が下げられたため、1945年5月に「点呼」を受けて、「第二国民兵」に編入された。
「貴佑」は、徴兵検査では丙種だったらしいが、戦況の悪化で、この基準もゆるくなったらしく、私は第二乙という評定だった。
大学生といっても、なにしろチビで、ド近眼だったから、軍事訓練の評定は、おそらく「兵適」か、せいぜい「下士官適」だったと思う。

「たあ坊」の場合、豊橋の士官学校に配備されたのだから、当然、成績優秀で「士官適」だったに違いない。すでに戦況は悪化の一途をたどっていたから、おそらく本土決戦の要員としての訓練をうけていたものと思われる。
千葉などでは、ガソリン不足のため松根油の掘り出しや、九十九里浜にアメリカ軍が上陸するという想定で、塹壕掘りに巨木を切り倒す作業ばかりやっていた。1945年には、満足に飛べる航空戦力もなくなっていた。

1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏した。   (1)

 

1579

「戦後」、ヒルデガルドが出たハリウッド映画は、たいてい見ているはずだが、もう内容もおぼえていない。ただ、戦後のドイツ映画で、「題名のない映画」だけは、よくおぼえている。
デュヴィヴィエの「アンリエットの巴里祭」に近い映画だったので。

この「ヒルデガルド」を見てから、ヒルデガルド・ネフは、私の好きな女優になったのだった。

CDの半分は、ヒルデガルドの作詞。
ドイツ語もわからないのに、「ILLUSIONEN」という曲に感動した。

ヒルデガルドはブレヒトの「三文オペラ」の「メッキ・メッサー」も歌っている。ブレヒトの「彼女」だったロッテ・レーニャの歌で知られている。
ほかにも、たくさんのヴァーションがある。

たとえば、アメリカのサミー・ディヴィス・Jr、イギリスのマリア・ユーイング、フランスのマリアンヌ・フェイスフル。
私は、(ソヴィエト崩壊後の)ロシアのリューバ・カザルノフスカヤのカヴァーを聞いて、「メッキ・メッサー」に立ちこめるスラヴの匂いに驚いたことがある。

ヒルデガルドの歌は、なんというか、ひどく辛口な歌になっていた。なにしろ、ドイツ語がわからないのだから、私の受けた感じが間違っているかも知れない。しかし、1945年、女だてらにベルリン攻防戦に参加し、ロシア軍と戦って降伏したヒルデガルドが、「戦後」になってブレヒトを歌っている。

私はそのヒルデガルドに感動したのだった。

1578

この夏、私は何も書かなくなっていた。暑い日がつづいている。何もしたくない。しばらく外出もしなくなっている。

気分転換のつもりで、ヒルデガルド・ネフを聞いた。

「IHRE GROSSTEN ERFOLGE」(ライヴ・イン・コンサート)KARAT。全14曲。

ヒルデガルドは、ドイツの女優。戦時中、ナチの映画官僚の2号さんになった。ソヴィエト軍のベルリン侵攻に、彼女は男装して抵抗した。戦後、舞台に立ったが、美貌だったためハリウッドに呼ばれた。この時は成功しなかったが、ドイツ映画のスターになった。 しかし、戦後の反ナチ気運にさらされ、殆ど亡命者のようにハリウッドに移り、たくさんの通俗アクションものに主演。
はるか後年、東西ドイツが統一されて、ヒルデガルドの伝記映画が作られた。

私は、この映画が東京で上映されたとき、親しい人たちといっしょに見に行った。ドイツ語がわからないので、原題や、監督、出演した女優さんの名前もわからない。パンフレットももらえなかった。だが、「ヒルデガルド」はすばらしい映画だった。
ほぼ、同時期に、マリア・カラスや、レイ・チャールズ、エディト・ピアフたちの伝記映画が作られて、それぞれすぐれた映画だったが、「ヒルデガルド」は抜群の作品といってよかった。

私の内面には、この映画のすばらしさが刻み込まれた。「戦後」のドイツ映画についてはほとんど知らないのだが、「ラン・ローラ・ラン」、「最後の5分間」以上の傑作だった。

この映画で――ヒトラーが最後にたてこもったベルリンに、ロシア軍が侵攻する。市民や、少年たちまでが抵抗する。ヒルデガルドも男装して、一兵卒として抵抗した。だが、ベルリンは陥落する。敗残兵として逃げる途中、ロシア兵に包囲されて降伏する。連行される途中、尿意をもよおすが、男装しているためにほかの捕虜のように orinare できない。
ヒルデガルドは、最後にズボンをはいたまま、gocciolarer する。そのため、女兵士と見破られてしまう。
生きるか死ぬかという恐怖の極限状況で、女優がオモラシする映画ははじめて見たが、見ていて感動した。その後の、ヒルデガルドがどういう危険にさらされたか。満州やカラフトに侵攻したソヴィエト軍の恐怖を知っている観客は戦慄したのではないか。

1577

2014年7月6日、土曜日。
田栗 美奈子が電話で知らせてきたあと、すぐに村田 悦子からも電話があった。彼女も野沢 玲子の死を知って悲嘆にくれ、声がかすれていた。

お通夜に出席してくれた田栗 美奈子は、式場に飾られた野沢 玲子の写真と、列席した仲間たちの写真を送ってくれた。
堤 理華も手紙で、野沢 玲子のお通夜のようすをつたえてきた。

 玲子ちゃんは青い服を着て、ワインを片手に祭壇の中央で、いたずらっぽく、幸せそうにほほえんでいました。美しい祭壇でした。白を基調に薄いピンク、紫、青の花々に緑の葉をあしらい、船のような、雲のような、玲子ちゃんにとてもよく似
合っていました。最後、お顔をみることもできました。きれいなピンクの口紅をさしていました。

森 茂里も手紙で、野沢 玲子のお通夜のようすをつたえてきた。

悲しみが胸にあふれて、涙がとまらなくなっていた。

玲子さん。

私は、きみの死がまだ信じられない。いつも、きみのウィットにとんだ話を聞くのが、どんなに楽しみだったことか。きみの魂のなかには、なんというすばらしい世界が隠されていたか。ワインだけではない。

梅雨寒や ワインの味に 思ふこと    中田 耕治

いずれきみに会えるだろうと思う。そのときは、ワインを飲みながらヴァージニア・ウルフの芝居の話をしよう。「波」だって「ダロウェイ夫人」だっていいさ。
天国にもワインぐらいはあるんじゃないかな。きっと。

 

1576

翻訳家として、野沢 玲子はいい仕事をつづけてきたと思う。
最後の仕事は、この秋に出ることになっていたとか。その出版を見ずにこの世を去ったのだから、さぞ無念だったに違いない。

野沢 玲子の訃報を聞いたとき、彼女の訳した本を読みたかったが、すぐには見つからなかったので、エッセイをいくつか読み返した。
エッセイの一つに、野沢 玲子は書いていた。

 大学時代から、ずっと執着している作家がいる。あちらがわとこちらがわでさまよい続けながら創作をつづけ、最後はやはりあちらがわに行ってしまったイギリスの名女流作家、ヴァージニア・ウルフだ。

2003年に書かれたエッセイ。だから、玲子はまったく「晩年」ではなかった。だが、彼女は、こうした「晩年」を心に刻んで生きつづけていた芸術家だったのか。私は、このエッセイを読み返して、何も気づかなかったことを心から残念に思った。
玲子さんは、ヴァージニア・ウルフといっしょに、「あちらの世界に行く一歩てまえの意識を満喫しながら」亡くなったのかも知れない。

このエッセイの末尾に――

  晩年(っていつから?)は、彼女とともに、あちらの世界に行く一歩てまえの意識を満喫しながら死にたい、というのが、わたしの願望である。
欲を言えば、ウルフの小説「波」をいつか芝居にしてみたい。いつだったか、それを言ったときの中田先生の目をまんまるくされたお顔が、満月に重なった。
        「火星を見ながら思ったこと」

いつだったか、きみがヴァージニア・ウルフをあげたとき、一瞬、「波」を脚色してみようか、そんな考えが私の心をかすめた。しかし、まだ、「不思議の国のアリス」も上演していなかったし、私たちが芝居をつづけられるかどうか、それさえもむずかしかった。
ヴァージニア・ウルフ劇化など、夢のまた夢だったが。

「もう一度お芝居をやりたいわね、先生」
きみは、遠くを見るまなざしになる。
「いつか、きっとね」
私にもおなじ思いがあって、それ以上何もいわなくても通じあえるのだった。

しかし、私たちの芝居は実現できなかった。
ただ、「波」の1章をえらんで、それぞれのモノローグをならべて、ドラマのエクストレ(抜粋)として演出することは不可能ではない。
当時の私は、そんなことも考えた。私のクラスは、どんなナンセンスなことでも「アイディア」として、それも「誰も試みそうもないアイディア」として押し切ってゆく自信があったのだが。      (5)

 

 

1575

その後、テネシー・ウリアムズの「浄化」をやった。これも、私の訳。この芝居は、いろいろな機会に、いろいろな劇団の女優をつかって演出してきた。
「SHAR」の舞台では――田栗 美奈子を「エレーナ」、野沢 玲子に「ルイーザ」というキャストで稽古をつづけた。
田栗 美奈子と野沢 玲子が、直接、わたりあう場面はない。しかし、ふたりが出るシーンで、いつも舞台に輝きがますことに気がついた。もともと原作がそういうかたちをとっているからだが、しかし、ラテン・アメリカの民族衣裳の玲子、純白のウェディング・ドレスの美奈子が出てきたとき、一瞬、私は夢を見ているような気がした。こういう時の演出家は、ただもううれしくなって、あまりのうれしさに不安をおぼえることさえある。
私は、この二人のエスプリにひそかに舌をまいたのだった。

野沢 玲子が、長ゼリフのあと、キッと顔をあげたとき、南アメリカの片田舎の太陽がギラギラと輝くようだった。このとき、なぜか誰かに似ているような気がした。誰だっけ? ずっとあとになってから、イタリア系の、エロティックな女優、アイリーン・ボルドーニに似ているような気がした。むろん、そんなことは話さなかったけれど。

やがて、私は、アリス・ガーステンバーグの「不思議の国のアリス」を上演した。
20年代のアメリカの女流劇作家がルイス・キャロルを脚色したもので、クラスの人たちが訳した。それを私がさらに脚色したのだが、この舞台は、その時期の「SHAR」の総力を結集したものだった。
「不思議の国のアリス」上演という途方もない思いつきは、クラスの何人かの芝居好きな人たちの賛成を得て、実現することになった。このとき、私の思いつきを誰よりも熱心に支持してくれたひとりが野沢 玲子だった。

私は野沢 玲子に「イモムシ」の役をやらせた。たいていの役者なら、もっといい役をやりたがるところだが、野沢 玲子は、まったく不平をいわずに引き受けてくれた。「イモムシ」は動きのない役だったので、私はわざわざ舞台下手に彼女を置いた。「イモムシ」で動けないからこそ、いちばん目立つイドコロを選んだのだった。黄色とグリーンの長いピロウを抱かせて、「イモムシ」の特徴を強調した。彼女には何もいわなかったが、演出上の意図を即座に理解したらしい。そして、これも成功したと思う。

「アリス」には、いい思い出がいっぱいある。たとえば、今は一流の翻訳家になっていた岸本 佐知子が飛び入りのようなかたちで「トランプの兵隊」のひとりになって出てくれた。すぐに動きをつけたが、セリフはない。終幕、「白の女王」(田栗 美奈子)と、「赤の女王」(堤 理華)のあいだで折れ重なって死んでしまう。それだけの役なのに、心から楽しんでやってくれたのだった。

「不思議の国のアリス」は成功した。

芝居が終わって、舞台が明るくなったとき、出演者たちが、笑いさざめいた。みんなが芝居の成功に昂奮していた。みんなが握手したり、手に手をとってピョンピョン跳ねまわったり、よろこびの言葉をかわしていた。私はカーテンコールで花束をもらった。
芝居がうまく行った経験のある人は、こういう瞬間の感動が、どんなに純粋によろこびとして感じられるか知っているだろう。

私は、「アリス」や「白の女王」、「赤の女王」たちに、つぎつぎに声をかけた。
イモムシのピロウを抱えた玲子がいたので、私は、彼女の肩に花束をのせて、
「イモムシ、よかったよ。とっても楽しかった」
と、声をかけた。
野沢 玲子は、はずんだ声で、
「よかった。(先生の)芝居に出られて」
大きな眸がいきいきと笑いかけてくる。  (4)

1574

私の選んだ芝居は、テネシー・ウィリアムズの一幕もの。できるだけ短いもの、登場人物の少ないもの、費用をまったくかけないで、ただ、ゲキバンのように音楽のCDを使って効果をあげる。現実には――まるで小学校の学芸会程度の貧寒な舞台だったが。

このあと、私はドストエフスキーの小品を脚色したり、ピランデッロの一幕ものを翻訳して、クラスの皆さんに、セリフを覚えさせ、簡単な(もっとも初歩的な)動きをつけたりして、なんとか芝居らしい試みを始めた。

ピランデッロの戯曲は「花の女」という、当時としてはめずらしい不条理演劇。
登場人物は、女が2人。ローマに帰る最終列車に乗り遅れて、駅で泊まることになったブルジョア夫人と、駅の安食堂で働いている「女」。お互いに何の共通点もなく、なんの関係もない女ふたりが、深夜、もう汽車も通っていない時間に、お互いの女としての生きかたのすさまじいコントラストに気がつく。それだけの話だが、ピランデッロの原作を私が脚色したものだった。
私はこの主役の「女」を、野沢 玲子にやらせた。相手は、竹迫 仁子。

この稽古に入ったとき、すぐに気がついたのだった。
野沢 玲子が、本気でこの芝居にとり組んでいることに。

田舎の駅の安レストラン。最終列車が出たあとで、旅行者の上品なマダムが入ってくる。ここで働いている女は、早くかたづけて自分の家に帰ろうとしている。
とりとめのないやりとりのなかで、二人の女のコントラストが、ギラギラと浮かび上がってくる。後半は、ほとんどが「女」のモノローグ。
おぼえるだけでもたいへんな長さだったが、「女」の長いセリフに、どうしようもない孤独がにじみでていた。この孤独感は、イタリアの女たちのはげしい闘いや、気性のはげしさに裏打ちされている。しかし、カンツォーネや、ダンス、美酒美食を好み、男を愛し、おおらかで、何にまれめげない「女」。
野沢 玲子はそういう「女」になっていた。

私がいっしょに仕事をしたり、また、舞台のソデで観察する機会があった俳優、女優たち。私は、いつも才能のある俳優や女優たちに魅せられてきた。
その反面、才能のない俳優や女優たち、ようするに、おツムの弱い女優たちがじつに多いことにも驚かされてきた。新人にかぎらない。だれがみても才能のある有名な人たちの芝居にも、どうかすると、吐き気がするほどいやらしいものが見えることもある。ここでは例はあげないが。
野沢 玲子はプロの女優ではない。プロの女優がきたえぬいたテクニックと較べたら、笑いたくなるほど稚拙な芝居を演じていたかも知れない。しかし、私は、彼女の芝居に、真摯で、じつに誠実なものを見とどけて、心を動かされた。

芝居は、野沢 玲子にもう一つの自由をもたらした。それは翻訳という囲いを取っ払って、それまでほどくのに苦労した結び目のようなものを、一撃のもとに絶ち切った。
私は自分が脚色したピランデッロが、たった今、ここで書かれたばかりの芝居で、そこに登場してくる野沢 玲子はまさにピランデッロの「女」なのだと思った。

「花の女」の稽古で長丁場のセリフがつづくにつれて、玲子の輝きがましてくる。感情の昂りとともにみるみる頬が紅潮して、よく少女に見られるような色がみなぎってくるのだった。
玲子の演技を見ていると、イタリアの「女」の、現実の深い裂け目に落ち込んでゆくような気がした。そのセリフは、まるで彼女自身が投げつけたコルテッロ(ナイフ)のように、私の肺腑をえぐりつけた。
見ていて感動した。

おかしな話だが――若き日のマルタ・アッバ(ピランデッロ劇団の女優)も、きっとこんな芝居をしたのではないか、と思った。   (3)

1573

かなり長い期間、ある翻訳家養成のクラスで教えていた。このクラスから、多数の翻訳家が出た。

その後、安東 つとむの努力で、私は別のかたちで文学講座をつづけた。ほぼ同時に「SHAR」というクラスをはじめた。野沢 玲子はそのメンバーだった。
私の講座、クラスにきてくれた人には、すでに翻訳家として知られている人たちも多かった。私としては、「SHAR」での勉強では、もう少し違うかたちでクラスの人々の才能を伸ばして見たかった。

生徒の大半は若くて魅力的な女性だった。私はそんな女性たちに囲まれるのが好きだった。ただし、私の彼女たちはまず才能があって、美しくなければならない。
女性たちの集まりによく見られる、あの絶望的な嫉妬や、そねみ、羨望などをもたずに、お互いにのびのびとした友情や、同志愛といったものをもつこと。
私のクラスにきてくれる女性たちが、ごくありきたりのアンチミテ(親密さ)以上の、何かを得たほうがいい。

才能があって、おまけに美しい女性たちに囲まれることが幸福でないはずがない。野沢 玲子も才能があって、美人だったし、もっとすばらしいことに、ゆたかな感性を身につけていた。玲子が大学で,演劇をやっていたことを知った。
翻訳のことを話題にしたことはほとんどなかった。話題は、いつもきまってニューヨークのオフ・ブロードウェイのこと、音楽のこと、ワインのこと。

「いつかお芝居やりたいわ。やりましょうよ、先生」
玲子は私の顔をみるというのだった。
「うん、そうだなあ」
私のクラスではいささか場違いな話題だったが、遠い時間に身を戻すことで、つかの間、お互いの夢をたしかめようとしていたのかも知れない。

戯曲を翻訳すること、できればそれを実際に舞台にかけること。
途方もないアイディアで、ふつうの市民講座程度のレヴェルなどでは考えられないことだろう。しかし、私はクラスにきている人たちに、実際に芝居をさせるという思いつきに、自信というかはっきりした成算があった。

私は、みんなで戯曲を翻訳してそれを実際に舞台にかけようと考えた。
最初に、アリス・ガーステンバーグの一幕もの、テネシー・ウィリアムズの「罠」をやってみよう。

野沢 玲子は、私の考えにはじめから賛成してくれたひとりだった。
彼女たちと「夢」を語りあうことがなかったら、私の人生は、なんと退屈で、みじめなほど貧しく、灰色だったことだろう。こういう「夢」を、おのれの魂のなかに、そっともち続けることができる人は、やはり幸福なのではないだろうか。

長いこと小劇団に関係して、だいたい頭のわるい女の子ばかり見てきたおかげで、確信したことがある。頭のいい女性は、例外なくいい女優になる素質をもっている、と。
(2)

1572

2014年7月6日、この日は朝から曇っていた。
午前中に電話があった。田栗 美奈子からの電話だった。いつも明るい美奈子ちゃんの声が曇っていた。
野沢 玲子が亡くなったという。
お互いに共通の友人、青木 悦子から連絡があって、すぐに私につたえてきたのだった。私は息をのんだ。信じられない知らせだった。野沢 玲子は5月、ゴールデンウィークに異常を感じて病院で診察を受けたが、すでに残された時間はなかったらしい。

内面の深いところに、するどい痛みに似た感覚が走った。私はことばを失っていた。つづいて、悲しみが吹きあげてきた。

野沢 玲子は、私のクラスにいたひとり。ワインが好きで、ワイン関係の本を何冊も翻訳した。むろん、ワイン以外の本も。
私のクラスでの彼女の訳や、芝居のことをめぐって、記憶のいたるところに隠れている野沢 玲子の姿をさがしもとめた。

個人的に親しかったわけではない。彼女の人生についてもほとんど何も知らない。それなのに、クラスや、私の「講座」や、そのあとで、みんなといっしょに居酒屋や、喫茶店になだれ込んで、いろいろと語りあったこと。
野沢 玲子が私たちに残してくれた仕事のことなどが、どっと押し寄せてきたが、悲しみがこみあげて、何も考えられなくなっていた。  (1)

1571

この夏、しばらくブログをお休みした。
暑さには関係がない。鬱だったわけでもない。何かを見ればいつも何かを思い出す。
知人や友人たちの訃報を聞くたびに、おのれの一生を考えあわせて、もはや80の坂を越した。このままくたばったところで、なんの悔いもない、と思いさだめた。

そう思ったとたん、ブログを書く気がなくなった。どうせ誰に読んでもらうこともない綺言妄語ではないか。

たとえば、ロシアのオペラ歌手、マリア・マクサコワを聞いた。以前だったら、この歌姫について、何か書いたはずだが、私はこの歌姫に「感動した」とは書いても、それ以上何も書けなかった。まあ、書けなければ仕方がない。
80過ぎの老いぼれが才能の枯渇を意識しないわけがないし、才能が枯渇しないほうがどうかしている。

たまたま、ある人から「エンジェルハ-プ・ユニット」というCDを頂戴した。

ハ-プの合奏のコンサ-トのライヴだが、親しみやすく明るい曲が選ばれていた。こういうコンサ-トが、多くの人をあつめているのも演奏する人の魅力によるだろう。

プログラムは、映画、「ニュー・シネマ・パラダイス」のテ-マから、ラテンの「エル・クンバンチェロ」、「コ-ヒ-・ルンバ」、「ラ・ビキ-ナ」など私でも知っているものが多かった。
私はこのCDを聴きながら、あらためて音楽に癒される気がした。

何かを書きながら音楽を聞く。あるいは音楽を聞きながら文章を書く。
私もそんな一人だが、これまでハ-プを聴きながら何かを書いたことはない。自分でも意外だったが、このCDを聞いて予想以上にハ-プを堪能しながら、是非にもこのコンサ-トを聴きに行きたかったと思った。

コンサ-トに行くことは、自分ひとりが音楽を聞くことではない。お互いに見ず知らずの人たちといっしょに聞く。となれば、個人の嗜好を越えた行動だし、私たちが生きている場、ひいては文化なり,伝統なりを共有することだろう。

私は携帯やiPodなどで、好きな時に好きな曲を聞くことがない。前世紀の遺物である私は、さまざまなデ-タ化、パッケ-ジ化のなかでウロウロしたくない。いまさらウロウロしてたまるか。
そういうスタイルはもともと私に似合わないと思っている。

きびしい暑さが続いている。
子どもの頃、外にタライを出して水を張っておく。30分もすると、いい湯加減になった。行水をつかう。子どもでも気分がよかった。
大人は真昼間から銭湯に行く。頭から熱い湯を引ッかぶって、冷たい水でゴシゴシやっただけで、手拭いを肩にかけ、褌一本で外に出る。すぐ近くの酒屋の店先で、木のマスになみなみと酒を注いで、クイッとやる。マスの脇に塩がひとつまみ。
仁王さまみたいな連中がいた。
大人になったら、ああやって酒を飲んでみたいと思ったものだ。
残念ながら、酒も飲めなくなっちまったが。

というわけで、しばらくぶりにブログを書く気になった。
何を書くか。
これまでの私は、他人について悪口を書いたおぼえはない。おのれを褒め、他人をそしる両舌(りょうぜつ)に、関心はなかった。だが、今後の私は、あえて綺言妄語を書くやも知れぬ。
ただし、もし書くとしても、少し気楽に、(つまり、へんにかまえて綺麗ごとを書くのではなく)もっと、くだらないことを気随気ままに書くがいい、と思う。

「マクベス」ではないが、

あした、またあした、そしてまたあした、
一日いちにち このささやかな足どりで 這いずり寄ってゆく

つもり。以上、ブログ再開の口上。

1570

1938年,フランスの飛行家たちは、あいついでパリ=東京間を飛ぶ計画をたてたが、いずれも失敗した。これに対して、日本の航空機、「神風」は、東京=ロンドン間の大飛行に成功した。(9ケ月前に,日中戦争が起きている。)
東京=ロンドンの全航程,15,357キロ。
所要時間,94時間17分56秒。

このニュースに日本じゅうがわきたったものだった。私は小学生だった。「神風」のことは今でもおぼえている。
ついでに1930年の有人宇宙飛行計画もしらべてみた。なにしろ暇なので。

まず、宇宙ロケットの話から。

金属製の航空機を発明したのは,フランスの,エスノル・ベルトリとヴァリエール。この2人は,ガスの噴射によるロケットを発明した。このロケットをドイツの「オペル」が実験した。スピードは,まだ時速120マイル程度。
ここでまた、中 正夫の記事を引用しておく。

「利用するのが緩爆薬だから発着は人間の耐ゆる速度で行ひ,二重真空壁の艇内に乗るとすれば月世界訪問も痴人の夢でなくなりさうだ。」

現在(2014年1月)中国は有人宇宙飛行計画で,2020年を目標に、月面の検査ばかりか、恒久的な中国独自の宇宙ステーションの建設をめざすという。
この計画は1992年から開始されたが,1999年11月21日に,宇宙ロケット、「神舟1号」を打ち上げた。2年前に「神舟9号」が打ち上げられているから,有人宇宙飛行計画は着々と進行している。

 

 

1569

上田 敏の「現代の芸術」と中 正夫の「速力狂時代!」を読んで、あらためて私たちの歴史は、変化の歴史、スピード史と見ていいような気がした。

中 正夫の記述によれば――1929年当時、世界一、巨大な汽船だった「ラビアザン」が、スペイン沖で出した最高時速は28.04ノット。
アメリカ海軍の航空母艦、「レキシントン」が、3O.04ノット。
モーターボートでは、ガル・ウッドが、「ミス・アメリカno.7」を、フロリダのビスケイ湾/6マイルを疾走した最高94.12マイルの記録。

時代遅れの蒸気機関に至っては、有名な話だが、九九九型機関車がニューヨーク州で112.5マイルを出したとか、231型機関車がフレーミングとジャクソンビル間を2分30秒で走って120マイルを突破したとかいふ今から28年も前のレコードのままである。これならば一昨年特製自動自転車が127.1マイルの世界レコードにも劣り、サイドカーでさへ111.98マイルを出したのに劣っている。もう時代は蒸気機関の快速力を問題とせないのだ。

「有名な話」といわれても私には見当がつかない。「特製自動自転車」というのは、どんな自転車だったのか。おそらく、原付き自転車だろうと想像するのだが、私の想像する「原付き自転車」だって、今の人たちにはもはや見当もつかないだろう。

1929年,地下鉄,特急,高速度電車が疾走し,空には,フオッカー旅客機が飛んでいる。
断髪,ショート・スカート,レビューの時代――

昨年11月に亡くなった辻井 喬の詩に、

ある時
僕の時間は鳥であった
大きな翼で
青い空を漂っていた

僕は今
自分の時間を
汽関車にしたい

 

この詩(1955年)の題は「ぼく は いま」。その末尾は、

僕の時間よ
闇を走れ
ある時鉄の塊は僕の時間だ

 

で終わっている。

 

1568

上田 敏の「現代の芸術」(明治43年/1910年)を読んでいたら、こんな一節を見つけた。

「今は機械応用の時代である、速力の時代である、エージ・オヴ・スピードである。何でも早くする、といふ考がいかにも盛んに見られます。」

上田 敏は、当時のスピード記録の例をあげている。
1893年、シカゴ=ニューヨーク間の鉄道の所要時間は20時間。だが、「ペンシルヴァニア鉄道」は、1時間51.2マイル、18時間で鉄道を走らせた。これに対抗して「ニューヨーク・セントラル鉄道」は、時速53マイルで、シカゴ=ニューヨーク間を走らせた。

「1910年の1月2日にロンドンを出発して大西洋を通過し、アメリカを横断して、サン・フランシスコまで、十日足らずで来たさうですが、これなどもずゐぶん早いものであります。それがためさしも波の荒い大西洋も、(中略)タービンの機関を使って行くと四日半で行くことができます。だからシカゴからパリに行くのには、金さへあれば雑作はないのです。その他自動車、飛行機等についても、驚くべき早い記録が出てをります。(「現代生活の基調」)

上田 敏の指摘に興味をもった私は、それから20年後の1910年の「現代生活」を調べてみた。

見つけた。「速力狂時代!」(「サンデー毎日」/昭和四年七月二十八日号)。中 正夫、筆者、いいけらく――

「東京と大阪間の自動車、専用道路が出来て200マイルの速力で交通するやうにならぬと誰がいへよう。東京とロンドン間を五百マイルの高速飛行機が通はぬと誰が断言し得ようぞ」。

こういう雑文を見つけ出して読むのは、なかなか楽しい。

「二十五年前に初めて空を飛んで,四十八マイルの速力が世界の驚異になってから二十年。世界の速力王はまずイタリーのマリオ・デ・ベルナルジ少佐の五百十二キロ七七六を推さねばなるまい。(中略)さて,これに次ぐものは,まず競走自動車であらう。八年前ラルフ・パルマ選手が百四十マイルの速力を出して世界に名を轟かして以来の大記録として一九二七年に英人セグレーブ少佐が二百三マイルを突破したが、(中略)本年三月,英人セグレーブ少佐が二度目の成功である。米国フロリダ州デイトナ海岸という世界一の良いトラックで,走りも走ったり,一時間二百三十一マイル六。」

1567

モームの「劇場」のヒロイン、名女優、「ジューリア」は、18歳で、プロデューサー(といっても、芝居に関することなら何でもこなす根っからの芝居者)「ジミー」に認められる。
「あんたは、あらゆる要素をそなえている。背丈はよし、体格はよし、顔はゴムみたいだし」
つまり、ゴムのように伸縮自在ということ。いまどきこんな褒めことばをきいたら、たいていの女優さんはいやな顔をするだろう。こんなセリフひとつにも――「ジミー」の押しのふとさが見える。ニタリとしているモームの顔も。

 

「とにかく、そんな面(つら)こそ、女優にゃ打ってつけなんだ。どんな表情でも見せられる。美しくさえみせられるお顔(ハス)ってもんだ。心をかすめる、ありとあらゆる感情をジカにだせる顔ときている。あのドゥーゼのもっていた面(つら)だ。昨夜のあん
た、自分じゃ気がついていねえが、そいでも、きらっきらっと、セリフが表情に出ていましたぜ」

 

ドゥーゼは、イタリアの名女優、「エレオノーラ・ドゥーゼ」。
ただし、ドゥーゼが「劇場」に出てくるのは、ここだけ。

 

 

1566

サマセット・モームを引き合いに出したせいで、「劇場」を読み返してみた。

 

ヒロインは46歳になる名女優、「ジューリア」。小説のオープニングで、名女優を訪問した若者がいう。
「ぼくが見に行ったのは、芝居そのものではなく、あなたの演技なんです」
同席した夫の「マイケル」がいう。
「イギリス演劇華やかなりし頃だって、大衆は、芝居を見に行ったんじゃない。役者を見に行ったんだ。ケンブルや、シドンズ夫人が何をやるか問題じゃなかった。ただ、役者を見に行くことだけが問題だった」と。

こんな数行から、私の夢想(妄想?)がはてしなくひろがってゆく。

 

「忠臣蔵」六段目。「早野勘平」が、帰宅する。猟着を脱いで、浅黄、羽二重に着替える。
観客にうしろを見せて肌襦袢ひとつ。その背中に「お軽」が着物をかけてやる。袖に手を通す。「勘平」は正面をむいて前を袷、帯をしめる。ただ、それだけの動きだが、羽左衛門(15世)のすっきり洗練されたてさばきのみごとさ。中学生の私でさえ、見ていてほれぼれとした。
私も、芝居を見に行ったのではない。役者を見に行ったのだった。