【20】
この頃の安部 公房が、よく話題にしたのは、フッサールだった。
いうまでもなく、エドムント・フッサール(1859~1928)である。なぜ、こんなことを書いておくのか。むろん、とりとめもない思い出にすぎないのだが――当時、フッサールの名は「フッセル」として知られていた。
それなのに、安部君はいつも、フッサールといっていた。
安部君が「純粋現象学」を讀んでいたことは間違いない。あまり、たびたびフッサールが話題になるので、私も「純粋現象学」を読む気になった。しかし、私の貧弱な頭脳では、フッサールの思想はほとんど理解できなかった。
私の頭がわるいせいだが――
デカルト普遍的懐疑試行の代わりに、我々の厳密に規定された新しい意味での普遍的「エポケー」を変わらせることが出来るであろう。しかし、われわれは十分なる根拠を以てこのエポケーの普遍性を制限するのである。何故ならば、もしかりにこのエポケーが、いやしくもその可能なるかぎりに包括的なるものであるとすれば、いかなる措定、ないし判断もまったく自由に変様され、判断の主辞とされ得る如何なる対象性も括弧に入れられる故、変様せられざる判断に対する余地、況んや学に対する余地はもはや残されないという事になるだろうからである。しかるにわれわれのめざす所は・・・
私の貧弱な頭脳が理解を拒否したとしても非難されるだろうか。
私をあわれんだ安部君は、現象学の解説をしてくれた。それでも、私には何もわからなかったといっていい。
安部 公房は「玩具箱」というエッセイのなかで、
「戦後はすでに、遠く霧のなかにしずんでしまった」という。
その霧に向かって目をこらしたところで、浮かんでくるのは、ひっくり返した玩具箱のようなものだ。このエッセイの題は、そんなことに由来する。
安部 公房は、このエッセイで、
あるいは、近代文学の連中と接触しはじめた、あの当時、運悪く眼鏡を紛失し、しかし眼鏡などよりは、まずその日のパンといった状態だったので、せっかくの最初の文学的体験も、輪郭不明の朦朧体としか映らなかったせいかもしれない。
ただその中で、埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している。
という。
私が、安部 公房と親しかった時期、彼がメガネをかけていたことはなかった。メガネをかけなくてもすんでいたのだろう。私は、近視だったから、メガネをかけていた。普通、25歳になれば近視の度は進まない、といわれていたが、私の近視は毎年強くなるばかりだった。
「近代文学」の人たちでは、荒 正人、山室 静の二人が近視だった。とくに、荒さんは強度の近視で、正面から見ても分厚いレンズの外輪の部分が 重なった光の輪郭線を描いているように見えた。よく外国のえらい科学者が、こういうメガネをかけている。
私の知っている作家では、中村 真一郎、野間 宏、堀田 善衛が近眼だった。安部 公房とは、安部君が「近代文学の連中」と接触しはじめた、もっとも初期から親しくなったのだが、まさか、近視だったとは知らなかった。