1624

【20】

 

この頃の安部 公房が、よく話題にしたのは、フッサールだった。
いうまでもなく、エドムント・フッサール(1859~1928)である。なぜ、こんなことを書いておくのか。むろん、とりとめもない思い出にすぎないのだが――当時、フッサールの名は「フッセル」として知られていた。
それなのに、安部君はいつも、フッサールといっていた。

安部君が「純粋現象学」を讀んでいたことは間違いない。あまり、たびたびフッサールが話題になるので、私も「純粋現象学」を読む気になった。しかし、私の貧弱な頭脳では、フッサールの思想はほとんど理解できなかった。

 

私の頭がわるいせいだが――

デカルト普遍的懐疑試行の代わりに、我々の厳密に規定された新しい意味での普遍的「エポケー」を変わらせることが出来るであろう。しかし、われわれは十分なる根拠を以てこのエポケーの普遍性を制限するのである。何故ならば、もしかりにこのエポケーが、いやしくもその可能なるかぎりに包括的なるものであるとすれば、いかなる措定、ないし判断もまったく自由に変様され、判断の主辞とされ得る如何なる対象性も括弧に入れられる故、変様せられざる判断に対する余地、況んや学に対する余地はもはや残されないという事になるだろうからである。しかるにわれわれのめざす所は・・・

私の貧弱な頭脳が理解を拒否したとしても非難されるだろうか。
私をあわれんだ安部君は、現象学の解説をしてくれた。それでも、私には何もわからなかったといっていい。

 

安部 公房は「玩具箱」というエッセイのなかで、

「戦後はすでに、遠く霧のなかにしずんでしまった」という。
その霧に向かって目をこらしたところで、浮かんでくるのは、ひっくり返した玩具箱のようなものだ。このエッセイの題は、そんなことに由来する。

安部 公房は、このエッセイで、

あるいは、近代文学の連中と接触しはじめた、あの当時、運悪く眼鏡を紛失し、しかし眼鏡などよりは、まずその日のパンといった状態だったので、せっかくの最初の文学的体験も、輪郭不明の朦朧体としか映らなかったせいかもしれない。
ただその中で、埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している。

という。

 

私が、安部 公房と親しかった時期、彼がメガネをかけていたことはなかった。メガネをかけなくてもすんでいたのだろう。私は、近視だったから、メガネをかけていた。普通、25歳になれば近視の度は進まない、といわれていたが、私の近視は毎年強くなるばかりだった。
「近代文学」の人たちでは、荒 正人、山室 静の二人が近視だった。とくに、荒さんは強度の近視で、正面から見ても分厚いレンズの外輪の部分が 重なった光の輪郭線を描いているように見えた。よく外国のえらい科学者が、こういうメガネをかけている。
私の知っている作家では、中村 真一郎、野間 宏、堀田 善衛が近眼だった。安部 公房とは、安部君が「近代文学の連中」と接触しはじめた、もっとも初期から親しくなったのだが、まさか、近視だったとは知らなかった。

1623


【19】

私は、毎日のように、「近代文学」の人々に会って、色々な話を聞くことで、勉強をつづけてきた。それは、安部君の場合もおなじだったろう。
私は安部君に自分と似たような魂、まぎれもない詩人を見たのだった。

ただし、はじめから違っていることにすぐ気がついた。彼は、天才だったが、私は生意気な文学青年だったこと。この違いはどうしようもない。

安部君は、たとえば、日本の文学、とくに短詩形の文学に、まったく関心がなかった。私は、中学生のときに、久保田 万太郎の講演を聞きに行ったり、毎月、歌舞伎座で立ち見をしたり、雑誌なども手あたり次第に読みつづけるような文学少年だった。だから、お互いの違いから、いろいろと話題は尽きなかったのだと思う。

音楽についても、まるで趣味は違っていた。
戦後すぐに、アメリカ占領軍が、ラジオ、FENの放送をはじめたとき、私は、はじめてジャズを聞くようになった。ほとんど、ラジオにかじりついていた時期がある。
のちに、私はディジー・ガレスピイや、ボブ・ディランといったエッセイを書いたり、最近も、20年代のリビー・ホールマンについて書いた。しかし、安部君はそういうことがなかった。

ある日、私の家に遊びにきた彼に、私は、レコードを聞かせた。グラディス・スウォザウトの「カルメン」だった。Tenor は、ローレンス・ティベット。

戦後、もっとも早く出た赤盤のアルバムだった。私が自分の原稿料で買ったレコードのなかでは、唯一のオペラだった。
聞き終わった安部君は、まったく何もいわなかった。

私の母が、おみやげに、白米を2合ばかり、新聞紙につつんで、わたしたとき、安部君は、うれしそうに礼をいって帰った。
私は、大宮駅の西口まで送って行ったが、最後まで「カルメン」の話はしなかった。

安部君は、いつもシューベルトの歌曲、それもゲルハルト・キッシュを聞いていた。

1622

【18】

安部 公房は「近代文学」の連中のなかで、「埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している」と書いているにすぎない。「近代文学」の連中と接触しはじめた、という最初の文学的体験も、「輪郭不明の朦朧体としか映らなかった」という「体験」にすぎない。このことは、当時の安部君の内面に一種の苦みがきざしていたため、と私は考える。

いいかえれば、安部君は、「近代文学の連中」には、はじめからそれほど親しみをおぼえなかったと見ていい。

「近代文学」の人たちは、例外なく安部君の偉才を認めていた。とくに、埴谷 雄高、佐々木 基一は、安部 公房の作品を激賞していた。これに対して、平野 謙、本多 秋五、山室 静などは、安部君の才能をじゅうぶんに認めながら、どう評価していいのかわからないようだった。
逆にいえば、「近代文学」の人たちの話題が、「輪郭不明の朦朧体」としか見えなかったに違いない。たとえば、日本の文壇小説にまるで関心がなかった。

したがって、「近代文学の連中と接触しはじめた」と書いている「連中」には、平野謙、荒 正人、本多 秋五、山室 静などは含まれていないと見ていい。そのかわり、いつも「近代文学」の周辺にいた私、そして関根 弘、原 通久などが「近代文学の連中」だったに違いない。

安部君は、「近代文学の連中」とは、はじめからそれほど親しみをおぼえなかったと見ていい。「近代文学」のなかでは、「埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している」のは、いつもきまって埴谷さんと話をしていたからだろう。

洞窟のような寛容さをもった口をしていた。口が印象的なのは、たぶんあの笑い
方のせいだろう。それは、まことにデモクラチツクな笑い方で、どんなに臆病な
相手でも、さりげなく対話の勇気を与えてくれたりしたものだ。

という。

「近代文学の連中」の中に、私や、関根 弘が含まれることはいうまでもない。

1621


【17】

1947年。まだ春も浅い頃。

その日も、「近代文学」に行くつもりで、ゆるやかな坂を歩いて行くと、たまたま埴谷 雄高が若い青年と一緒に外に出てきた。
「やあ、中田君」
埴谷さんが声をかけてきた。
「きみに紹介しておこう。安部 公房君。いい小説を書いている」
つれの青年に、
「これが中田耕治君。批評を書いている」
安部 公房と私の出会いだった。

この坂は、ポプラ並木が続いている。戦後の記憶が、遠くはるかな霧のなかに沈んでしまった今でも、あのポプラの木の下で安部君と出会ったときの光景は心に残っている。

埴谷さんが、安倍君と私をつれて行った店は、安普請の喫茶店で、レコードのバック・ミュージックが流れていた。
お茶の水界隈で、いちばん早く開業した喫茶店だが、名前はおぼえていない。その後、この店は、何度か名前を変えた。しばらくは、女子学生相手のみつ豆専門の和風喫茶だったり、有名なドーナツのチェーン店になったり、さらに大規模なパンとコーヒー専門のカフェになったりした。

そのときの話で、安部 公房が、評論家の阿部 六郎の紹介で、埴谷さんに会いにきたことを知った。私は、安部 公房が、阿部 六郎の推輓で、埴谷さんに会いにきたと知って大きな興味をもった。むろん、理由はある。

戦時中の私は、ただひたすら小林 秀雄のエピゴーネンだったといっていい。ただし、小林につづく世代の批評家のものもかなり読んでいた。
たとえば、阿部 六郎、杉山 英樹、丸山 静、小松 伸六。

杉山 英樹は「近代文学」の人々とも親しかった批評家だが、惜しいかな、戦後すぐに夭折した。戦後の丸山 静は、一、二度、「近代文学」にも書いたひとだが、左翼の批評家。戦時中に書いた「ジュリアン・デュヴィヴィエ論」は、若き日の佐々木 基一、福永 武彦の映画批評とともに私の心に刻まれている。

阿部 六郎は、シェストフの「悲劇の哲学」(河上 徹太郎共訳)で知られている。
私は、「地霊の顔」で、ゴーゴリの「ディカニカ近郊夜話」に出てくる「ヴィー」、「ウェージマ」という地霊、魔女について教えられた。後年、私が「ゴーゴリ論」を書いた原点は、この「地霊の顔」にあったと自分では思っている。むろん、影響をうけたとまではいわない。
この人の兄にあたる阿部 次郎の「生い立ちの記」や、「学生と語る」といった著作に、私はまったく心を動かされなかったが、それに較べれば、阿部 六郎の「地霊の顔」のほうが主題的にもずっとおもしろかった。そんな程度のことだったかも知れない。

しばらく話をしているうちに、阿部 六郎とそれほど親しいわけではなく、ただ、高校で阿部 六郎の著作を読んだことがあるだけという。

安部 公房と友だちになって、私にとって人生は、かなり楽しいものになった。生まれてはじめて、まぎれもない詩人を見つけたのだった。

作家志望者を友人にもつのは初めてではなかった。作家志望者なら文芸科の学生たちに、いくらでもいた。しかし、安部 公房には、驚くべき知力と、しかも、優しさとデリカシーがあって、いっしょにいるのが楽しかった。
その知性には――なんというか、強靱な伸長力のある鋼鉄のようなものがあって、それは私のもたないものだった。私は、当時の安部 公房に、「戦後」という時代にこそふさわしい、わかわかしい生命力、はげしい意欲を見ていた。

ただし、彼と私ははじめから違っていた。彼は天才だったが、私はただの文学青年だったから。
お互いの関心もまるで違っていた。
安部君は、たとえば、日本の文学、とくに短詩形の文学にまったく関心がなかった。私は、中学生のときに久保田 万太郎の講演を聞きに行ったり、毎月、歌舞伎座で立ち見をしたり、雑誌なども手あたり次第に読みつづけるような文学少年だった。それで、お互いの違いからいろいろと話題は尽きなかったのだと思う。

いろいろな話題が出た。私は、埴谷さんが上手に話をふってくれるので、カレル・チャペクの戯曲の話をしたことをおぼえている。安部君は、リルケのことを話した。埴谷さんは、私と安倍君が、お互いに仲よくなればいい、と思っていたようだった。

この日から、私は、毎日のように、安部 公房と会って、お互いに語りあうようになった。私にとっては「近代文学」以外に、はじめて知りあった仲間だった。

1620


【16】

「近代文学」が、戦後のジャーナリズムの中心の一つになったため、同人たち、とくに荒 正人に原稿を依頼する人たちが、ひっきりなしにやってくる。「近代文学」の応接室がいっぱいなので、駿河台下の「きゃんどる」という喫茶店が、文学者のたまり場になった。

ある日、「近代文学」の人びとが「きゃんどる」に集まっていた。
そこに、1人の作家が入ってきた。青い外套を着て、胸もとにフランス語の原書をはさんでいる。驚いたことに、素足で、底のすりへった下駄を履いている。
「きゃんどる」は、客が七、八人も入ればいっぱいになる狭い店で、隅にちぢこまっている私の横に、その作家が腰をおろした。

佐々木 基一さんが立って、挨拶した。その作家は、かるく会釈しただけで、コーヒーを注文すると、ふところにはさんだ原書を左手にもって読みはじめた。

フランス語はおろか、英語も読めなかった私だが、この作家が何を読んでいるのか好奇心にかられた。せめて本の題名だけでも知りたいと思って、横目使いで見たが、わからなかった。
そのうちに、「近代文学」のひとたちの話題が、何かのことにおよんだ。誰も知らないことで、ちょっと沈黙がながれた。
と、その作家が、本を読む手をやすめず、
「それは、太田 南畝の……に出てきますよ。……版の……ページですが」
といった。

この作家が石川 淳だった。

私は、石川 淳の博識に驚いたが、そのとき、彼が読んでいたのが、アナトール・フランスの「ペンギンの島」だったことにもっと驚いた。フランスの小説をいとも気楽に読みこなす作家がいる。これが、私にショックをあたえた。

「きゃんどる」の思い出も多いのだが、やがて「近代文学」の編集室が、「文化学院」から駿河台下、「昭森社」の一室に移ったため、戦後派の人びとも、「ラムポオ」に集まるようになった。

1619


【15】

戦時中からかなり多数の本を読んでいた。「文芸科」の科長だった山本 有三先生が、蔵書の一部を川崎の工場に寄贈したため、私たちは本を読むことに不自由しなかった。戦後は、山王の立花 忠保さんの書斎にいりびたって、手あたり次第に読みつづけた。忠保さんの書庫には、戦前の映画雑誌がたくさんあって、私はその全部を読破した。そればかりか、忠保さんのレコードを聞いて音楽に親しむこともできた。

立花 忠保さんは、京大に在籍中だったが、肺結核の療養のために休学していた。戦時中、古書も払底していた時期に自分の蔵書を開放して、隣組や近所の人たちが自由に利用できるようにしてくれた。利用者は少なかったと思われるが、私は毎日のようにこの書庫に通った。
おもに文学書が並んでいたが、戦前の古い映画雑誌、「スター」などがそろっていた。私はこの雑誌を全部読んだ。
見たことのない映画ばかりだったが、多数のスターのグラビアを見るだけでも楽しかった。その中に、植草 甚一、双葉 十三郎などの訳で、アリメカの短編小説や、飯島 正の訳で、フランスの短編小説や、映画の紹介などが掲載されている。とにかく何でも読んだのだった。
少年時代の私は、立花 忠保さんの蔵書にじつに多くを負っている。いま思い出して感謝のことばもない。

こうした「修行」apprenticeship があったおかげで、「近代文学」の人びとの話題にも、なんとかついてゆくことができたのだった。
あるとき、私がうっかり昭和初期の作家も読んでいるといったとき、平野 謙が、疑わしそうな顔をして、
「きみは、プロレタリア文学のものまで読んでいたの?」
と訊いた。
私の年齢の少年が、戦時中にプロレタリア文学を読んでいるはずはない。そう思うのが自然だろう。しかし、中学生の私は、「三省堂」の書棚で「新興芸術派叢書」を見つけて、1冊づつ買って読んでいた。(1943年には、「三省堂」でさえ、新刊書が極度にすくなくなって、書棚に空きが見えるようになった。そのため、倉庫に残っていた本を並べたらしい。)
私がなんとか金を工面して、一方で堀 辰雄や、津村 信夫を読みながら、同時に、片岡 鉄兵や、前田河 広一郎などを読んでいたことは偽りではない。

むろん、中学生の知識で、プロレタリア文学を理解していたなどとはいえない。それでも、「空想家とシナリオ」や「鶏飼いのコミュニスト」なども、古雑誌で読んでいた。
空襲がひどくなってから、あわてて疎開する人がふえた。運ぶ荷物が多すぎて、蔵書や、古雑誌などが路傍に投げ出されていることもあった。たちまち、通行人がむらがって、勝手に選びだして持ち去るのだが、そんな古雑誌に戦前のプロレタリア文学作品が掲載されていても不思議ではない。ただし、伏せ字が多かったけれど。

ほんの少しばかり、昭和初期の作品を知っていたからといって、平野さんが、私に一目を置いたなどということはない。ただ、戦時中にプロレタリア文学を読んでいた中学生がいたことに驚いたようだった。

ある日、今では何を話したのかほとんどおぼえていないのだが、丹羽 文雄の「海戦」(1943年)が話題になった。荒さんたちは、丹羽 文雄が戦争に協力した作家と見ていたが、私は、戦時中のドキュメンタリーとしては出色のものと見ていた。この作品に見られる文壇作家としての反省めいたものは、まったく不要で、これがノン・フィクション(当時は、こんなことばもなかった)としての力を弱めていると見た。
私の意見は、たちまち反論をうけて、すごすごと引きさがるしかなかったが、「近代文学」の人びとの話を聞くことが、どんなに有効な文学修行になったことか。どんな話も、私にとっては有益だったからである。

「近代文学」の人びとは、編集会議を終えたあと、すぐに雑談に入るのだが、そのときの話に、安部君も私も加わることが多かった。話題は、文学にかぎらず、宇宙論からデモノロギー、社会の動きから、個々の雑誌の作品の月旦、はてはゴシップまで、かぎりなくひろがってゆく。

埴谷 雄高の発言は、いつも驚くほど犀利で正確だった。「死霊」の難解さに驚いていた私は、いろいろな座談での埴谷さんの発言が、高度な内容をもちながらもやさしく語られることに驚いたものだった。いろいろな人のウワサが出ても、それはいつも人情の機微をわきまえたもので、埴谷さんの個性が聞き手におよぼす直接的な効果は大きかった。

1618

 

     【14】

戦後の一時期ほど、さまざまな議論が沸騰し、誰もがお互いに夢中になって語りあった時代はない。昨日まで、お互いに知らなかった人たちが、百年の知己のように生き生きとした会話をかわし、討論したり論争したり、ときには酒の勢いもあって殴りあいになったりしたものだった。
私なども、武田 泰淳に首をしめられ失神しそうになったことがある。

1946年、妹が就職したため、我が家の経済状態はいくらか楽になった。ある日、妹が新しい服を買ったので、それまで着ていた服を私に譲ってくれた。ブルーの背広だったが、裏地が赤のベンベルグだった。妹はあたらしいパンプスも買ったので、それまではいていた平底の靴を私にくれた。女ものなので気がひけたが、私はこの服と靴で押し通した。
ある日、「近代文学」のあつまりが、中野の「モナミ」であった。その帰り、私は野間 宏といっしょにプラットフォームで電車を待っていた。いつものように文学論をかわしていたのだろう。
野間さんが、私の足元に目をおとした。不思議なものを見たような表情になっている。
私が女もののパンプスをはいていることに、始めて気がついたのだった。
野間さんは黙って見ていた。顔から火が出るような思いだったが、私は黙って立っていた。
「きみは、いい靴をはいているね」
と、野間さんがいった。
「妹からもらいました」
野間さんの口もとが、数秒たってゆっくり左にあがった。これが野間さんの微笑だった。それだけで、あとは何もいわなかった。

裏地があざやかな赤で、胴がキュッとしまっているブルーのジャケット、履いているのが女もののパンプス。まさか野間さんが、私を女装趣味(トランスヴェスタイト)と見たはずはない。
ただ、そんな私を見て、ひとりだけ気がついた人がいる。

「時事新報」の記者で、小説を書いていた鈴木 重雄だった。私より、一世代上の先輩で、「三田文学」出身、私小説を書いていた。作家としては大成しなかったが、戦争中、白いウールのセーターに派手なネクタイを巻いて銀座を歩くようなダンデイーだった。夫人は、「ムーラン・ルージュ」出身で、のちに「日本の悲劇」などで名女優といわれた望月 優子。
私が、しょっちゅう有楽町の「時事新報」に行っては、近くの喫茶店で椎野と話をしたり、ときにはいっしょに芝居を見に行くので、疑ったのかも知れない。
「中田君、きみって、コレじゃないの?」
片手をあげて、手のウラで口を隠す仕種だった。私は鈴木 重雄が何をいっているのか、そのしぐさがよくわからなかった。
鈴木 重雄は、図星をさされた私がトボけて、知らぬ顔をして見せたと思ったのか。鈴木 重雄はニヤニヤしていた。

それからしばらくして、私は、「劇作」の集まりに出た。ここで、はじめて、「劇作」の同人たち、とくに内村 直也先生と親しくなったが、この席に、鈴木 八郎がいた。
彼は完全なホモセクシュアルで、劇作家志望だった。私は、鈴木 八郎と親しくなってから、はじめてゲイについて知ったのだった。

ブルーのジャケットに女もののパンプス。
こわいもの知らずで、先輩たちの議論にとび込んで、いっぱしに文学論を戦わす。この頃の私は鼻もちならない、生意気な文学少年だったと思う。今の私は、先輩の批評家たちを相手に、とくとくと昭和初期の作家を語っていた「中田耕治」を思い出すと、はげしい嫌悪をおぼえる。というより、恥ずかしさのあまり、ワーッと叫びたい気分になる。

1617


【13】

はじめて「近代文学」に荒 正人を訪れたとき応対してくれた若い女性は、藤崎 恵子だった。
「文化学院」の卒業生で、戦時中に人形劇団をやっていたという。はるか後年、画家になった。同時に、フランスのジュモー人形のコレクターとして知られ、人形に関する著書もある。
私は、彼女と親しくなった。といっても、私より、二、三歳、年上で、頭の回転が早く、きびきびしていた。だから、私にとっては姉のような存在といってよかった。

私はいつも背広を着ていたから、外からみれば、いちおう中流の生活環境にいたように見えたに違いない。
実際には、すさまじい貧乏で、本を買うためにその日の食事をぬくような状態だった。

荒 正人に会ってすぐに、埴谷 雄高に会った。
はじめて会ったときの印象はあざやかに残っている。当時、36歳だった埴谷さんは、長身で、グレイの服に、オイスター・ホワイトのヴェストを着ていた。はじめて紹介されたとき、演劇人かと思った。誰かに似ていると思った。このときは、誰に似ているか思い出さなかった。

その日、「近代文学」の人びとは、発表されたばかりの坂口 安吾の「白痴」を論じあった。私も飛び入りで、この人たちの、めざましい、生彩あふれる批評に加わった。私も、いろいろと発言したが、どんなことを話したのか。
平野さんが、坂口 安吾と、ある女流作家の恋愛にふれたことはおぼえている。
私は、すぐれた批評家たちの発言を聞きもらすまいとしていたが、この人たちの話をじかに聞くことができる幸福感にあふれていた。生意気にも、この人たちに認められたいという思いから、できるだけ正直に自分の読後感を述べたのだった。

1616

      【12】

私は母に、荒 正人という評論家に会いに行くことになった、と告げた。

「へぇー、荒 正人ってどんな人?」
「よくは知らない。最近、世代論で世間の注目をあつめている人」
「そいじゃ、えらい人だね。耕ちゃんに会いたいって、いってきたのかい」
「そうじゃないけど、椎野が会いに行けって」

その日、私の母は闇市を駆けずりまわった。
そして、古着を一着見つけたのだった。ただし、その古着を買う金がなかった。自分が疎開しておいた着物と帯と交換で、その古着を手にいれた。
小柄な私の背丈にぴったりの、ベージュ色の背広だった。

私は革が破れかかったドタ靴をはいていたのだが、母は靴も見つけてきた。
新品ではなかったが、母がみがいてくれた。乾いてカチカチになった靴クリームを、古いボロ切れになすりつけて一所懸命にみがきあげた。
父のネクタイを拝借した。なんとか見られる恰好になった私は、荒 正人に会いに行った。

お茶の水駅から歩いてせいぜい数分。
今は明大の大きな建物が立っているが、当時は、木造二階建ての「文科」が道路にへばりつくように建っていた。その斜め前、やや離れた位置に「文化学院」があって、その二階に「近代文学」の編集室があった。
戦時中は、「全国科学技術連合会」という団体が、応接室として使っていた部屋という。戦争が終わって、この団体は活動を停止した。その空室の机一つを「近代文学」が借りて、編集室に使っていたらしい。

ドアをノックすると、小柄な若い女性が顔を出した。
「荒 正人さんは、いらっしゃいますか」
彼女はけげんなまなざしで、私を見た。

私が「時事新報」といいかけると、
「あ、あなたが「耕」さんね」
といって、室内に入れてくれた。
机に向かって何か書いていた人が、こちらに顔を向けた。
「荒さん、こちら、「耕」さんですって」
彼女の眼は、まるで何か起こるのを期待しているかのように、私に注がれていた。
私はあまり緊張しなかった。それよりも、机に向かっていた荒 正人は私を見て驚いたらしかった。まさか少年がやってくるとは思ってもみなかったのだろう。そのときの荒さんの顔は今でも忘れられない。
荒さんは私の前に立って、
「きみが、アレを書いているんですか」
といった。

いちおう名の通った新聞の文芸欄の匿名批評を手がけているのだから、有能な新聞記者か、戦前から同人雑誌に書いていた同世代の書き手を想像していたらしい。
私は荒 正人のハガキを見せた。

「きみが「耕」さんですか」

それからあとは、つぎからつぎに質問を浴びせられた。

荒さんはほんとうに口角泡を飛ばすといった、せき込んだ話しかたをする人だった。
私がどうして「時事新報」に匿名のコラムを書くようになったか。そして、椎野 英之の話。

私が、ドストエフスキーを読んでいると知って、「ラスコーリニコフ」の話題になった。たまたま、バルザックの「ゴリオ爺さん」を読んでいた私は、「ラスティニャック」は犯罪によって自分を形成しようとしているのだから、「ラスコーリニコフ」と共通するのではないか、などと話した。当時の私はひどく生意気な文学少年だったので、荒さんの質問にもさほど困らなかった。

私は同年代の少年よりはずっと多くの作品を読んでいたと思う。

当時は無名に近い作家のものも少しは読んでいた。たとえば、荒木 巍(たかし)、吉行 エイスケ、串田 孫一、通俗作家では、北林 透馬、橘 外男など。
荒さんの分厚いメガネの奥で、目がまるくなった。
私は、つぎからつぎにいろいろな話をした。荒さんから何を聞かれても、いちおう答えることができた。むろん、私は得意げにしゃべったわけではない。
最初、まるで査問を受けているような居心地のわるさ、ぎこちなさはすぐに消えて、旧知の先輩と話しあうような楽しさがあった。

この日から、私は「近代文学」に顔を出すようになった。

1615

         【11】

戦後、私がもの書きになった経緯については、これまで何度も書いているので、あらためて書く必要はないのだが、椎野 英之に関係があるので、ごく簡単に説明しておく。

戦後の椎野 英之は、「文学座」に戻らなかった。敗戦後の激烈なインフレーション、社会情勢の激変、食料難、その他、いろいろな家庭の事情が許さなかったのだろう。

1946年、日本の「戦後」。何もかも麻痺したため虚脱したような気分と、左翼を中心にした、新しい時代の「歌声よ起これ」といった高揚した気分がぶつかりあっていた。
アメリカ占領軍の軍令下で、戦犯の逮捕、共産党の野坂 参三の帰国、最大規模のデモ、それこそ「玩具箱」をひっくり返したような大混乱がつづいた。
その混乱のなかで、私はシュヴァイツァーの「文化の衰退と再建」を読んだ。

戦後、経済的に非常な困難と、用紙の極度の払底にもかかわらず、日本のジャーナリズムに新聞、雑誌の創刊ブームが起きた。文学関係では、「近代文学」がもっとも早く登場したが、「世界文学」、「新日本文学」、「綜合文化」、同人誌の「黄蜂」、戦争末期、鎌倉在住の文士たちが、生活のために貸し本屋をはじめて、それが戦後すぐに、「鎌倉文庫」という出版社のかたちで出発した。雑誌「人間」が創刊され、「文学界」が復刊した。平野 謙は編集者として誘われたという。そのときの条件は、月給、300円だったらしい。
おびただしい雑誌が氾濫したが、それも束の間、大半はインフレーションのなかで消えてゆく。さすがに日刊の新聞の創刊は、それほど多くはなかった。それでも、「時事新報」の創刊は、戦後のジャーナリズムの流れのなかでは大きなできごとだったように思う。

椎野 英之は、この「時事新報」に入社した。日刊新聞といっても、新聞用紙が極端に払底したため、わずか2ページ。つまり、1枚の紙のウラオモテだけの日刊紙だった。
1面、いわゆるフロント・ページは、政治・経済のトップ・ニュース。その裏が社会面で、世相、風俗、犯罪から、食料の配給、復員船の入港、ラジオ欄、有名人の随筆、広告、みな入り込みのごった煮といった作りだった。

紙面のスペースがかぎられているので、芸術、芸能関係の記事は載せなかったし、新聞小説もなかった。したがって、記事がギュウギュウつめ込まれているだけで、全体にあまり特徴のない新聞だった。
椎野は新人なので警察まわりをやらされた。ところが、記事を書くのが苦手だった。そこで、紙面に短いコラムを作ろうと編集長を口説いた。これが採用された。
コラムは「白灯」という題名にする。おもに文芸時評のかたちをとった匿名批評。字数は400字程度。週に3本の予定。
筆者は椎野 英之。

椎野は警察まわりの記事も書かないくらいだったから、この企画を立てたとき、真先に私に相談した。
「耕ちゃん、この囲み(コラム)はきみが書いてくれ」
という。
「うん、いいよ」
こうして私は椎野の影武者になった。その日からコラムを書きはじめた。「耕」というサインで。

「白灯」は、戦後、もっとも早く登場した匿名批評だった。半年ばかりたって、大阪の新聞、「新夕刊」に、字数、400~500程度の「匿名批評」が登場した。これは、林 房雄が書いたといわれている。これが、キッカケで、別の新聞に、大熊 信行、大宅 壮一なども匿名で登場する。

朝、私のところに電話がかかってくる。

「出来てるかい?」
「うん、2本」
「じゃ、寄ってくから」
やがて、椎野が私の家の前の狭い坂をあがってくる。(この坂の奥に、寿岳 文章の邸宅があった。)
私は、清水さんというお宅の前まで出て、書いたばかりの原稿をわたしてやる。椎野は、その坂の奥、寿岳 文章さんの門の前から折れて、大森駅に出るのだった。

私のコラムはそれまでになかったものだけに、いくらか評判になったらしい。
「耕ちゃん、すごいぜ。どこにいっても聞かれるんだ。誰が書いているんだって」
椎野がいった。

10本ばかり書いたとき、「時事新報」文化部、「耕」あてにハガキが届いた。
「白灯」に注目しているという内容で、署名は荒 正人。

「おい、耕ちゃん、この人に会いに行けよ」
「誰が書いているか、バレちゃうじゃないか」
「きみが書いているといえばいい。むこうも、おもしろがってくれるさ」

私は少しひるんだ。

1614


【10】

「近代文学」の創刊号が出たのは、敗戦(1945年)の歳末だった。私は創刊にまったくかかわりがない。私はまだ明治大学文科に在籍中で、18歳の少年だった。

この創刊号は、A5版、64ページ、へんぺんたるパンフレットのようなものだった。
最初の原価計算によれば、印刷工の組代が640円、印刷費が350円、製本が300円、印刷費の総計が1760円という見積もりだったという。
ところが、敗戦直後から激烈なインフレーションが起きて、年末には、実質的に数十倍の高騰を見ている。「近代文学」の定価は、10月の予定では1円20銭だったのが、12月の発売では3円に変更されている。むろん、インフレーションの影響による。

私の場合――敗戦直前の私は、毎月、54円程度の報酬を得ていた。
日給は2円。(小学校卒業で徴用され、工場に配置された少年工は、日給、1円だった。)
比較のために書いておくと――古本のプルースト全集、5巻で50円、ヴィリエ・ド・リラダンの原書が20円だった。つまり、日曜日を除いてフルに働いても、本を2、3冊買っただけで給料は消えてしまう。
とにかく貧乏学生だったから、「近代文学」の創刊号を買うこともむずかしかった。

敗戦翌年の正月そうそう、大森駅の駅前の本屋で平積みになっている雑誌を見た。
表紙もついていない雑誌だったが、目次をみただけですぐに読んでみようと思った。
執筆者のなかに自分の知った名前があったからである。

創刊号に、埴谷 雄高が「死霊」の第一回を書いている。埴谷 雄高の名は知らなかった。佐々木基一が長編の連載をはじめていた。私は佐々木基一が、戦時中の「映画評論」にペンネームで文化映画論を書いていた映画評論家と知っていた。
戦時中に、佐々木 基一が「新潮」に書いた短いエッセイも読んでいたし、本多 秋五が「文学界」に書いたエッセイを読んでいた。

ついでにもう一つ。へんなことを思い出した。

戦時中に、植草 甚一の名前を知ったのだった。(むろん、後年の映画やジャズの評論家としての「植草 甚一」ではない。)
戦時中、ヴァレリー全集が刊行されていた。その1冊の月報(これまた、B5版、粗悪なワラバンシわずか1枚のリーフレット)がついていた。これに、ヴァレリーの著作、「ヴァリア」を探しているので所持している方にぜひ借覧させてほしい、という編集部のアピールが載っていた。これが、私の記憶に残った。
ヴァレリーにそんな著作があるのか、と思ったから。

つぎに出たヴァレリー全集のリーフレットに――世田谷在住の植草 甚一氏のご好意で、「ヴァリア」を参看できた旨の謝辞が出た。

少年の私は、フランス本国でも部数の少ない稀覯本を、戦時下の東京で所持している人がいると知って、信じられない気がした。このときから、植草 甚一の名は忘れられないものになった。
はるか後年、植草 甚一と親しくなって、植草さんの話をうかがう機会が多くなったが、戦時中に植草さんの名を知っていたことは話題にしなかった。

1613

【9】

 

戦後の混乱は、一方ではかぎりない自由と解放だったが、一方では、敗戦の混乱と苦痛とみじめさにさいなまれて、死を選んだ人もいる。私と同期で、戦後の混乱のなかで自殺した人が2名いる。それぞれ自殺の動機は違っていたらしいが、この二人の死から、私が死ぬことがなかったのは、ただの偶然に過ぎないのではないかと思ったものである。

前にも書いたように、少年時代の私には、少数ながら大切な友人がいた。
小川 茂久、覚正 定夫、椎野 英之。

小川 茂久が大森に住んでいたので、なにかと世話になった。蔵書が全部焼けたため、読む本がなかった私に、有島 武郎の全集や、鴎外などを贈ってくれたのは、小川 茂久だった。(小川は、後年、明治の仏文の教授になった。私は、さらに後年、文学部の講師になったから、毎週、一度は小川 茂久と会って、酒を飲むようになった。)

覚正 定夫については、これまで書いたことがない。
彼は、戦後、小川 茂久と同時に、演劇科の助手になった。やがて、私の紹介で、安部 公房と親しくなり、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。

1945年、覚正 定夫は父を失った。彼の父は輸送船の船長だったが、フィリッピンに向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて戦死した。母は大連在住だった。
この年、彼自身も本郷で罹災した。
しばらく消息不明だったが、まったく無一物になった覚正 定夫は、友人の家を転々としていた。その彼が、敗戦直後、私を頼ってきた。彼は、重度の身体障害者だったので、「戦後」のひどい状況のなかで生きて行くこともむずかしかったと思われる。私の母(宇免)は彼の身の上を心配して、とりあえず私と同居させることにしたのだった。

私たちは叔父の家の居候だったから、覚正 定夫は居候の居候ということになる。

私は階段の横、1畳半ばかりの納戸のような部屋で寝ていた。覚正 定夫と並んで寝ると、まるで監獄の雑居房に寝るような感じだった。それでも、私と覚正 定夫は、いつも文学や芸術の話をしていた。

宇免は、埼玉県に疎開した実母(私の祖母)のところで食料を仕入れて、大森に運んでは、私たち(父と私、覚正 定夫)に食べさせてくれた。戦後の食料難の日々、なんとか私たちに食べさせてくれた母の苦労を思うと、いまさらながら申しわけない気がする。

冬になって、寒さをしのぐ外套もなかった。戦災で無一物になったため、ひどい貧乏で、戦後の激烈なインフレーションのなかに投げ出されたからだった。
私は両親の負担を少しでも軽くしたかった。何でもいいから仕事を探したかったが、戦後の混乱のなかで仕事があるはずもなかった。

 

 

1612

【8】

 

9月、アメリカ軍が上陸して、それまでとまったく違った文化が雪崩れ込んできた。

大森、山王にも大きな変化が見られた。
最後まで空襲の被害を受けなかっただけに、りっぱな門構えの豪邸が残っていた。椎野の家の周囲にも、戦前のブルジョア階級の趣きをもった豪邸があった。その家の令嬢たちは、驚くほど美貌だった。アメリカ軍の上陸直後から、このお嬢さんたちは、アメリカの兵士たちと仲良しになって、自宅で毎晩パーティーを開くようになった。
戦後、もっとも早く日米交歓を実現した例といっていい。(3年後、私は、偶然そのひとりを見かけたことがある。これ以上ふれないが、ある大きなキャバレーで、特殊なショーに出ていた。)

戦後の索漠たる風景も、いまはもう知らない。
「近代文学」創刊号の「同人雑記」、本多 秋五が「焼跡で」という短い断章で、

 

墓場と、煙突と、土蔵で、寺と風呂屋と質屋がわかる。

 

と書いている。

いちおう近代都市だった東京も、ほとんど壊滅して、焼けただれた墓場と、かつては町だった土地に、銭湯の煙突だけが残っていた。江戸時代や明治の頃をおもわせる土蔵の壁も炎にあぶられて変色していた。内部も焼け落ちていたし、質草が焼け残ったとしても、すべて奪い去られていた。これが敗戦国のすさまじい現実だった。

大学は再開されたが、教授たちもほとんどが疎開したり、生活に追われて、授業も満足に行われなかった。
それでも、毎日、大学に行ったのは、親友の小川 茂久、覚正 定夫(柾木 恭介)たちに会えるからだった。
お茶の水駅の階段をのぼったが、空腹と栄養失調で、いっきに登ることができなくなっていた。階段の途中で2度も足を休めた。慢性的な栄養失調で、足がふらついて、いっきに登れなかった。

戦後、すぐに国民の窮乏がはじまった。
激烈なインフレーションが起きただけでなく、全国的に食料が欠乏した。それまでの配給制度が崩壊したため、欠配、遅配が日常化した。

戦後も戦時の経済統制の法律を遵守して、配給の食料だけで暮らしたため、餓死した判事もいた。

随筆家の小堀 杏奴は、戦時中、祖国を勝利にみちびくために自分たちができることは、せめて闇(ブラック・マーケット)の食料を口にしないこと、と考えて、戦争中は、まったく闇なし(配給だけで生活する)を実行した。
敗戦後の10月、ついに闇でジャガイモを買って食べたが、家族4人が腹をこわしたという。

戦後の混乱で、いちばん目だったのは、闇の女と呼ばれた娼婦の出現だった。
アメリカ軍兵士が上陸した。1945年9月。
私は、その日、新橋から電車に乗ったのだが、たまたま乗り合わせた若い女2人が、ほかの乗客に聞こえよがしに、自分たちがアメリカ兵数名にジープにつれ込まれて輪姦されたことをうれしそうに話した。彼女たちは、占領軍のようすを見物しに茨城県から上京したらしい。モンペをはいた田舎娘たちは、代償にチョコレートと、Kレーションをもらったことを話していた。
ふたりは、途中の停留所で電車を下りたが、ふたりとも疲労したのか、腰を落として、お互いにしがみつきながら歩き出した。うしろ姿が露骨にセックスを連想させたので、乗客たち、みんなが苦笑した。
電車の車掌が、そばにいた私にむかって、
「戦争に負けた国の女は、どこでもああだからな」
といった。
このときのことは小説に書いたが、その翌日、銀座で、若い女の子たちが、アメリカ兵に笑いかけて、しなだれかかったり、手を繋いで歩いているのを目撃した。
通行人はこの光景を見ないようにして歩いていた。

私は、上野や、有楽町、日比谷界隈の風景しかおぼえていないのだが、敗戦直後の食料難と、すさまじいインフレーションのさなか、生活のために春をひさぐ街の女があふれはじめた。わずかな米や小麦を得るために、物々交換の手段としてからだを提供するといったこともめずらしくなかったと思われる。
この冬(1946年1月)には、上野や日比谷だけでも千数百人の女性がひしめいていた。翌年の2月には、占領軍によって公娼制の廃止が発令されたが、現実には敗戦直後から、いたるところでこうした風景が見られた。

戦時中は、二〇件程度にすぎなかった若い娘の家出が、敗戦直後から一〇〇件を越えて、1946年7月には、六〇〇件を突破した。

1611


【7】

 

その夜、私は、手もとにあった配給の大豆二合を、手拭いを縫いあわせた袋につめた。翌日、早朝、その袋を抱えて、大森駅から上野に向かった。
母の宇免が、栃木県黒磯の山奥に疎開していたので、とりあえず、私が身辺についていたかった。敗戦の当日から交通網が麻痺して横浜方面行きの電車も動かないという。さまざまなデマが飛びかっている。
日本は、これからどうなるのだろうか。そういう思いは、自分がこれからどうなるのだろうか、という思いとつながっていた。

私は知るよしもなかったが、母は、敗戦を知ってすぐに、疎開先で所持品を全部売り払い、米、芋などの食料を買い込んで、その足で、東京に向かっていた。
一方、私は、逆に黒磯をめざしていた。

このときのことは、長編、「おお季節よ、城よ」に書いた。
上野駅は、東京から地方に向かう群衆が押し寄せていた。列車のダイヤが狂って、この日の始発がプラットフォームに入ったのは10時頃だった。
無数の人たちが乗り込んだが、悲鳴や怒号があがった。私などは乗り込むこともできなかった。
たまたま隣りに、土浦の海軍航空隊から脱走してきた予科練の生徒がいたので、ふたりで協力して、列車の屋根によじ登った。私たちを見た人たちが、つぎつぎに屋根にあがりはじめた。

飲まず食わずで、黒磯にたどり着いた私は疲労していた。母が入れ違いに東京に向かったと知ったとき、思わず笑いだした。母はこれと思い立ったらすぐに行動力する女だったから、敗戦を知って、すぐさま身辺を整理して、東京にもどろうと決心したに違いない。
私は母の借りた部屋で数時間仮眠をとった。

母が頼って行った人の好意で、わずかながらイモ、コメなどを手に入れたので、私は食料の買い出しに行ったことになる。それだけでも、黒羽にきた意味はある。
私は黒羽からまたひとりで歩きつづけた。
黒磯に戻ったときは、月の位置がずいぶん変わった。しかし、この美しさはいつまでも心に残った。

この夜明けに私が見たのが満月だったかどうか、おぼえていない。ただ、もはや、戦争はない。そう思いつめて歩きつづけた。
一刻も早く東京に戻りたかった。黒羽で、宇都宮の陸軍部隊が反乱を起こしたというウワサを聞いたのだった。

ふたたび黒羽から上野をめざした。むろん、切符が手に入るはずもない。深夜の黒磯の駅にも、おびただしい人数の乗客が押し寄せていた。敗戦翌日から鉄道の混乱がつづいている。各地に、徹底抗戦派が蜂起して、軍隊が東京に向かっているというデマが飛んでいた。東北線のダイヤもみだれて、各地の疎開先から上京しようとする人々があふれていた。私はまたもや無賃乗車で、食料と水だけをかかえて、汽車にもぐり込んだ。この列車も、それこそ立錐の余地もない混雑ぶりだった。
途中で、運転手が逃亡したため、乗客の数人が汽罐車にもぐり込み、石炭を汽罐に放り込んで走らせたという。これは途中の上尾駅あたりで、前の車両からつたえられてきた。

上野についたのは何時頃だったのか。またしてもおびただしい群衆がプラットフォームにあふれていた。駅の改札に駅員の姿はなく、敗戦直後の混乱が鉄道の駅のすさまじい混雑にあらわれていた。

1610

       【6】

敗戦の日の晩、私は、両親の部屋(6畳)と、私の部屋(1畳)の遮光幕をはずした。

これも説明が必要で――戦時中は、防空上の措置として、室内照明の周囲に黒い遮光幕をつけることが義務化された。黒い布や、円筒状にしたボール紙に墨を塗って、電灯のまわりを蔽った。電灯の輝度は、せいぜい10ワット、その光も直径わずか数十センチの範囲で、食卓を照らす程度のものだった。日没以後、全国の都市、村落すべてが、まったくの闇にとざされるのだった。
我が家でも、せいぜい50センチ平方程度だけ食卓を照らす電灯の明るさで、食事をしたり本を読むのだった。
わずかでも光が漏れたりすれば、たちまち、憲兵や、警察官、警防団の連中が飛んできて、厳重に注意する。だから、東京にかぎらず、全国が暗黒に包まれるのだった。

電気のスィッチを入れた瞬間、室内が光り輝いた。光はこんなに明るいものだったのか。私は、はじめて見る光に感動した。せいぜい10ワットの電球なのに、眼がくらむような輝度だった。

この日、室内の照明を全部つけたのは、我が家がいちばん早かった。

我が家が照明をつけたため、近くでも、つぎつぎに遮光幕を外す家が出てきた。
7時頃、この地区の警防団の団長が血相を変えて飛んできた。

「空襲警報が出るかも知れないのに、遮光幕を外すとは、なにごとだ」
という。
私が応対に出た。
「戦争は終わったんだぞ。電気を消す必要もなくなったんだ」

戦時中、憲兵や特高警察などがおそろしい恐怖の集団だったが、そのつぎにおそろしかったのは、隣組の組長や、その地区の自警団、消防団の連中だった。
この警防団の男は、軽蔑しきった顔つきで私を睨みつけていたが、私はひるまなかった。そのオジサンはそのまま退散した。
私の家の前の清水さんの家も、この夜、電気をつけた。その奥の、寿岳 文章先生の家も、立花子爵の邸宅も遮光幕を外して、それまで黒い塊りにしか見えなかった木々が、広壮な大名屋敷の庭園の風情をみせていた。

やがて私は外に出た。この夜、山王二丁目で照明が煌々と輝いたのは、せいぜい二割程度だった。
まだ、全部の家が遮光幕を外したわけではない。しかし、大森から大井にかけて、あかるい照明をとり戻した家並みが点々とつづいている。これを見ただけでも、ほんとうに戦争が終わったという実感があった。

この夜、栃木、黒磯に単身疎開している母の宇免のところに行く決心をした。戦争は終わったが、その夜、さまざまなデマが飛んで、全国各地に不穏な動きが起きはじめているようだった。このままでは内戦状態になるかも知れない。

 

 

1609

      【5】

戦争が終わった日の午後、私は椎野 英之の部屋に遊びに行った。

思いがけないことに、椎野の部屋に訪問客がいた。若くて美しい女性だった。
戦時中は、どこの家庭の娘たちもモンペ姿だったが、このお嬢さんは、戦争が終わった日に、すらりとしたからだを、ゆたかなワンピースでつつんでいた。
美貌だったが、なによりも表情があかるかった。魅力のある女に共通する一つの特徴は、例外なく明るく、さわやかな表情を見せていることだが、このお嬢さんは、モンペ姿の娘たちの、思いつめたような、緊張しきった表情がない。
その服装から、彼女が「文学座」の研究生とわかった。

椎野が私を紹介してくれたが、彼女は私には眼もくれなかった。佐々木というお嬢さんだった。戦争が終わった瞬間に、若い娘がこれほどあざやかに変身するものか。そんな驚きがあった。いまなら、それほど挑発的には見えなかったにちがいない。しかし、佐々木 瑛子のドレスは、胸のラインぎりぎりまで開いていた。ブラジャーはわざとつけていない。ウェストがきゅっとしまって、フレヤーが波のようにひろがって、いかにもたおやかに見えた。私は、椎野がこんなに若くて美しいお嬢さんと親しくしていることに驚いた。

彼女が椎野を訪れたのは――戦争が終わったのだから、すぐにも劇団の再出発を考えなければいけないという相談だった。とりあえず、久保田 万太郎先生、岸田 国士先生に連絡をとりたい、という。彼女の話は、かなり具体的なもので、私などが名前だけ知っている芸術家、俳優、女優たちの消息がつぎつぎに出てきた。

話の途中で、すさまじい爆音が聞こえはじめた。空襲の恐怖は、誰にも共通していたが、この日、空襲警報が出るはずもなかった。B29の爆音なら、はるか上空から聞こえてくるはずだったが、この爆音はすさまじい速さで、大森上空を疾走してくる。アメリカ空軍機が、早くも東京を偵察にきたのかと思った。
私は、その機体を見ようとして、椎野の部屋の窓から乗り出した。
爆音の正体は――海軍航空隊の戦闘機、2機だった。
おそらく敗戦を知った土浦の海軍航空隊の一部が、戦闘継続を主張して、示威運動を起こしたにちがいない。
佐々木 瑛子は、窓からのり出して、大声で、

「もう、戦争は終わったのよ!」

声をあげた。私は、この少女の純真な怒りに驚いた。と同時に、その驕慢な姿勢に驚かされた。
戦闘機は驚くほどの低空に飛来して、瞬時に飛び去った。

しばらくして、私は椎野と佐々木 瑛子を残して帰宅した。

1947年12月、劇作家、内村 直也は戦後最初のラジオ・ドラマ、「帰る故郷」を書いた。このドラマに佐々木 瑛子が出ている。この放送劇は、「文学座」のために書いたもので、杉村 春子、三津田 健、宮口 精二、中村 伸郎。新人として新田 瑛子、伊藤 聡子、賀原 夏子が出た。
このドラマは成功した。
この放送劇で、内村 直也は、戦後のラジオ、ドラマのパイオニアになってゆく。

後年、佐々木 瑛子はある作家と結婚したが、やがて悲劇的な死をとげた。作家は、この事件によって重大な影響をうけて、一時は作家としてのキャリアーも終わったとまで覚悟したが、その後、立ち直った。
ここではこれ以上ふれない。

 

 

 

1608

     【4】

少年時代の私には、少数ながら大切な友人がいた。
小川 茂久、覚正 定夫、椎野 英之。

小川は、後年、明治の仏文の教授になった。覚正 定夫は、はじめ仏文の助手だったが、私の紹介で、安部 公房と親しくなり、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。椎野 英之は、「東宝」のプロデューサーになる。

小川 茂久が大森に住んでいたので、なにかと世話になった。蔵書が全部焼けたため、読む本がなかった私に、有島 武郎の全集や、鴎外などを贈ってくれたのは、小川 茂久だった。

小川については何度か書いたが、椎野 英之のことは、これまでほとんど書く機会がなかった。1945年8月、たまたま、おなじ山王に椎野 英之が住んでいたので、彼と親しくなった。

椎野 英之は、私より二期上。もともと俳優志望で、戦時中に「文学座」の研究生になっていた。同期に、荒木 道子、丹阿弥 谷津子、新田 瑛子、賀原 夏子など。
「文学座」の研究生として、ジュリアン・リュシェールの「海抜2300メートル」(原 千代海訳)の勉強会に出た。(この勉強会が、戦後すぐからの「文学座」アトリエ公演につながっている。)

私が見た舞台では、森本 薫の「怒濤」(1944年)で、椎野はガヤ(その他大勢)で出た。セリフはたったひとことだけだったが。

1945年5月、森本 薫の「女の一生」が渋谷の「東横」で上演されたが、わずか4日目、大空襲で劇場が焼亡したため、「文学座」の活動も中止された。
私は、この公演を見ている。戦時中に見た最後の新劇の舞台だった。戦時中に「文学座」を見た人も、もうほとんどいないだろう。東京は一面の焼け野原で、劇場らしい劇場はなくなっていた。もともと映画館だった渋谷の「東横」を改装して舞台にしたのだった。しかも、連日の空襲下で、夜間の公演はできず、マチネー中心の舞台で、4日目には劇場ばかりか、渋谷から世田谷、杉並にかけて焼き尽くされたのだった。

椎野のクラスは勤労動員で、石川島の造船所で働いていた。私たち下級生は川崎の「三菱石油」の工場で働いていた。ところが3月の大空襲で石川島の工場が壊滅したため、椎野たちも川崎の「三菱石油」の工場に合流した。
私が親しくなったのは、このときからだが、その後、椎野は召集された。小川も 敗戦の直前に招集された。私も、9月に入隊ときかされていたが、8月15日に敗戦を迎えたのだった。

椎野の家は、あるいて7、8分の距離だったので、毎日遊びに行った。何を語りあったのか、もうおぼえていない。しかし、椎野のおかげでいろいろな戯曲を読むことになった。
椎野は、あまり本を読まなかった。本棚にならんでいるのは、ガリ版の台本が多く、あとは、戯曲ばかりが20冊ばかり。そのなかに「にんじん」や「ドミノ」があった。
椎野が好きな劇作家はロシアのキルションだったが、日本の劇作家では、久保田 万太郎だった。私は、浅草の劇場で喜劇の台本めいたものを書いたことがあった。そんなことから話が合って、椎野が眼を輝かせた。
年下の私が、戯曲にかぎらず、いろいろなジャンルの本を読んでいると知って、何かわからないことがあると私に聞くようになった。

 

 

1607

       【3】

1945年8月15日。

この日、昭和天皇みずから放送をするとしらされていた。
私は、何も考えない少年だったから、この放送で、天皇が国民に玉砕を宣言かも知れないと思った。

この放送は、立花邸のラジオで聞いたのだった。

戦災のためラジオももっていない人々のため、当主の弟にあたる立花 忠保さんが、立花家の庭を開放してくれた。わざわざラジオの音量をあげてくれたので、ひろい庭先に集まった十数人が天皇の声を聞いたのだった。

今でも、歌人、筏井 嘉一の短歌を思い出す。

敗るるべく国敗れたる宿命の涙をぬぐふ天日のもと

天皇の「終戦の詔勅」を聞いた瞬間の一首。
私は、はじめて昭和天皇の肉声を聞いて驚きをおぼえた。ひどく女性的な声だったし、それまで聞いたことのない抑揚だったから。
その驚きが先に立って、「敗るるべく国敗れたる宿命」などという考えはうかばなかった。涙も流れなかった。放送の途中で、この戦争が終わったと知って名状しがたい感情がふきあがってきた。
戦争というものは終わるものなのか。茫然としていた。戦争が終わるなんて知らなかったなあ。
これほど悲惨な戦争が天皇の放送ひとつで終わった。あり得べからざる事態に思えた。同時に、これで戦争が終わったという歓喜がワーッと胸にこみあげてきた。

勝敗はぜひなきものをいくさすみておのずからいづる息のふかさよ

「おのずからいづる息のふかさ」は、私もおなじだったかも知れない。しかし、私の内部には筏井 嘉一とはまるで違った思いがあった。「勝敗はぜひなきもの」などとはまったく考えなかったし、日本がひたすら敗戦に向かってころげ落ちて行ったような気がしたのだった。

敗戦の日、私は朝から近所の建物の強制撤去の作業にかり出されていた。空襲がはげしくなったため、まだ被害を受けていない地域では、特に指定された家屋が、緊急にとり壊されることになっていた。焼夷弾による延焼をふせぐ措置という。
この作業には、一個分隊ほどの兵士もかり出されていた。

戦争が終わったのだから、この作業もただちに中止されるのが当然だろう。今なら誰しもそう考えるだろう。ところが、天皇の放送を聞いたあと、作業にあたった山王二丁目の人々は、誰ひとり作業を中止しなかった。何もいわず、ただ黙々と作業をつづけた。

戦時中の私たちは、いつも上からの命令におとなしく従う習性が身についていたのだろう。あるいは、突然の敗戦で、誰しも何も考えられなくなっていたのか。敗戦という事態にとっさに適応できず、まるで虚脱状態のまま作業に戻ったにちがいない。
こうして無傷の邸宅が、天皇の放送かあって1時間後には引き倒されたのだった。

この作業が終わったとき、若い兵士が私ともうひとりの少年を呼びとめた。

「これからは、きみたちの時代だからな。がんばってくれよ」

彼が終戦の勅語を痛恨の思いで聞いたことは疑いもない。声を殺して、涙を流し、目を赤くしながら作業をつづけたらしかった。真夏の作業なので、シャツ一枚、下は軍袴、ゲートル、軍靴だったから階級はわからない。おそらく大学在学中に召集され、下士官になったばかりで敗戦を迎えたのか。
私は、黙って若い兵士に軽く頭をさげて、その場を離れた。涙と汗にまみれた若い兵士もそれ以上ことばを返さなかった。

私は、このときになって、はじめて不遜な思いがふきあげてきた。
「そうだ、戦争は終わった。これからはおれたちの時代になる」
そんな思いが胸にあふれてきた。

 

 

 

1606

       【2】

敗戦前後の時期、私は大森の山王二丁目に住んでいた。
現在の大森駅前は、戦前とはまったく変わって、駅のすぐ前の山王神社の階段も、少し左にあった暗闇坂も消えている。もともと坂の多い地形だが、戦災をうけなかった土地も、すっかり再開発されて、マンション、アパートなどが多い。いかにも高級住宅地らしい雰囲気の街になっている。

山王二丁目の地番は変わっていないが、明治時代に区長だった立花子爵の宏壮な屋敷のあったあたりも、すっかり変わってしまった。やはり高級マンションが立ち並び、私が親しくしていた立花 忠保さんのご子孫と思われる立花家の邸宅と、それに隣接して、多くの住宅が建てられている。

立花邸の隣りに有名な医院があった。りっぱな門構えの豪邸だったが、このお医者さんの令嬢が「文学座」の研究生だった。
私の友人、椎野 英之の家も山王二丁目で、歩いて7分ばかりの距離だった。

山王二丁目に住んでいたと聞けば――誰しも高級な住宅地を連想して、私が戦時中さして生活に苦労しなかった少年と想像するだろう。
とんでもない。

私たちは極端に窮乏していた。それは、今でこそ苦渋にみちたものということができるが、当時は、そんなことばではすまない、その日生きるか死ぬかわからない、切実な苦しみにさらされていた。

敗戦前後に私たちの住んだ家は西洋館だったが、連日の空襲かはげしくなったため、そこの家族が疎開して空き家になった。外見は古風で趣きのある洋館だが、内部はガタガタのお化け屋敷だった。
戦災をうけた叔父が、たまたまこの家を見つけた。叔父は零細企業の町工場で軍用のボール箱を作る下請けで、仕事を再開しようとしていた。町工場の職人たちをかかえていた叔父の一家と、私の一家で、20人近くの共同生活だったから、まるで難民生活といってもよかった。

父は、「石油公団」に徴用されていたし、私は勤労動員で、川崎の工場で働いていた。そこで、母は、知り合いをたよって、栃木県黒磯の奥に疎開して食料を確保することになった。妹は、埼玉県に疎開した祖母のところに移って、学業をつづけることになった。
一家離散したのだった。

私は着のみ着のままだった。動員先の工場で支給された作業服を着て、食事もことかく状態で、飢えて痩せこけた浮浪兒のように生きていた。

1945年の晩春、ほとんど連日のようにアメリカ空軍の空襲がつづいていた。
東京、渋谷、目黒が灰塵と化した直後に、横浜は、B29・500機、ロッキードP51・100機の空襲で壊滅した。いまの人たちには想像もつかない事態だと思う。
これほど多数の巨大な爆撃機の空襲に、戦闘機が護衛についている、ということは、日本には、これを迎撃する航空戦力がまったくないことを意味する。すでに制空権を失っているとすれば、敗戦は必至と考えるべきだろう。
ところが、大本営は、きまって損害は軽微と発表していた。(こういう隠蔽体質は、東日本大震災で、大被害をうけた福島の原子力発電所の被災状況や、放射能漏れの数値をごまかしつづけた「東京電力」にもうけつがれている。)
そして、6月に入って、阪神地方が一日おきに大空襲でやられ、名古屋もすさまじい被害を受けた。

敗戦前の日々、文芸科の上級生たちは三鷹の「中島飛行機」で働いていたが、この工場も壊滅したため、生き残った学生たちは、川崎で働いている私たちと下級生と合流したのだった。そのなかに、椎野 英之がいた。(椎野については、もう少しあとで書く。)

 

1605


【1】

昨年の秋、岩田 英哉という人から、思いがけない手紙をいただいた。岩田さんとは面識がない。
少し説明が必要になる。

岩田さんは安部 公房の熱心な研究家で、独力で安部 公房に関するリーフレット、「もぐら通信」を発行しているのだった。私は少年時代に安部 公房と親しかったので、このブログで、安部 公房の名をあげたことがあった。それに目にとめた岩田さんが、「もぐら通信」に転載したいといってきたのだった。

私において否やはない。

やがて「もぐら通信」に拙文が掲載された。これは、うれしいことだった。

その後、岩田さんからまた手紙をいただいた。そのなかに――「更に安部 公房との想い出をたくさんお書きいただけないでしょうか」とあった。
私は少し驚いた。私などがいまさら安部 公房について書くのは僣越至極、また、何か書いたところで誰も関心をもつはずがない。そう思った。
そのとき、ふと気がついたのだが――「戦後」すぐに私が知りあった、たくさんの文学者、私と同時代の作家、評論家たちも、ほとんどが鬼籍に移っている。いまさらながら無常迅速の思いがあった。

埴谷 雄高、野間 宏、花田 清輝などの先輩たちだけでなく、私と同世代の関根 弘、針生 一郎、いいだ もも、さらに小川 徹、森本 哲郎、矢牧 一宏までが亡くなっている。
やはり、「戦後」すぐの安部君について少しでも書いておいたほうがいいかも知れない。そう思いはじめた。

安部君のことを思い出しているうちに、「近代文学」の人びとをいろいろ思い出した。そればかりではなく、いろいろな時期に出会った人びと、さらには敗戦前後のことがよみがえってきて、収拾がつかなくなった。

作家の回想というのもおこがましい。
私の内面につぎつぎにふきあげてくる思い出を書きとめておくだけだが、時あたかも戦後70年、まだ記憶していることを気ままに書きとめてみよう。