1644

    【40】

T・Kさんから質問をうけて、いろいろなことを思い出した。とりとめもない思い出ばかりだが、こういう機会でもなければ、思い出すはずもなかった。

その後、T・Kさんからメールがあった。

中村真一郎氏でしたか!

戦後文学に興味がありまして、氏の著作も「死の影の下に」五部作、「四季」四部作を中心に読んだことがあります。
中村氏は中年から晩年にかけて頼山陽や江戸漢詩に関する評伝・研究をものしましたが、なるほど、祖父が漢学者だったとは。なっとくです。
氏の神経症とはべつに、祖父から受けた漢学の素養が評伝・研究に取りくむきっかけとしてあったのですね。

このメールのおかげで、またしても別のことを思い出した。戦後、いち早く文学者として安部 公房を認めたのは、誰あろう中村 真一郎だった。
これまた説明が必要になる。

「近代文学」の人々は、1947年春から、月に1度、勉強会のような集まりをもつようになっていた。出席者は、多いときで15名程度。したがって、この集まりの場所は「文化学院」の事務所ではなく、いろいろと変わったが、1948年には中野の「モナミ」がよく使われた。
同人たちがゲストを招いて、レクチュアを聞く。それだけの集まりだったが、そのゲストには、武谷 三男、矢内原 伊作、花田 清輝、赤岩 栄、椎名 麟三、竹内 好といった人々が選ばれた。テーマは、それぞれのゲストによって違ったが、レクチュアのあと、「近代文学」の同人たちとゲストの活発な質問や雑談を聞くのが楽しかった。

この集まりに、私は安部公房といっしょにかかさず出席した。私の頭の程度ではゲストの話について行くのもやっとだったが、たとえば、戦時中、仁科博士を中心にして核融合の研究に従事していた武谷 三男に対して、荒 正人が専門的な質問をつづけた。それに対して武谷 三男が丁寧に答えていたことを覚えている。ただし、その内容については、私は半分も理解できなかったのだからひどい話だが。

広島の被爆直後に、軍の命令で、急遽、東大の医学部ほかの優秀なメンバーが組織され、被爆直後のヒロシマに派遣された。治療よりも、被爆の実態調査、被傷の療法研究が目的で、加藤 周一は血液学関係の研究者として参加させられたという。戦後、この臨床体験について、加藤さん自身はまったく口外しなかったはずだが、このレクチュアでは安部君が医学関連の質問をした。純粋に医療関係の話だったので、これも私にはわからなかった。

「近代文学」の集まりは、毎回、知的に高度なレベルの話題ばかりで、ゲストと出席者たちが自由に質疑応答をする。ときに議論が白熱化して論争になることも多かった。

安部 公房はこの集まりではじめて花田 清輝に会ったのではないか。(そのあとすぐに「真善美社」に安部君と私が行ったのだと思う。このあたり、記憶がはっきりしない。)私が、覚えているのは――花田 清輝が、この集まりにひとりの青年をつれてきたことだった。ロシア語を勉強している労働者で、マヤコウスキーを読んでいると紹介した。
がっしりした体格で、寡黙だったが、たいへんな勉強家だった。
関根 弘という。

この勉強会で、佐々木 基一が熱心に関根 弘と話をしたが、並みいる先輩たちを相手に、もの怖じせずに論争に加わって、整然と切り返すようすに私は驚嘆した。佐々木 基一も、すぐに関根 弘の才能に感心したようだった。会が終わったあと、佐々木さんは、 「なんてったって、関根君は雑階級の出身だからなあ。かなわないよ」
といった。

このとき、私は関根 弘が寡黙なのは、何か理由があるのだろうと思った。その後、関根と親しくなってから、私が本所で大空襲をうけたと知って、一瞬、表情を変えた。
この大空襲で私は本所の業平橋に逃げた。今はスカイ・ツリーで知られている業平橋から押上、柳島も、阿鼻叫喚の地獄と化して、関根 弘はこの空襲で妹さんを失っている。
私がそのことを知ったのは、さらに後年のことだが、関根は、私が業平橋に逃げながら焼死しなかったことに驚きと、自分の体験した苦痛が一瞬、心をかすめたのだろう。

いずれにせよ、この集まりがきっかけで、私は安部 公房といっしょに関根 弘と親しくなった。その後、「世紀」の会を作ろうとしたとき、私がまっさきに協力をもとめたのは関根 弘だった。

 

 

1643

【39】

1947年は、まさに激烈なインフレーション、食料難の年だった。極度の電力不足、輸送力の欠乏で、日常的に停電、食料の欠配がつづく。紙不足で、新聞もタブロイド版1枚になった。
質のわるいセンカ紙のカストリ雑誌が氾濫した。田村 泰次郎の「肉体の門」が、大ヒットした。

「1945・文学的考察」が出版された頃だから、1947年春、おそらく2月から4月にかけてと思われるのだが、中村 真一郎は、「近代文学」の集まりのメンバーとして顔を出すようになっていた。福永 武彦は療養中だったためこの集まりには一度も出なかった。加藤 周一はときどきこの集まりに出た。
会のあとで本郷三丁目のバーに寄った。美人姉妹が経営していたバーで、駿河台下の「らんぼお」の美女と並んで、戦後文学者や、東大仏文の人達が集まっていた。ここで、花田 清輝と大論争になったことがある。埴谷 雄高、安部 公房がこの論争に加わった。

埴谷 雄高は、論争がはげしくなると、その間に割って入って、すかさず別の論点を投げ出す。だから、討論が堂々めぐりにならない。
さらに、加藤 周一と花田 清輝の論争がハイライトに達したと見るや、それまで遠く離れて論争を見ている美しいホステスたちに目をやる。まるで、格闘技のチャイムのような効果で、一時、休憩。(はるか後年、「茉莉花」でも何度かおなじようなシーンを見たことがある。)
この休憩のときに、埴谷さんは、安部 公房と私にむかって、
「なにしろ、カルテジアンとヴォルテリアンの論争だからね。レフェリーも必要だよ」
花田 清輝が薄笑いをうかべた。

この論争の直後に、埴谷 雄高が花田 清輝にあてて出したハガキがある。(これは偶然私が手に入れたもので、このブログに掲載しようと思ったが、残念ながら見つからなかった。)
そのハガキで、埴谷 雄高は、花田 清輝を「戦後」という時代にあらわれた「狂い咲き」と評していた。

こうした論争をそのまま速記して、いまの雑誌に発表したら「戦後」の貴重な記録になったに違いない。

戦後の混乱が続いていた。敗戦の年の暮、日比谷、上野の寒空に春をひさぐ女性の数は千数百人と伝えられたが、常習的な街娼は東京だけで約2万人と推定された。1945年は、さらに増大して、東京だけで約4万人とみられた。
1947年当時、街娼は10万に達したという。

人々の気分が焼け跡の瓦礫のように荒れていた時代。
作家の田中 英光は、毎日、カルモチンを50錠から100錠のあいだ、アドルムなら10錠のんでいたという。埴谷 雄高は、関根 弘といっしょに闇市で、焼酎を飲んでいたが、田中 英光がおなじ酒屋で、焼酎を飲みながら、アドルムを1個づつかじっているのを目撃した。田中 英光は、ロサンジェルス・オリンピックに出場したほどで、堂々たる体躯だったが、今でいうと、アッパーとダウナーをカクテルにするような危険な飲みかたをつづけ、やがて太宰 治の墓前で自殺した。
私の周囲でも、大学の同期生、1年先輩の文学青年で、自殺、あるいは自殺に近い死をとげたものが数名いる。

「戦後」すぐはそんな時代だった。

1642

     【38】

中村真一郎自身が祖父のことを話題にしたことは一度もなかったと思う、と私は書いた。これも薄弱な理由だが、中村真一郎自身が祖父のことを話題にしなかったと私が信じているのは――「近代文学」の人たちは、長年の親友どうしだったから、お互いの出自、経歴についてほとんど話題にしなかったからである。

1946年の秋、私は意外なことを聞いた。平野 謙が小林 秀雄の親戚と知ったのだった。これは平野 謙自身の口から聞いた。中村真一郎もこの話を聞いたはずである。
もう少しあとのことになるが、評論家の西村 孝次が、小林 秀雄の従弟にあたると知った。私は驚いた。一流の批評家には、やはり血筋、血縁というか、遺伝子めいたものがあるのかも知れない。
少年の私はそんなことをぼんやり考えたものだった。
平野 謙が小林 秀雄の親戚だったことは、「近代文学」の集まりでも二度と話題にならなかったが。
埴谷 雄高と島尾 敏雄が、ほとんど同郷と知った。荒 正人も、それほど遠くない土地の出身と聞いて、こうした人々の出自にはなにか地縁めいたものが働いているような気がした。

ある日、「近代文学」の集まりで、平野 謙が中村真一郎にむかって、
「中村君はいいねえ、フランス語が読めるからなあ」
といった。
中村真一郎は即座に、
「フランス語なんて、半年で読めるようになりますよ」
と答えた。
平野 謙は、中村真一郎の答えに苦笑した。

その後、大岡 昇平や、鈴木 力衛、村松 剛など、さまざまな人を見てきたので、フランス語が読めるようになるのは、努力次第で半年もかからないという中村説は、あながち牽強付会ではない、と思うようになったが、このときの中村真一郎のいいかたに私は驚いた。こっちはフランス語の動詞の変化もろくに頭に入らないのに、フランス語なんて半年で読めるようになる、というのは、自分が語学的にいかにすぐれた才能に恵まれているか、誇示しているようなものではないか。

むろん、フランス語が読める程度の勉強と、フランス語の作品が翻訳できるほど高度な勉強とは、やはり話が別だろう。
私は中村真一郎が自分の語学力に自信をもっていることに驚いたが、羨望したわけではない。ただ、オレにはフランス語の勉強は無理だなと思った。
無意識に劣等感が働いていたに違いない。

その中村真一郎が――「幼時に漢学者だった祖父によって、厳しく仕込まれた儒学の初歩への悪印象から長らく中国古典へはアレルギー反応を起こしていた」という。
中村真一郎は肉親(とくに、実父に対して)憎悪をもっていたと想像するが、祖父に対してもエディプス・コンプレックスめいた感情を持っていたと思われる。

もうすこし、はっきりいえば――「フランス語なんて、半年で読めるようになりますよ」といい放った中村真一郎に対する劣等感から、その後の私は、中村真一郎の作品にアレルギー反応を起こしたのだった。

1641


【37】

中野 重治が「展望」に書いた「批評の人間性」(1946年)は、荒 正人、平野 謙に対する最初のきびしい批判だった。
「展望」が本屋の店頭に並んだとき、私もすぐに読んだ。戦後の共産党の「近代文学」に対するはじめての激烈な批判だった。
私は「批評の人間性」を読んで、すぐに「近代文学社」に行った。

まだ午前中だったが、私が着いたときはすでに荒 正人がいて、大きな机に向かって原稿を書いていた。私が挨拶すると、荒 正人が顔をあげた。
顔が紅潮していた。日頃はおだやかで、分厚いメガネの奥から優しいまなざしを向ける荒 正人だったが、この日、私が見たのは怒髪天を衝くといった表情だった。
事務の藤崎 恵子が私に寄ってきて、
「耕さん、今日はたいへんよ。荒さん、わたしにも口もきかずに原稿を書いているの」
低声でいった。これが、荒・平野vs中野の論争の発端だった。

荒 正人が中野 重治に反駁して書いたエッセイに――中野 重治の有名な詩、「オ前ハ歌ウナ 赤マンマノ花ヲ」の詩を全部否定して、「オ前ハ歌ヘ 赤マンマノ花ヲ」というふうに書き直した少女のことが出てくる。この少女が、じつは戦時中の藤崎 恵子だった。

私が「近代文学社」に着いてから、5分ばかりたって、事務所のドアが勢いよく開けられて、平野 謙が足早に入ってきた。肩にインバネス、白足袋に草履。日頃、あまり編集会議にも出席しない平野 謙が、こんなに早い時間に「近代文学」に姿を見せるとはめずらしい。それに、平野 謙の和服姿をはじめて見た。
「おい、荒君、やられたなあ!」
平野 謙はまっすぐ荒 正人に寄って行った。つづいて、佐々木 基一、埴谷 雄高がやってきた。それぞれにこやかな表情だったが、追っとり刀で駆けつけたようなぴりぴりした空気が感じられた。本多 秋五が到着したのは、午後になってからだった。日頃、悠揚迫らぬ本多 秋五までが昂奮しているようだった。お互いに笑いあったり、真剣な表情で、今後の対応を話しあったりしていた。

私は同人たちが緊急にこの問題で話しあうものと察して、その場を離れた。
このとき、藤崎 恵子が近くの喫茶店に私をつれて行ってくれた。

荒・平野の反論を――こく簡単に要約すれば、戦前のプロレタリア文学、左翼の運動を支配した政治の優位性を是正して、人間性の回復をめざして文学の自律性を確立しようということだったと思われる。
こういう発言の背後には、戦前の文学者たちが、革命を目指しながら挫折し、「転向」しなければならなかった、挫折の経験があった。
これは「近代文学」の人々にとっては、ほぼ共通した理念で、戦後の文学は過去の左翼の運動から離れて、新しい現実を表現すべきものという立場だった。
これに対して、過去の左翼文学の代表的な作家だった中野 重治は、これを「近代主義」として批判し、共産主義的人間として、「戦後」にたちむかうべきとした。

中野 重治の「批評の人間性」は、これを契機に政治と文学をめぐるはげしい論争を起こした。私自身はこの論争にほとんど関係がない。そして、左翼系の雑誌から出発したため左翼系と見られていたらしいが、まったく左翼に関心がなかった。

ただし、「批評の人間性」を読んで、私は中野 重治に反感をもった。

はっきりいえば、その後、中野 重治にまったく関心をもたなくなった。戦時中に「歌のわかれ」や「空想家とシナリオ」などを読んで、ひそかな敬意をおぼえたが、この日から敬意も消えた。「批評の人間性」の冒頭の一行で、私が中野 重治に敵意をもった理由はわかるだろう。

この日、私はなんとなく、中村 真一郎の「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らず」ということばを思い出していた。

 

1640

     【36】

加藤 周一、福永 武彦、中村 真一郎たちが、「マチネ・ポエチック」同人として、創刊されたばかりの雑誌、「世代」に、時評「CAMERA EYES」を書きはじめたのは、1946年7月からだった。
「世代」に、若い作家、評論家がぞくぞくと登場する。
吉行 淳之介、いいだ もも、小川 徹たち。

占領軍の命令で検閲制度が撤廃されたため、映画にはじめてキス・シーンが登場する。
「ある夜の接吻」(大映)や、「歌麿をめぐる五人の女」(松竹)など。「匂やかな真白の肌を全裸に、さしうつむく女の柔肌を絵絹にして」という宣伝だけで、観衆はドキドキしたものだった。戦前、検閲でズタズタにされたフランス映画、「乙女の湖」がノーカットで上映された。私は、この映画に出ていたシモーヌ・シモン、その妹役だったオデット・ジョワイユーにあこがれた。

歌舞伎でも、舟橋 聖一の「滝口入道の恋」で、市川 猿之助(後の猿翁)と水谷 八重子(初代)が、雪の降る舞台で抱擁、接吻を見せた。
私が「時事新報」で匿名時評を書きはじめたのは、こうしたはげしい変化のなかで、「戦後」のインフレーションになんとか金を稼ぐ必要にせまられていたからだった。

敗戦直後に、眼のさめるようなファッションを着ていた女優、佐々木 瑛子についてはすでにふれた。もう一人――これも「戦後」に彗星のように登場しながら、悲劇的な死をとげた女優、堀 阿佐子を思い出す。このふたりの女優のことは、中村 真一郎、椎野 英之の思い出に重なってくる。
椎野の紹介で、真一郎さんと親しくなったが、彼の祖父が、漢学者だということは知らなかった。「近代文学」の集まりでも、中村真一郎自身が祖父のことを話題にしたことは一度もなかった。

ある日、雑談している途中で、何の話題だったか、
「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らずだよ」
と、真一郎さんがいった。私はこの言葉は知っていたが、ただの諺(ことわざ)として知っていただけだった。ただ、そのときの私は、
「禍福はあざなえる縄のごとし、ですか」
と、言葉を返すと、
「福も徒(いたずら)に来らず。史記にある」
私の内面に、この真一郎さんのことばが残った。

これもすでに書いたが、私が「近代文学」の荒 正人を訪れたのは、1946年の3月か4月だった。そのときから、「近代文学」の人々に親炙することになったが、同人たち全員がそろうことはめったになかった。戦後の交通事情の悪化も影響していたと思われる。
小田切 秀雄は肺結核で療養中だったからいつも欠席していた。本多 秋五はまだ逗子に転居する前だったし、平野 謙は編集会議に出席しなかった。「島崎藤村」を書いたあと、文芸時評の原稿の注文が多くなって動きがとれなくなったせいだろう。

「近代文学」は、戦後という巨大な潮流の中心に位置して、ぞくぞくと登場した新人たちの集結する拠点になった。ほとんど無名に近い人が多かったが、思想的にも、理念的にも、それまでの文学と決別し、あらたな表現を獲得しようという激烈な意欲が渦巻いていた。
「近代文学」の編集室には、連日、つぎつぎに新しい文学者たちが姿を見せた。たとえば、「近代文学」の人たちは「黄蜂」という同人誌に発表された「暗い絵」という作品に注目していた。二週間ばかりたって、「暗い絵」の野間 宏が顔を見せたとき、佐々木 基一、荒 正人、埴谷 雄高、本多 秋五がどんなに歓迎したことか。
その直後に、こんどは中村真一郎があらわれた。長編、「死の影の下に」を書きはじめたばかりだった。中村真一郎は、佐々木 基一と親しかった。さらに、椎名 麟三が船山 馨とつれだって姿を見せた。やがて、青山 光二。島尾 敏雄が。
これらの人々はいずれも戦後の新文学を代表する作家になる。

「アプレゲール・クリアトリス」という言葉をはじめて使ったのは、中村真一郎だった。花田 清輝が、戦後の作家のシリーズを企画したとき、その場で、中村真一郎がさっと紙に書いた。花田さんは、それをとりあげたのだった。たまたま私は、その場に居合わせていたからよくおぼえている。その後、「アプレ」という言葉は、「戦後」の世相のなかで悪い意味を帯びた。もとより中村 真一郎の責任ではない。

野間 宏も、中村真一郎も、出発はまさに「戦後」作家の登場だったが、一方でははげしい攻撃にさらされたため、かならずしも順風満帆だったわけではない。野間 宏の「顔の中の赤い月」は共産党の御用批評家たちのはげしい批判を浴びたし、中村真一郎は作品を発表するたびに保守派の批評家の攻撃にさらされていた。
これは仄聞だが、荒 正人も「新日本文学」の会合の席上、共産党の徳田 球一書記長から名ざしでほとんど面罵されたという。

1639

     【35】

戦後の闇市では、金さえ出せばアルコール、タバコ、砂糖や食用油、何でも手に入るのだった。作家の久米 正雄は、軽井沢にもっていたログハウスふうの山荘を、わずか1キロの砂糖と交換したという。戦時中から、白砂糖など庶民は見たこともなかった。誰しも栄養不足で、私は、お茶の水駅の階段を、いっきに登れず、途中2度、立ちどまって、息をととのえなければ歩けなかった。

戦後、女たちは戦時中のモンペ姿から、とりどりの服を着るようになっていた。若い娘たちの服装は、今の感覚からすれば見すぼらしいワンピースが多かったが、それでもいっせいに明るくなってきた。
敗戦直後に、眼のさめるようなファッションを着ていた女優、佐々木 瑛子についてはすでにふれた。もう一人――これも「戦後」に彗星のように登場しながら、悲劇的な死をとげた女優、堀 阿佐子を思い出す。このふたりの女優のことは、中村 真一郎、椎野 英之の思い出に重なってくる。

時期的には、安部 公房に会うよりも前に、私は中村 真一郎と会っている。真一郎さんが作家になる直前だった。(ただし、中村 真一郎は、戦時中に、ネルヴァルを訳して出版している。したがって、私は、翻訳家としての中村 真一郎を知っていたことになる。)

ある日、私は椎野の家に遊びに行ったが、不在だった。
私は椎野の家族どうようだったので、椎野が不在でも、そのまま椎野の部屋にあがり込む習慣だった。
その日もいつも通り二階の部屋に入った。
八畳間の書院、壁いっぱいの書棚にぎっしり数百冊のフランス語の原書を見て、私は驚愕した。これが中村真一郎の蔵書だった。

この「回想」で、中村真一郎について書くつもりはなかったのだが、TKさんの質問から、いろいろと中村真一郎のことを思い出したのだった。

 

 

1638

     【34】

敗戦直後から冬にかけて、激烈なインフレーションと食料難が襲いかかってきた。

大森でも、敗戦の翌日には、駅前から入新井、いたるところに闇市ができた。この闇市に無数の人が押し寄せた。焼け跡にゴザやサビついたトタンをしいて、古新聞やボール凾の上に板戸を載せただけの場所に、戦時中にはまったく見なかった隠匿物資、配給ルートにはのらない食料、衣料品がならべられて、むせ返るような活気があふれていた。
二、三日もすると、この闇市も、ボロ布や、軍用毛布、テントの囲い、よしず張りなどが多くなって、ヤクザや第三国人が勝手に土地を占拠しはじめ、あっという間にバラック建ての店が出はじめる。

敗戦の翌朝、私は大混乱の東京から那須まで無賃旅行をした。その日の食料は、ひとつかみの大豆、おそらく30~40粒だけだった。母は那須に疎開していたが、敗戦を知ってすぐに東京に戻ったため、私とは行き違いになった。母は、埼玉県に疎開していた私の祖母の手づるで食料をかき集めて戻ってきた。

戦後の食料難の実態は、もはや想像もつかないだろう。
誰もが飢えていた。食料の配給も欠配がつづく。
敗戦直前までは、僅かな配給量にせよ、なんとか主食のサツマイモ、大豆などが配給されたが、敗戦後は、1本のサツマイモ、ひとにぎりの大豆さえも配給されなくなった。
ほかのものの配給もとまった。庶民は、食料をもとめて文字どおり狂奔していた。
9月に占領軍が進駐した直後に、アメリカから緊急にフーバー元大統領が来日して、救急の食料輸入が決定された。

こうして配給された食料も、食用油をとるために圧縮された大豆カスや、ムシが食い荒らしてツララのさがった赤ザラメ、乾燥サツマイモの粉末など。
量もわずかだった。
米のかわりに、砂まじりのカタクリコの配給もあった。一日ぶん、一人大さじ4杯程度。別の日に配給された赤ザラメは、一人5勺程度。ときには乾燥サツマイモの粉末など。
メリケン粉の配給もほとんどなくなった。やっと届いたメリケン粉も一週間分で、一人、1合程度。これを水で溶いて、掌でかためて、スイトンにする。味噌、醤油の配給がないため、塩水で煮ただけのまずいスイトンだった。食用油の配給はまったくなかった。
バター、チーズなど見たこともなかった。脱脂粉乳が配給されたが、ときには、圧縮して油をとったあとの脱脂大豆を乾燥した、牛、ブタのエサが配給された。

1945年12月、アメリカ兵が颯爽とジープをはしらせる町に、おびただしい数の浮浪者があふれていた。浮浪児もいた。そして、若いGI(アメリカ兵)めあてにあらわれたパンパンと呼ばれる街娼の群れ。大森の駅近くにバラックの映画館が急造されたが、そのすぐ前は京浜東北線の土手で雑草が生い茂っていた。そこに、若い女の子がつれ込まれて強姦された。女の子の悲鳴が聞こえたが、誰も助けようとしなかった。
これが敗戦国の現実だった。明日のことは誰にもわからない。それでも、奇妙な解放感がみなぎっていた。

男たちは、戦争の名残をとどめる国防色の軍服に、膏薬をはったようにツギのあたったズボン、復員土産の軍靴。「近代文学」ではじめて会った本多 秋五は、がっしりした軍靴をはいていた。
おなじように、野間 宏も軍靴をはいていた。安部君と私は、野間 宏を「ヘイタイサン」と呼んでいた。青山 光二に会ったのは、おなじ年の秋。青山 光二は、軍靴をはいていなかったが、私と安部 公房のあいだでは「スイヘイサン」だった。
むろん、武井 武雄のマンガをパロディーしたものだった。

1637

     【33】

こんなとりとめもない、気ままな回想でも、熱心に読んでくださる奇特な読者がいる。
この回想(7月14日)について、思いがけない質問を受けた。
TKという方から、このブログに出てくる「祖父が漢学者だったという作家」は誰なのかという質問が寄せられた。

やはり、伏せなかったほうがよかったか。
私としては、安部 公房を中心に、いわば気楽に思い出話を書いているつもりだったので、この作家にふれる余裕はなかった。だから、わざと伏せたのだが――この作家の名を知りたいという読者がいる。そのときは、たいして深く考えもしなかったのだが、これがきっかけで、私の内部で戦後の文学者たちの思い出が思いがけない方向にひろがって行った。
荒、平野と思いだせば、ただちに埴谷、佐々木、あるいは、山室、本多というふうに、思い出は繋がってくる。そうなると、野間 宏、椎名 麟三、さらには梅崎 春生、船山 馨などもおもいだすことになる。
埴谷 雄高ふうにいえば「一人の名をあげれば一端を引かれた紐から他端がするする出てくるふうにかならず他のひとの名も一緒に出てくるところの珍しい三人組」、加藤 周一、福永 武彦、中村 真一郎なども。

祖父が漢学者だったという作家は誰なのか、という質問だけに答えておこう。

中村 真一郎である。

その中村 真一郎の名をあげただけで、作家自身のことばかりでなく、戦前の漢学の素養について、はては、作家と知りあった戦後、1945年8月から翌年にかけての私自身のことが奔流のように押し寄せてきた。

私は大森の生まれ。いわゆる海側で、昔は遊廓などがあった土地。作家の山口 瞳の生家や、「創価学会」のえらい人の生まれた場所のすぐ近く。
戦時中から戦後にかけて住んでいたのは、山王二丁目。

すぐお隣り、狭い坂のつき当たりに、寿岳 文章先生のお屋敷があった。ついでのことに、これも近くの馬込には、戦前、室生 犀星、尾崎 士郎、宇野 千代をはじめ、朝日 壮吉(吉田 甲子太郎)などの貧乏文士が集まって住んでいた。
犀星先生のご子息は、明治の「文芸科」で私と同期。作家、室生 朝子の弟にあたる。

TKさんのご質問から、戦後すぐの大森を思い出したのだった。

1636

     【32】

戦後、アメリカ映画がぞくぞくと公開されるようになった。私は、そのほとんどを見たのだが、イギリス映画の公開はずっと遅れてからで、フランス映画の公開は、さらにあとからだった。

私の年齢の少年が、戦後すぐにアメリカ文学を読んだはずはない。誰しもそう思うだろう。しかし、私は、立花 忠保さんの書棚で古い「スター」ヤ「キネマ旬報」を見つけて、ほとんど全部を読んでいた。だから、ここでも、私はめぐまれていたといっていい。

そのフランス映画で――これも戦後、もっとも早く公開された一つ、「カルメン」を、これも安部君といっしょに見に行った。
この映画は、クリスチャン・ジャック監督が、戦時中に撮ったものだが、ヨーロッパでドイツの敗色が濃くなって、上映を禁止されたものだった。
ヴィヴィアンヌ・ロマンス、ジャン・マレーが出ている。私は、フランス映画が好きだったし、妖艶なヴィヴィアンヌに惹かれたが、安部君は、つまらない映画だといっただけだった。そして、ジャン・マレーをまるで認めなかった。
私は、ジャン・コクトォが、戯曲や映画で、この俳優を使っていることを知っていたので、ジャン・マレーを擁護したが、安部君は、この俳優のために「カルメン」がおもしろくないものになったという。今の私は、あらためて安部君の判断のただしさをみとめる。
こういう話題から、私は、安部君が映画に絶大な興味をもっていることを知ったのだった。

1948年。稲垣 足穂がたてつづけにアメリカ映画を見たことを書いている。

先日、万世橋のシネマ・パレスへ久しぶりにはいった。「呪の家」といふお化け
のフィルムを観るためにであるが、四辺を領するくらがりと停滞した空気に不吉
なものを感じて、十分もたたぬうちに飛び出した。

私は、これだけの記述から、シネマ・パレスという映画館の、「くらがりと停滞した空気」を思い出した。「呪の家」は、レイ・ミランドとゲイル・ラッセルの主演だった。これと同時期に、「カサブランカ」が封切られて、これは映画史に残るような名作と見られているが、「呪の家」は、封切られてすぐに忘れられている。私はゲイル・ラッセルが好きだったので、このホラー映画もシネマ・パレスで見たのだった。

稲垣 足穂いわく、「人間的存在のかげろう性をまざまざと示す映画。生存の埒もなさを教えるフィルム。そしてまた偶然と荒唐無稽に何らかの見せかけの意味を付与する第六芸術。」

稲垣 足穂は映画がきらいだったらしく、映画をぼろくそに罵倒している。
それでも、ジュリアン・デュヴィヴィエの「肉体と幻想」のオープニングは気に入ったらしく、「このやうな点こそまさに二十世紀セルロイド芸術の独壇場であるとしないわけにいかない」という。デュヴィヴィエはこの後、「運命の饗宴」を撮るのだが、稲垣 足穂はおそらく見なかったにちがいない。

稲垣 足穂は、すぐにつづけて、

人間流転のはかなき様相を暗示して、特に興味をおぼえたのに、”Mr.Lordan
is Here”(幽霊紐育を歩く)があった。「天国は待ってくれる」といふ
通俗小説を脚色したもので、ジョーダン氏なる冥府の番頭の演技が秀逸だった。

という。
「幽霊紐育を歩く」は、1941年の作品。太平洋戦争勃発の直前に作られただけに、ストーリーに、よるべない感じというか、迫りくる戦争から目をそらすような 一種のエスケーピズムが漂っていたような気がする。
稲垣 足穂は、それを「人間流転のはかなき様相を暗示」した映画と見たと思われる。

「冥府の番頭」は、ロバート・モンゴメリが演じた。相手の女優は、イヴリン・キースで、ゲイル・ラッセル、ヴェラ・エレンなどとならんで、小粒ながら、「戦後」のスターといった女優だった。

「呪の家」、「カサブランカ」、「肉体と幻想」、「幽霊紐育を歩く」などが公開されたのは、1948年の夏だった。戦後の混乱がつづいていただけでなく、アメリカ、ソヴィエトの冷戦構造のなかで、私たちも変化しようとしていた。

私たちに作用しているが、しかし、作用する意識そのものを私たちにけっして見せない世界のなかで、私は彷徨していたような気がする。(この映画は、後年(1978年)、ウォーレン・ビーティーがリメイクしている。俳優としては、ウォーレン・ビーティーのほうがロバート・モンゴメリよりもずっといい芝居を見せていた。)

この夏、私は「世紀の会」の結成に奔走していたが、なぜか、ひどい疲れを感じるようになっていた。

 

 

1635

【31】

 

ある日、私は荒 正人にさそわれて、近くの喫茶店に行った。荒 正人が私ひとりを喫茶店に連れて行く、こんなことは、めったにないことなので、私は緊張した。
コーヒーを注文したあと、荒 正人はすぐに切り出した。

「聞きにくいことを聞きますが、きみは、藤崎さんとどういう交際をしていますか」

私は驚いた。荒さんは何をいい出すのだろう。見当もつかなかった。

「仲のいい友だちだと思っていますが」

「そうですか。――じつは、藤崎さんは、近く結婚することになっています。そのことを、きみに知らせておきたいと思って、こうして話をしています」

 荒 正人は、私がいつも藤崎さんと親しくしているので、一方的に愛情をもっていると思ったらしい。私は恥ずかしさのあまり、コーヒーをこぼしそうになった。荒さんが、わざわざ忠告するくらいだから、「近代文学」の同人たちもおなじような眼をむけているかも知れない。
人形劇をやるために藤崎さんにいろいろと教えてもらおうとしていることは、はずかしくて口に出せない。はじめて会ったときから、藤崎さんにひそかな恋情を抱いていたのが、荒さんに見抜かれたような思いで、彼女と私の距離がひどく近すぎることに狼狽した。

「申しわけありません。今後、注意いたします」

 そんな弁解をしたような気がする。
藤崎 恵子は、私の家に遊びにきたことがある。そのとき、私は母に紹介したのだった。お互いに親しい感情はもっていたが、それは恋愛感情とは違ったものだった。ただ、藤崎さんが近く結婚する予定だということを、わざと伏せたのか。私の態度は、荒 正人に注意されるようなものだったのか。
恥ずかしさと、かすかな困惑で混乱しながら、できるだけ動揺を隠そうとしていた。
これで「おもちゃ箱」の劇は終わったと思った。残念だが、仕方がない。
わずかだが私と荒さんの間に沈黙が流れた。

つぎに、荒さんは意外なことをいった。

「中田君は語学を勉強しなければいけませんね」

 これまた、思いもよらぬことばだった。

「このままだと、きみは十返 肇のようになりますよ」

 十返 肇(とがえりはじめ)は、早熟な文壇批評家で、17歳で紀伊国屋のPR誌を編集し、戦時中は十返 一(とがえりはじめ)というペンネームで「谷崎潤一郎論」などを書いた。これは、なかなかいいものだった。(また、思い出したが――この雑誌に、まだまったく無名の椎名 麟三が短編を書いていたはずである。)
十返 肇は、しかし、戦後の激動に適応できず、1948年頃は、方向を見失ってひどい停滞を見せていた。その後、軽評論家という肩書で、じょうずにジャーナリズムを渡り歩いた才人だった。
私は、十返 肇のような批評家になるつもりはなかった。
荒さんは、私の居心地の悪さを察して、話題を変えて、文学的な助言をあたえてくれたにちがいない。

この日から私は語学を勉強する決心をした。

はじめフランス語を勉強するつもりだった。
しかし、椎野の部屋の隣りで、ある作家の膨大な蔵書を見ていた私は、すぐに断念した。あれだけの勉強に追いつけるはずがない。だいいち、私は貧乏だった。いくら雑文を書き飛ばしても、ろくに本も買えない状態だった。

荒さんに語学の勉強をすすめられた日、その足で駿河台下に出た。

「神田日活」の近くの路地に、ゴザを敷いた上に、アメリカ兵が読み捨てたポケットブックを並べている店があった。私はテキストになりそうな本をあさった。できれば、小説がいい。活字がぎっしりつまっている本は避けよう。

2冊を選んだ。ページをめくって、やさしくて、短い文章がつづいた本。作者の名前は聞いたこともなかった。
ダシール・ハメット。ウィリアム・サローヤン。
この日、英文法の本や、受験用の参考書などをあさっていたら、私は語学の勉強を断念していたに違いない。

 

 

 

1634

【30】

安部 公房の処女作、「終わりし道の標べに」は、「個性」(23年2月号)に発表されて、すぐに「真善美社」から出た。
「アプレゲール・クレアトリス」というシリーズの一冊だった。

この「アプレゲール」という単語だけが切り離されて、「アプレ」という流行語になった。
「広辞苑」には――

アプレゲール(戦後の意) 1.第一次大戦後、フランスを中心として興った文学上・芸術上の新しい傾向。日本では、第二次大戦後、新しい文学を創造しようした若い著作家の一部をいう。2.転じて、第二次大戦後の放恣で頽廃的な傾向(の)にもいう。戦後派。アプレ。

誰がこの「アプレゲール・クレアトリス」ということばを考えたのか。

ある日、私はこの出版社にいた。
「真善美社」は、赤坂にあって、溜池という停留所のすぐ近くにあった。山王下といったほうが、わかりが早い。このあたりは、戦災をうけたため、焼け跡の空き地はまだ瓦礫が片付けられず、かなり大きなどぶ池がひろがっていた。

黒沢 明の映画、「野良犬」は、三船 敏郎が、戦後はじめて登場した映画として知られる。この映画に、戦後の風景が描かれている。大きなどぶ池の表面に、メタンガスのアブクが浮かんでは消えるシーンが戦後のすさまじい荒廃を感じさせる。この大きなどぶ池が、「真善美社」のすぐ近くの風景にそっくりだった。
「真善美社」は、この池の空き地の奥まったバラック建てだった。ここに、顧問というか編集長格の花田 清輝がいて、ほかに、中野 達彦、中野 泰彦の兄弟が「総合文化」の編集を担当していた。
神田の「近代文学社」と並んで、戦後文学の拠点の一つだったので、人の出入りもたえず、狭い応接室には、いろいろな作家、評論家が立ち寄っては、花田 清輝と会うのだった。私は、安部君といっしょに「真善美社」に行った。

私は「総合文化」に原稿を届けたのだった。安部君も私もこの日はじめて花田 清輝と会ったのだが、安部君はおもに花田さんと、私は中野 泰彦と話をした。中野君は、安部君と同年だった。つまり、私より3歳上ということになる。

このとき、中野 泰彦の机に、英文のカフカの短編集があった。私は、たまたま戦時中にはじめて出たカフカの長編を読んでいたので、中野 泰彦がカフカを読んでいることに驚いた。中野 泰彦も、私がカフカを知っていると知って興味をおぼえたようだった。

じつは、カフカはよくわからない作家だった。カフカについては何も知らなかったし、不思議なことを書く作家だと思った。つまり、たしかにカフカを読んだには違いないが、中野 泰彦が理解しているほどカフカがわかったとはいえないのだった。しかも、中野泰彦が、苦もなく英語を読んでいることに驚いていた。
私はドイツ語はおろか英語も読めなかったからである。

その帰りに、安部君は出たばかりの「終わりし道の標べに」にサインをして贈ってくれた。

「中田君、きみ、その本、もっているの? カフカっていう作家の?」
「うん、もってるよ。きみが読むんなら、このつぎももってこよう」
「さっき、きみと中野君の話を聞いてたんだ。おもしろそうだと思って」
「うん。君ならわかるんじゃないかな」

二日ばかりたって、小石川の安部君の部屋に遊びにいった。このとき、カフカを持って行ったのだが、安部君がジッドの「贋金作り」と交換してくれた。

私はこのときからジッドの影響を受けたわけではない。しかし、当時の私にとってジッドの批評は、ひそかな目標だった。

ときどき考えた。私がジッドをほんとうに「発見」したのは安部君のおかげだった、と。逆に安部君がカフカを「発見」したとすれば、私のカフカの1冊のせいではなかったか、と。

 

1633

【29】

当時の私は、たいして知識もないのに、頭デッカチ、しかも傍若無人な少年だった。だから、毎日のように「近代文学」に押しかけて、同人たちをつかまえては、色々な話を聞くことで勉強をつづけてきた。

1948年の「埴谷 雄高年譜」によると、この年に「死霊」が出版されている。
「近代文学」は、あたかも第二次の同人拡大の時期で、「同人間の交友盛んなり」とある。
この時期に、文学者の集まりは――神田の喫茶店「きゃんどる」から、駿河台下の昭森社のビルの「ランボオ」に移った。
昭森社のビルといっても、外側、入り口とカフェ側だけモルタル、いわゆる西洋館ふうにした二階建て、安普請の建物だった。
それでも、私たちは、戦後のパリ、「カフェ・ダルクール」や、「シャノワール」といったカフェに、さまざまな芸術家がつめかけて、活気を呈していたセーヌ左岸を想像して気勢をあげたものだった。

私は、「近代文学」に近い人びと、たとえば、詩人の栗林 種一、生物学者の飯島 衛を知った。このおふたりは、私に目をかけてくれた。
当時の私は、頭デッカチで、傍若無人な少年だったが、別の見方をすれば、人なつっこいタイプの少年だったかも知れない。
栗林さん、飯島さんといった先輩たちにとって、中田 耕治は、なぜかいつも「近代文学」にいる、やたらに好奇心の強い少年というところだったろう。
直接知り会った人々の書くものは、できるだけ多く読むことにしていた。ある程度まで、相手の経歴、文学的な志向といったものは、こちらが知識として理解する努力をしなければ、その人ほんらいの豊かさもわからない。
栗林 種一の詩を読んだ。埴谷さんが戦時中に出していた同人雑誌に載ったものまで。飯島 衛の論文も読んだ。これはよくわからなかった。同じようにして知り合った関根弘の書くものも読んだ。

安部君は、そんな人たちに興味がないようだった。

そんなある日、何かの話題が出て、みんながひとしきり談笑していた。このときの話題が何だったか、殆どおぼえていない。埴谷さんが微笑しながら、
「荒君も、もう少し思考の幅を拡げたほうがいいね」
といった。

このときほど驚いたことはない。大げさではなく、私の魂は震撼したのだった。
荒 正人は、私の眼には博識ならぶもののない人物家だった。しばらく後に、誰よりもはやく、サイバネティックスの研究をはじめたり、北欧ヴァイキングを研究したり、夏目 漱石に関して、さながらクロノロジックに漱石の生活、行動をたどるような評論家だった。その荒さんに向かって、率直にこういう東風が言える人はいったい何者なのか。私はほとんど自失して二人を眺めていたと思う。

 

 

1632

【28】

もう少し気ままな回想を書きつけておきたい。

敗戦後の私に、はからずも芝居(演劇)の世界に関心をむけさせてくれたのは、荒 正人に会いに行ったときに「近代文学」の編集を手つだっていた藤崎 恵子だった。

彼女は、戦時中に、「文化学院」の同期生たちと、人形劇の劇団を作って、おもに関東地方の農村をまわっていたという。
学生は、すべて勤労動員で働かされていた。そのなかで、少数の仲間といっしょに、農村の慰問という名目で、警察の目を潜りぬけて、いわばドサまわりで人形劇を見せていた女子学生がいた。当時は、ドサまわりの旅役者も徴用されていたから、農村には娯楽もなかった。大都会だけでなく、地方の小都市まではげしい空襲にさらされたため、学童疎開で子どもたちが農村に疎開した。そうした子どもたちに人形劇を見せながら、ときには農家に泊めてもらう。娯楽のない農村で人形劇を見せたあたりに、神谷 恵子の驚くべき行動力があった。

戦時中に学生の身で農村にドサまわりの人形劇をやっていただけでも、かなり勇気が必要だったに違いない。当時、学生は勤労動員で、戦時産業に駆り出されていたし、たとえ、小人数の人形劇団であっても、あらかじめ警察に台本を提出して検閲を受けなければならなかったはずである。しかし、神谷 恵子は、検閲の目をのがれて、ゲリラ的に人形劇をつづけたという。

紙芝居のような枠をバックに、操作が簡単な「グラン・ギニョル」型の人形で、簡単な寸劇をやってみせる。それだけのものだったが、娯楽らしい娯楽のない農村ではけっこう評判はよかったらしい。
戦後になって、神谷さんは、もう一度、人形劇をはじめたいと思っていたが、仲間と連絡もつかないまま、人形劇の台本の書き手をさがしていた。「近代文学」に通いはじめて神谷さんと親しくなった私は、戦前の「テアトロ・プッペ」の機関紙や、人形操作のガイドブックなどを借りて読んだ。
それだけでなく、人形劇のための台本を書いてみないか、とすすめられた。

武井 武雄の童話を、人形劇でやってみたらどうか。
そんなことから、舞台のバックは、安部 真知に頼んでみよう、という話になった。後年の安部 真知が舞台装置を手がけているが、しかし、この話はすぐに消えた。
私が考えたのは、武井 武雄の「絵噺」の脚色だった。もし、台本ができれば、装置(背景)は安部 真知に頼もう。
安部 真知なら、きっと描いてくれるだろう。

ドラマのオープニングは、「口上役」からはじまる。

オモチャノ クニハ オモチャバコノ ナカニ アルノデス。
チヒサイ キレイナ トテモトテモ カアイイ オクニデス。
コノクニニ アッタ オハナシヲ ミンナ ゴホンニカイタラ フジサンノ
三バイニモ ナルクラヒデス。
デハ ソロソロ フタヲアケマスヨ。

むろん、このプランは実現しなかった。
はるか後年、安部 真知が、安部 公房の芝居の舞台装置を手がけたとき、私は、真知といっしょに武井 武雄の童話を人形劇にしたいと話したことを思い出した。

武井 武雄の「画噺」が出た1927年に私は生まれている。(笑)

残念ながら、武井 武雄も初山 滋も、「すでに、遠く霧のなかにしずんでしまった」芸術家なのだが。

 

 

 

1631

【27】

 

武井 武雄の「おもちゃ箱」は、おもちゃの国の物語で、まず人形の家と、そこに住んでいる人形たちの紹介からはじまる。
靴屋の「フョドル」、人形病院の院長先生、「ドクトル・プッペ」。綺麗な「お姫さま」。「ヱカキサン」。「ヘイタイサン」。「アヲイメノ・ジュリエット」。「センセイ」。「オマワリサン」。「デンシャノ・シャショウ」。「ヴァイオリン ヒキ」。「カンゴフサン」。「スヰヘイ」。「オネエサマ」。「ユウビンクバリ」。「バシャヤ」。「カミクズノ・カミサマ」。「ニハトリ・コゾウ」。

それぞれ個性ゆたかなキャラクターばかり。
「ニハトリ・コゾウ」だけを紹介しておこう。

ヨアケノ ホシガ デルト、オモチャバコノナカデハ
  コック・ア・ドッドルドウ!!
ト イサマシイ ラッパガ ヒビキマス。
オモチャタチガ ミンナ メヲ サマシマス。
オモシロイ オモチャノ クニノ オハナシガ ハジマルノハ ソレカラノコト
デス。

ストーリーは、「ワラの兵隊、ナマリの兵隊」、木の人形の「キデコさんノはなし」、「キックリさんの話」、「クリスマスとオモチャバコ」と展開してゆく。

なぜ、こんなことを書いておくのか。小さな理由がある。

安部君は、「近代文学」の同人たちのなかでは埴谷さんといちばん親しかったが、ある日、二人はちいさなイタズラをして遊んでいた。
「戦後」に登場した作家、評論家たちを、動物にたとえて、ふたりで大笑いした。私は、あとからこのイタズラに加わったが、そのとき、安部君が、「ヘイタイサン」。「センセイ」。「デンシャノ・シャショウ」。「ヴァイオリン ヒキ」。「スヰヘイ」。「オネエサマ」。「ユウビンクバリ」。「バシャヤ」といった分類をしたので、私は、安部君の頭に、武井 武雄の「おもちゃ箱」があることに気がついた。
このときの、分類では、野間 宏は、「ヘイタイサン」だった。フィリピン戦線から復員してきた野間 宏は、いつも頑丈な軍靴をはいて、「近代文学」に姿を見せたからだろう。
私は「ネズミ」だった。私が「近代文学」のなかでいちばん小柄だったせいだが、「ワラノヘイタイ」と「ナマリノヘイタイ」が何かにつけて競争しているところに、不意に姿をあらわす「ネズミ」に似ていたからだろう。

ワラノ ヘイタイガ イキナリ オウマニ シガミツイテ ブルブルトフルエダシマシタ。
チヒサナ チヒサナ ネズミニ デアッタカラデス。

ナマリノヘイタイハ ネズミニタベラレマセンカラ ワザト イバッテヰマス。
エヘン!!!

つぎのぺージでは、2人は丸木舟に乗って池に出ている。体重差のせいで、舟はしずみそうになっている。ナマリノヘイタイは――

ナマリノカホヲ マッサヲニシテ サワギマス。

ワラノ ヘイタイハ オチツイテ イバッテヰ マス。
エヘン!!!

そして、

ドチラガ エライトモ イヘマセン。ダレデモ ソレゾレ イイトコロガアルノデス。
フタリノ グンサウハ ナカヨク タスケアフコトニシマシタ。

ということになる。「グンサウ」は、軍曹。下士官である。

私が、こんなことを書いておくのは、それなりの理由がある。
またまた断っておくが――武井 武雄のマンガのキャラクターを、「近代文学」やその近辺の文学者に擬して笑う、ひどく隠微なイタズラを楽しんでいたからといって、安部君や私の内面に、やりどのない屈折があったというわけではない。
私たちはお互いにふざけあっては笑っていたのだった。

 

 

1630

【26】

 


私が安部君と親しくなった時期、彼と真知さんは、それまで住んでいた中野から小日向に移ったばかりだった。
この界隈も空襲の被害が大きく、安部君が間借りした家の周囲は焼け跡ばかりで、一軒だけ焼け残ったように見えた。
さしてめずらしくない家屋で、玄関先の狭い部屋に、安部君たちが間借りして住んでいた。戦前は、書生部屋か女中部屋だったのか。当時としても破格の安い家賃だったが――戦後の殺伐とした日々、それまでは考えられなかった凶悪な犯罪が頻発した。とくに、焼け跡にポツンと一軒だけ焼け残ったような家は、強盗に狙われて、その住人が強姦されたり殺害されるといった事件が頻発した。
この家の大家さんは上品な老女で、幸運にも戦災はまぬかれたが、近くで異様な事件が起きたため身辺に危険をおぼえて、同居人をさがしていた。たまたま新婚の安部君たちを気に入って、同居人にしたという。

安部君は東大に戻るため、この界隈に部屋を探していたのだった。

武井 武雄のことに話を戻そう。
安部 真知は、「あるき太郎」とか、「動物の村」といった幼年向きのイラストつきの童話をよく話題にした。少女の頃、愛読したようだった。(いそいで断っておくが――まだ、イラストということばも存在しない。真知は昭和初期の「武井 武雄画噺」のシリーズが好きだったから、大きな影響をうけた、などというのではない)。
ふたりは、初山 滋のこともよく話題にしたが、私のほうが初山 滋の仕事を知らなかったので、真知はあまり話題にしなくなった。

武井 武雄を話題にしたことから、真知自身の描いた絵、大きなスケッチブックに描かれたデッサンなどを見せてもらった。

真知は美少女だった。私とあまり年齢が違わないのに、ずっと年上のように見えた。私があまりにも幼稚だったせいだろう。新婚間もないふたりの部屋に押しかけて、自分でもよくわからない難しい議論を吹っかけるような少年に辟易していたに違いない。しかし、そんなようすは少しも見せず、若い夫とさらに年下の少年が夢中になって話しあっているのを聞いている。食事もろくにできない時代だったから、私をもてなすビスケットの1枚もなく、ただ黙ってときどきお茶を注いでくれた真知を思い出す。その水は、二人が借りていた部屋の大家さんが、戦時中、小さな家庭菜園にしていた庭の井戸から汲みあげなければならなかった。だから、夜中でも、真知は下駄を突っかけて庭に出て、両手でポンプを動かして水を汲むのだった。

安部君の部屋で語りあっているうちに、夜もふけて泊めてもらったことがある。
新婚そうそうの安部君たちが廊下に寝て、私を自分たちの部屋に寝かせてくれたのだった。そのとき、真知が自分のパジャマを貸してくれた。

今、思い出しても、若い頃の私が、どんなに非常識な少年だったことか。
翌朝、私と安部君は、パン1枚を半分わけあって食べただけで、早朝から買い出しに出かけたのだった。

当時の真知は、油絵を描きたいと思っていたが、絵の具も買えないほど貧しかった。それでも、少しも屈託を見せなかった。
たった一枚だが真知の油絵を見たことがある。
セザンヌの風景画を模写したものだった。
少年の私は、食うや食わずの生活で、貧しさにめげず、ひたむきにセザンヌの模写をつづけていた真知を知って感動した。

はるか後年、私は女子美の先生になったが、女子学生の描く模写を見るたびに、きまって安部 真知の絵を思いうかべた。

これも身勝手ないいかたと承知しているが――私の内部では、女子美の女の子たちの絵やデッサンを見るたびに、はじめて見た安部 真知の絵が、女子学生たちの才能を判断する一つのクライテリオンになったような気がする。
これもはるかな後年、私は南フランス、ラ・カリフォルニーのピカソのアトリエを見に行ったことがある。マヤ・ピカソの好意で、ヴァローリスのアトリエを見ることができたのだった。この旅で、マルセイユからカンヌを通ったが、途中でサント・ヴィクトワールの麓に出たとき、セザンヌのことを思い出しながら、「戦後」すぐに安部 真知が描いた絵を思い浮かべた。

 

 

1629

【25】

昭和の少年たちは――「のらくろ」、「日の丸旗之助」、「冒険ダン吉」といったマンガを読んで育った。女の子の場合は、「長靴三銃士」、松本 かつじの「くるくるくるみチャン」といったマンガを読んでいたはずである。
安部君と私は、こうしたマンガを話題にしたことはない。

戦前に出た児童向きの本で、もっともすぐれたシリーズは「小国民文庫」だった。
このシリーズには、菊地 寛の「日本の偉人」、里見 敦の「文章の話」、吉野 源三郎の「君たちはどう生きるか」といったすぐれた作品が入っていた。外国文学でも、チャペックや、エリッヒ・ケストナーの「点子ちゃんとアントン」などが入っていた。
科学の分野でも、石原 純、野尻 抱影などが、地球物理学、宇宙物理や天文学について、子どもにもよくわかるやさしい解説を書いている。アムンゼンの極地探検や、リヴィングストーンのアフリカ探検などが入っていた。
このシリーズの各巻にマンガが連載されていた。
これが、「青ノッポ赤ノッポ」。
作者は、武井 武雄。

安部 公房は、武井 武雄が好きだった。私も、このマンガ家が好きだった。むろん、彼と私にはやはり微妙な違いがあったけれど。

武井 武雄は今ではまったく忘れられているだろう。なにしろ昭和初期に児童向きのイラストレーターとして知られた芸術家だった。
「小国民文庫」のシリーズが成功して、「青ノッポ赤ノッポ」が人気があったというわけではない。
青オニと赤オニが「現代」の日本にあらわれて、いろいろなことに驚いたり失敗する、といったタイム・スリップもののシリーズ。
ふたりともツンツルテンの洋服を着たオニだが、青ノッポは、おだやかな性格。赤ノッポは、すぐにカンカンになって怒りだす。子どもたちに人気のあったほかのマンガとは違ったトボけたユーモアがあった。
キャラクター設定は、サイレント映画のローレル・ハーディーあたりから着想したのではないだろうか。それまでのマンガの主人公たちとは異質なキャラクター設定、ギャグ、ユーモアがたくさん出てきて、私にはおもしろかった。

安部君と夫人の安部 真知は武井 武雄のマンガが好きだったが、マンガよりも版画家としての武井 武雄、または絵本作家としての武井 武雄が好きだった。
私は、安部 真知から武井 武雄に対するオマージュを何度も聞かされたが、ふたりがよく話題にしたのは――1928年に出版された武井 武雄の画噺、「おもちゃ箱」だった。

 

1628

【24】

ある日、私は山室さんの専門が北欧文学と知った。北欧文学とは何か。聞いたこともなかった。

私は、やがてアメリカ文学の翻訳をするようになるのだが、翻訳をはじめて間もない頃に、当時、新人としてスウェーデンに登場したスティ・ダーゲルマンの戯曲を訳した。
これも、戦後、山室さんをつかまえて、いろいろと新しいスカンジナヴィア文学のことを教えてもらった結果だったかも知れない。(ただし、これも僣越ないいかたで、今の私がこんなことをいえば山室さんは苦笑するだろうと思う。)

いちいち、こんな愚にもつかないことを思い出しているときりがない。

当時の安部君にとっては「近代文学」の人たちの話題が、「輪郭不明の朦朧体」としか見えなかったのは、止むを得ないことだった。安部君は、日本の文壇小説にまるで関心がなかったからである。

「終りし道の標べに」は、初版(1948年)のあと、どういうものか、20年間、再刊されなかった。むろん、安部君が、その20年にまったく別の世界を切柝したのだから、あらためて処女作を出すことなど考えなかったに違いない。それは、「無名詩集」もおなじことで、作家はこの詩集の再刊を許さなかった。
この詩集をまっさきに称揚したのは、佐々木 基一さんだった。

安部君は、佐々木さんよりも埴谷さんを相手にドイツの哲学者を話題にしたり、とくに、リルケを話題にした。佐々木さんは、ホフマンスタールが好きだったので、私を相手にホフマンスタールを論じたりした。しかし、安部君は、ホフマンスタールよりも、山村さんや私を相手にリルケを語りあうことに、救い、癒しといったものをおぼえたようだった。
山室さんは、安部 公房の作品を認めていたが、私の記憶しているかぎりでは、安部君と話をすることはほとんどなかった。いつも、にこにこして、私と安部君の話を聞いていただけだった。

私たちは、いつもフッサール、ニーチェ、リルケの話ばかりしていたわけではない。
ときには意外な話題や、思いがけない芸術家の名前が飛び出したものである。

 

 

1627

【23】

いまさらながら、「近代文学」の同人に私は多くを負っている。

1946年、「近代文学」の人たちについてあまり知らなかった。
戦後になって、シュヴァイツァーの「文化の再建」を読んだ。これは山室 静の訳だった。トーマス・マンの「自由の問題」や、イーヴ・キューリーのロシア紀行、「戦塵の旅」なども読んだ。トーマス・マンは、高橋 義孝訳。イーヴ・キューリーは、坂西 志保、福田 恆存共訳。

山室 静は、翻訳家として知られていた(というより、私がたまたま翻訳を読んでいただけのことだが)。高橋 義孝も、福田 恆存も、まだ無名だったに違いない。
しかし、こうした本を読みつづけているうちに、はじめて翻訳という仕事に興味をもつようになった。

「近代文学」の人たちは、いずれも外国語に造詣が深い。
荒さんは英語の本を訳しているし、埴谷さんはドイツ語でカントを読んでいる。佐々木 基一さんも、後にルカーチを翻訳するほどの語学力を身につけている。

ただし、私は語学を勉強する気はまったくなかった。

これまで一度も書いたことはないのだが、私が外国語を勉強する気を起こさなかった小さなできごとがある。

私は、大森山王の椎野の家に毎日遊びに行って、芝居や文学の話をしていた。椎野家も戦後のインフレーションの影響をうけたため、椎野は、戦後復活した劇団に戻れず、「時事新報」に就職したのだが、このとき、椎野家は二階の和室を貸すことにしたのだった。
この間借人こそ、東大仏文きっての秀才で、戦後、彗星のように文壇に登場する作家だった。椎野家に引っ越してきたのは、作家として知られる直前の時期だった。

ある日、私は椎野の家に遊びに行ったが、不在だった。
毎日、遊びに行っていたので、私は家族どうようで、玄関先で椎野のご両親にも声をかけるくらいで、すぐに階段をあがって行く。椎野が不在でも、気ままに書棚の本を読む。そんな習慣だった。
私は、いつも通り隣りの部屋に入った。書院ふうの八畳間だった。
部屋のようすが一変していた。左側、窓の当たりから壁いっぱいに新しい書棚が長くつづいている。私の目の高さ、五段ほどの棚にぎっしりと本が並べられていた。
数百冊、全部がフランス語の原書だった。日本語の本、漢籍は1冊もなかった。

はるか後年(1989年)、この作家の書いた一節を引用しておく。

少年時代から西欧の文物に憧れ、油彩や版画、それから気まぐれにも映画の制作に迄手を拡げた私は、幼時に漢学者だった祖父によって、厳しく仕込まれた儒学の初歩への悪印象から長らく中国古典ヘはアレルギー反応を起こしていたのだが……(後略)

当時の私は、この作家について何もしらなかった。ただ、小説を書いているらしいと聞いていた。
私はただ茫然としてこの蔵書を眺めていた。

羨ましいとは思わなかった。戦災でわずかな蔵書を失った私は、この膨大な原書に圧倒された。ひとかどのもの書きになるためには、どれほどの努力が必要なのか。
とても追いつくことはできない。
このときから、私の内部に別の考えが生まれたのだった。

おなじように、遠藤 周作の家に遊びに行ったことがある。
彼がフランスに留学する少し前だったから、一九四九年頃だろう。このときも、私は遠藤君の書棚を見て驚嘆した。おびただしい蔵書が並んでいる。そのなかには、私も読んだ本がかなり多かったが、私は読んだ本はすぐに叩き売って、別の本を買うほど貧乏だったので、遠藤君の蔵書を見て羨ましいと思った。

このことからも私の内部に別の考えが生まれたのだった。
 

 

1626

    【22】

後年の私は、老境に達した埴谷さんが誰かによく似ているような気がした。
誰だろう? すぐに思いあたったのは――なんと、ヘンリー・ミラーだった。老齢に達すると、人種の違いを越えて、どことなく似てくるものだが、まさかヘンリー・ミラーが埴谷 雄高に似ているのか、埴谷 雄高がヘンリー・ミラーに似ている、とは。そんなことをよく考えたものだった。

かりに、埴谷 雄高がヘンリー・ミラーに似ているとすれば、笑いにあるのではないか、と思ったものである。
むずかしい討論をしている場合でも、埴谷 雄高が何か口をはさんで、屈託のない笑い声をあげると、その笑いに誘われて、その場の空気が一変する。そんな場面に何度も立ち会ったことがある。(これは、あとで書くことにしよう。ただし、書けないかも知れない。本郷三丁目の酒場で、加藤 周一、花田 清輝の大論争に、埴谷 雄高、安部 公房が立ち会ったことや、おなじように、「らんぼお」での、三島 由紀夫と安部 公房の論争に、中村 真一郎、埴谷 雄高が立ち会ったことにふれなければならないので。)

もう一つ、くだらないことを思い出した。
安部君と親しくなったとき、誰かによく似ているような気がした。誰に似ているのか考えた。これもすぐに思いあたった。
鼻がトルストイそっくりなのだ。あの「戦争と平和」の作家に。私は、この「発見」にわれながら満足した。
後年、私は、ヤスナヤ・ポリアナに行く機会にめぐまれたが、邸内に飾ってあったトルストイの写真を見たとき、安部君のことを思い出した。
中田 耕治は、こんなつまらないことを考えてうれしがっている、と思われるかも知れない。

しかし、これは私が、いわば類推の魔にとり憑かれていたことをしめす例にちがいない。後年の私が、エロスや、悪魔学などに関心をもったのも、ある部分、埴谷 雄高の大きな影響による。
戦時中、埴谷 雄高は、「近代文学の連中」に女性の性的なオーガズムについて、綿密、かつ、実践的なレクチュアをあたえた。私は、このことを安部君から聞いた。

それは、最高の状態でコイトゥスを経験する女性は、ふつうの刺激で得られるオーガズムで満足する。しかし、ある特殊な刺激を受けると、1時間以上にわたって、オーガスミツクな状態を持続する、という説だった。
後年の私は、キンゼイや、マスターズ/ジョンソンや、メァリ・ジェーン・シャーフェイなどを読んで、女性のオーガズムの本質的な条件をくわしく知るようになったが、それより遙か以前に、埴谷 雄高の説を知っていた私にとっては、さまで驚くほどのものではなかった。

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【21】

安部君のエッセイ、「おもちゃ箱」が書かれてからも、さらに長い歳月がながれている。
私にしても、「戦後」の思い出などは、自分でももはや実態のない、茫漠とした、ときには混沌としたものになっている。
当時の埴谷さんの印象を書いている。

洞窟のような寛容さをもった口をしていた。口が印象的なのは、たぶんあの笑い方のせいだろう。それは、まことにデモクラチツクな笑い方で、どんなに臆病な相手でも、さりげなく対話の勇気を与えてくれたりしたものだ。

という。

私は、埴谷さんにいろいろな質問をしては、その一つひとつを心に刻みつけようとしていた。
一方、安部君は、「近代文学の連中」とは、それほど親しみをおぼえなかったと見ていい。「近代文学」のなかでは、「埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している」のは、いつもきまって埴谷さんと話をしていたからだろう。
「近代文学」の人たちは、例外なく安部君の偉才を認めていた。とくに、埴谷 雄高、佐々木 基一は、安部 公房の作品を激賞していた。これに対して、平野 謙、本多 秋五、山室 静などは、安部君の才能をじゅうぶんに認めながら、どう評価していいのかわからないようだった。

「近代文学」の人々のなかで、平野 謙、山室 静の二人は、編集会議にあまり顔を出さなかった。山室さんは信州に住んでいたため、上京するのもたいへんだったに違いない。

当時の安部君にとっては「近代文学」の人たちの話題が、「輪郭不明の朦朧体」としか見えなかったに違いない。たとえば、日本の文壇小説にまるで関心がなかったから。