1664

 【6】

 

日本でも、ガルボの人気は絶大だった。

つめたい情熱の持ち主、グレタ・ガルボのキッス・シーンも最近での第一人者として知られている、殊に、ジョン・ギルバートとのよきコンビネーションによる幾つかの例は、いき苦しき迄に悩ましく感じられた事で、「肉体と悪魔」の、暖炉の前のソファでの、ガルボ自らがおほひかぶさっての接吻、ギルバートは軍服の胸の上のボタンを息づまるまま皆外している。そのシーンは、少し先の庭園のそれと共に当時映画史上空前のものと、映画人間に折り紙をつけられ、評判されたが、前に掛かった時は勿論鋏が入っていた。「戀多き女」「アンナ・カレニナ」等とにかく二人の交わす口づけはガルボ・ギルバーチングと云ふ新語の流行へ生んだ程若人達に噂されたのである。(小倉浩一郎/1931年)

戦前の日本の検閲が、どんなに低劣、悪質なものだったか、これだけでも想像できるだろう。
それはさておき。

ガルボの映画、「接吻」の公開されたとき、映画館がいっせいに宣伝したことがある。ガルボのキスの「その紅唇の型をコッピーにとって、その下に余白をあけ、貴女とガルボ嬢とどちらが美しい形だか試みて下さい」。
そして、ガルボの接吻の唇の型に、いちばん近い唇の女性、先着15名に「接吻」の招待券を進呈する、という宣伝だったらしい。

恋人たちが、お互いの眼を見つめあう。彼女が、意味ありげに見つめるとき、相手をドギマギさせたり、怯えさせたりすることはない。お互いに惹かれあうときの強烈な感情、欲情がはたらいて、瞳孔が開く。無意識のうちに、彼女が感じている愛のはげしさが、そのたまゆらの極みにあらわれる。

小倉浩一郎のことばを借りれば、「所謂眼が物を云ふと云ふ奴で、ラブ・シーンになると冷たい、冷たい、その冷たさの裡にジーッと熱して来るガルボの瞳」ということになる。

こんなことから、1930年の日本のモボ・モガ風俗が想像できるかも知れない。

グレタ・ガルボとジョン・ギルバートのキスから、当時のモボ・モガたちがうけとったつよいメッセージがある。それは、恋愛関係にある男女の感情のはげしさが、キスという行為にともなっていること。キスがふたりのあいだの絆の強さをしめす社会的なクライテリオンとして意識されるようになったと私は考える。(日本人がキスという行為を知らなかったなどというのではない。)

1663

【5】

 

モーリッツ・スティルレルはハリウッドでは成功せず、スウェーデンに帰った。スティルレルが帰ったあと、ハリウッドに残ったガルボは「私の人生に起きた、いいことはすべて、この人のおかげです」と語っている。その後のガルボは、スティルレルに関してまったく沈黙している。

ガルボは「イバニエスの激流」(1926年)で登場し、「肉体と悪魔」(1927年)で世界的に知られる。
「肉体と悪魔」で、ジョン・ギルバートと共演する。この映画のガルボは、それまでのハリウッド映画に見なかった、強烈なエロティシズムを体現していた。

トーキーの到来とともに、多数のサイレント映画スターが没落する。ジョン・ギルバートもその一人。だが、ガルボは、いわゆるハリウッド黄金期(Golden Years)に、映画スターの女王として君臨した。

1930年、ガルボ、24歳。
すでに、神秘につつまれた伝説になっている。

サラ・ベルナールは、「コメディー・フランセーズ」で、ラシーヌの「フェードル」を演じた。二五歳を過ぎるか過ぎないかで、「フェードル」を演じる。女優の生涯でこれ以上の何が望めるだろうか。「私に欠けているものは何ひとつありませんでした」という。
ガルボも、サラとおなじ思いだったかも知れない。
MGMの上層部は、オフ・スクリーンのガルボが、ジャーナリズムにまったく姿をみせず、徹底的な沈黙をまもりつづけていることをよろこんでいた。

みなさま。あいかわらず、何も申しあげることがございません。

当時のグレタ・ガルボの記事は、ほかのMGMのスター全部をあわせた以上の記事が出た。

1932年、アメリカは大不況にあえいでいた。ニューヨークの映画館は、記録的な不入りにあえいでいた。半期で、観客を動員できたのは、ガルボの「マタ・ハリ」、ジョン・バリモアの「アルセーヌ・ルパン」、ベラ・ルゴシの「モルグ街の殺人」、そして、ガルボが出た「グランド・ホテル」だけだった。
翌年(1933年)、ガルボは「クリスチナ女王」の相手役に、トーキーの到来で落魄したジョン・ギルバートを招いた。この映画の撮影中、ジョン・ギルバートはガルボにつきまとったが、後年のガルボは、ジョン・ギルバートとは、まったく恋愛関係がなかったと否定している。
その後のガルボは、ジョン・ギルバートのことだけではなく、身辺すべてに関して何も語らなくなった。「ひたすら沈黙のスウェーデン女」と呼ばれた。インタヴューさえ拒絶しつづけた。

 

1662

【4】

ガルボをハリウッドにつれて行ったのは、モーリッツ・スティルレル(映画監督)だった。
ほとんどの映画史は、ガルボとモーリッツ・スティルレルの関係は「スヴェンガリ」と「トリルビー」のようなものだったとする。私も、そんなふうに見ているのだが、これは、暗黙のうちに、ガルボとスティルレルに、性的な「関係」があったことを前提にしている。スティルレルとの最初の性体験の性質と内容が、その後のガルボの性生活を決定したと見る人は多かった。

ここで、ディートリヒを考える。
ディートリヒは、フォン・スタンバーグ監督との関係を、あなたは「スヴェンガリ」、わたしは「トリルビー」と語っている。(「ディートリヒ自伝」第一部3章)

フォン・スタンバーグのことば。

「マルレーネ・ディートリヒは、私の手中にあった。私は心に描いた理想像にあ
わせて、彼女を思うがままに作りあげた。」

つまり、ガルボとモーリッツ・スティルレル(映画監督)の関係よりも、マルレーネ・ディートリヒとフォン・スタンバーグのほうが、よほど「スヴェンガリ」と「トリルビー」に近いと見ていい。

ハリウッドに着いたばかりのスティルレルは語っている。

彼女の名はグレタ・ガルボ。彼女は最高の女優になるだろう。

と。この予言は的中した。驚くべき炯眼であった。

私は、ここで「ガルボ論」を書くわけではない。ただ――戦後に見た映画がその後の私に大きな作用をおよぼしたことが、いくぶんわかってもらえるのではないか、と思っている。

1661

【3】

戦後、日本人が見たはじめてのアメリカ映画は、「ユーコンの叫び」(リパブリック/1945年12月公開)だが、戦前に輸入されたままオクラ入りになっていたB級の作品だった。
それでも、アメリカ人を理解しようとする観客が押し寄せた。

1946年2月、占領軍ははじめてアメリカ映画の輸入を許可した。
ディアナ・ダービン主演の「春の序曲」と、グリア・ガーソン主演の「キューリー夫人」が公開されて、日本の観客はハリウッド映画に魅了された。

「春の序曲」や、「キューリー夫人」よりも、ずっと先の、敗戦直後に私が「喜びなき街」を見たのはまったくの偶然だった。

戦後の少年がはじめて見た外国映画が「喜びなき街」だったことは、その後の私に大きな作用をおよぼしたような気がする。

戦争は終わったが、東京の情景は惨憺たるものだった。「日劇」は巨大な廃墟だったし、地下の日劇小劇場は、セメントが剥がれて土がむき出しになっていた。「有楽座」は、焼けただれたままで、鉄骨の残骸をさらしていた。
9月に占領軍が上陸した。これからどうなるのかまったくわからない「戦後」の東京で、痩せこけた隠花植物たちが、焼け跡のビルに芽吹きはじめたが、あくどく口紅をぬったその口辺にうかぶ笑みは、みじめな民衆を嘲笑するかのようだった。私は第一次大戦の「戦後」の、ドイツの「喜びなき街」の惨憺たる現実を、そのまま東京の「現実」に重ねあわせたのだった。

「喜びなき街」のラスト・シーン。ガルボではない若い娘を見た瞬間、あ、と思った。どこかで見たことがある。まるでデジャヴュのように。

白いワンピースを身につけてスクリーンを左から右に横切った若い娘。この若い娘を見た瞬間、まだ無名のマルレーネ・ディートリヒではないか、と思った。当時の私は戦前の映画雑誌を読みふけっていたが、ディートリヒの映画を見たこともなかった。それなのに、わずか1カットながら、まったく無名のディートリヒがこの「喜びなき街」のラスト・シーンに出ている、と思った。むろん、この娘を、ディートリヒと確信したわけではなかった。ガルボはもとより、ディートリヒの映画も見たことがなかったのだから。

その後、長いこと、ディートリヒがこの映画に出ていたのではないか、という疑問をもちつづけた。その一方で、おそらく私の錯覚だろうと思った。あの若い娘はディートリヒではない。たまたま撮影所にいて、映画のワン・カットに駆り出されたエキストラで、無名のまま消えてしまった若い娘ではなかったか。

ディートリヒ自身は、終生この映画については語っていない。

それでもこの疑問は、私の内部に沈殿した。

はるか後年、「ドイツ映画史」を調べていて、私は思わず目を疑った。自分の推測が当たっていたことを知った。

その頃、エフレイム・カッツの「映画百科」のガルボの項目にも、her rival-to-be,Marlene Dietrich,appeared as an extra.という記述を見つけた。

私は50年もかかって、やっと疑問をはらすことができたのだった。

 

 

1660

【2】

 1925年、ガルボはドイツ映画、G・W・パプスト監督の「喜びなき街」(1925年)に出た。
この映画は、第一次大戦の「戦後」ドイツの、惨憺たる現実を描いたものだが、戦禍のなかで希望もなく彷徨する人々の群れのなかに、若い娘のガルボがあてどもなく歩みつづけていた。

じつは、敗戦直後にこの「喜びなき街」を見ている。自分でも信じられないことなのだが。
つまり、「戦後」私がはじめて見た外国映画が、ガルボの映画だった。

戦争が終わった直後に、日本じゅうに大混乱が起きた。日本人は、敗戦という運命にどうやって耐えていたのだろう。誰もが、明日どうやって過ごすのかわからない。軍需工場の生産がいっせいにとまった。毎朝、ギュウギュウ詰めの電車に乗って、工場地帯にかよう必要もなくなった。全国民が失業者になったようなもので、敗戦がもたらした虚脱感と、もう空襲で逃げまどうこともないし、憲兵や特高警察をおそれる必要もない安心感が、あっという間にひろがってきた。
「敗戦の明るさ。……この事実はなんぴとも感じていることだ。敗戦によってかって見なかった程大きな希望が生まれた」と、作家の石川 達三はいう。
食料の配給もとだえたが、あっという間に闇市場が出現し、それまで見ることもなかった物資や食料が並べられはじめた。飢えた人々が、わずかな食料を奪いあうようにして、買いあさった。

敗戦後、映画館は3日間上映を自粛した。
戦意高揚を目的とした映画がいっせいに上映を中止した。

焼け残った映画館としては、なんとか映画を上映しなければ経営ができない。そこで、どこから集めてきたのか、戦前の邦画の旧作や、戦前に公開された外国映画のプリントが、つぎつぎに上映された。
敗戦直後に、おびただしい人々が繁華街に押し寄せた。
民衆はこんな状況でも娯楽に飢えていた。飢えた人々が、食料を奪いあうように、少しでも自分たちの苦境を忘れることができるならどんな映画でもよかったにちがいない。
ソヴィエトのネップ時代の喜劇や、フランス映画、はてはメキシコ映画までが上映されたのだった。ただし、アメリカ映画が上映されたことはない。

 

 

1659

【1】

グレタ・ガルボは、20世紀に登場した大スター。なみいる大スターのなかで、わけても最高の美女だった。そればかりではない。20世紀という時代を超越していまもなお私たちの感性に訴える「夢」の女性だった。

1900年、スウェーデン、ストックホルム生まれ。本名、グレタ・ルイザ・グスタフソン。

父は定職のない下層労働者で、ストックホルムの貧民窟に住んでいたが、しょっちゅう失業していた。グレタが13歳のとき父と死別。翌年から理髪店で働くことになった。非常な美貌だったため、おおきなデパートのセールスガールになり、短編のコマーシャルに出た。やがて、サイレント映画の喜劇に出て、けっこう評判になったらしい。これがきっかけで、王立演劇学校で演技の訓練をうけることになった。

この演劇学校で、演出家、モーリッツ・スティルレルに認められる。
スティルレルは、ヴィクトール・シェストレームの「ゲスタ・ベルリングの伝説」の舞台に使う若い女優を探していた。
「私は彼女の眼をまっすぐ見つめただけで、いともたやすく服従させられると気がついた」という。

スティルレルとガルボの「関係」は、いわば「ピグマリオン」と「ガラテア」にほかならない。「スヴェンガリ」と「トリルビー」と見てもよい。

最初の性体験の性質と内容が、ガルボの性生活を決定したと見る人は多かった。最初の処女喪失の体験は、相手の男性の所有物となる、つまり女性が隷属状態になるという見方で、これがスティルレルとガルボの「関係」だった、という解釈が出てくる。
若いガルボは、はじめて会ったスティルレルに性的に服従したと見ていい。

 

 

1658

恋愛と呼ばれる「病気」について。むろん、誰だって恋愛を知っている。誰もが恋愛について話をする。スタンダールは、すべての人は、たいてい恋愛について誇張して語っているという。私が恋愛を語るとすれば、自分の「体験」を離れては何も語れないような気がする。それは、スタンダール的な情熱恋愛ではないのだが。私は、女とつきあっているうちに、その女について語りたい。書きたいと思うようになる。ある外国の女優の生涯を追いつづけているうちに、現実に見たこともないこの女優の異様な魅力に惹きつけられてしまった。

しばらく評伝を書くための準備をしたのだが、今の私の力では書けないと思うようになった。
そのかわり、ハリウッドの、それも、サイレント映画の女優たちについて書いてみようと思いはじめた。
むろん、あくまで私の批評的妄想にすぎないのだが。

1657


最近の私は、ほとんど毎日のように、映画を見ている。もう少し正確には、しばらく前に見た映画をDVDで見ている、または見直している。
たとえば――フランス映画だが、実質的にはロシア映画の「コンサート」(ラデイ・ミヘイエレアニュ監督)とか、「アデルの恋の物語」(フランソワ・トリュフォー監督)など。

もっと古い映画も見ている。
たとえば、「マイヤーリング」(アナトール・リトヴァク監督)。これは、アナトール・リトヴァクがシャルル・ボワイエ、ダニエル・ダリューで撮った「うたかたの恋」のリメイク。おなじ映画監督が、メル・ファーラー、オードリー・ヘップバーンで撮っている。「ローマの休日」で登場したオードリーが、4年後にこの映画に出ているのだが、「ローマの休日」で見せた美しさはまるで消えている。これは驚くべきもので、私の「女優」観に大きく影響したのだった。
その後、メル・ファーラーと離婚したオードリー・ヘップバーンは、普通のファンや映画批評家にとっては、「ペルソナ・グラティッシマ」の女優に変化してゆく。

私は、昔、試写室や映画館で見ただけで、二度と見る機会もなく、いつしか忘れてしまった映画を見ては、かつての私がその映画に何を見たのか、あるいは、何を見なかったのか、あらためて考えるのだった。これも、老措大の楽しみというべきか。
要するに手あたり次第にDVDを見ているだけ。ただの気ばらしといっていいのだが、若い頃に見た映画を老いさらばえた私がどう見るか。そんな興味がある。

マルセル・カルネの「ジェニーの家」を見たのは、戦後まもなくのことだった。当時の私は、30年代のパリの風俗などまったく知らなかったが、今の私は、ある程度(あるいは、かなりの程度)まで知っている。そういう目で見ると、あらためて、30年代のエロティックな風俗も理解できるし、女優のフランソワーズ・ロゼェの「演技」も、20代の私よりはずっとよくわかる。同時に、20代の私は何も見ていなかったなあ、忸怩たる思いがある。
そのくせ、ロゼェほどの「大女優」も、マルセル・カルネの映画では、この程度の「芝居」しか見せなかったのか、という驚きもあった。
昔の映画を見ることは――そのまま、その映画の再評価と、若き日の中田 耕治と、老いぼれた中田 耕治のアタマと心情の比較になる。これが、けっこうおもしろい。(笑)

なぜ、「マイヤーリング」をとりあげたのか。じつは、私なりの理由がある。山口 路子は『オ-ドリ-・ヘップバ-ンの言葉』で、この映画にほとんどふれていない。なぜだろう、と思ったから。
「ジェニーの家」をとりあげたのも、おなじような理由からで、筒井 康隆の『不良少年の映画史」(PART 1)で、戦後、「ジェニーの家」を見ていない、と書いていたので。
私は、人が見ていない映画を見てうれしがるほど狭量ではないが、人が見なかった映画と聞くと、どうして見なかったのだろう、などと考えてしまう。
ともあれ、昔の映画を見るのは老後の楽しみだが、ときにはAVだって見ることにしている。たまに傑作にもぶつかる。

植草 甚一さんがいっていたっけ。

「中田さん、ほんとうにいいポルノなんて、25本に1本ですよ」

今の私には、そんなことばさえなつかしい。

 

1656

 私は恐竜ファンである。
古生物学に関して小学生ほどの知識もないのだが、恐竜に関する記事があれば、夢中になって読みふける。

白亜紀を最後に、恐竜は絶滅したという。6600万年も昔のことだから、人間は誰ひとり、恐竜の絶滅を見届けたわけではない。もし才能があれば、「恐竜最後の日」といったSFを書きたいくらいだが、あいにくそんなSFを書くチャンスはなかった。

メキシコのユカタン半島に、巨大な隕石が落下したという。その衝撃から、さまざまな天変地異が起きて、あえなく恐竜は絶滅した。その程度の知識はある。ところが、その天変地異に、あたらしい仮説があらわれた。

この巨大隕石の衝突にくわえて、大規模な火山の噴火がインドで発生したため、恐竜が絶滅したという。アメリカのUCCなどの国際研究チームが発表した。(2015.10.29.「読売」)
このチームは、インド西部の地層などを詳細に分析した。その結果、巨大隕石の衝突後の5万年以内に、大規模な火山の噴火が起きたという。
この噴火による火山灰の噴出量は、毎年、東京ドーム約700個分の、9億立法メートル。この噴火は、数十万年にわたってつづいた可能性がある、とか。

このチームは――隕石衝突と大規模な火山の噴火の年代が近いので、どちらが恐竜の絶滅のおもな原因になったのか、判定はむずかしい、という見解をしめした。

なにしろ6600万年も昔の話で、しかも隕石衝突と火山の噴火の年代差が「たった」5万年というのだから、思わず笑ってしまった。

ただ、この笑いには――隕石衝突で大打撃を受けた恐竜たちが、「たった」5万年でも、地球上で必死に生きのびようとしたに違いない、という思いが重なっていた。

この恐竜の絶滅から、まるで別のことを思い出した。

2003年9月、チャン・イーモーは、ウクライナで、「LOVERS」(「十面埋伏」)の演出に当たっていた。
チャン・ツイーの母親役に、香港の大スター、アニタ・ムイを起用する予定だった。しかし、梅 艶芳(アニタ・ムイ)は重病に倒れて明日をも知れぬ身だった。チャン・イーモーは、アニタの回復を信じて朗報を待っていた。
監督の希望もむなしく、アニタ・ムイは亡くなった。(12月30日)

地球なんて、ずっと恐竜が住んでいたんだ。
人類の歴史なんて短いものさ。
恐竜は十数億年、何十億年も地球に君臨していた。
20メートルとか50メートルの恐竜が空を飛んでいた。
宇宙の中のこの小さな地球で、映画の撮影なんて、「LOVERS」なんて、
取るに足らないことさ。

映画監督、張 藝謀のことば。

チャン・イーモーは、完成した「LOVERS」(「十面埋伏」)を、梅 艶芳(アニタ・ムイ)にささげている。

1655


ある日、外出しようとして、門扉に手をかけていた。
近くの幼稚園の子どもたちが、若い先生3人に引率されて、我が家の前を通りかかった。公園に行く途中だろう。30人ばかりの幼児たちなので、若い女の先生が3人で引率している。
幼児たちはお互いに手をとりあって、楽しそうに歩いている。先頭に立った先生が、私の前にさしかかったとき、子どもたちにいいきかせるように、
「お早うございます」と声をかけた。これも情操教育なのだろう。
幼い子どもたちも、くちぐちに「お早うございます」と声をかけてゆく。
知らない子どもたちばかりだが、ご近所の誼みで声をかけてくれるのだった。

私もこれに答えて、「お早うございます」と声をかけてやる。これも、なかなか楽しい。まだ、ことばも達者でない、5,6歳の幼児が、たどたどしい口で、老人に声をかけてくれるのだから。

最後の子どもの列になった。
ひとりの女の子が、ちょっと立ちどまると、まじまじと私を見て、
「キタナイオジサン」
といった。

私は笑った。

この女の子は、ただ一言にして私の「現在」をとらえている。これまで、いろいろな批評家が、私をいろいろと批評したが、この女の子ほど、端的、かつ直截に私の本質をとらえた批評はない。天真爛漫にして、寸鉄人を指す批評であった。

たしかに私は、もはや「キタナイオジサン」以外の何者でもない。

1654


この一年、ほとんど何も書かなかった。ブログもあまり書けなかった。書くべきこともなかった。

自分でも信じられないのだが、この11月、私は米寿を迎えた。
かつて私のクラスにいたみなさんが、米寿を祝ってあつまってくれた。うれしいことだった。
みなさんが、私のブログを読んでいる、という。はげましの言葉も頂戴した。これも、ありがたいことだった。
しかし、老残の身のかなしさ、何も書けない。

例え、何を書いたところで、老いぼれのとりとめもない気ままな思い出なぞ、誰が耳を傾けるだろうか。

老人が片隅で何かつぶやく。よく聞きとれないし、何をしゃべっているのか意味もさだかではない。声にならない叫び。ときには、悲鳴。金切り声の叫び。

私自身、何度もそんな老人の姿を見、そんな叫びを聞いてきたような気がする。

たとえば、半世紀も昔のパリ、サン・ジェルマン・デ・プレ。まずしい服装の老人が、路上に腰を落としてうずくまり、まったく無言でひたすら路上の一点を見つめていた。
乞食だった。80歳ぐらいだろうか。よれよれの、汚れたスーツを着ている。おそらく仕事もなく、家族もいない身で、通りすがる人々のわずかな恵みをもとめている。

この老人は、みじろぎもせず、声を発することもなく、ただ、ひたすら路上の一点を見つめているのだった。老人は、薄汚れた生き人形か人間の剥製といった感じで、まばたき一つしなかった。眼は開けているが何も見てはいない。眼臉だけが赤くただれて、白内障か緑内障で失明に近い状態だったのか。
パリの繁華な通りの片隅で、年老いた乞食が、道行く人々に憐れみを乞うわけでもなく、ただ、放心したように、目の前の空間のどこかを見つづけている。
私は、これほど悲哀にみちた人間の姿を見たことがなかった。

しかし、誰ひとり老人に目もくれず、急ぎ足でその前を通ってゆく。

そして、これもある日のニューヨーク。夜明けが過ぎたばかりの時間。私はブロードウェイ近く、まだ人通りのない裏通りを歩いている。
ニューヨークに着いてすぐに、古着屋で、よれよれの革ジャン、少年用の派手なシャツ、白いソックス、スニーカーを買ったのだった。
当時のニューヨークは犯罪が多発していたため、旅行者が単身で裏通りを歩くのは危険とされていたが、私はすり切れた革ジャンのポケットに20ドル入れているだけで、旅行者には見えない恰好で歩きまわっていた。

ふと、道をへだててひとりの老女が立っていた。
貧しい身なりで、こんな早朝にどこから出てきたのか。私は、道路の反対側を歩いていたので、かなり距離があった。
老女はそのまま通りすぎようとした私にむかって何か叫んだ。ひどくひからびた声で、「I ain’t got a penny!」と聞こえた。
つまり、「あたしゃ、無一文なんだよ」と呼びかけてきたのだった。見ず知らずの私に訴えたところで、どうなるものでもないだろう。ただ、その声に、私はぞっとした。私としては顔をそむけて通りすぎるしかなかった。

こんな一瞬の情景が、どんな小説や映画のシーンよりも私の胸を打った。

私の旅はいつもこんなものだった。
このブログで、ほんとうに書きたいのは、そんな小さな、街の風景なのだった。

 

 

1653


【49】

1年近く前から、このブログで安部 公房のことを書きはじめた。「もぐら通信」の岩田 英哉さんの慫慂による。少年時代に出会った安部 公房のことをたどっているうちに、さまざまな人との出会いまで思い出すことになった。
このブログを読んでくださった読者から質問を受けたことから、中村 真一郎のことを思い出したのだった。

最終回を書くために、「緑色の時間のなかで」(1989年)を読み返してみた。

この数年、サクラの季節になると、もうこれが生涯の見おさめか、という感慨にと
らえられながら、花吹雪の下に立つのが習慣になっている。
少年時代には、ただ薄汚い印象をしか持たなかった桜の花が、年々、耐えがたいほ
どの美しさで、私に迫ってくるというのは、これもまた死の前兆でもあろうか。

真一郎さんがこう書いたのは1988年だった。
このブログで、安部 公房のことを書きはじめた私もそんな気分でサクラを眺めていたような気がする。……

さて、「安部公房を巡る思い出」も、このあたりで終わることにしよう。「世紀」の会の草創期について書くことも残っているのだが、「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らず」。いずれ書けるようになったら書くということで。

ご愛読いただいた方々に心からお礼をもうしあげたい。

1652

      【48】

真一郎さんは私より先輩だが、私の親友、小川 茂久が真一郎さんと親しかったせいもあって、少年時代から何度も会う機会があった。おこがましいいいかただが――彼の該博な知識には及びもつかないが、私は文学的にいくらか近い立場に立っていたような気もする。
私と真一郎さんは資質も才能もまるで違う。それでも、少年時代からの親しみはかわらなかった。「近代文学」のなかにも、私を中村 真一郎のエピゴーネンと見ていた人もいた。一時はまったく交渉がなくなったが、ある時期から、真一郎さんに口をきいてもらえるようになった。苦労人の小川 茂久がはからってくれたらしい。
「秩序」の同人たちが、正月に真一郎さんのご自宅に集まったとき、私も小川 茂久といっしょに伺候した。
このとき、北 杜夫に紹介されたが、この席で、若い評論家がはげしい口論をはじめた。菅野 昭正がしきりに仲裁したが、西尾 幹二が退席した。このとき、私とすれ違いざま、西尾が自分にいい聞かせるようにつぶやいた。
「二度とこんなところにくるものか」
かつて「近代文学」を脱退した中村 真一郎も、おなじことばを自分にいい聞かせたのではないか、ふとそんなことを考えた。

晩年の中村 真一郎に会う機会はなかったが、80~90年代の真一郎さんは、私を相手に、いつもエロティックな話ばかりするのだった。私が、エロスについて書いたり、鞭打ちという行為について、私なりのモノグラフィーを書いたりしたからだろうと思う。
しかし、私の知識など、真一郎さんにおよぶはずもない。
ただ、中村 真一郎が、日本でもめずらしい「タンペラマン・アムルー」(色好み)の作家だということはよくわかった。
2000年、私は「ルイ・ジュヴェ」という評伝を書いた。この本のオビは、真一郎さんにお願いする予定だった。
この作品を書きあげた翌日、小川 茂久は亡くなった。その後、「ルイ・ジュヴェ」を短くしたり、また少し補ったり、つまらない作業に手間どっているうちに、真一郎さんも亡くなった。

その中村 真一郎が、こんなことを書いている。

二十歳後半から三十歳半ば頃までの私は、石川(淳)さんにバカ扱いされていた
気配がある。

これを読んで、思わず笑ってしまった。このいいかたにしたがえば、石川 淳の眼中に私など存在もしなかったはずである。
逆に、私のほうは石川 淳の「渡辺 崋山」、「鴎外大概」などを非常な傑作と見るかわり、小説にほとんど関心がない。
それでいいのだ。死んでしまえば、どうせお互いさまではないか。

1651


【47】

さて、この回想もそろそろ切りあげなければならない。

1948年の春、私は安部君といっしょに、東大で講演をした。
これは、「近代文学」が企画した講演会で、三四郎池に近い教室で、「近代文学」の同人たちがそれぞれ1回づつレクチュアした。
ほかの人たちの講演については知らない。私は、埴谷 雄高から講演に出てくれといわれて、すぐに引き受けただけのことだった。安部君の前座ぐらいなら、私でもつとまるだろう。

教室は満員だった。
はじめて不特定多数の人々の前で話をしたのだが、さいわいアガったりせずに、話ができた。安部君は、処女作が出版されたばかりで、注目されていた。テーマも、自作について自由に語るといったものだったが、大きな教室に学生がつめかけた。
安部君の話にはじめてカフカの名が出た。むろん、だれひとりカフカを知らなかったはずである。
べつに驚くほどのことではない。戦時中に出たカフカの翻訳は、わずか15部しか売れなかったという。私は、安部君のもっていたジッドと、私がもっていたカフカを交換したから、たまたまカフカを読んだにすぎない。

この講演で、私は、第一次大戦後にピランデッロのような劇作家が登場したことをあげて、戦後の私たちの芝居にも、ピランデッリスモのようなあたらしい演劇運動が起きるだろうという趣旨のことをしゃべった。むろん、これは希望的な観測で、はっきりした分析、推理をへた発言ではなかった。
(ただ、コポオ、ルイ・ジュヴェの名前をあげたはずである。少なくとも、ジュヴェの「俳優論」に対する関心は、この頃からはじまっていたと思う。)
この頃、はじめてサルトルが紹介されたが、誰も実際の作品を読んではいなかった。

この講演のあと、安部君は学生たちの集まる講堂につれて行ってくれたが、多数の学生たちが集まってさかんに議論していた。その中に、全学連の学生もいたし、ノン・ポリの学生もいた。この日の、あの教室の騒然とした喧騒は忘れられない。もう、何十年もたった今でも、あの教室に集まっていた若者たちの姿を思い出す。
「全学連」の武井 昭夫がいた。いいだ もも、小川 徹たちがいた。そして、松山 俊太郎も。そのなかに、木村 光一がいた。後年、「文学座」の演出家になった。
私はただひとり、この教室のこの人たちとなんの関係もなく立ちつくしていた。

1650

      【46】

当時、安部君には私以上に親しい友人が3人いた。

高谷 治。赤塚 徹。辰野君。

高谷君は、私とおなじように小柄だが、私と違って見るからに育ちのよさがわかるような若者だった。
私は彼がジャン・ジョーレスの「フランス革命史」をもっていることを知って、貸してもらったことがある。
全部で7冊ぐらいあったのだが、その1巻、2巻を借りて読んだ。フランス革命についての最初の関心はジャン・ジョーレスを読んだおかげだった。
しばらくして、私は肺結核がひどくなり、大宮から東京に出られなくなった。その結果、安部君に会う機会もなくなった。あいにく高谷君の住所を知らなかった。
高谷君に借りた本はそのままになってしまった。まことに恥ずべきことで、今でも後悔している。

赤塚 徹は画家志望で、安部君からその才能について何度も聞かされていた。
「世紀の会」は、小川町の赤塚君の書斎で最初の集合をもった。
赤塚君はまだ若いのに堂々たる恰幅で、寡黙な若者だった。「戦後」のあたらしい絵画はどうあるべきか、といった議論よりも、自分はどういう絵を描くべきかをじっくり考えているようだった。安部君の親友というだけで赤塚君に好意をもったが、肺結核が進行している状況では、彼と親しくなれなかった。

辰野君(失礼だが、お名前を失念した)は、フランス文学の辰野 隆先生の令息だが、文学に進まず、東大の薬学部に在籍していた。
私は辰野君と三四郎池のそばで、「世紀の会」のことで話しあったことがある。

私は、安部君の友人たちと、私の友人、小川 茂久、柾木 恭介たちを同人にした「集まり」のようなものをはじめるつもりだった。ところが、この計画は、すぐにもっと大きな活動に変化したのだった。

この時期、いよいよ「世紀」の会を発足させることになった。
はじめての会合は、神田小川町の赤塚君宅で行われた。
このときのメンバーは、安部 公房、中田 耕治、瀬木 慎一、いいだ もも、赤塚 徹、高谷 治。もうひとり、よく覚えていないのだが関根 弘ではない誰かが参加したのではなかったか。
私は安部君といっしょに人選にかかった。

いいだ ももの提案で、「世代」のメンバー全員が参加することになって、中村 稔、吉行 淳之介、椿 実、日高 晋、矢巻 一宏などが参加した。
多人数になったので、早急に大きな場所が必要になった。このとき、小川 徹の口ききで、内幸町のNHKの会議室が借りられることになって、初めての会合が行われた。
このとき、私が、もっとも驚かされたのは、三島 由紀夫と同期で、東大の法科在学中に「産別会議」の要職についたという、いいだ もも(宮本 治)だった。「世紀」の会をはじめて、毎回、たいへんな天才や秀才に会ってきたが、もっとも頭脳明晰な人物をあげるとすれば、躊躇なくいいだ ももをあげるだろう。当然、「世紀」の会のイニシアティヴをにぎったのも、いいだ ももだった。

美男をあげるとすれば、私は即座に、矢巻 一宏をあげる。
安部君ははじめて矢巻 一宏を見たとき、低い声で、
「あいつ、美男だなあ」
といった。
当時、成城高校生だったはずだか、ほんとうに匂やかな美少年だった。

矢巻 一宏は生涯、五つの出版社を起こしている。はるか後年、渋沢 龍彦を迎えて「血と薔薇」を出す。後年の私は矢巻君と内藤 三津子夫人と親しくなったのだった。
しかし、この時期、矢巻 一宏は作家をめざしていた。その処女作、「脱毛の秋」が、「世代」に発表されたとき、私たちはあたらしい作家が登場したと思ったものである。

NHKの会議室では、メンバー相互の交際をはかって、研究会をもつことになった。これは、「近代文学」の先輩たちの集まりを見ていた私が提案したもので、テキストをきめて、メンバーのひとりがテューターとして、基調のレクチュアを行う。
テキストは、野間 宏の「暗い絵」、テューターは日高 晋。つぎに花田 清輝の「復興期の精神」、「錯乱の論理」。このテューターは森本 哲郎。
この集まりで、吉行 淳之介はまったく発言しなかった。「原色の街」を書く前だったが、いつも飄々としている吉行 淳之介に私は注目していた。
「あいつ、どこかの作家の息子だってさ」
安部君が教えてくれた。
「ふ~ん。それじゃ、吉行エイスケだよ、きっと」
私は答えた。
「へぇえ。そんな作家がいるの」
「うん。新興芸術派のひとり。吉行なんて珍しい名前だから、たぶん、間違いないんじゃないかな」

この集まりも長くはつづかなかった。NHKから追い出されたのだった。
そこで、誰かが奔走して、新宿の近くのお屋敷の離れを借りることにしたのだった。
このときのテキストは、おぼえていない。テューターは、渡辺 恒雄。この名前に驚く人もいるかもしれない。
手席者は、安部 公房、中田 耕治、森本 哲郎、小川 徹、瀬木 慎一、そして、この回から私が招いた柾木 恭介が加わった。

この夏、安部 公房は、処女詩集「無名詩集」を出した。
出たばかりのガリ版の詩集だったが、私に一部贈ってくれた。私は、先輩たちから本をもらったとき、みんながサインしてくれたので、安部君にもすぐにサインをねだった。
安部君はしきりにテレながら、サインをしてくれた。

目上の人から、目下の人に、本を贈る場合はかまわないが、目上にあたる相手に本を贈るときは絶対に恵存と書いてはいけないとつたえた。誰かに聞いたことだった。そのときの安部君は、ちょっと驚いたような顔をした。

こうして「世紀」の会は発足したのだが、私の前途は、それほど明るいものではなかった。このときも、中村 真一郎の「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らず」ということばを思い出した。

肺浸潤がひどくなってきたのだった。

1649


【45】

この頃の安部君と私は、何か書くとたちまち攻撃されたり、匿名で批判されたりしていた。私はいろいろな雑誌で叩かれつづけていた。あまり、悪口ばかり書かれるので、本屋に並ぶ雑誌を手にとるのもいやになるくらいだった。

そんななかで、たった2,3行だったが、安部君と私の名を挙げて、褒めてくれた人がいる。
椎名 麟三だった。

「近代文学」が、同人を拡大したのは、1947年の初夏だった。
このとき、新同人になったのは、久保田 正文、花田 清輝、平田 次三郎、大西 巨人、野間 宏、そして「マチネ・ポエチック」の福永 武彦、加藤 周一、中村 真一郎だった。

すでにふれたように、加藤 周一、中村 真一郎は、山室 静のすすめで「近代文学」の集まりに出席していた。福永 武彦は、結核の療養のためサナトリウムに入っていたので、「近代文学」の集まりには一度も出席しなかった。

ところが、「マチネ・ポエチック」の人々が、「近代文学」の同人に参加したばかりの1947年7月号に、加藤 周一の「IN EGOISTUS」が発表された。
加藤 周一は、中野 重治の「批評の人間性」に端を発した中野vs荒・平野論争に言及して、荒 正人の小市民的エゴイズムを否定し、中野 重治の荒・平野批判を正当とするという論旨だった。

荒 正人がこれに対して、激烈な反論を書いた。その直後、中村 真一郎と加藤 周一が、「近代文学」に乗り込んできた。
たまたま、平田 次三郎と、編集担当の原 道久、安部 公房、私が居合わせたのだが、中村 真一郎は私たちに目もくれなかった。血相が変わっていた。
私は安部 公房に目配せした。
安部 公房もすぐに了解して、ふたりで事務室を出た。
「真ちゃん、すごい顔をしていたなあ」
「とてもただごとじゃすまないね」
私たちの想像は当たった。「マチネ・ポエチック」の3人は、この日、「近代文学」の同人を脱退したのだった。

近くの喫茶店に逃げ込んだ安部 公房と私は、「マチネ・ポエチック」の脱退は「近代文学」に激震をもたらすだろうこと、早く「世紀」の会を立ちあげようという相談をした。だから「世紀」の会を考えるようになった理由は、はじめはこんな単純な理由からだった。

「マチネ・ポエチック」の脱退は、私にも影響した。私は荒 正人と親しかったため、中村 真一郎から忌避されたのだった。その後、数年、私は中村 真一郎と会うことがなくなった。
真一郎さんと口をきくようになったのは、私が小説を書くようになってからだった。

1648


【44】

中村 真一郎の「死の影の下に」が出て、盛大な出版記念会があった。
私もこの集まりに出たのだが、いろいろな先輩たち、友人たちが祝辞を述べた。やがて、これも先輩の批評家、中村 光夫がスピーチに立った。その祝辞たるや、まことに手きびしい内容で、「死の影の下に」をプルーストの拙劣な模倣とコキおろし、こういう作品はほんらい筐底に秘めておくべきもの、とまでいいきった。
中村 真一郎は、この祝辞のあいだ、ずっと面(おもて)を伏せたままだった。私は、中村 真一郎に同情した。いくら先輩であっても、中村 光夫のスピーチはあまりにも心ない仕打ちと見えた。

批評家として作品を批判するのなら、雑誌に批評を書けばいい。それなら、中村 真一郎もただちに反論できるだろう。ところが、出版記念会の主賓という、はじめから反論しようもない立場の後輩を、こういうかたちで窮地に立たせるのが、先輩の批評家のとるべき姿勢なのか。
いまの私が中村 真一郎だったら、すぐに立って、中村 光夫のスピーチを制止するか、マイクを奪ってどなりつけるだろう。これも先輩に対して後輩のとるべき態度ではないかも知れない。しかし、後輩の処女作の出版を祝う席上で、やんわりと苦言を述べる程度ではなく、衆人環視のなかで悪口雑言を投げつけるのは、あまりにも無礼ではないか。
このときから、私は中村 光夫という批評家を信頼しなくなった。
やがて、私は出版記念会など、文壇人の集まりに出ることを避けるようになった。むろん、別な理由もあった。
肺結核の症状がひどくなったため、寝込むようになったからである。

1647


【43】

もう一つ、思い出したことがある。
ある日、私は「中国文学」の千田 九一さんのご自宅に呼ばれた。

この集まりは「近代文学」の懇親会といったもので、あたらしく同人になった人々の顔あわせを目的としていたものと思われる。
安部 公房と私もいっしょに出た。この席で、当時としては貴重品だったニワトリの水炊きがふるまわれた。酒、ビールなども出た。
戦後の食料難についてはすでにふれたが、このときの集まりで、私は戦後はじめてトリ鍋をあじわった。その後、トリ料理も食べられるようになったが、千田 九一さんの集まりで出されたトリ料理ほどおいしく頂いたご馳走はない。

この集まりに中村 真一郎も出席した。

集まった人たちは、いずれも名だたる文学者なので、この席でも侃々諤々の議論が交わされたが、鍋料理が目的だったので、楽しい気分があふれていた。
ふと、真一郎さんの靴下に目をとめた。靴下の片っぽに大きな穴が開いていた。穴というより、半分破れていて、まるで靴下の用をなさないほどだった。
私は目をそらせた。
小心な私は、文学者の集まる席なら、前の晩に自分で靴下の破れをつくろったに違いない。
しかし、ダンデイな中村 真一郎は、自分の貧しさをすこしも恥じていない。このとき、私は、戦後派作家として注目されている中村 真一郎が、実生活ではけっして恵まれていないらしいことに気がついたのだった。

大きな穴が開いた靴下など、まったく気にとめずに、さかんに文学論議をつづけている中村 真一郎に敬意をもった。この思いは――自分もいつか、少しでも世間に通用する作品を書きたいという思いにつながっていたはずである。

作家として登場したばかりの中村 真一郎が、経済的にはそれほど恵まれていなかったことは、別のことからも想像できた。

ある日、真一郎さんは私をつかまえて、
「ねえ、中田君、さっき数えてみたら、ボクの原稿を載せた雑誌、30もつぶれているよ」
といった。
「ふーん、そんなにつぶれましたか」
心のなかで私も数えてみた。私に原稿を依頼した雑誌、原稿は載せたものの原稿料を払ってくれなかった雑誌、三号雑誌で消えてしまった雑誌は――15もあった。
真一郎さんの場合は、短編もふくめて30編も原稿を書いた雑誌が潰れている。枚数からして、私とは比較にならない。私が、そんな雑誌に書いたのは短いエッセイや雑文ばかりだった。それでも、私としては原稿料をアテにして書いたのだから打撃は大きかった。

1646

【42】

ある日、「近代文学」の集まりがあった。
この集まり(勉強会)で、安部 公房と私は、ある新人作家について、それぞれが批評することになった。対象は三島 由紀夫だった。
場所はよく覚えていないのだが、おそらく中野の「モナミ」だったと思う。
このレクチュアは、(あとで思い当たったのだが)「近代文学」の第二次同人拡大が問題になる前で、安部君は別として、中田 耕治を同人にするかどうか、いわば面接試験めいたものだったのではなかったか。
ゲストは三島 由紀夫。「近代文学」側は、平野 謙、小田切 秀雄が欠席。ほかの出席者に、中村 真一郎、椎名 麟三、野間 宏など。花田 清輝はいなかった。

最初に私が、短編集の「夜の支度」について報告した。
つづいて、安倍 公房が「仮面の告白」を批評した。
(私の知るかぎりでは、その後の「世紀」で、安倍 公房が三島 由紀夫をテーマにレクチュアしたことはない。「世紀」でもこうした勉強会をはじめたけれど。)

私も三島 由紀夫とは初対面だったが、当時の私は、性倒錯について、ホモセクシュアル、レズビアンについてなど何も知らない無知な若者だったから、この作家の内面にひそんでいる異常性を指摘するだけでせいいっぱいだった。
戦時中、中学生のとき「花ざかりの森」を読んだり、「日本浪漫派」の雑誌、「文芸文化」で三島 由紀夫の名を知ったが、このレクチュアでの私は、ただ、三島 由紀夫におけるロマン主義的な愛のナルティシズムといった問題をとりあげたにすぎない。

戦後すぐの時期、ゲイの男性は、異性愛社会のなかでうまく生きて行くためには、ホモセクシュアルである自分を隠すことが、いわば第二の天性のようになっていた。このことは、やや遅くなって、「劇作」の集まりで知りあった鈴木 八郎(完全なゲイだった)から教えられた。三島 由紀夫も、まだ、自分がホモセクシュアルであるという(文学的な)カミングアウトを試みたわけではない。
むろん三島は私の稚拙な批評など歯牙にもかけなかった。

このときの安倍君の批評はじつにみごとなものだった。私は、安部君は、小説よりも批評を書いたほうがいいのではないか、と思ったほどだった。
三島 由紀夫も安倍君の批評に感心したようだった。

安倍君の批評に注目した人がいる。中村 真一郎だった。

この集まりが終ったあと、中村 真一郎が、安部君と私を呼びとめて、コーヒーをおごってくれた。このときの話題は、もっぱら安倍君の批評に対する称賛だった。真一郎さんも三島 由紀夫の作品にふれたが、むしろ安倍君の批評について批評したのだった。批評家が他人の批評を批評するときほど批評家であることはない。
真一郎さんは、まだ作家としての安部 公房を知らなかったはずで、まず卓抜な批評家としての安部 公房に驚嘆したようだった。
このときの話はもっぱら安部 公房の批評と、三島 由紀夫の短編にかぎられたが、中村 真一郎は、私に向かって、
「きみ、フランス語、勉強してる?」
といった。

私は、英語の勉強をはじめていたが、一方でフランス語の勉強もはじめていた。むろん、誰にも口外したことはない。たぶん、小川 茂久から聞いたのだろう。

小川 茂久は、私と椎野の共通の友人だったが、この頃から真一郎さんと親しくなっていた。当時まだ序章しか発表されていなかった「死の影の下に」の全編を清書したのも小川 茂久だった。
私はたしかにフランス語の勉強もはじめていたので、
「とても半年というわけにはいきませんが」
私は答えた。いつか、真一郎さんが平野さんに答えたことばを受けたつもりだった。
真一郎さんは、すぐに私の答えに隠された意味を読みとって、いたずらっぽくニヤッとしてみせた。

この研究会で、三島 由紀夫を知ったことから、私は「世紀」の発足に当たって、三島 由紀夫にも参加を呼びかけたのだった。(「世紀」の会が発足するに当たって、参加したメンバーの名を記録したが、三島 由紀夫の名は22番目あたりに載っているはずである。)

1645


【41】

「1946・文学的考察」で、はじめて中村 真一郎のエッセイを読んだ。私の知らない作家の名がたくさん出てくる。ずっと後年(70年代の後期だったと思う)に、もう一度、読み直してみた。そして、真一郎さんのエッセイに、ヘンリー・ミラーの名を見つけた。衝撃を受けた。
戦後すぐの時期に、中村 真一郎はヘンリー・ミラーを知っていた!

1970年代に、ある作家が、戦時中にグレアム・グリーンの「第三の男」を原書で読んでいたと書いた。私はこの作家を軽蔑した。(ここで名前はあげない。)
戦時中に、グレアム・グリーンの映画評を読んでいたというならまだしも、小説、まして「第三の男」を読んでいるはずはない。まだ、書かれていないのだから。
それにひきかえ、戦時中に中村 真一郎がヘンリー・ミラーを読んでいた、というのは、じゅうぶんに信用できる。

戦時中にグレアム・グリーンの映画評やヘンリー・ミラーの小説を読んでいた日本人は、おそらく2人。
植草 甚一と、双葉 十三郎。(植草 甚一は、戦前の上海で秘密出版された海賊版を入手したと私に語ったことがある。)
戦後すぐの中村 真一郎は植草 甚一を知らなかったはずで、フランス語版で読んでいたのではないか。大森山王の椎野 英之の家で私が見たおびただしい蔵書のなかに、ヘンリー・ミラーがあったと見ていい。
あらためて、中村 真一郎の博覧強記ぶりを思い出した。