1686

鉄道を詠んだ短歌は無数にあるだろう。

たまたま、大島 武雄の短歌を見つけたので、おなじ時期(1933年・昭和8年)に発表された前田 夕暮の短歌を引用する。

    青い地図のなかの白樺は風に吹かれる、山岳鉄道駅の尖った屋根!

    向うにダムがある、ダムがあふれる。雪どけ季節だ レールが光る

    山岳鉄道は地図の上を走る。無蓋車にあふれる若者達の笑ひはじけた顔

昭和8年、ヒトラーが政権を掌握している。石坂 洋次郎の「若い人」、谷崎 潤一郎の「春琴抄」、川端 康成の「禽獣」などが発表されている。
小林 多喜二が警察の拷問で非業の死をとげた。

前田 夕暮は、4年前から口語体の自由律短歌を試作したが、太平洋戦争中に定型短歌にもどっている。理由は――すぐに想像がつく。

    友もわれも もだし並びて 人を待つ 二月の夜のホームの寒さ

    これやこの桶狭間かも 麦畑のなかつらぬきて 電車は走る(旅にて)

この二首は、大村 八代子の作。残念ながら、この人のことも私は知らない。

    臨港鉄道 終点にして 乗降者なし もの売る店なし 住宅なし

    貨物船 入り来る運河のさきになほ 電車の走る埋立地見ゆ

この二首は、土屋 文明作。鶴見の臨港鉄道を詠んだもの。10年後に、私は勤労動員で、この鉄道に乗って「三菱石油」の工場に通った。

今年の3月。北海道新幹線が開通した。
私の20世紀がまたひとつ終わった。

 

 

1685

17年の小さな歴史が終わった。

2016年3月19日午後、最終の「カシオペイヤ」が、上野駅から札幌に向かった。上りは、20日午後に札幌を出発して、上野着は翌日の午前。これで運行を終えた。

こんな短歌があった。(読みやすいかたちで引用する。)

 

 あかつきのプラットフォームに 湯気たてて売り歩く茶を 呼びとめて買ふ

 電灯のいまだともれる朝あけの 駅に下りたち 新聞を買ひぬ

 朝の食堂車の明るきなかに たちのぼる味噌汁のにほひ なつかしきかな

作者は、大島 武雄。この歌人については何も知らない。
この短歌を読むだけで――昔の駅の光景や、朝の大気に蒸気を白く吐きながら停車している機関車や、新聞売り場(つまりキオスク)にいそぐ乗客たちの姿が眼にうかぶ。

昔の鉄道には、乗客の手荷物、トランクなどを運ぶ「赤帽」という職種があった。さしづめポーターというところだろう。赤いキャップ(帽子)をかぶっていた。荷物の運搬だけが仕事ではなく、「エキベン」(ご当地のお弁当)や、お茶を売っていた。わずかな停車時間に、プラットフォームを走りまわって、客の注文に応じて、お弁当や、お茶、ときには、その土地の名産やみやげ物、新聞、週刊誌などを売り歩く。片手に小銭を握って、客が紙幣を出しても、すぐにおつりをわたす。
どこの駅にも、お弁当や、安物の陶器入りの熱いお茶を売りさばき、いよいよ発車時間になって列車が走り出しても、プラットフォームを駆けずりまわって、まだ車窓から頭を出している客に、品物をわたして対価をうけとる、客あつかいのうまい「赤帽」がいたものだった。

幼い頃の上野駅の印象がぼんやり残っている。

発車間際の終列車に乗り遅れまいとする乗客が走り出す。
「仙台行き……浦和、大宮、宇都宮、白河、福島、仙台行き……」
ガランとした構内、長いプラットフォームの端から端まで、駅員が声高に叫びながら通って行く。
幼い子どもにはわかるはずもなかったが、昭和初期、アメリカの大不況の影響をモロに受けて、日本全体に不景気風が吹いていた。乗客は数えるばかり。
向こうの隅にポツンとひとり。
こちらに、若い女の子をつれた中年の男が一組。

    日を二日 乗りとほしたる汽車のつかれ 身ぬちにふかくありて ねむれず

作者は、原 常雄。「覇王樹」の歌人らしい。
昔の鉄道の旅はたいへんだった。上野=仙台、377キロの距離が12時間もかかったことを思い出す。

上野と札幌間を往復した寝台特急、「カシオペイヤ」。下りの所要時間は、約19時間。札幌からは、たしか17時間程度。

「カシオペイヤ」以前の特急、「はくつる」や「あけぼの」は知っている。ただし、「北斗星」(寝台特急)は、ついに乗らずじまいだった。
今年の3月。北海道新幹線が開通した。東京=札幌、1168キロをわずか4時間で走るという。

 

 

 

 

 

 

 

 

1684

私の少年時代。ラジオの普及やレコードの登場が重なってくる。

ポップスのレコード化が初めて企画されたのは、宝塚少女歌劇の「モン・パリ」(コロンビア/1927年=昭和2年)。私が、おぼえたのは、おそらく10年後だろう。
翌年(昭和3年)野口 雨情作詞、中山 晋平作曲の「波浮の港」(ヴィクター/昭和3年)が出た。これもおぼえている。多分、ずっと後年、ラジオを聞いておぼえたにちがいない。このレコードが我が家にあったことをおぼえている。
藤原 義江の「出船の港」(時雨 音羽作詞、中山 晋平作曲=昭和2年)も大ヒットしている。

この時期、浅草を中心に、「小原節」、「佐渡おけさ」、「串本節」、「草津節」が流行する。こちらのほうは、浅草の寄席、ちいさな演芸場の記憶と重なりあってくる。なにしろ、浅草まで、子どもの足で、10分もかからなかった。

私は1927年(昭和2年)の生まれ。この年、堀内 敬三が、浅草の歌劇でジャズの訳詞をはじめる。(子どもの私が知るはずもない。戦後になってから調べた。)
堀内 敬三訳の「ヴァレンシア」(昭和2年)は、ラテン・ミュージック。

ヴァレンシア あたいは南の国からきたのよ
ヴァレンシア レモンの花咲く国からきたのよ
ヴァレンシア あたいは浮気な娘じゃないわよ
だから お金や力だけじゃ 口説かれやしないわ

おなじく「アラビアの唄」(昭和2年)は、

砂漠に日が落ちて 夜となる頃
恋人よ なつかしの 歌を歌おうよ
あのさびしい 調べに 今日も涙を流そう
恋人よ アラビアの歌を 歌おうよ

「私の青空」(昭和3年)は、

夕暮れに 仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて たどるは 我が家の細道
狭いながらも 楽しい 我が家
愛の日影の さすところ
恋しい家こそ 私の青空

幼い頃の私は、そんなメロディーを聞いて育った。
「君恋し」(時雨 音羽作詞、佐々木 紅華作曲=昭和4年)や、「東京行進曲」(西条 八十作詞、中山 晋平作曲=昭和4年)が、当時としては空前のヒットになる。

ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりや ダンサーのなみだ雨

原作は菊地 寛のロマンス小説だが、歌は映画化された「東京行進曲」の主題歌。佐藤千夜子がレコードで歌っている。
この「東京行進曲」のB面が、「紅屋の娘」(野口 雨情作詞、中山 晋平作曲=昭和4年)だった。
私は、こうした感傷的な流行歌のメロディーを聞いて育った。歌詞も自然におぼえたのだろう。
一方、流行歌として、「ヨサホイノホイ節」が、民衆の暗部の潜流に綿々としてつたえられていた。隅田川を挟んで浅草のすぐ先、本所に住んでいたから、無意識にせよ、こうした歌謡曲、俗曲の影響を受けたらしい。

今日もコロッケ  明日もコロッケ
これじゃ年がら年じゅうコロッケ
アハハハ  アハハハ こりゃ おかし

この作者は、益田 太郎冠者(たろうかじゃ)。(戦後、思いがけないことに、この人からハガキをいただいたことがある。)
そして、ラメチャンタラ ギッチョンチョン の パイのパイのパイ。
これは、添田 唖蝉坊。

2016年、老作家の内面に、もう誰もおぼえていない、いろいろな唄の「ちゃりもんく」が、こびりついている。こびりついているだけならいいが、何かのきっかけでヒョイッと口をついて出てくる。こういうのも、老いのくりごとというのかねえ。
こんな歌をおぼえているのもいまいましいが、それこそ「ラメチャンタラ ギッチョンチョン の パイのパイのパイ」で、ボケも極まれり、「オヤオヤ、まったく こいつは困ったね」(「困ったねぶし」大正13年)。(笑)

 

1682

昔のはやり唄でおぼえた「ちゃりもんく」。
オドロキ モモノキ サンショノキ。たとえば、こんなふうに使う。

この翻訳は チャクライシュ
ドへたで読めない ボロボロボン

むずかしい本を読んで、よくわからない。そんなときは本を投げ出して、

こら、むずかしい チャチャラカチャン

とか、

なにをくどくど XXXXX コガルル ナントショ
XXXの流れを見てくらす しののめのストライキ
さりとはつらいね テナこと おっしゃいましたかね

など。「しののめ(「東雲」)のストライキ」などは、意味もわからいままおぼえたのだが、私の場合、XXXはたいがいは本の題名や、作者の名前になる。
少し前に、ドイツの民俗学の本を読んだが、どうもおもしろくなかった。

 ナンダ コリャ ナッチョラン ナッチョラン

少し、いい本を読んだときは、

こりゃチョイトネ

とてもいい本を読んだときは、

ラメチャンタラ ギッチョンチョンのパイのパイのパイ

など。

子どもの頃、エノケン(榎本健一)が好きだったので、「しののめ(「東雲」)のストライキ」はエノケンの映画でおぼえたらしい。
自分の無教養をさらけ出すようで恥ずかしいけれど、たぶん、そんなことだろうと思っている。エノケンの歌は、ずいぶんはっきりおぼえている。
そういえば、松井 須磨子の「カチューシャ可愛いや」などもおぼえたっけ。

 

 

1683

松井 須磨子の「カチューシャの唄」は、島村 抱月・相馬 御風の合作。作曲は中山 晋平。

カチューシャかわいや  別れのつらさ
せめて淡雪 とけぬ間と  紙に願いを ララ かけましょか

「この唄をうたふ人は、雪の消えかかったロシアの広野に、生命のやうにうねり流れる一筋の川と、静(しずか)にその上に眠っている早春の月影とを想ひたまへ、その中にカチューシャの恋と運命とはあったのです」と島村 抱月はいう。
幼い私はそんなことを考えもしなかった。まして抱月と須磨子の悲劇についても知るはずもなかった。
「カチューシャの唄」は、喜歌劇「ボッカチオ」(大正4年)のアリア、「恋はやさしい野辺の花よ」からはじまる浅草オペラの隆盛期と重なっている。
1939年(昭和14年)に、田谷 裕三の歌を、浅草の「花月」で聞いたのだが、浅草オペラそのものは、もう姿を消していた。
この 「カチューシャの唄」の出現で、オペラの「その前夜」(大正5年)で「ゴンドラの唄」、翌年の「生ける屍」の劇中歌に「さすらひの歌」、「酒場の唄」が登場する。

行こか 戻ろか オーロラの下を
露西亜は北国 果てしらず
西は夕焼け 東は夜明け
鐘が鳴ります 中空に

これが「さすらひの歌」。

 

憎いあんちきしょうは おしゃれな 女子(おなご)
おしゃれ 浮気で 薄情ものよ
どんな男にも 好かれて 好いて
飽いて 別れりゃ 知らぬ顔

こちらは「酒場の唄」。ともに北原 白秋・作詞。中山 晋平・作曲。

 

こうした劇中歌は、「緑の朝の歌」(大正7年)、「カルメン」(大正8年)とつづく。日本のミュージカルの最初の萌芽と見ていいのだが、こうした曲は、私の少年時代にもまだすたれずに残っていたのだろう。
オペラの文句よりも、メロディーが、子どもたちにもおもしろかったのではないだろうか。

 

 

1681

思いがけない「ちゃりもんく」が頭をよぎることがある。よぎるのではなく、こびりついて離れない、といったほうがいい。たとえば、ビックリ シャックリ コレッキリ。
いつ、どこでおぼえたのか自分でも、よくわからない。
なんとなく、気になってしかたがない。
すると、昔の流行り唄を思い出したりする。


お前 待ち待ち 蚊に食われ 七つの鐘の鳴るまでも
こちゃ かまやせぬ かまやせぬ

 この元唄は、天保のころにはやった「羽田ぶし」だが、ずっと後年、「コチャエぶし」になった。私がこんなものをおぼえたのは、昭和の初期。幕末の「はやり唄」が、どういうわけか、私の心にこびりついている。これも、ビックリ シャックリ コレッキリ。

  お江戸 日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ
こちゃ 高輪 夜明けの提灯 消す コチャエ コチャエ

 どうしてこんな唄を知っているのか。おそらく、母親が毎日、長唄の稽古をしていたので、自然におぼえたものだろう。もう一つには――私の育った土地柄では、まるで落語に出てくるような八ッさん熊さんが多くて、朝から晩までダジャレの応酬がつづいていた。何かのセリフの句切れに、かけ声やいろいろな「ちゃりもんく」が出てくる。

  サッサ 賛成 賛成 賛成じゃ
コリャ お座付き 二あがり 三さがり

 だから、昔のはやり唄でおぼえた「ちゃりもんく」が、ヒョイッと口をついて出てくる。

 

1679

ピカいち。ここから、別の連想が繋がってくる。

ピカいちのつぎは、何がくるのか。

例えば、双葉山、安芸ノ海。琴奨菊、稀勢ノ里。両横綱、両大関。

三は――三傑。三幅対。たとえば、白鳳、鶴龍、日馬富士。
勝 海舟、山岡 鉄舟、高橋 泥舟。

三の例なら、いろいろと出てくる。
たとえば、団菊左。ただし、いまの団十郎、菊五郎、左団次ではない。戦前の団十郎、菊五郎、左団次。

歌舞伎役者の連想で、三姫を思い出す。時姫。雪姫。八重垣姫。
政岡。重の井。篠原。いずれも、乳人(めのと)だが、「重の井」が、またまた別の連想を喚0び起こす。
恋十。苅萱。鳴八。いうまでもなく、三の子別れ。三人吉三をあげてもいい。

四は、何だろう?
すぐには思いうかばない。四君子、四天王か。
ルイ・ジュヴェ、シャルル・デュラン、ジョルジュ・ピトエフ、ガストン・バテイの「カルテル」。

五は、もっとむずかしい。五人男。

六。これはさしづめ六歌仙か。

私たちは、すぐれた人物やものごとを簡単な素数に併置して、心にきざむ習性があるらしい。さまざまな分野でとくに傑出した人物、重要なできごとを、ただちに重ねあわせ、、その分野を知りつくした人をも納得させる比較、秤量のクライテリオンにする。そんなよろこびが、こうした分類にひそんでいるのかも。

そのくせ、私は、いろいろな分野でのベスト・テンといった比較、秤量やランクづけがあまり得意ではない。たとえば映画の年間ベスト・テンといったアンケートに答えるさえ、いつも苦痛だった。たとえば、アラン・レネやゴダールの作品をベスト・テンにあげるよりも、ウォン・カーウァイやイム・グォンテクの作品をあげるだろう。
私のあげるベスト・テンは、いつもほかの人とかけ離れたものになるのだった。

 

 

 

1678

知ってはいるけれど、ほとんど使ったことのない言葉。たとえば、ピカいち。

 

今月の女芝居じゃ、赫子がピカいちだよ。

 

(吉原の)XX家の中じゃ、XXがピカいちだよ。

 

子どもの頃そんな言葉を聞いた。「ピカいち」という基準は、「女役者」をはじめ、ひろく女の品定めに使うのか、と思った。

もともとは花札からきている。配られた手札を見て、一枚だけ役札が入っている。もっとつよい札の、ボーズ(坊主)、小野 道風、鳳凰などのほかに、青タン、赤タン、イノシシ、シカ、チョウ。あとは、素(す)札ばかり。そんなときに、この役札をピカいちという。

漢字では「光一」と書く。

たちまち、知人を思い出した。批評家の磯田 光一。演出家の木村 光一。

しばらく、ふたりのことを考えた。それは自分のことを考えることでもあった。

 

 

1677

プーシキンは、ロシア語の創始者といわれている。彼の作品は今でもロシア人に愛されているだろう。
私はロシア語が読めないのだが、プーシキンのロシア語と、現代ロシア語は、それほど大きな違いはないと聞いている。だからこそ、ロシア人たちは、つい昨日書かれた作品として、プーシキンを読んで、心を動かされるのではないか。

しばらく前まで、フランスの子どもたちは、小学校に入ると、ラ・フォンテーヌなどを暗記させられると聞いた。フランス語のうつくしさを身につけさせることが目的という。
古典としてのフランス語は、現代フランス語の基幹と、さして変化していないためだろう。

数年前のことだが、現在の中国で、雲南省の幼稚園で使われている唐宋詩人のアンソロジーを見たことがある。イラスト付きだったが、唐詩選などから選ばれた名詩が、ぎっしりと並んでいた。私は心から驚いた。中国の子どもたちは、ものごころつくと、こんな詩を読んでいる!

ひるがえって、私自身はどうだろう。
大作家といわれる井原 西鶴さえ、まともに読みこなせない。
うっかりすると、幸田 露伴さえも読めなくなっている。

 

 

1676

「好色一代女」を読みはじめて、なんとか「町人腰元」までたどりついたが、途中で降参した。
あらためて、俳句から勉強し直そう。

こと問はん 阿蘭陀(オランダ)広き 都鳥
六町一里に つもる白雪
袖紙羽 松の下道 時雨きく

これが、「三鏡輪」表八句の冒頭である。
まさしく「阿蘭陀(オランダ)流」がひろまっている時代に、敢然として立ちむかってゆく気概がみなぎっている。それはいいのだが、どうも内容がよくわからない。

厚鬢(あつびん)の 角(すみ)を互いに 抜きあひし
浅草しのぶ おとこ傾城(けいせい)

こんな句を見つけると、まるで映画のワン・シーンを見るような気がする。

みなみな死ては 五百羅漢に
夜かたりの ゆめが残して 安楽寺

さながら「好色一代女」のエンディング、ラスト・シーンのごとし。

それにしても、俳句もろくに読めない自分の無学を恥じるばかり。

 

 

1675

というわけで、無謀にも、西鶴の「好色一代女」を読みはじめた。むずかしいのなんの。はじめから仰天した。冒頭の「老女隠家」の「目録」(内容の紹介)は、

都に是(これ)沙汰の女たづねて むかし物がたりをきけば 一代のいたづらさりとは うき世のしやれもの 今もまだうつくしき

「大矢数」の跋に「自由」ということばを見つけて驚いたが、「好色一代女」の「舞曲遊興」にも、

清水(きよみず)の はつ桜に見し 幕のうちは 一ふしのやさしき娘 いか成(なる)人の ゆかりそ(ぞ) 親は ~・
あれをしらずや 祇園町のそれ 今でも自由になるもの

 とあって、しばらくはこの時代の自由の観念について考えさせられた。しかし、小説としての「好色一代女」を読みこなすことは、私にはとうてい無理であった。
美女は命を断(たつ)斧と古人もいへり。この古人が誰なのか、見当もつかない。
ようするに、愛欲の道におぼれれば、寿命をちじめる。女の色香に心をみだすのは、美しい花が散ってしまった木が薪になるようなもの。ところが、女の色香に迷って、いのちをちじめるのは愚の骨頂。
いつだったか、京都の西嵯峨に行ったことがあったが、梅津川をわたった。たまたま、いかにもファッショナブルなスタイルのイケメンが、恋にやつれきって、これから先も思いやられる様子で、自分は実家の跡もつげない、と親に連絡をとったという。どうやら、色欲におぼれすぎて、やつれ果て、若死しそうなかっこうをしていた。
自分、、育ちもよくて何ひとつ不足のない暮らしをしてきたけれど、あれやこれやと色に狂って、とうとうインポテンツになってしまった。それでもまだまだ、この川の水のように、エジャキュレートしたい、という。

これを聞いた友だちは驚いて、オレは女のいない国に行って、のんびり暮らしたい、といった。

片方は、今にも死にそうなのに、女のことが思いきれない。ところが、もう一方は、女にはあきあきしたから、女のいない国に行って、せめて長生きしたい。そして、この世の移り代わりを眺めていたい。

原文で、わずかに10行。これだけのことを理解するさえ、ひどく時間がかかった。やっとこれだけ読んで思わず笑ってしまった。自分の無学をふくめて。

すごいね。「女のなき国もがな、其所に行て閑居を極め惜き身をなからへ、移り替れる世のさまざまを見る事」という。

女のいない国に行って、せめて長生きしたいなどとは思わない。
だから、こんなつまらないブログを書いている。(笑)

 

 

1674

井原 西鶴を読もうと思った。
もっとしげしげ読みつづけるべき作家、深く知るべき作家と思いながら、そうではなかった。もともと、私などの読めるはずもない作家なのである。
いまさらながら、おのれの無知、無学を嘆くばかりだが、たとえば、こんな例がある。

    こと問はん 阿蘭陀広き 都鳥
      六町一里につもる 白雪
    袖紙羽 松の下道 時雨きく
      雲行も 今朝かはる 駕籠賃
    月人や ことにすくれて ふとるらん
      くはれて残る 小男鹿のかは
    秋よりは かならずひゆるを 存候
      本末のいろは あけてかな文

せっかく読みはじめたが、最初からつまづいた。西翁、西夕、西鶴の三百韻、「三鉄輪」の表八句。
西鶴が関西俳諧を代表する談林の巨匠だった程度のことしか知らないのだから、わかるはずもない。おのれの不勉強を思い知らされた。
初句、「言問」「都鳥」の連想はわかったが、「阿蘭陀広き」がわからない。仕方がないので、西鶴関係の本を当たってみた。

「大矢数」の跋を、若い人たちに読みやすいかたちで引用する。

予 俳諧正風 初道に入て 二十五年、昼夜 心をつくし、過つる中 春末の九
日に夢を覚し侍(はべ)る。
今 世界の俳風 詞(ことば)を替(かえ) 品を付(つけ) 様々流義 有と
いへども、元ひとつにして 更に替ることなし。
総て此道さかんになり、東西南北に弘(ひろま)る事、自由にもとづく俳諧の姿を 我仕はじめし以来なり。世上に隠れもなき事、今又申(す)も愚(おろか)也。

私なりになんとか解釈してみよう。

私(西鶴)は、オーソドックスな俳句の修行にはいって、25年、ひたすら勉強を重ねて過ごしてきたが、今年の3月末に、ふと、正夢を見たような気もちになった。
現在、俳句の世界では、いろいろな俳人たちが、言葉を工夫したり、それぞれの作風を追って、いろいろな流派が登場してきたが、俳句の基本は一つであって、じつは何も変わってはいないのだ。
もともと俳句がさかんになって日本国内の各地にひろがってきたのも、私がこれまでの俳句のありようを打ち破ってからのこと。これは誰でもしっていることだから、いまさら論じるのも野暮なことである。

西鶴の強烈な自信というか、おのれを恃む姿勢がわかる。今の私(中田 耕治)は、「自由」ということばがこういうふうに使われていることに驚いた。
これで西鶴の自信はわかったが、作家、西鶴の作品がわかったわけではない。

「三鉄輪」の序文に、

阿蘭陀といへる俳諧は、其(その)姿すぐれてけだかく、心ふかく、詞 新らしく、よき所を今 世間に是(これ)を聞覚えて、たとへば唐にしきに ふんどしを結(ゆ)ひ、相撲といはずに 甚句に聞え侍るは、一作一座の興にありやなしや。

オランダという俳句は、句自体が気韻があって、内容は深く、新鮮なことばで詠まれるもので、その美点を、今の時代のひとびとが記憶するようになる。たとえば、贅沢な仕立ての褌をつけている力士から、すぐに相撲を連想するのではなく、相撲甚句を踏まえる、そういう作りの俳句が、句会の人々に関心を喚びさますものではないか。(中田訳)

一般論としてはよくわかる。「阿蘭陀」というのは、他の流派が談林俳諧を異端と見なしていることの反論で、当時の西鶴の作風は邪道と見られたらしい、とわかった。
むしろ、西鶴の作風は時流とあいいれず、「阿蘭陀流」などという批評を受けたのだろう。
世間の俳句好きは――「貞門の俳諧もいいが、もう少し突っ込んで詠まないとどうも趣きがない。そこへ行くと、さすがに西鶴ってなあ、どれをとってもビリリとくるところがある。しかし、欲には、もう少し手綺麗に詠めねえものかねえ」などとヌカしたに違いない。ただし、西鶴はそんな批評をいっこう気にしなかった。

    お江戸 京 大阪 堺 長崎まで     由平
      作意ひろむる 當流の波       西鶴

さすがに西鶴らしい堂々たる自負であった。
いまさら勉強しても追いつくはずもないのだが、知らないことがわかっただけでもうれしかった。

 

1673

私は恐竜ファンである。
古生物学に関して小学生ほどの知識もないのだが、恐竜に関する記事があれば、夢中になって読みふける。

白亜紀を最後に、恐竜は絶滅したという。6600万年も昔のことだから、人間は誰ひとり、恐竜の絶滅を見届けたわけではない。もし才能があれば、「恐竜最後の日」といったSFを書きたいくらいだが、あいにくそんなSFを書くチャンスはなかった。

メキシコのユカタン半島に、巨大な隕石が落下したという。その衝撃から、さまざまな天変地異が起きて、あえなく恐竜は絶滅した。その程度の知識はある。ところが、その天変地異に、あたらしい仮説があらわれた。

この巨大隕石の衝突にくわえて、大規模な火山の噴火がインドで発生したため、恐竜が絶滅したという。アメリカのUCCなどの国際研究チームが発表した。(2015.10.29.「読売」)
このチームは、インド西部の地層などを詳細に分析した。その結果、巨大隕石の衝突後の5万年以内に、大規模な火山の噴火が起きたという。
この噴火による火山灰の噴出量は、毎年、東京ドーム約700個分の、9億立法メートル。この噴火は、数十万年にわたってつづいた可能性がある、とか。

このチームは――隕石衝突と大規模な火山の噴火の年代が近いので、どちらが恐竜の絶滅のおもな原因になったのか、判定はむずかしい、という見解をしめした。

なにしろ6600万年も昔の話で、しかも隕石衝突と火山の噴火の年代差が「たった」5万年というのだから、思わず笑ってしまった。

ただ、この笑いには――隕石衝突で大打撃を受けた恐竜たちが、「たった」5万年でも、地球上で必死に生きのびようとしたに違いない、という思いが重なっていた。

ところで、この恐竜の絶滅から、まるで別のことを思い出した。

2003年9月、チャン・イーモーは、ウクライナで、「LOVERS」(「十面埋伏」)の演出に当たっていた。
チャン・ツイーの母親役に、香港の大スター、アニタ・ムイを起用する予定だった。しかし、梅 艶芳(アニタ・ムイ)は重病に倒れて明日をも知れぬ身だった。チャン・イーモーは、アニタの回復を信じて朗報を待っていた。
だが、その希望もむなしく、アニタ・ムイは亡くなった。(12月30日)

地球なんて、ずっと恐竜が住んでいたんだ。
人類の歴史なんて短いものさ。
恐竜は十数億年、何十億年も地球に君臨していた。
20メートルとか50メートルの恐竜が空を飛んでいた。
宇宙の中のこの小さな地球で、映画の撮影なんて、「LOVERS」なんて、取るに足らないことさ。

映画監督、張 藝謀のことば。

チャン・イーモーは、完成した「LOVERS」(「十面埋伏」)を、梅 艶芳(アニタ・ムイ)にささげている。

 

1672

ある日、街角で。
私は買い物、といっても、コーヒーのパック、キャラメル程度だが、店の外に出て少し歩いたとき、前方からきた老人が足をとめた。

「あんたの帽子、よく似合っているねえ」
そんなことをいう。
「有り難う」

いつも毛糸で編んだキャップをかぶっている。誰も不思議に思わない。作家で、おなじようなキャップをかぶっていたのは、大作家の江戸川 乱歩。別に真似をしたわけではない。同年代では、田中 小実昌。ただし、コミさんは、私とちがって白いキャップだった

このオジサンが褒めてくれたのだから、何かいわなければ、と思って、
「おいくつになりました」
破顔一笑した。
「先輩にはかないません。72ですよ」

どこで会ったオジサンだろうか。会った記憶はない。しかし、私が自分より高齢であると心得て「先輩」と呼んでくれたものらしい。残念なことに、私の住んでいる千葉市には、親しい友人、後輩がいない。親しくしていた恒松 恭助さん、福岡 徹さん、後輩の竹内 紀吉君、みなさん、他界してしまった。
このオジサンは、自分より高齢の相手に対して、親しみをもって声をかけてくれたのか。あるいは、たんなる挨拶か、老人に対する儀礼的なアドレス(呼びかけ)に過ぎないのか。次のセリフが、これまた意外なものだった。

「お米は、三分ですよ。味噌汁は、タマネギ。はい。長ネギではなくタマネギ。これがいいんです」
私は、このオジサンの明るい口調に翻弄された。オジサンは、自分が健康に留意していることを私につたえたかったに違いない。まったく面識のない相手に、自分の健康を誇らしげに語っている。

「失礼ですか、お名前は?」
オジサンの返事がまた意外なものだった。
「英語でいえば、MASAHIRO XXXです」
私は笑いそうになった。わざわざ英語でいわなくてもいいのに。しかも、英語でも何でもない。このオジさん、少しばかりボケているのだろうか。あるいはトボケているのか。
昼間からいっぱいきこしめした気配でもない。つぎに出てきたのは英語だった。

「ハーイ・ミスター、ユー・アー・グレート」

私は手をさしのべて、
「シー・ユー・アゲイン」

すっかりうれしくなったらしいオジサンは、私の手を握って、
「サンキュー・サンキュー」
そう くり返して、そのまま歩み去って行った。

まるで、初期のサローヤンの短編に出てきそうなオジサンだった。
私はそれからしばらく楽しかった。それだけの話である。

 

1671

以下は、私が考えたことではない。最近の日本語について、こんなことが出ていた。

慣用句の意味のとり違えの例。

おもむろに   ゆっくりと     44.5%
不意に       40.8%

枯れ木も山のにぎわい

つまらないものでも、ないよりはまし  37.6%
人があつまればにぎやかになる     47.2%

小春日和
初冬、おだやかで暖かいお天気     51.7%
春先、おだやかで暖かいお天気     41.7%

天に唾する
人に害を与えようとして、かえって
自分にたたるような行為をする     63.5%
自分より上の人をそしったり、けが
す行為をする             22.0%

「いよいよ」とか、「ますます」をあらわすことばでは、
いやがうえにも            34.9%
いやがおうにも            42.2%

こういう結果を見れば、誰でも「国語のみだれ」を指摘するだろう。

「おもむろに」は、正解が44.5%だが、40歳以下の世代では、6割以上の人が間違っていたという。「ゆとり教育」が、こういうかたちで「おもむろに」作用的結果をもたらしたと見ていい。あたじけねえ話だねえ。

文化庁の見解では――「日常的に使われない慣用句では、文脈から意味を推察する機会が少なくなり、ほんらいの意味がわからなくなっている」そうな。

ここからは、私の考え。
しがないもの書き、そして翻訳者として過ごしてきた私だが、ここまで国語教育を放置してきた文部官僚の責任は大きいと考える。そして、これからの小・中・高の英語必修が、国語に壊滅的なダメージをあたえるものと見る。

「いやがおうにも」おもしろい世の中になってきたぜ。せいぜい「天に唾する」のも、悪くねえ。いずれ「小春日和」に「おもむろに」おさらばしよう。ナニ、そちらさんの知ったことじゃねえか。

 

 

1670

 
ある人生相談。


50代の女性。小学生の頃から頭にある問い、「生きていることの意味」がどうしても見いだせません。
本を読みあさり、人の話をきき、人間はこの世だけに生きているのではないと考えるようになりましたが、いつも前向きではいられません。今はもう、お迎えが来てもいいような気持ちになったりもします。思い残すことなどないような気がするからです。
悩みがないからかもしれません。たた、生きているだけで尊いと感じるほどの大病やけがをしたりしたら、と思うと怖くもなります。幼い頃から親の離婚や夫の失業など二度と味わいたくない経験もしました。それでも家族を思って生きてきた自分が、今はなにやら腹立たしく思えたりします。
その経験が、今の平穏な暮らしにつながっているのだとわかってはいますが……
生きていく信条のようなものは、どうしたら見つけられるのでしょうか。(兵庫・K子)

私は、これを読んで、思わず笑ってしまった。
中年にさしかかってから、「生きていることの意味」を考えて、どうしても答えが見いだせない女性に対してまことに失礼な話だが、笑うしかなかった。小学生の頃から、「生きていることの意味」を問いつづけてきたという。たいへん哲学的な思索をつづけてきたと尊敬してあげようか。

幼い頃から親の離婚や夫の失業など二度と味わいたくない経験をした、という。「二度と味わいたくない」つらい経験だったはずだが、それももう考えなくてもいい環境にいきている。「人間はこの世だけに生きているのではないと考えるようになった」というのは、私にはよくわからない。来生を信じるというのであれば、やはり幸福なのだろうと思う。にもかかわらず、心のどこかに、「大病やけが」をするかも知れない不安がひそんでいる。
ここまでくれば、このオバサンの悩みは、私たち誰にとっても共通の切実な悩みということになる。しかし、「今はもう、お迎えが来てもいいような気持ちになったり」するというのだから、ここでは、当面、どうすれば悩みから解放されるのか考えたほうがいい。

オバサンは、いろいろと本を読みあさり、人の話をきき、人間はこの世だけに生きているのではないと考えるようになった、という。
お読みになった本のなかに、たとえば、谷崎 潤一郎、川端 康成、太宰 治、三島由紀夫は入っていたのだろうか。
あるいは、中里 恒子、林 扶美子、津島 祐子、田辺 聖子を1冊でも読んだことがあるのだろうか。

現在、50代の女性の少女時代にどんな遊びがはやっていたのか、私には想像もつかないのだが、ピンク・レディーの「UFO」の真似をしたり、友だつちにぶつかったりじゃれあったりしたときに、「ごめんごめん、いったんごめん」と、「ゲゲゲの鬼太郎」のギャグを口にしたことはなかったろうか。そんな子どもらしいいたずらをするよりも、「生きていることの意味」を考えつづけていたのか。
「おぼっちゃまくん」や、「ムーミン」を見て、きみは、無意識にせよ「生きていることの意味」を問いかけなかったのだろうか。

たとえば、きみは、牧 美也子、竹宮 恵子、萩尾 望都のマンガを読まなかったのだろうか。グループ・サウンズの「タイガース」の隆盛期だったから、ジャニーズを聞かなかったはずはない。

私は対症療法を考える。

このオバサンは、ほとんど映画も見たことがないのではないだろうか。
つい、最近の映画をあげておく。「日本のいちばん長い日」を見ましたか。「ジュラシック・ワールド」を見たのですか。TVドラマの「ダウントン・アビー」や「情熱のシーラ」を見ていましたか。

かりに、これらの映画やドラマの一つでも見ていて、なお、きみは「生きていることの意味」をみずからに問いかけなかったのだろうか。

「今ある幸せに感謝しながら、時々むなしくてたまらなくなります」という。そもそもこれが見当違いなのだよ。「今ある幸せ」は「むなしさ」とは関係がない。

きみはすぐにも別のことを選んで、そこに自分のあらたな喜びを見いだすべきなのだ。何か簡単にできる趣味を見つけてもいい。鉛筆1本で、小さなノートにスケッチを描く。あるいは、親しい友人にハガキ1枚を書いて送ることだっていい。好きな歌手のCDを買ってきて、その曲を毎日聞く。メロディーや歌詞をおぼえても、途中でやめない。美術館や知らない画家の個展に行ったら、どれか1枚の前に立って、できるだけ長い時間見つづける。気にいらない絵でもいい。ただ、黙って見てやる。

きみの住んでいる土地の高校にも、生徒たちはいろいろな部活動をやっているはずだ。野球部や柔道部なら他校と練習試合をやる。そんな試合を見に行ってやる。演劇部の公演や、コーラス、器楽のコンクールを見に行ってやる。もの好きと思われてもいい。

ただし、何かきめたらできるだけ長い期間つづけること。

そのうちに「生きていることの意味」は、かならず見つかるよ。もし、見つからなければ、また別のことに切り換えればいい。「生きるための信条」なんて、いくらでもころがっている。それを見つけるのは、きみ自身なのだ。
「生きていることの意味」なぞ、もっと頭のいい人に考えてもらえばいいのだ。

もっとはっきりしたことをいおうか。一度でいい。浮気をしなさい。

 

1669

しばらく前に、BSで、「ベルリンの壁の崩壊」というドキュメンタリを見た。

今の若い人たちには興味もないことだろうが――「冷戦」時代のベルリンは、ドイツがソヴィエトとアメリカ側連合国の占領下に置かれた。したがって、東西ブロックの対立の接点だった。
ベルリンがソヴィエト側に組み込まれる直前までに、東から西に脱出したドイツ人は、じつに400万人におよぶ。

1961年、東ドイツは、市民の脱出を阻止するために「壁」を作った。この夏、東から西に脱出しようとして、おびただしい難民がシュプレー川を泳いでわたった。途中で、東ドイツの人民警察に発見されて、射殺された人も多い。

私の見たドキュメンタリは――当時、東ドイツの秘密警察、「シュタージ」のトップ、No.2だった女性、カトリン・イェレクというオバサマを中心に、ベルリンの壁の歴史を見せてくれた。
そのなかに「シュタージ」の秘密訓練所が出てくる。むろん、今は見るかげもなく荒れ果てた「つわものどもの夢のあと」になっている。壁も崩れかけ、フロアも荒れているが、ここでたえず尋問、拷問、はては処刑が行われていたに違いない。
だが、カトリンは、ここでかつての東ドイツが、国家としてどんなに輝いていたかを語った。
私は、きわめて成績優秀だった女性が、「シュタージ」内部でさまざまな勲功をあげて、ついにNo.2の地位に立ちながら、突然、その「壁」が無残に崩壊してゆくのを見つめなければならなかったときのことを想像した。
それこそ、雲の上から地上にたたきつけられたような思いだったにちがいない。

だが、同時に私は思い出していた。この「壁」ができたとき、作家のギュンター・グラースが、東ドイツの作家、アンナ・ゼーガースに対して公開状を書いたことを。
おなじように、作家のワルザーや、エンツェンスベルガーたちが、「8月13日は政治的事件であるとともに、戦後ドイツ文学史の日付になるだろう」と書いたことも。

このドキュメンタリを見ながら、私の心にいろいろな思いがかすめた。
もはや遠い歴史のなかに埋没してしまったが、共産主義国家だった東ドイツに、広範な範囲と規模で民主化運動が起きて、民衆が雪崩をうってハンガリー経由で「西側」に脱出しはじめた日のこと。これに呼応して、ベルリン市民が、ベルリンの壁を突破しようとした。「シュタージ」は、このとき何人の人を射殺したのか。

私は、ほんの数日、ベルリンに滞在したことがあるのだが、このテレビ・ドキュメントを見ていて――ポイント・チャーリーの入国管理官をつとめていた東ドイツの若い女性を思い出した。東ベルリンの市民たちは、ほとんどがみすぼらしい服装だったが、この女性は、眼を奪うほど綺麗な軍服を着ていた。
しかもゲルマン民族の女性らしく、みごとな金髪で、すばらしい美貌だった。

入国審査のカウンターのわきに、わずかながら、お土産の品が展示されていた。素朴な農民姿の、手作りのお人形が10体ばかり、無造作に並べてある。
私はこの人形に目をとめて、若い女性に値段を聞いた。10マルクという。思わず耳を疑った。
たかだか10センチほどの大きさで、作りも雑だし、見た目もよくない。そんな人形ならせいぜい1マルク程度だろう。
私の驚いた顔が気にいらなかったのか、その美女は、じろりと私を睨みつけて、
「べつに買わなくてもいいのよ」
といった。
そのいいかたが、じつに尊大で、傲岸だったので、私はその場を離れた。二、三歩、歩いたとき、私は翻意した。
この人形はぜひ買っておこう。そして、この人形を見るたびに、共産主義国家の入国管理のクソ女が、外国人に対してどんなに傲慢無礼な態度で接していたか思い出すことにしよう。

私は、「ベルリンの壁」が崩壊したとき、この人形を机に飾って、ドイツ・ワインを飲みながら、
「よかったね、おばさん」と声をかけた。

このテレビ・ドキュメントを見たあと、久しぶりに人形を机に飾ってやった。
「これから、きみの名を「カトリン」と呼ぶことにしよう」
人形はニコニコした表情で私に笑いかけていた。

 

1668

 【10】

 

 

ガルボほど、世間の目から自分をまもり通した女優はめずらしい。孤独な女性だった。

大スターになってからも、外出するときは口紅もつけず、トレンチ・コートや、粗末なワンピースを身につけて、頭にはいつもベレェかフェルトの帽子をかぶっていたので、誰もガルボとは気がつかなかった。
スクリーンのガルボは、いつも絢爛豪華な宝石を身につけていたが、オフ・スクリーンでは、ダイアモンド一つ身につけない。自分専用のプライヴェート・ビーチでは全裸のままだった。ずっと後輩の女優、ジェーン・フォンダが、ガルボといっしょに泳いだときも全裸だったと語っていた。

今の私が、心から残念に思っていることがある。
ガルボが――サラ・ベルナールか、ジョルジュ・サンドの伝記に出ていたら。あるいは、バルザックの「ランジェ侯爵夫人」、または、戦後、アメリカのベストセラーになった「死よ奢るなかれ」、「従妹のレイチェル」、それらのどれか1本でも出ていたら。
ガルボが出演する可能性は大きかった。もし、そのどれか1本でも出ていたら、ガルボの評価はさらに高くなっていたにちがいない。

2015年11月26日、テレビのニューズ。女優の原 節子が亡くなったという。享年95歳。
9月5日に肺炎で亡くなっていたが、11月25日になってはじめて知られた。

原 節子は、戦前から戦後にかけて、日本映画の代表的なスターだった。
1962年に、スクリーンから去ったが、独身を通したため「永遠の処女」と呼ばれていた。引退後、半世紀、まったくジャーナリズムに姿を見せなかった。

私は、ほんの一時期、映画の仕事をしていたが、たまたま会う機会があった彼女の義兄、熊谷 久虎に好感をもたなかったので、原 節子に会う機会はなかった。(私といっしょに熊谷に会った友人の西島 大が、「狼煙は上海にあがる」のシナリオを書いた。この映画で新人、仲代 達也が起用された。西島の次作は、これも新人の石原 裕次郎の出世作になった「嵐を呼ぶ男」である。)

私は、「河内山宗俊」(山中 貞雄監督/36年)から、原 節子の映画をほとんど見てきた。ファンのひとり。
だが、原 節子に対して「伝説の女優」などという称号をささげるつもりはない。ただ、日本の名女優のひとりと見れば足りよう。ただ、原 節子の逝去から、自然に、グレタ・ガルボを思い浮かべた。

原 節子が「伝説の女優」なら、ガルボは、まさに20世紀の神話、スクリーンの伝説といってよい。ガルボは、なぜ早く引退したのかと訊かれて、

    私は孤独になりたい、などといったことはありません。ひとりにしておいて、と
    いっていただけよ。そこには、大きな違いがあります。

という。原 節子も、おなじ思いだったにちがいない。
晩年のガルボは語っている。

    死ぬって? 死ぬこと? 私は、長い年月、死んでいるのよ。

    私は、あまりにも多くノーをいいつづけてきたわ。今ではもう遅すぎるわね。

    私の才能はいずれ枯渇するでしょう。私は多芸多才な女優ではないのですから。

私の好きなガルボのことば。

    私は、何百万という男のひとにとっては、ひとりの不実な女なのよ。

(映画コージートーク・ガルボ)

 

1667

【9】

 

1941年の「奥様は顔が二つ」は、ガルボの最後の出演作品になった。喜劇作家のS・N・ベアマンが脚色したもので、ルイ・ジュヴェ主演の「二つの顔」(46年)、イタリアの「ジョニーの事情」(ロベルト・ベニーニ監督/92年)などの先蹤をなす映画と見ていい。だが、MGMはガルボの給与を半減した。
「戦後」のガルボについては、ほとんど知られていない。
1945~46年に、サイレント映画の「肉体と悪魔」のリメイクを考えていたらしい。セルズニックは、フランスの名女優、サラ・ベルナールの生涯を映画化しようと考えたが、これも挫折した。1年後、ジョージ・キューカーは、当時、若い俳優として頭角をあらわしていたローレンス・オリヴィエとガルボで、作家、ジョルジュ・サンドの伝記映画を企画した。これも、企画だけでつぶれた。
1949年、マックス・オフュールスが企画した「ランジェ侯爵夫人」の企画につよい関心をもった。これは、アメリカ/イタリア合作版だった。

私の評伝、「ルイ・ジュヴェ」の読者なら、マックス・オフュールスについて、ある程度まで知っているかも知れない。しかも、「ランジェ侯爵夫人」は、戦時中のフランスで、ジャン・ジロドゥーが脚色し、名女優、エドウィージュ・フゥイエールの主演で制作されている。これも、ガルボは実現できなかった。

1951年、プロデューサー、ドア・シャリーは、ジョン・ガンサーのドキュメント、「死よ奢るなかれ」の映画化を考えた。「戦後」の日本でも、ベストセラーになった。これも、ガルボは出演を断っている。

1951年。フランスの俳優、ピエール・ブラッスールは、ルイ・ジュヴェの演出で、サルトルの「悪魔と神」に出た。つぎの舞台に、バヴァリアの狂王、ルードヴィヒ2世を描いた戯曲を上演しようとして、相手役になんとグレタ・ガルボを考えて出演を依頼した。すでに映画から引退し、舞台に出る気のなかったガルボは、すぐにハリウッドから電報で断った。
このテーマは、のちにイタリアのルキノ・ヴィスコンテイ監督が映画化する。「ルードウィヒ 神々の黄昏」である。
グレタ・ガルボがロミー・シュナイダーの「役」を演じていたらどうだったろうか。

「戦後」のガルボは、旧知のジョージ・キューカー演出で、「従妹レイチェル」の映画化を、と考えたらしい。原作は戦後のベストセラーで、ハートウォーミングな小説だった。ガルボ自身が提案したものだったが、どういう心境の変化か、翌日、電話で、

あたしには、とてもできそうもないわ。もう、あたらしい映画を作る勇気がなく
なっているのよ。
と断っている。

 

1666

【8】

 ガルボは、バーナード・ショーの「聖女ジョーン」を演じたがっていた。(ドイツの名女優、エリザベート・ベルクナーが舞台で演じていたし、フランス映画ではこれも名女優だったファルコネッティが、火刑にされるジャンヌを演じていた。
しかし、MGMが、ガルボに演じさせたのは「マタ・ハリ」だった。「マタ・ハリ」は、世界大戦中に、ドイツ側に情報を流したオランダ女性(インドネシア系)で、美貌のヴァンパイアーだった。ドイツ側に貴重な軍事情報を流したが、最後に逮捕され、銃殺された。
ガルボとしては、「マタ・ハリ」に出ることを希望してはいなかった。当時、めずらしくインタヴューに答えて、

   スクリーンのヴァンパイアーなんて、もう大笑いするしかないわね。

「マタ・ハリ」は、ディートリヒの「間諜X廿七」(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督)に対抗して作られたスパイ映画だが、映画としては、ジョージ・フィッツモーリスの演出より、スタンバーグ監督のほうがすぐれている。女優としては、ディートリヒよりガルボのほうがいい。

トーキーの初期に、「西部戦線異常なし」(ルイス・マイルストーン監督)、「暁の偵察」(ハワード・ホークス監督)、「旅路の終り」(ジェームズ・ホエール監督)、「七日間の休暇」(リチャード・ウォーレス監督)、「戦争と貞操」(ジョージ・キューカー監督)といった戦争映画があらわれる。
戦争の悲惨に対する反省と、戦争によってもたらされたヒロイズム讃歌が、これらの映画に反映している。ヴィクトリア時代の世代の無知が原因で、大量殺戮の戦争に突入した。「間諜X廿七」や「マタ・ハリ」は、女性がエロスを手段として、こうした戦争の背後で情報を獲得しようとするあたらしい闘争とさえ見えた。
ガルボはディートリヒとともに、「間諜X廿七」や「マタ・ハリ」で、既成の伝統に対する反逆者、あたらしいファッションやセクシュアリテイーの抑圧をはねのけようとする女を体現していた、と見ていい。

当時、MGMは、週給7000ドルで契約していたが、ガルボは1万ドルを要求した。この交渉でモメたガルボは、ヨーロッパに旅行した。MGMはガルボの要求をいれて、会社側として、サマセット・モームの作品、「彩られし女性」の映画化、ガルボ側の希望で「クリスチナ女王」を撮ることで決着した。さらに、モームがガルボのために、短編をいくつか書くと発表された。(残念ながら実現しなかった。)

私たちが「クリスチナ女王」(ルーベン・マムーリアン監督)を見ることができたのは、1968年になってからだった。それも、宮廷の恋愛をあつかつたものとして、日本の皇室の尊厳にかかわるという理由で、戦前の検閲でズタズタにされたヴァージョンだった。おなじ時期に「椿姫」も公開されたが、これまた戦前の検閲でズタズタにされたままの映画だった。
いまさらながら、戦前の検閲の陋劣、愚頓、横暴に対してはげしい怒りをおぼえるのだが、私たちは今もって本当のガルボを見ることがないのである。

MGMの幹部は、グレタ・ガルボに対して、いつも冷淡な態度をとっていた。「彩られし女性」が、ガルボの映画としては期待はずれの成績だったため、たちまち追放しようと画策しはじめた。

ところが、イギリスでは、最優秀女優の人気投票で、総投票数の43%が、「クリスチナ女王」のグレタ・ガルボに集中した。これほど多数の支持を得た例はない。ガルボの人気は空前のものだった。

MGMは、最終的にガルボが年1本撮影するという条件で、25万ドルで契約した。ただし、これにもウラがある。ガルボを専属にしておくことで、他社の作品に出演させることはないし、映画化する作品も会社側の提示するものにかぎられる。つまり、女優としてのガルボの人間的な、芸術的な成熟や深化を制約できることになった。

「アンナ・カレーニナ」、「椿姫」で、ニューヨーク批評家賞(最優秀女優賞)をつづけてとったが、アカデミー賞は、ルイーゼ・レイナーに奪われている。
1938年、皇帝ナポレオンと、ポーランドの貴族夫人、マリー・ワレウスカの悲恋を描いた「征服者」に出た。この映画は制作費がふくらみ過ぎて、利益を回収できなかったため、ガルボは窮地に立たされた。MGMはガルボの減給をほのめかしたり、幹部からは引退を勧告するような動きも出てきた。

1939年、フランスの喜劇「トヴァリッチ」(ロシア語の「タワリシチ」)に出たが、この映画もあまり成功しなかった。
おなじ年に、ブロードウェイでヒットした喜劇、「白痴のよろこび」(シャーウッド・アンダースン原作)にも出演を希望したが、これもノーマ・シァラーにとられてしまった。(この映画でクラーク・ゲーブルが、生涯ただ一度、歌って踊っている。この映画に主演したノーマ・シァラーなど、もう誰ひとりおぼえてもいないだろう。)

ガルボの不運はつづく。
ガルボは自分の出たいと思う映画に出ることができなかったスターだった。