私は書いたのだった。
「フリッツィには喜劇のセンスがあって、サマー・シアタで『引退した女たち』という芝居に出たが、この舞台では準主役を演じていた。明るい演技を見せていたという。しかし、ブロードウェイも大きく変わりつつあった。かつてのような軽妙なエスプリをきかせたコメディ・ド・サロン、ブールヴァールの大衆演劇の土台は、あたらしいメロドラマ、空疎なイデオロギーをドラマタイズしただけの左翼劇によって掘り崩されようとしていた。フリッツィがブロードウェイの舞台に出られる可能性はなかった」と。
つい最近、まったく偶然に、オクスフォ-ド・オペラ辞典を手にした。日頃、まったく手にすることのない本だが、「フリッツィ・シェッフ」の項目を引いてみた。20行。その最後の4行を訳してみよう。
「オペレッタ、ミュジカル・コメディ-に転向して、ブロ-ドウェイで『ボッカ
チォ』、『ジロフレ・ジロフラ』、『マドモアゼル・モデスト』、さらには著名
なストレ-ト・プレイ、『毒薬と老嬢』に出演した。
これを読んで驚いた。私は迂闊にも――「フリッツィがブロードウェイの舞台に出られる可能性はなかった」と書いたからである。
『毒薬と老嬢』は、1941年、ブロ-ドウェイで大ヒットしたジョゼフ・ケッサリングの喜劇で、ヘレン・ヘイズが主演している。
私たちには、フランク・キャプラの映画(1948年9月/公開)で知られているだろう。ケ-リ-・グラント主演。ワキには、レイモンド・マッセイ、ジャック・カ-スン、ピ-タ-・ロ-レなどが出ていた。
「戦後」のフランスでもこの芝居は、ルイ・ジュヴェの本拠だった「アテネ」で上演され、ジュヴェの『シャイヨの狂女』と交代しているし、「コメディ-・フランセ-ズ」を脱退したジャン・ルイ・バロ-が、マドレ-ヌ・ルノ-といっしょに劇団を発足させた「マリニ-劇場」で、この芝居が上演されている。
まさかフリッツィ・シェッフが、『毒薬と老嬢』に出たとは知らなかった。私の想像では、おそらくヘレン・ヘイズが巡業に出なかったので、フリッツがトゥア-に出たのではないか。
たかが一本の喜劇に出たからといって、芸術家としてのフリッツィ・シェッフの評価が変わるわけではないが、私は自分の不勉強を恥じたのだった。
私は書いたのだった。
「1903年に『メトロポリタン』をしりぞいたフリッツィには、録音する機会は一度もなかったと思われる」と。
ところが、フリッツィの声を聞くことができるのだった。吉永 珠子が教えてくれたのだが、YOU TUBEに、「キス・ミー・アゲイン」が収録されているのだった!
私は、このときも自分の不勉強を恥じたが、現在の私たちがフリッツィを聞くことができると知って狂喜したのだった。
私のようなアナログ人間にとっては、想像もできないことだったが。
ニューヨークに行ったことがある。フリッツィが住んでいた西五十五丁目150にも行ってみた。あたりの雰囲気はすっかり変わってしまったらしく、十九世紀のニューヨークのおもかげは残っていなかった。しかし、その街角に立ってフリッツィ・シェッフのことを考えるだけで幸福な気分になったことを思い出す。