1747 原 民喜 (3)

映画、「微塵光 原民喜の世界」(宮岡 秀行監督)のなかで、私はつぎのようにしゃべっている。(野木 京子・採録)

広い部屋でね、三十人ほどの人が談笑なさっていたんですけれども、会の途中、もうそろそろおしまいになるかなという頃に、部屋の隅にいらした原さんがおひとりでね、他の人はだいたい椅子に座ってお話をなさったり、ケ-キとかティ-とかを召し上がっていたんだけれども、原さんおひとりが立っていらして、それで、私から見て右手の列のテ-ブルの後ろをゆっくりお歩きになって、それでどなたかの後ろに立たれたんですね。本来そこはね、僕はいま考えると、遠藤 周作がね、いつも座る席だったような気がする。(中略)それでどなたかの後ろに立たれて、肩にね、両手を置かれるんですね。そうすると、なんていいますかね、大人がね、赤ん坊をあやすような恰好になるわけです。それで、私は、おお、原さんはそういう形でね、なんというか、親しみを表していらっしゃるのかなあと思って、そのときはですよ、瞬間的に思っただけなんだけれども。それは、私は内村(直也)さんとお話をしていたときに、いつの間にか私の後ろに立たれて、それで同じように、両手を私の肩にそっ-と置かれるんですね。わたくしは普段そういうことをされたことが(ないので)、おや、どうしたのかな、と思ったぐらいで、それもすぐ離れるんじゃなくて、どのくらいですかね、たぶん五分ぐらいはね、だから随分そういう時間としては長いんですね、私の肩に両手を置かれて、それで私自身は途中から不思議なことをする方だなと思いました。(中略)
すっとまた私から離れて、私の左前のかなり、(中略)十人くらいおいたところにいた詩人のね、藤島宇内(うだい)という詩人がおりましたけれども、藤島の後ろに立たれて、また同じように両手でね、肩を撫でるんじゃなくて、肩に両手をほんとうに添える感じで置かれてたんですね。私は、原さんが藤島とね、特にお親しのかなという気もしたけれど、同時に、ああいう形で親愛の情をお示しになるというのは不思議だなあという気がしました。そのときはね、そのまま終わりましたけ
れども、程なくして原さんの訃を知りまして……

それから一週間か十日のちに、原 民喜は自殺している。

あれから数十年、もはや老いさらばえた私の肩にも、原 民喜がそっと手を置いてくれた感触が残っているような気がする。

1746 原 民喜 (2)

これもまたザンキの至りだが、私は、自作、「おお季節よ 城よ」のなかで、原 民喜についてふれている。

原さんが自殺する十日ばかり前に、「三田文学」の集まりがあって、この席で、私は原 民喜に会っている。(「おお季節よ 城よ」のなかでは、「三週間ばかり前に」原 民喜に会っている、と書いているが、今回、竹原さんの「年譜」を拝見して、私が原 民喜に最後に会ったのは原さんが自殺する十日ばかり前だったと思うようになった。)

この集まりの出席者は、慶応出身の文学者ばかりだった。
私は慶応出身ではなかったが、内村 直也、遠藤 周作と親しかったおかげで、「三田文学」の集まりによく出席していた。出席者はいつも30人から40人、いずれも名だたる作家、評論家が多かったが、とてもいい雰囲気で、私のような「よそもの」も肩身の狭い思いをしないですんだ。
堅苦しい集まりではなく、各自が自由にテ-ブルを移って、それぞれが小さなグル-プに分かれて語りあう明るい雰囲気の集まりだった。
ふと、気がついたのだが、原さんが片隅にいた誰かの後ろに立って、その両肩に手をおいていた。(原さんが誰の肩に手を置いたのか、おぼえていない。)

やがて、めいめいがテ-ブルから離れて、小さなグル-プに別れはじめたが、それまで片隅にいた原 民喜がいつの間にか私のところに寄ってきた。そのまま黙って私の左の肩に手をかけた。
原 民喜は寡黙というより失語症と言ったほうが適切なほど無口で、こうした集まりでも人の話を黙って聞いているだけだった。私が眼をあげたとき、原は私の顔を見ずにそのまま私の左の肩にそっと手を置いていた。不思議なことをするなあ、と私は思った。ことさら私に用事があるふうでもなかった。ただ黙って私のうしろにきて、肩に手をかけて、私が近くにいた誰かと話をしているのを聞いているだけだった。

原さんが私の肩に手をかけていたのは、ほんの三、四分だったに違いない。そのまますっと離れると、七、八人おいて、別のテ-ブルにいた誰かの後ろに立った。
やはり、静かに両手をその肩にそっと乗せているのだった。

その人は詩人の藤島 宇内だった。

 

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1745 原 民喜 (1)

思いがけない人の来訪をうけた。

詩人の野木 京子さん、そして広島在住の竹原 陽子さんのおふたり。

野木 京子さんは、「H氏賞」を受けた詩人で、原 民喜に関するエッセイを書いているひと。私のクラスにいて、しばらく勉強なさった。
竹原 陽子さんは、「原民喜 全詩集」(岩波文庫)に、綿密、詳細な原民喜略年譜を作成している研究家である。
おふたりとも熱心な原 民喜研究家なので、私が生前の原 民喜と面識があったため、何か原 民喜にかかわりのある話でもあれば聞きたいということだった。
私の話など、原 民喜研究に役立つとも思えないのだが、できればおふたりの熱意に応えたいと思った。

まず、原 民喜の経歴を説明しておこう。

1905年(明治38年)、広島に生まれた。詩人、作家。
1932年(昭和7年)、慶応大英文卒。
1933年(昭和8年)、永井 貞恵と結婚した。「戦後」、評論家として知られる佐々木 基一の姉にあたる。永井 貞恵は1944年(昭和19年)、肺結核が悪化して亡くなった。翌年、1945年(昭和20年)8月、広島で原爆被災。この体験が「夏の花」に描かれている。
1951年(昭和26年)3月13日、自殺した。享年、45歳。

 彼の「墓碑銘」を引用しておこう。

遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻

私は広島に行ったときこの「墓碑銘」を前にして、在りし日の原さんを偲んだことがあった。大きな記念碑が立ち並ぶなかに、ひどく小ぶりな「墓碑」は詩人の声を私たちにつたえている。

野木 京子さん、竹原 陽子さんの来訪については、もう少し説明が必要かも知れない。
じつは、昨年、「微塵光 原民喜の世界」(宮岡 秀行監督)というドキュメンタリ映画が制作されたが、その映画の中で、私も原 民喜の思い出を語っている。(2017年5月・公開)
このドキュメンタリをごらんになった竹原さんは、旧知の野木 京子さんを介して、私に連絡なさったのだった。

若い頃の私は、原 民喜が編集していた「三田文学」に原稿を書くことが多かった。というより、原 民喜が書く機会をあたえてくれたのだった。
当時の原 民喜にあてた私の手紙数通が、広島市の中央図書館に残されているとかで、竹原さんはわざわざそのコピ-を私にわたしてくださった。
最初のハガキに昭和22年(1947年)10月19日の消印があり、35銭の切手が貼ってある。じつに、70年の歳月をへだてて、若き日の私自身のハガキを見たことになる。

自分のハガキを目にしたとき、私はほとんど狼狽した。
まったく無名なのに、歴史ある「三田文学」に文芸時評を書くという、おのれの無恥、驕慢にあきれた。これはもう身のほど知らずとしかいいようがない。
そうした恥ずかしさと重なって、当時の私が考えもしなかった、無名の私にあえて原稿を書かせてくれた原 民喜に迷惑をかけてしまった、そんな思いが押し寄せてきた。穴があったら入りたい気分であった。

 

 

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1744

悼亡、一年。

悼亡(とうぼう)というのは、妻を喪った夫の服喪をさす。もう、誰も知らない死語だが、この1年、私にとっては、まさしく悼亡(とうぼう)の期間だった。

桜の開花の予想がつたえられてすぐに、関東甲信は、山沿いを中心に雪になった。
お彼岸に雪が降るというのはめずらしい。
21日の気温は、奥多摩で2度。宇都宮、4・8度。都心が、6・6度。
翌日、私の住んでいる近くの公園で、わずかながら桜が咲いているのを見た。

1年(ひととせ)の喪あけに見たり 初さくら

ふと、思い出したのだが・・・桜が咲いているのに雪が降るという話から、幕末、井伊大老が水戸浪士に襲われて暗殺された桜田門外の変(安政7年、1860年)を思い出した。この3月3日、時ならぬ雪が降っていたそうな。
歌舞伎役者の団蔵は、この暗殺事件を知っていそいで外出、惨劇の現場を見に行った、という。

大老暗殺の翌日は、雪もやみ、すばらしい快晴になったので、江戸市民は雪月花をいっときに楽しんだらしい。

この話は伊原 青々園の本で読んだ。

つまらない話だがなぜか心に残っている。というより、私はこんな話が好きなので、心にとめたものらしい。

 

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1743 ダニエル・ダリュー【3】

ダニエル・ダリューが、百歳まで生きたこと。これが、ダリュー以外の誰にもあり得なかった宿命だったと私は考える。

こういういいかたでは何もいったことにならない。それを承知で書いたのだが、なんとか、みなさんにつたえたいことであった。

ふと、思い出したことがある。

これも、もう誰もおぼえているはずはないが――「戦前」の浄瑠璃の名人、摂津大掾(だいじょう)がこんなことをいっていた。
この名人が七十歳になって、やっと「忠臣蔵」九段目の「本蔵」が、「少しは語れるようになった」と語ったという。

浄瑠璃にかぎらず、芸事の修行はたいへんにきびしいものだろうと思う。
九段目の「本蔵」が、どういう役なのか、私の知るところではない。ただ、この話は、母の宇免(うめ)から聞いた。私の母は歌舞伎が好きで、いろいろな役者の話を知っていた。自分でも、琴、三味線の稽古はかかさず、いちおう名とりになった。
摂津大掾が「本蔵」を「少しは語れるようになった」と語るまでに、じつに数十年という年期を入れていたことになる。
少年の私は何もわからなかったにちがいない。母の宇免(うめ)が、なぜ、こんな話を聞かせたのか。これも忖度(そんたく)のかぎりではない。

ダニエル・ダリューがジャン・ギャバンと共演した映画、たしか「シシリアン」だったと思うが、あのときのダリューは、70代になっていたのではないか。ギャバンは、世間的には車の修理工場の経営者だが、じつはマフィアの親分。ダリューは共演といってもワキにまわって、ギャバンの古女房をやっていた。
映画のラストで、ギャバンは強盗事件の主犯としてパリ警察に検挙される。刑務所に送られたら、まず終身刑になる。それを知りながら黙って見送るダリュー。その一瞬のまなざしに、私は胸さわぎのようなものを感じた。

70代になったダニエル・ダリューが、そのまなざしの翳りひとつで、こういう古女房の役を「少しはやれるようになった」と語っているような気がしたのだった。

これで、私のいいたいことが「少しはわかっていただけた」ろうか。

 

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イラストレーション 小沢ショウジ

1742 ダニエル・ダリュー【2】

「戦前」のダニエル・ダリューは、「うたかたの恋」で絶大な人気を得た。ところが、この絶頂期に、離婚というスキャンダルのなかで、突然、引退を表明する。
ナチス・ドイツのパリ占領で、戦時中に、マルセル・シャンタル、ギャビー・モルレイなど、ダニエル・ダリューの先輩にあたるスターたちが感傷的な「母性愛もの」、家庭悲劇で活躍したが、ダリューのような美貌の女優がエクラン(銀幕)に登場する可能性がなくなった。賢明なダリューは、こうした時代の変化を見てとったのかも知れない。
マルセルやギャビーたちは、戦後のはげしい「変化」に適応できず、エクラン(銀幕)から去ってゆく。
その間隙を見届けたように、ダニエル・ダリューは、離婚したアンリ・ドコワン監督の「毒薬事件」(日本未公開)で復活する。この映画は、ルイ14世時代の有名な毒殺魔、ヴォワザン夫人の犯罪をあつかっている。私は、おなじルイ14世の時代に、やはり有名な毒殺魔だったブランヴィリエ侯爵夫人の評伝を書いたことがあるので、ずっと後年になってからビデオで見た。この映画でダニエル・ダリューは、妖艶なヴィヴィアンヌ・ロマンスと共演しているが、ダリューの美貌は「うたかたの恋」よりもさらに輝きをましているようだった。

「戦前」のフランスの映画女優としては、エドウィージュ・フィエール、アナベラ、ヴィヴィアンヌ・ロマンス、ミレイユ・バラン、マリア・カザレス、シモーヌ・シモン、コリンヌ・リュシェールなど、すばらしい女優が輩出している。それぞれが個性的で、美しい女優たちだった。
しかし、たおやかな魅力からいえば、ダニエル・ダリューに比肩するほどの女優はいない。ハリウッド女優、グレタ・ガルボは際だって美貌だったが、ダニエル・ダリューはガルボのように冷たい、高貴な美貌ではなく、もっと洗練されたパリジェンヌといった感じがあった。後年のダリューがシャンソンに進出した時の人気も、ブルジョアから庶民までダリューの歌に惹かれたからではなかったか。

ダニエル・ダリューにつづく世代のスターたち、オデット・ジョワイユ、シモーヌ・シニョレ、フランソワーズ・アルヌール、ダニー・ロバン、ブリジット・バルドー、ミレイヌ・ドモンジョやジェーン・フォンダなど、それぞれフランスを代表する映画女優といっていいが、やはり、「戦前」から「戦後」にかけてダニエル・ダリューに比肩できるところまでは誰ひとり到達していないだろう。

たとえば、ダニー・ロバンは、いかにも「戦後」のパリジェンヌといった感じの青春スターだった。彼女の映画の主題歌は、いつもヒロインのダニーの印象と切り離せないものだった。「フルフル」では、ダニー・ロバン自身がテーマを歌っている。「巴里野郎」(55)では、カトリーヌ・ソバージュの「パリ・カナイユ」がヒットしている。
「アンリエットの巴里祭」で、ダニー・ロバンがヴデット(人気女優)になった頃から、ダニエル・ダリューは、「赤と黒」、「輪舞」、「チャタレイ夫人の恋人」など、ハリウッドにも進出した。

ハリウッドに進出したフランスの女優としては、クローデット・コルベール、アナベラ、そしてジャンヌ・モローなどを思い出す。クローデットは、モーリス・シュヴァリエ、シャルル・ボワイエとともに「戦前」のハリウッド黄金期の大スターだが、ダニエル・ダリューは、クローデットほどの成功をおさめたわけではない。アナベラにいたっては、フランスの女優というより、まるっきりアメリカ人の女性に変貌していた。
しかし、ダニエル・ダリューは、おのれの身を処することにおいて、アナベラ、ジーナ・ロロブリジーダなどよりはるかに賢明だったといえるだろう。

ことばで女優の美しさを説明しようとするのは、愚かしい企てにすぎない。老齢に達してからのダニエル・ダリューの出演作についてほとんど知らない。だから、女優としてのダニエル・ダリューを論じることができないのだが、「戦前」から「戦後」にかけて、初期の「不良青年」から晩年に近い「シシリアン」(だったか)まで、他の追随をゆるさない女優として生きたダリューが、百歳まで生きたことに深い感動をおぼえる。

女優という生きかたは、かなしいものだと思う。
私はフランス映画のファンにすぎないが、遠くはるかなジョゼット・アンドリオから、現在のイザベル・ユッペール、オドレイ・トトゥ、イザベル・アジャーニまで見てきた。
しかし、ほとんどの女優は、つきつめていえば、一途(いちず)に女優、またはスターだったにすぎない。
こういういいかたでは、何もいったことにならないのを承知でいえば、ダニエル・ダリューが、終生みせていた、あの美貌と、そのマスク(顔)の美しさにもかかわらず、あのたおやかでのびやかな美しさを、はたして誰が出していたか。たとえば、ガルボにしても、わずかに「クリスティナ女王」の数カットで、見せているだけといっていい。
だが、ダリューの訃報に接して、ことさら悲愴がってみせる必要はない。

もう一つ、あえて書きとめておこう。それは――百歳まで生きたことが、ダリュー以外の誰にもあり得なかった宿命だったと私は考える。サイレント映画の最後の生き残りだったリリアン・ギッシュの死も私を感動させたが、ダリューの死も、この世のものならぬ美として私の胸に感動を喚び起したのだった。

 

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(イラストレーション 小沢ショウジ)

1741 ダニエル・ダリュー【1】

2018年1月。

久しぶりにブログを再開したが――とりあえず、書きたいことを書くことにしよう。

まず、ダニエル・ダリューの追悼から。

ダニエル・ダリューさん 100歳(仏女優) AFP通信によると、10月
17日に仏北部ボワルロワの自宅で死去。1917年、仏南西部ボルドー生まれ。
14歳で映画デビューし、「うたかたの恋」(36年)などで人気女優の地位を築いた。米国でも活躍し、「赤と黒」(54年)や「ロシュフォールの恋人たち」(67年)などの話題作に次々に出演した。晩年まで女優を続け、出演作は100本を越える。
<読売> 2017.10.20.夕刊

ダニエルほどの女優の訃報なので、当然、誰かが追悼を書くだろうと思った。ところが、これは私の読み違えだったらしく、ダニエル追悼の記事はどこにも出なかった。
かつて比類ない美貌で知られたダニエルだったが、さすがに、百歳を越える天寿をまっとうした老女優を今の誰がおぼえているだろうか。今の60代以下の人々は追悼どころか、ダニエルの映画さえ見たことがないだろう。

戦前のフランス映画を代表する名女優を選べといわれたら、私の世代なら、まず、フランソワーズ・ロゼェ、アルレッティ、マリー・ベルあたりをあげるだろう。ロゼェは、まさに名女優のひとりで、現在でもDVDで「外人部隊」、「舞踏会の手帳」など、その演技を見ることができる。この2本に、やはり名女優のマリー・ベルが出ている。「コメディ・フランセーズ」出身だが、戦後、「マリー・ベル劇場」をひきいて、ラシーヌなどを演じた。非常な美貌だった。
アルレッティは「天井桟敷の人々」、「北ホテル」で知られている。戦後、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」に出て、イギリスのヴィヴィアン・リー、ブロードウェイのジェシカ・タンディを凌駕する名演技と称賛された。
私の想像だが――おそらく、ヴィヴィアンやジェシカを凌駕する演技だったに違いない。アルレッティのもっている娼婦性、そして天性のエロティスムは、ヴィヴィアンのもたないものだったし、ジェシカにも無理だろうと想像する。

こうした女優たちのなかで、とりわけ美貌をうたわれたのは、ダニエル・ダリューとミッシェル・モルガンだった。
ダニエルは、14歳で「ル・バル」に出た。当然ながら私は見ていない。はじめてダニエルを見たのは「不良青年」で、パリの裏町に住む若い娘。水兵のようなパンタロン、斜めにベレをかぶり、タバコをくわえて、まっすぐに目をむける。ひどく粋(シック)で、ぞくぞくするほどエロティックな香気が立ちこめていた。あまりの美貌に見とれて、映画の内容をおぼえていない。
20歳で、映画監督のアンリ・ドコワンと結婚。ドコワンの「暁に祈る」に出たダリューは、「娘役」(ジュヌ・プルミエール)としてのみずみずしさが、スクリーンにみなぎっていた。この時期のダニエルの代表作は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子と、男爵令嬢の悲恋を描いた「うたかたの恋」(36年)だった。貴族のなかでは身分の低い男爵令嬢は、はじめはただ可憐な少女として登場する。少女は何か気に入らないことがあると、口を尖らせてすねるようにしゃべる。ダリューはブルーの眸をした美少女だが、このあどけない魅力は他の女優のもたないものだった。ダリュー、天性のものだが、そこに女優としての「工夫」があった。
うまく説明がつかないのだが、世阿弥のことばを思い出す。「得たるところあれど、工夫なくてはかなはず。得て工夫をきわめたらんは、花に種を添へたらんがごとし」。

「うたかたの恋」は、戦後、ハリウッドでリメークされた。おなじアナトール・リトヴァクの演出で、ダニエルのやった「男爵令嬢」をオードリー・ヘップバーンが演じているが、おなじ監督の作品とは思えないほど平凡な映画になった。オードリーの作品でも、まったくの駄作だった。オードリーの演技も空回りするだけで、その「工夫」はダニエルに遠くおよばない。

「うたかたの恋」のダニエルの魅力、「得て工夫をきわめたらん」はそれほどにも大きいものだった。

 

 

 

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   (イラストレーション 小沢ショウジ)

1740

はるかな過去の、それも1本か2本の映画に出ただけのスタ-レットを思い出す。
それは、現実に経験した男女の愛とおなじで、たまゆらのいのちの極みにいたる高揚と、そのあとの凋落、あるいは下降といったプロセスがつづく。しかし、そのスタ-レットを思い出す。それも、どうかすると、思いがけないかたちでよみがえってくる。
たとえば、「ベティ・ブル-」。

ジャン・ジャック・ベネックスの「ベテイ・ブル-/愛と激情の日々」に主演したベアトリス・ダル。
「ベティ・ブル-」は、このはげしくも切ない愛の物語のヒロインだった。海辺のバンガロ-で出会った男に、ただひたすら愛をささげる若い女。しかも、「ヌ-ベル・バ-グ」の女優にふさわしく強烈な個性の輝きを見せていた。
当時(1987年)、ベアトリス・ダルは、20歳。パリで、<パンク>として生きていたが、ある写真家と知り合いモデルになった。
たまたま、映画監督になったばかりのジャン・ジャック・ベネックスが、その写真をみた。

映画監督はベアトリスのカリスマティックな魅力に惹かれた。
「ふつうの人が苦心して身につける演技を、生まれながら身につけている。逆にいえば、カメラの前で何もしなくても、ベアトリスの魅力がふきあがってくる。」

映画監督の直観通り、ベアトリスは、情熱的で、しかもみずからの情熱に傷ついて、最後に破滅にいたる悲劇的な「女」を演じた。

「60代まで女優をつづけても、「ベティ・ブル-」ほどすばらしい役を演じるチャンスは二度とないでしょう。「彼女」は私にそっくり。希望も要求も多すぎて、自分でも抑えられない女。私自身は、撮影中に結婚したけれど、「ベティ1740」の心情は手にとるように理解できるような気がします。」

だが、ベアトリスは消えてしまった。

ブリジット・バルド-が登場したあと、フランスのヌ-ベル・バ-グに、さまざまな個性(つまりは、美)をもった女優たちがつきつぎにエクランを飾った。
クロ-ド・シャブロルが「二重の鍵」で起用したベルナデット・ラフォン。「いとこ同志」で登場させたジュリエット・メニエル。
エドワ-ル・モリナロの「殺(や)られる」に出たエステラ・ブラン。
「赤と青のブル-ス」のマリ-・ラフォレ。
ゴダ-ルの「恋人のいる時間」のマ-シャ・メリル。

なぜ、1本か2本の映画に出ただけのスタ-レットを忘れないのか。
私の内面にこの美少女たちへの妄執めいた思いが重なっているだけではない。
もうひとつ、1本か2本の映画に出ただけで消えて行った美少女たちに対する哀惜の思いがあった。

私の映画批評には、いつもそんな思いがひそんでいたのかも知れない。

 

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1739

歳末、ピーター・チャン監督の「ラヴソング」を見た。中国の改革開放が始まった時期、大陸から香港に出稼ぎにきた若者と、少し前に香港にきた女の出会いと別れ、再会を描いたもの。背景に、テレサ・テンの歌が流れる。「黎明」(レオン・ライ)と「曼玉」(マギ-・チャン)主演。私の好きな映画だった。
マギ-・チャンは、私の好きな映画女優だった。

その後で、「李安」(アン・リ-)の「ラスト、コ-ション」LUST,CAUTION(色・戒)を見た。1942年、上海。汪 精衛の南京政府が成立した時期。香港で抗日運動をはじめた大学生たちが、南京政府の高官の暗殺を計画する。戦争の過酷な時代に翻弄された青春を描いている。封切られた当時見て強い印象を受けたが、その内容はほとんど忘れてしまった。あらためて見直して、いい映画だと思った。
主演は「梁 朝偉」(トニ-・レオン)と「湯唯」(タン・ウェイ)。このふたりのコイタス・シ-ンは、まさしく香港映画が勢いをもっていた時代に重なる。「湯唯」も美少女だったが、香港映画ではその美質が生かせず、残念ながら女優として伸びなかった。

アン・リ-の「ラスト、コ-ション」は、私の好きな香港映画だった。「湯唯」(タン・ウェイ)は林 青霞(リン・チンジャ)と並んで、いちばん好きな美少女になった。
その後、アン・リ-はハリウッドに進出して、「推手」や「ウェディング・バンケット」などを作るが、いずれも「ラスト、コ-ション」にはおよばない。

湯唯(タン・ウェイ)のようにスクリ-ンに登場しただけでその美しさを輝かせながらその後、消えてしまったスタ-レットたち。

ジュリアン・デュヴィヴィエの映画、「わが青春のマリアンヌ」(55)で、ヒロインに起用されたマリアンヌ・ホルトという少女である。古城に飾られた美少女にあこがれた少年の前に、その肖像画にそっくりの美少女、「マリアンヌ」があらわれる。その少女は、少年が夢見た幻想なのか、それともほんとうに実在しているのか。

ハリウッドでも、1作か2作出ただけで消えてしまった美少女たちがいる。ただし、私の内面に、何かを刻みつけなから消えてしまった美少女たちにかぎるけれど。

名前が思い出せないのだが、エドワ-ド・G・ロビンソンが主演した「赤い家」という映画に出た美少女。残念なことに、この映画に出ただけで消えてしまった。
そして、「ロリ・マドンナ戦争」。
牧草地の所有権をめぐって、隣家どうしが対立して、はげしい銃撃戦になる。この「フュ-ド」に美少女がまき込まれる。この美少女の名前も思い出せないのだが、この映画だけで消えたと思った。ずっと後年に、カ-ト・ラッセルの近未来ホラ-に出ていたが、もう、かつての香気(フレグランス)は消えていた。この少女も私の記憶に鮮明に残っている。

老いさらばえて、はるかな過去の、それも1本か2本の映画に出ただけのスタ-レットを思い出す。こうなると、妄執めいたものになるが、いつか小説を書くときに、そんな美少女を頭に思い描いて書こうと思った。ただし、そんな小説を書く機会は一度もなかったのだが。

 

 

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1738

ブログ再開で、久しぶりに文章を書いてみて、なんとか書きつづけられそうな気がしてきた。とにかく書きつづけることはできるだろう。
私のブログは、かなりの部分を親しい友人たちとの友情に負っている。
とりとめのないブログながら、最近の、私のいろいろな経験にもとづく物語のささやかなエピソ-ドなのだ。
さて、そこで、またしても映画の閑談。

クリスマス。たまたまテレビをつけた。
映画をやっていた。ワン・カット見た瞬間に、ジョン・ヒューストンの「黄金」とわかった。映画もラストで、仲間を裏切って、ロバに黄金の砂嚢を積んで逃亡をはかったボガートが、原住民たちに殺される。その原住民たちは、市場でロバを売ろうとして、警察に突き出される。ボガートを追った仲間ふたり(ウォルター・ヒューストン、ティム・ホルト)は、自分たちが採取した砂金の砂嚢が、無知な原住民に破られて、金がすべて風に散ってしまったことを知らされる。これまでの苦労がすべて無に帰したのだ。
ウォルター・ヒューストンが、突然、腹をかかえて哄笑する。その笑いは何を意味しているのか。若いティム・ホルトには理解できない。ウォルタ-は笑い続ける。ラストは、砂嚢が風に吹かれて、みるみるうちに砂に埋まってゆく。
わずかなシ-ンを見ただけで、いろいろなことが押し寄せてくる。

俳優のホセ・ファーラーが、「黄金」のウォルター・ヒューストンについて、

もとより現在の俳優のなかで、もっとも偉大な名優のひとり……
彼を見るたびに、ほかのどんな名優よりも腹のそこにずっしり落ちる。

といっていたっけ。

「黄金」のラスト・シーンを見て、私はすぐに、スタンリー・キュブリックの「現金に体を張れ」のラスト・シーンを思い出した。競馬場の売上を強奪した犯人が、空港から逃げようとする。現金をつめたトランクが滑走路に落ちて、数万ドルの紙幣が風に吹かれて散乱する。
あの頃の映画のラスト・シーンには、いつも空虚な気分がみなぎっていたような気がする。あえていえば、「戦後」の空虚な気分の反映だったのかも知れない。

わずかなカットを見ただけで、つぎからつぎにいろいろと思い出す。それが、けっこうおもしろい。

 

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1736

ブログ休載中、折りにふれて俳句めいたものが頭をかすめたので、書きとめておくことにした。もとより、「柳女」の足もとにも及ばない駄句ばかり。
それでも、私の心境はいくらか出ていると思うので、ここに書きとめておこう。お笑いぐさまでに。

白百合の ただ美しく 旅出かな

白百合の 香り残して 散りにけり

白百合と薔薇を 柩に投げ入れて

亡妻、納骨。

春やうつつ この世のほかの 花ごろも

過ぎ去りし 思い出ばかり 夏の花

堀内 成美からティ-を贈られて、

短か夜や 台湾「金魚」(チン・イ-)の味のよき

秋の夜や 身の衰えと ひとりごと

ワ-プロを消して 湯に入る 夜寒かな

花一輪 追懐はるか 九十翁

手につつむ リンゴを妻に供えけり

 

「先生のブログ更新を楽しみにしている一人」さんをふくめて、これまで私をささえてくれた人びと、少数だが、私の「現在」に期待してくれている人びとのために私はブログを再開する気になった。きみたちのおかげで、ブログを再開できることにあらためて感謝している。

 

 

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1735

 

ふと、蕪村が女弟子の「柳女」にあてた手紙を思い出した。この「柳女」さんは、京都、伏見の女流俳人。ある日、自作の俳句を蕪村に送った。

なつかしや 朧夜過ぎて 春一夜

蕪村はその返事にこの句に対する批評と添削を述べている。

朧夜過ぎて

今宵はわけておぼろなるは、春のなごりを惜しむゆゑかと御工案おもしろく候。
されどもこれにては朧夜の過ぎ去ることになりて、過不足の過にはならず候。

なつかしや 殊に朧の 春一夜

右のごとくにておだやかに聞え候。それを又更におもしろくせんとならば、

なつかしや 朧の中の 春の一夜

桃にさくらに遊びくらしたる春の日数のさだめなく、荏苒として過ぎ行く興像也
心は、朧々たる中にたった一夜の春がなごり惜しく居るやうなと、無形の物を取りて、形容をこしらへたる句格也。又右の案じ場より一転して、

春一夜 ゆかしき窓の 灯影哉

まだ寝もやらぬ窓中の灯光は、春の行衛を惜しむ二三友なるべし。これら秋を惜しむ句にてはあるべからず。

 

 

以下は、私の現代語訳。

朧夜過ぎて

(春の夜は朧夜にきまっているけれど今夜はとくにおぼろなのは、この句を詠んだひとが春のなごりを惜しんでいるせいではないか、と工夫したところがおもしろい。ただし、この句では、もう春の朧夜もこれでおしまいということになってしまうので、春の朧夜をぴたっと詠んだことにはならない。
春の夜はなぜか心もときめくものだが、とくにおぼろ夜の春の一夜となれば、わすれられないなつかしさがこみあげてくる。
こんなふうにすれば、春のおだやかな気分がひびいてくる。あるいはまた、もっと味わい深くしたかったら、おぼろ夜がつづく季節だけれど、今は記憶もおぼろながら、あの春の一夜のことが、なつかしくよみがえってくる、という一句はどうか。
春になって、桃が咲いた、桜が咲いた、と遊び暮らす日々がつづいて、いつしか春も過ぎようとしている。ただ、浮かれさわいで暮らした身には、何もかもおぼろめいていながら、たった一晩の春のできごとが、今にして名残惜しく思われる。描写ではなく、内面をさぐって俳句のかたちをつくったところが俳句の結構である。そしてまた、こういう工夫から、さらに視点を変えて、おぼろ夜を詠むのではなく、春の一夜、夜更けの時刻だが、部屋には寝具をととのえながら、まだ寝ないで、たけなわの春が終わろうとしているのを惜しんでいる。窓辺におぼろ夜ほのかな灯影が揺れて、その気配もなにやら奥ゆかしい。
こういう情景は春の季節なればこそ、蕭条たる秋を惜しむ俳句であってはならない。)

 

蕪村は、「柳女」の才能に大きな期待をもっていたらしく、手紙の末尾に、

三月尽の御句甚だおもしろく候故、却っていろいろと愚考を書付け御めにかけ申し候。近頃の御句と存ぜられ候。

と、激賞している。こういう手紙にも、蕪村の暖かい人柄とするどい批評性が読みとれる。「近頃の御句」は、最近の傑作と訳していいだろう。

蕪村は、「柳女」に返事をかきながら、中国の詩人を思い出している。

三月正当三十日   ケフハ三月ツゴモリジャ
風光別我苦吟身   春ガ我ヲステテ行クゾ ウラメシイコトジャ
勧君今夜不須睡   ソレデイヅレニモ申ス コンヤハ ネサシャルナ
未到暁鐘猶是春   明ケ六ツヲゴントツカヌ中(うち)ハヤッパリ春ジャゾ

蕪村の注釈がついているのだから、私が訳す必要はない。ただ、こんな詩を読むにつけても、三月にみまかった妻のことを思い出すのだった。そして、「春が私を捨てて行くぞ。うらめしいことじゃ」とつぶやく。

 

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1734

ある日、新聞の俳句欄で、こんな句を見つけた。

 

妻逝きて寂しさにひとり耐ゆる夜 胸にしみ入るこほろぎの声

ひたちなか市 広田 三喜男

 

岡野 弘彦の選評も引用しておく。

 

選歌をしていると、こういう切実な思いに逢うことがある。実は私も六十年来の 妻をなくし、十日祭を終えたばかりである。晴れつづく海の夜ごとの波の音が胸に沁みる。

 

これもまた「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いを歌っているような気がする。
私がしばらく沈黙をつづけていたのも、「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いがあったと思う。

私は、この作者に共感したが、同時に、岡野 弘彦の感慨にも胸を打たれた。

 

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1733

 

さて、もう一度、私のことに話を戻す。

ブログを書かなくなって、ときどき俳句を読むことがあった。
たとえば……

 

仏壇の 飯も油も 凍りけり      花 女

内仏の 戸に 炉あかりや 宵の冬   はぎ女

 

こんな句も私の胸に響いた。

 

芭蕉の初七日を悼んで
待ちうけて 涙見あわす 時雨かな   か や

蕉翁二七日
花桶の 鳴る音かなし 夜半の霜    か な

蕉翁三七日
像の画に ものいいかくる 寒さかな  智 月

蕉翁四七日
冬の日や 老いもなかばの 隠れ笠   智 月

六七日
跡の月 思へば凍る たたき鉦(かね) 智 月

 

智月は、大津の俳人、乙州の母。芭蕉の弟子。芭蕉の没後、義仲寺に詣でて供養をおこたらなかったという。宝永三年に亡くなった。享年、74歳。

「かや」、「かな」については、よく知らない。
こういう俳句を読む。いずれも「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いを歌っているような気がする。

 

 

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1732

長期にわたってブログを休載したため、旧友の遊佐 幸章(ゆさ・たかあき)が心配して電話をかけてきた。中学、大学、いっしょの友人で、私の体調を気づかってくれた。これも、ありがたいことだった。
体調もさしてよくはないのだが、最近の私は、自分の書くものがいつも無意味に思えること、なぜか空白感のようなものをおぼえていることを語った。

しかし、遊佐 幸章の電話で――そろそろブログの休載をやめて、心機一転、あたらしく書きはじめようかと思いはじめた。

こんなブログでも、長く書きつづけていると、どうしても単調になりがちなので、これまでのようなテーマではなく、別のものを書いたほうがいい。せっかくブログを再開するのなら、これまでと違ったもの、できればもう少しおもしろく書きたい。そんなことを考えはじめた。
もともとヤボな人間なのでどうもおもしろみがない。そもそも、遊びを知らない。趣味らしいものも無縁なので、こういう人間は老化が早いにちがいない。

私がブログを書かなくなったとき、「先生のブログ再開をたのしみにしている一人」さんが、最近になって、俳句を作りはじめた、と知らせてくれた。これは、うれしかった。
彼女も私がブログを書かなくなって、私の身を案じてくれたらしい。
私の境遇を案じてくれた人びとをはじめ、これまで私をささえてくれた人びと、少数だが、私の「現在」に期待してくれている人びとがいるのだった。

ようやくブログを再開するときめて、あらためてみなさんの期待にこたえたいと思うようになった。「先生のブログ再開をたのしみにしている一人」さんのおかげでそう思えたことにあらためて感謝している。

 

 

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1731

うれしいこともあった。

この夏、ブログを休載中、「ANAIS NIN Observed」というDVDが日本版「アナイス・ニン、自己を語る」と題して出た。これに私自身が出ている。

アナイス・ニンは、アメリカの女流作家。日本では、私の訳で「愛の家のスパイ」が出て知られた。
アナイスは少女の頃から書きつづけてきた膨大な「日記」で知られている。

アナイス・ニンについては、いずれ別の機会にとりあげるつもりだが――日本版「アナイス・ニン、自己を語る」については、ここでとりあげておく。

このドキュメンタリーは、ロバート・スナイダー監督による作品。この映画作家は、「ミケランジェロの生涯」(1961年)で、アカデミー賞・最優秀長編ドキュメンタリー賞をうけている。
このドキュメンタリーの原題は「Anais Nin Observed」だが、「Portrate of a Woman As Artist」という副題がついている。このタイトル通り、アナイスは「Observed」しているのだが、同時にこれは「Portrate」なのだ。映像作品として、「Observed」されるアナイスの魅力が表現者としてのポートレートとして私たちに迫ってくる。

私の「解説」は、このラストでわずかばかり顔を出しているだけで――友人の作家、山口 路子、翻訳家、田栗 美奈子、おふたりの質問に答えている体裁になっている。おふたりの質問にできるだけ真摯に答えようとしているのだが、あらためて見直すとアナイスの「解説」になっていない。おふたりの質問にヘドモドしているので、われながら出来がよくない。
だいたい、このドキュメントに出たのが間違いだった。作家がすっかり老いぼれて、何かつまらないことをモゴモゴしゃべっている。ただし、このDVDが出たおかげで、私の「在りし日の」姿が見られる……かも。(笑い)

鈴木 彩織(翻訳家)は、
「アナイス・ニン、自己を語る」拝見いたしました。
先生は恋する若者そのもので、とても若々しく映っていました!!

と書いてきた。たしかに、私はアナイスに恋をしている。鈴木 彩織にそう見えたとすれば、ちょっとテレくさいが、うれしい気がする。
このDVDには、日本のアナイス研究の第一人者である杉崎 和子先生が、おなじように山口 路子のインタヴューに答えているので、アナイスに関心のある人は、ぜひ杉崎女史の「解説」をご覧になったほうがいい。
この映画の字幕がいい。平沢 真美さんの訳だが、字幕翻訳として最高のもの。
さらにつけ加えておく。このDVDのために山口 路子さんが、「アナイス・ニン」というリーフレットを書いている。これもすばらしい。

 

 

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1730

亡き妻の思い出をふり払うために音楽を聞いたわけではなかった。音楽を聞く。その時間だけ、何も考えないですむ。音楽を聞いているだけで、私のまわりをとり囲んでいる何かが崩れ、目に見えない薄い膜が破れてしまうようだった。私の内面に、何か少しづつ変化が起きている。

ある日、ゲオルグ・ショルティを聞いた。
ショルティなら、ハーリー・ヤーノシュや、ベートーヴェンを聞いたほうがよかったような気がする。しかし、シンフォニーを聞く気分ではなかった。しばらくのあいだ、いろいろな「レクィエム」ばかり聞いていたこともある。
だから、ショルティを聞いたというより、モ-ツァルト(アーリーン・オージェ)、ブラームス(キリ・テ・カナワ)、ヴェルディ(ジョーン・サザーランド)などを聞いていた。それも「レクィエム」を選んで聞いていた。
「レクィエム」以外でもよかった。ただ、ぼんやり聞いているだけなので、曲はなんでもよかったが、やがて「レクィエム」にもあきてきた。

そんな状態で、やがて亡妻の納骨をすませた。一句を添えて。

春やうつつ この世のほかの 花ごろも

 

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1729

じつをいうと、友人、澁澤 龍彦が亡くなったとき、私は今と似た状況に陥ったことがある。
三島 由紀夫が亡くなったとき、批評家の磯田 光一が、沈痛な思いをこめて休筆を宣言したが、私は、友人、澁澤 龍彦が亡くなったとき、ひそかに休筆した。
澁澤君とそれほど親しかったわけでもない私が、半年間、何も書かなかったのは笑止千万だろう。
当時の私の内面に澁澤 龍彦追悼の思いがあったのはたしかだが、もう少し違う思いもあって、私が何を書いてももはや澁澤 龍彦の眼にふれることがないという失望というか落胆があった。これも身勝手な気分のせいだったが、どうしようもないむなしさが私の内面にあったため何かを書こうという意志が衰えたのだった。

亡妻が他界したあと、私は何をしていたのか。

ただ、毎日のように映画を見ていた。
昔見た映画のDVDを見ることが多かったのだが、たまたま8月にジャンヌ・モロー、10月にダニエル・ダリューが亡くなったので、彼女たちの映画を見た。ジャンヌやダニエルを見るためというよりも、彼女の映画を見ていた頃の自分を思い出すために。

かつて比類ない美貌で知られたダニエルだったが、私の知るかぎりダニエル追悼の文章を見なかった。それも当然で、百歳を越える天寿をまっとうしたダニエルを、今の誰がおぼえているだろうか。私は、この女優たちの映画を見ながら、かつてのフランス映画の輝きを思いうかべて、ひそかな慰めとしたのだった。そんな時期の私は、何かを見ればいつも何かを思い出していた。映画を見ながら、いつも亡妻といっしょにジャンヌやダニエルの映画を見たことを思い出していた。そして、そのことさえも忘れようとして、映画を見つづけていた。

映画を見るほかに、ひたすら音楽を聞いていた。これまた手元にあるCDを聞くだけのことで、一度聞いただけで忘れてしまったオペラを聞き直したり。手あたり次第に、そんなCDばかり聞きつづけていた。何かを思い出すことと、何かを忘れようとすることが重なって、それこそ憑かれたように古い映画を見たり、たくさんのオペラを聞いていた。

たまたまお悔やみの手紙をくれた知人が、オペラのヴィルチュオーゾだったことがきっかけで、手近にあった「歌に生き、恋に生き」を聞いた。モンセラート・カバリエ。亡妻の思い出には何の関係もないのに、ひどく心を動かされた。それからしばらく、いろいろな人の「歌に生き、恋に生き」を聞いた。

手当たり次第なので、むちゃくちゃな選曲になる。だいいち、私のもっているCDはごくわずかなので限りがある。

選曲もむちゃくちゃで、とにかく音が流れていれば癒されるというか、しばらくは気が休まるようだった。
たとえば、マルセル・デュプレを聞く。そして、オリヴィエ・メシャンを聞く。そのパイプ・オルガンを聞きながら、俳優のルイ・ジュヴェの葬儀がおこなわれたサン・シュルピスの教会に鳴り響いた演奏もかくや、と想像する。

そんな日々がつづいた。

たしか「二期会」のソプラノだったと記憶するのだが、スミエ・コバの「ソプラノ」も楽しく聞いた。スペインのファリアから、フランスのフォーレ、デュパルク、ドビュッシー、イギリスのパーセル、イタリアのロッシーニまで、わかりやすい曲ばかり選んでいるので、ただ聞いているだけで癒されるような気がした。
そんなある日、ヨッヘン・コワルスキの「奥様、お手をどうぞ」を聞いた。カウンター・テナーや、ドイツの古い流行歌や、ウィンナ・ワルツなどを聞き直して癒されるなんて、われながら意外だったが、ひとしきりそんなものばかり聞いていた。

そして、2018年。松がとれた日に、フランス・ギャルの訃を知った。

フランス・ギャル 7日に逝去。70歳。1947年、パリに生まれた。音楽家
の家庭に育ち、10代でデビュ-。日本でも「夢見るシャンソン人形」などがヒ
ットして、世界的なアイドル歌手として知られた。晩年はガンで療養生活を送っ
ていた。

彼女のCDをもっていないので、コンピレーションの中にはいっているシャンソンを聞いた。ついでに、フランソワーズ・アルデイ、シルヴィー・ヴァルタンを聞く。
もはや誰も知らないシャントゥ-ズの声を聞いて、在りし日の彼女たちを偲ぶ。回顧趣味に違いない。ただし、私にいわせればダニエル・ダリューも、フランス・ギャルも、私が人生ですれ違ったアルティストのひとりなのだ。
私の人生から、またひとりアルティストが消えて行く。私が、その人たちのCDを聞いたり、ビデオやDVDを見直すのも、その人たちに会えたことのありがたさを思うからにほかならない。

 

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1728

私としては――妻の他界のあと、どういうものか自分の周囲のすべてが自分の内面の底に沈んでゆくような思いがあった。悲しみは深いものだったが、それは「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いではなかったか。どういうものか妻を喪った悲嘆までもむなしい。私がついぞしらなかった深淵が、ぽっかり口を開いている。そうなると、何もかもが、自分の知らなかった深淵に流れ落ちるようだった。私は何を考えているのか、何を書けばいいのか、わからなくなっていた。
知人たちから懇ろなお悔やみをいただいた。ほんとうにありがたいことだった。
そのありがたさをよそに、私は親しい友人たちに手紙も書かなくなっていた。何を書いてもあまり意味がない、という身勝手な気分のせいだが、友人たちも、そんな私の状況を察して、時候の挨拶や見舞いも遠慮しているようだった。
私はひたすら沈黙をつづけていた。

私を慰めるために、夫と死別した老女の聞き書きを贈ってくれた人もいる。その老女が語っている。(注)

お父さんが逝ってからのこの六カ月、みなさんがよく来てくださったから、ほん
んとうに助かったと思っています。いままで私はお父さんにずっと依存してきた
でしょ、不安だったの。
ひとり暮らしって、むなしいのね。さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっ
ても。一人でどう生きようかなって。一人で生きる自信もそんなにないし、と思
っていた。
(引用は――つぼた英子著、「ふたりからひとり」(編集・水野 恵美子/
自然食品社・2016年刊)による。

彼女のいう「むなしさ」は、肉親を失って残された「ひと」には共通する思いに違いない。私は「ひとり暮らし」ではないが、「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いは似ているだろう。私は、この本を贈ってくれた神崎 朗子(翻訳家)に感謝しながら読んだ。

 

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1727

2018年元旦。
喪中につき、新年の挨拶は遠慮させていただいた。

2017年3月、妻、中田 百合子の他界という不幸に見舞われたが、その折り、いろいろな方から懇ろなお悔やみを頂いた。ここであらためてお礼を申しあげたい。
その3月から現在までブログを中断したが、これほど長く休載するとは自分でも予想しなかった。

妻の死後、まったく何も書かずただ休筆をつづけた。どこからも原稿の依頼があったわけではないので、私の休筆には何の意味もなかったが、友人に手紙も書かなかったし、ブログさえ書く気が起きなかった。

ブログを書かなくなった理由もない。妻の喪に服して、とか「孤独に耐えて生きて行く」といった、りっぱな信念があったわけではなくて、ただ、何もする気がなく、本を読んだり、若い頃に見た映画を見直したり、そんな日々を過ごしていた。

北鮮の大陸間弾道ミサイルの実験による情勢の緊迫化、トランプによるイスラエルの首都認定による中東情勢の激変、西側の諸国の揺らぎ、中国、ロシアなどの権威主義的な動き、さまざまなテロリズムなど、世界的に混迷が深刻になった時代をよそに、毎日、ただひたすら無為に過ごしていたのだった。

歳末、見る気もなく、テレビを見ていた。

映画は、ラスト前の数カット。

ワン・カット見た瞬間に、ジョン・ヒュ-ストンの「黄金」とわかった。映画のラストで、仲間を裏切って、ロバに黄金の砂嚢を積んで逃亡をはかったハンフリ-・ボガ-トが、悪人の原住民たちに殺される。原住民たちは、市場で盗んだロバを売ろうとするが、盗んだロバと見破られて警察に逮捕される。

ボガ-トを追った仲間ふたり(ウォルタ-・ヒュ-ストン、ティム・ホルト)は、自分たちが苦心して採取した砂金の砂嚢が、無知な原住民に破られて、金がすべて風に散ってしまったことを見届ける。それまでの苦労がすべて無に帰した。

私たちは、ふたりがもはやどうにもならない状況に直面したことに、ひそかな同情めいた感動をおぼえる。
と、つぎの瞬間、ウォルタ-・ヒュ-ストンが、腹をかかえて哄笑する。その笑いはひたすら明るいもので、おかしくておかしくてたまらない、といった笑いだった。ウォルタ-・ヒュ-ストンは何を笑っているのか。その笑いは何を意味しているのか。このふたりもまた、前途にまったく希望はない。笑っていられる状況ではないのだ。若いティム・ホルトには理解できない。ウォルタ-は笑い続ける。

ティム・ホルトはけげんな顔をするが、哄笑するウォルタ-にうながされて、自分も笑いだす。人生の不条理に直面する。そんな絶望的な状況のなかでは、自分のドジを含めて、すべてを笑いとばすしかない瞬間もあるのだ。それまでつづけた採金の作業がまったく意味がなかったことを腹の底から笑いとばそうとする。このとき、観客は、ふたりの笑いに共感する。それはけっして自嘲の笑いではない。人生の不条理に対する笑いなのだ。
ラストは、砂嚢が風に吹かれて、みるみるうちに砂に埋まってゆく。……

わずか数カットのラスト・シ-ンだが、いろいろなことが押し寄せてきた。

そのいろいろなことの中には――映画「黄金」が公開された頃の私が何を考えていたのか、そんなことまでも含まれていた。当時の私は、芝居の演出を手がけはじめていた。芝居の費用をかせぐために、ひたすら小説を書きつづけていた。

「黄金」の原作者、B・トレヴンは、ほとんど無名に近い作家だったが、この映画が作られたせいか、当時の前衛的な出版社、「ニュ-・ダイレクション」から、遺作が数冊、出たことを思い出す。
若い頃の私は、いつか機会があれば、ホレイス・マッコイとB・トレヴンを翻訳しようと思っていた。どうせ大学のアメリカ文学研究者なんか、誰ひとり、こうした作家に目を向けるはずもない。(ホレイス・マッコイは、のちに常盤 新平が訳している。)
映画、「黄金」は、アカデミ-監督賞、脚色賞をうけた。ウォルタ-・ヒュ-ストンは、助演男優賞をうけている。
この少しあと、マッカ-シ-の「赤狩り」が、ハリウッドを襲った。
ジョン・ヒュ-ストンは、ウィリアム・ワイラ-たちと、マッカ-シ-に対抗して「アメリカ憲法修正第一条委員会」を作って抵抗した。
その結果、ハリウッドを離れて、しばらくイギリスで活動した。「アフリカの女王」(51年)で、ボガ-トがアカデミ-主演男優賞をとった。

ジョン・ヒュ-ストン自身が、一流の映画監督だっただけでなく、俳優としても多数の作品に出ている。晩年は、父のウォルタ-・ヒュ-ストンによく似てきた。
娘のアンジェリカも、女優だけでなく監督をつづけている。

私は、テレビ・ミュ-ジカル、「SMASH」(2013)のファンだが、アンジェリカ・ヒュ-ストンがフランス語で歌うシャンソン、「アデュ-・モン・ク-ル」に感動した。(ただし、このシ-ンはテレビでは使われていない。残念ながらカットされた。)

映画、「黄金」のラスト・シ-ンの数カットを見ただけだが、「黄金」のラスト・シ-ンから、アンジェリカ・ヒュ-ストンのシャンソンまで、つぎからつぎに、とりとめもなく、いろいろなことを思い出した。

そして、12月24日。クリスマス。世はなべてこともなし。

 

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