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私は実直なサラリ-マンの家庭で育ったが、半分は下町の零細な工場にいりびたっていた。だから、私自身は律儀で、まじめな(と自分では思っている)のだが、半分はどうやらヘラヘラヘェ的にふざけた、いい加減なところがある。

叔父、西浦 勝三郎は、本所、吾妻橋で段ボ-ルの製造工場をやっていた。下町の大きな工場の下請けでの箱を作る家内工業で、住み込みの職人が二人、通いの職人が二、三人。忙しいときは、母親、嫁さんも手つだう。中学生の私も、ときどき駆り出されて断裁の機械で、大きな段ボ-ルを切ったり、小さなボ-ル紙の端をハリガネでとめる作業をさせられた。つらい仕事ではない。それに職人たちの話を聞くのが楽しみだった。

日がな一日、おなじ作業をしているのだが、勝三郎がオ-ト三輪で製品を届けに行く。
浅草まで歩いて十分。若い職人は仕事を終えると、たちまち外に飛び出して、吉原ぞめき。寄席や演芸場に行ったり、評判の活動写真を見たり。
花電車を見てきたといって、とくとくとして仲間にご披露するやつがいて、私が顔を出すと、あわてて話をやめたりする。私にはよくわからなかった。
あとで、この職人さん、私の祖母によびつけられて、こっぴどく叱りつけられていた。
勝三郎の帰りは夜遅く、どこかに立ち寄って、いいご機嫌になっていた。
もう寝静まっている。
「勝さん、今、お帰りかい」
「へい、おっかさん、ただいま戻りやした」
「何時だと思っているんだえ。いいかげんにしないと、妾(ワツチ)だって怒りますよふんとに」
「へい、もう二度と致しませんので、どうぞご勘弁を願います」
これが、勝三郎の自作自演。

たいていは落語だが、ときには梅沢、虎造でやる。

翌日、私の母、宇免のところに祖母がくる。この話に母も私も大笑いする。