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土岐 哀果。大正七年から、土岐 善麿。

戦後まもなく、一度だけ土岐 善麿先生の原稿をいただきに伺ったことがある。
友人の椎野 英之に頼まれて土岐 善麿の自宅に原稿をとりに行った。土岐 善麿は、私を新聞社のアルバイトと見たに違いない。原稿はできていなかった。

「申しわけないが、これから書くので、少し待っていてください」
塵ひとつない茶室のような書斎に招き入れられた。明窓浄机というのはこういう仕事場をさすのだろうか。私はかしこまってすわっていたが、土岐 善麿は私を前にして、大きな黒檀の机にむかうと、随筆をすらすらと書きはじめた。
戦後すぐで、随筆のスペ-スとしてはたぶん二枚程度だったと思う。それでも私は驚いた。この先生は、いつでもすらすら原稿が書けるのか。

このときの印象はその後いつまでも心に残った。

私はどこででも原稿を書く。ある時期まで、喫茶店で書いたり、電車に乗ってすぐに原稿を書きはじめ、担当の編集者に原稿を届けるような「芸当」をつづけてきた。

私の書斎ときたら、本、雑誌、マンガ、クラシックから邦楽まで、CD、ビデオ、DVD、女の子たちが描いてくれた油絵からエロティックなデッサン、おまけに各地のおみやげまで、何もかも放り込んで、まるでゴミ収集場かゴミ焼却場のようなていたらく。
その私が心のどこかでは、土岐 善麿の茶室のような書斎をもちたいと思ってきた。
しょせん、かなわぬ夢だったが。

ときどきテレビで、ゴミをひろってきて、近所に迷惑をかける「困った人」がとりあげられると、自分の書斎兼仕事場を見せつけられるような気がする。
だから、土岐 善麿の茶室のような書斎を思いうかべて、いつも、えらい人は違うなあ、と思う。

私は土岐 哀果にさして関心がない。土岐 善麿さんに敬意を持っているけれど。