とてもいい伝記を読んだ。
私にとって「いい伝記」は、それを読む前と読んでしまったときの自分がなぜか違ってきたと感じられるような作品にかぎられる。自分が思いもかけない人物の人生を知ったというだけではなく、何か底知れぬ領域にのめり込んでしまっているような気がするとき。
ただその「人物」の生きかたに心を奪われて、ひたすら感嘆しているというのではなく、「ふ~ん、そうなのか。おれもそういうふうに生きているのかも知れないなあ」とか、「へへえ、これはアイツだよ、アイツにもこんなところがあるよなあ」といったふうに、自分の身にひきつけて考えたりする。
小説を読んでおなじような感じをもつことはあるのだが、いい評伝を読むほうが、こちらの感情移入が多い。
リットン・ストレ-チ-の書く短い伝記でも、いい評伝を読んだという充実感はあるが、やはり長い評伝を読んだときのほうが、つぎからつぎに引き寄せられて、出自から老年、はては、その死まで、(自分の人生にはまるで関係がないのに)読み終えるのが惜しいような気がする。
たとえば、モ-ロアの『マルセル・プル-スト』。ツヴァイクの『バルザック』。
伝記のおもしろさは、やはり、対象の人物の魅力に還元される。
何かの研究者がその研究対象を書いた伝記の大半には、どういうものか、伝記のおもしろさがない。ない、というより、はじめから気にしていない。専門家だから間違ったことは書いていないので、私はいつも敬意をもって読む。当然、教えられることも多い。しかし、かんじんの研究対象がいきいきと描かれていなければ、伝記を読むよろこびがない。
「よい伝記を書くことは、よい人生を生きることとおなじくらいむずかしい」とは考えない。リットン・ストレ-チ-。このことばにはおそろしい冷徹さがある。
私が最近読んだとてもいい伝記は、ロマン主義の文学者をとりあげたもので、ほんとうによく調べて書いたものだった。それでも、もう少しいきいきと描かれていれば、伝記の傑作になったのに、と残念な気がした。
いい伝記を読むことは、美術館で画家の回顧展を見ることに似ている。