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奥野 他見男を知らない人でも、「雨の降る日は天気が悪い」とか、「高い山から谷底見れば」といったフレ-ズに聞きおぼえがあるかも知れない。これらは奥野 他見男の代表作の題名である。
今の私が奥野 他見男を読むのは、戦前の日本人の日常にあった社会的な通念や、大不況のなかで崩壊してゆく日常的な decorum が、それなりに描かれているからである。作家自身は何も考えずに書いているのだが、昭和初年の小市民の哀れな姿や、内面の貧しさが見えてくる。その意味で、私にとっては忘れられない作家のひとり。

この作家は、俗謡や、格言、洒落、地口などを多用している。

万延頃に流行した「はねだぶし」に、

曇らば曇れ 箱根山  晴れたとて お江戸が見えるじゃありゃせまい
こちゃお江戸が見えるじゃありゃせまい
こちゃかまやせぬ ソレ かまやせぬ

文久の「はんよぶし」は、

わたしとお前は お蔵の米よ
はんよ いつか世に出て のろ千代さん ままとなる
したこたないしょ ないしょ

この千代さんは、渋谷、宮益坂にあった千代田稲荷。
文久三年、徳川 家茂が上洛した。その留守に、江戸城本丸の年寄、滝山の部屋で法科事件が起きた。このとき、千代田稲荷の神使(つかわしめ)であるキツネが、女の声で急を知らせて飛び去ったという。
幕末の不安な社会心理がうかがえるのだが、今なら「ヤマンバさん ママになる」と変えたほうがいいだろう。したこたないしょに変わりはない。

奥野 他見男のテ-マは、かんたんにいえば何があっても「こちゃかまやせぬ」というノンシャランス、「したこたないしょ」という、くすぐりにもとずいたエスケ-ピズムで、昭和初期の暗い、かなり不安な気分にマッチしたものだった、と見ていい。

奥野 他見男を読んでいて、昭和のナンセンスが、隔世遺伝的にお江戸の俗謡や、流行語にむすびついているのではないか、と思った。私にとっては思いがけない論点になりそうな気がする。