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テレサ・テン、アグネス・チャン、欧陽 菲菲たちが日本で成功してから、日本デヴュ-をめざしたシンガ-が出てくるのは当然だった。
香港返還の一年前に作られた映画「ラヴソング」(ピ-タ-・チャン監督/1996年)では、テレサ・テンの曲(平尾 昌晃ほか)が象徴的に使われていた。これだけでも、80年代のテレサ・テンの存在の大きさがわかる。

当時、日本ではアジア・ポップスに関心が集まって、周 慧敏(ヴィヴィアン・チョウ)が吉田 栄作とデュエットしたり、關 淑怡(シャ-リ-・クァン)が日本からデヴュ-したほどだった。たとえば、区 麗情などが、日本でデヴュ-していた。
ある時代に、すぐれた芸術家がぞくぞくとあらわれるように、大陸、香港、台湾、さらには東南アジアに、すぐれたシンガ-がぞくぞくと登場してきた。当然ながら、日本ポップスを意識したシンガ-も輩出する。
頼 冰霞は作曲者の名を「佚名」としたり、別の中国人の作曲に見せかけながら、日本演歌のそっくりさんだった。台湾の林 美莉も、日本の演歌の絶大な影響を受けていたし、林 晏如は日本のポップスの影響が大きかった。

1993年、「チャイニ-ズ・ゴ-スト・スト-リ-」で日本でも人気の高いショイ・ウォンが全曲、日本語のアルバム「アンジェラス」を出した。これも期待したほどのものではなかった。1995年には、林 憶蓮(サンディ・ラム)が「オ-プン・アップ」で、5曲、日本語による曲を歌った。しかし、EPOの一曲以外は、日本語の歌詞が弱く、ほとんど成功していない。サンディ・ラム自身も、これ以後、しばらく方向を見失っている。

こうして、日本で活動するシンガ-もあらわれる。
「Suna no fune」(砂の船)で登場したス-レイ。「Love Songs」で登場したシュ-・ピンセイ(周 氷倩)。「夢・ 物語」のダイヤオ。
ス-レイは表題曲がよくなかった。これに較べて、シュ-・ピンセイは二胡の演奏も聞かせたし、日本の新人よりもずっと歌唱力もあった。しかし、成功しなかった。
ダイヤオはホリプロが開催したオ-ディションでグランプリを得て登場しただけに、中国でも成功したが、日本語による曲は、「夢先案内人」、「星月夜」といった質の低いものばかりで、彼女の日本デヴュ-は成功しなかった。