私たちのあいだでも、握手をする習慣がある。
たとえば、親しいひとと会ったり、別れるときに、手をさしのべる。相手の手をにぎりしめる。それが自然にできるようになっている。
若い頃には、女性と握手するようなことはなかった。
男の子と女の子がいっしょに仲よくしているだけで、
ヤ~イ、男と女のマ~メいり、
いってもいっても、いりきれない
などと、囃子(はやし)たてる。
私は中学生のとき、まだ小学校の三年か四年の妹と歩いていて、悪童どもに囲まれたことがある。
焙烙(ほうろく)で大豆を煎る、これが煎り豆だが、これは性的な暗喩だった。戦前の日本人の内面には、こうした軽侮のうしろにいつも陰湿な羨望がひそんでいた。
こういう「やっかみ」が、日本の文化に独特の歪みをもたらしているかも知れない。
気のつよい女の子は、きっとした顔で、囃したてた男の子たちを睨みつける。
いまでは、私たちばかりではなく、世界じゅうの地域で、お互いに善意をしめすジェスチャーとして相手の人と握手する。異性と別れるとき、握手しても、誰もとがめない。
そこで、少し考える。
握手という習慣を、どういうかたちで身につけてきたのか。
フランスでは、人に会えばお互いの両頬にキスする。マヤ・ピカソを成田空港に送って行ったとき、そういうキスをしなさい、といわれた。
南洋のある島々の住民の挨拶は鼻をこすりあわせる。あいにく、こういう挨拶はしたことがない。一度、やってみたいものだが。(笑) (つづく)