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明治百年(1967年)の東京見物はどういうものだったのか。
「人力車で市中をゾロゾロと連(つらな)って廻る様な悠長でなく、定員百人乗の空中飛行機で、スルスルと空中へ舞ひ揚り、客には銘々に双眼鏡一個づつ持たせ、案内者は口に喇叭(ラッパ)の様な拡声器(ケラフォン)を当て、音楽の如き大声で説明する」。
東京駅らしい部分だけ引用しておく。
「其れから少しく北方の大きな硝子屋根が、中央大停車場で、其所を中心として卓(テ-ブル)の輪骨の様に集まる鉄道が見えませう。ネ、彼れが東海道線、中央線、中仙道線、東北線、東武線、海岸線、房総線路の鉄道であります。また市街々々の間には、東京市有の電車が、蜘蛛の巣の様に軌道(レ-ル)を引っ張て、走て居ますが、まだ彼の外に、地の底にも沢山の電車線があります。」
見物人が、こんな海に近い、地の底に電車が通るものか。土鼠(もぐらもち)じゃあるめいし、田舎漢(いなかもの)だと思って馬鹿にしなさんな、と怒りだす。
案内人はわらいながら説明する。
地下の電車は会社が二つ、地の底十間も下に、大きな鉄管を伏せて、そのなかに鉄軌(レ-ル)を敷設する。これも、中央大停車場を中心にして、南は品川、北は千住、西は新宿、東は亀井戸まで、十文字に通じている。
もう一つの会社の地下電車は、煉瓦で巻きあげた墜道(トンネル)で、上野、浅草、両国、銀座、日比谷、赤坂、牛込、本郷を一周する。
停留所には、昇降機(エレベ-トル)とて、大き箱の中へ数十人の乗客を容れて、電力で入口から下まで釣り下げ、また釣り降して居ます。
これは、「冒険世界」(明治43年4月20日号)の記事。
「明治百年東京繁盛記」。書いたのは、坪谷 水哉。
ドイツ皇帝が伯林(ベルリン)から東京まで、空中飛行機で訪日する、といった予想は当たらなかったが、鉄道、地下鉄については、坪谷さんの予想はすべて実現している。

私たちには、これから10年後の日本の変化の予想もつかないのだが。