戦時中、『ドクトル・ビュルゲルの運命』や『幼年時代』を熱心に読んだ。しかし、戦後になってからは、ツヴァイク、ヘッセ、ケストナ-を読んでもカロッサは読まなくなった。それから60年、カロッサについては考えもしなかった。
最近になって、『一九四七年晩夏の一日』を読んだ。カロッサ最晩年の作品である。(ドイツ文学の翻訳では、手塚 富雄、原田 義人、深田 甫といった名訳者に敬意をはらってきたが、この訳はよくない。)
翻訳に責任を押しつけるわけではないが、戦後すぐに読んで、私は感動したかどうか。おそらく一顧だにあたえなかったに違いない。
1947年、バイエルンの小都市郊外に住んでいる老夫婦の日常と、彼らがたまたまめぐり会う名もない人たちが描かれている、少し長い中編。ヨ-ロッパの春はうららかで、さまざまな植物が美しく芽吹いている。そのドイツは敗戦の混乱のなかにあった。
国破れて山河あり、という思いを読んだのは私の感傷だろうか。
敗戦後の日本の作家が書いたものもずいぶん読んできた。里見 敦のエッセイ、広津 和郎のエッセイ、北条 誠の小説まで。しかし、カロッサの『一九四七年晩夏の一日』を読んでみると、日本の作家の思想の底の浅いことにおどろかされる。
私は、今頃になってカロッサの作品をはじめて読んだ。べつにはずかしいとは思わないし、いまになってカロッサを読んだありがたさを思った。
ただ、作家の晩年の作品を読んで、その作家の内面にあった苦悩や悲しみがわかるまでに、こちらもその作家とほぼおなじ年齢に達しなければならなかったというのは、なんとも悲しい。