オ-クシイ男爵夫人の『紅はこべ』を訳したことがある。さいわい好評だったので、続編を訳す気になった。
プロロ-グで、「マルニ-侯爵」は死病の床についている。ヒロインの「ジュリエット」の父である。ようやく七十歳になったばかり。なるべく、オ-クシイ男爵夫人ふうに紹介してみよう。
彼は十二歳になったばかりで国王につかえるお小姓に召し出されて、宮廷で過ごしてきたが、かれの人生が終わりを告げたのは・・・十年ほど前の、人生のさかりのさなか、天の容赦ない手に打ちのめされた。がっしりした樫の老木がなぎ倒されるように、みるみる衰弱の一途をたどり、ついには死にいたるまで逃れられない車椅子に・・・足萎えの廃人として・・・縛りつけられたときであった。
当時、ジュリエットは、いまだ胸のふくらみもおぼえぬいたいけな少女ながら、老公のいやはての幸福な歳月、手塩にかけてそだてられ、それこそ眼に入れても痛くない娘になった。どこか母をしのばせる憂愁のおもざしが、彼女の裡にただよっている。その心優しい母君は、何にまれしんぼうづよく耐え忍び、すぐれて雄々しい夫を心から愛し、寛容をもって夫につかえてきた女人であったが・・・いたいけな重荷を・・・生まれおちたばかりの娘を残して、あわれにもみまかったのである。
まあ、こんな調子で、小説は展開してゆくのだが、残念ながら、この『続・紅はこべ』はとうとう出なかった。
私の人生の途上に、さまざまな挫折や失敗が重なっている。いまだって、天の容赦ない手に打ちのめされているのだが、まだ、人生が終わりを告げたわけではない。
しかし、もはや『続・紅はこべ』を訳す気力はない。
ほんとうに気力、体力が充実していないと、翻訳という仕事はできないのだ。