きみは、外国、それもコロンビアで長年過ごしてきたという。
帰国してから、現在は東京で、シナリオ講座を受講しながら脚本、小説、詩を書いている。
「教室などでやはり白い眼で見られているようです。たぶんメンタリティーが半分外人ということでしょうか。外国人の眼で日本を見ている。」と。
私にいわせれば、脚本、小説、詩を書いてゆくうえで、そうした体験をもっているだけでもうらやましいかぎり。
私はコロンビアについては何も知らない。しかし、ルイ・ジュヴェの評伝を書いたとき、コロンビアについて多少なりとも調べたことがある。カルロス・イエラス・レストレボが「産業開発協会」を設立して、中小企業を育成したという一行を書くために、コロンビアの経済書を何冊も読んだ。それは、ルイ・ジュヴェが劇団をひきいてボゴタに行ったときのコロンビアの社会を読者に知ってもらうためだった。ホルヘ・ガイタンが暗殺されたことにふれたのも、ジュヴェの滞在した当時のラテン・アメリカの状況を暗示するためだった。
コロンビアのアレーパが、フランス人の口にあわなかったこと。舞台に立つ俳優の仕事が、じつは重労働に近いため、コロンビア米に、肉、焼きバナナ、豆程度の食事では栄養のバランスがとれなくなることも書いた。
私のようなものでも、一つの作品を書くためにどれほど調べたり、読者のために気配りをしているか、わかっていただけるだろうか。
ほかの人から白い眼で見られている。それこそが、きみにとって他にぬきん出るチャンスではないか。日本人に特有のじめついた白眼、無意識の差別、そんなものははじめから無視したまえ。気にすることはないのだから。もし、きみがほんとうに「メンタリティーが半分外人」だったら、それだけでもおもしろいではないか。それに、「外国人の眼で日本を見ている」ことが私たちにできるのだろうか。
これも文学的に大きな主題になる。
――(「未知の読者へ」No.3)