未知の人から思いがけないメ-ルが届いた。
お尋ねしたいことがあるのですが、モンロ-が来日した際、日本の著名人からビ-ズの刺繍がほどこされたジャケットをプレゼントされたという事実があるようなのですが、誰からプレゼントされたのか、その際の写真、または映像を確認できるか知りたく・・
後年のビ-トルズの来日のときほどではなかったが、マリリンが来日したときの騒ぎはたいへんなものだった。
当時、「東宝」は外国の映画人と合作の話がいくつか出ていたし、ルイ・ジュヴェがアメリカ、カナダ公演に出たので日本公演の可能性を打診していた。
「東宝」の企画した映画は、スタンバ-グの「アナタハン」と、イタリアの監督、カルミネ・ガロ-ネの「蝶々夫人」として実現した。残念ながら、ルイ・ジュヴェはフランスに帰国後、その夏に亡くなってしまった。そんな空気があふれていたので、マリリンが来日したときも上層部はコンタクトをとったと思われる。製作本部長は森岩雄、砧の撮影所長は渾大坊 五郎。「東宝」からビ-ズの刺繍のジャケットをプレゼントした可能性は大きい。それを届けたのは椎野 英之だった。
当時、私は「東宝」の社員だった椎野 英之に呼ばれて、映画のシノプシス、ダイアロ-グ、シナリオを書いていた。私といっしょに呼ばれたのは、同年代の矢代 静一、八木 柊一郎、西島 大、池田 一朗の五人だった。今からみても、そうそうたるメンバ-だった。
やがて私は、翻訳をつづけながら小芝居の演出に移ったため、映画の仕事からまったく離れたが、矢代 静一、八木 柊一郎は、それぞれの時代を代表するすぐれた劇作家になった。西島 大は、「青年座」の代表になっている。池田 一朗は、はるか後年、隆 慶一郎として流行作家になった。西島と私以外は、すべて鬼籍の人になっている。
椎野 英之は「東宝」で藤本 真澄、本木 荘二郎につぐプロデュ-サ-になって「三匹の侍」などをプロデュ-スした。
椎野がマリリンに会いに行った日、私は「東宝」本社のすぐ前(日比谷映画劇場のうしろ、マリリンが泊まっていた帝国ホテルから歩いて2分)の喫茶店で椎野を待っていた。
思いがけないメ-ルのおかげで、このときのことを思い出した。まるで夢まぼろしのように。残念ながら、このときの写真、または映像はない。