少年時代に「立川文庫」に夢中になる。少しもわるいことではない。徳富 蘆花の『自然と人生』を読む一方で、村上 浪六を読みふける。やがて、『不如帰』、『金色夜叉』などを読みあさる。さらに黒岩 涙香、有本 芳水といった名前も、彼の心に深くきざまれる。はるか後年、この少年は有名な評論家になる。堀 秀彦。
「要するに、いま私がやっているのと同じように少年時代にも私は行き当たりバッタリの読書しかしなかった。私はこのことを、いま、ほんとうに心から後悔しているのだが、このごろでは、そうした読書の方向が私の性格に合致していたのではないかと思いもする。」
少年時代に「立川文庫」に夢中になったことを恥ずかしいと思うのがおかしい。徳富 蘆花を読みながら、村上 浪六をおもしろがって、どこがわるいのか。こういう考えかたの背後には『不如帰』、『金色夜叉』に涙する人々に対する無意識の蔑視がひそんでいよう。こういう人は読書論なんか書くべきではない。
黒岩 涙香、有本 芳水といった名前が心に深くきざまれた、だと? ウソつきやがれ。涙香、芳水から何ひとつうけとらなかったくせに。
人生のあらゆる出会いとおなじで、一冊の本との出会いはそのときの自分にとって、どうしようもないものなのだ。そう思えば、少年時代に「立川文庫」や、徳富 蘆花や、村上 浪六に出会ったことを、後年、ほんとうに心から後悔しているなどという、したり顔の反省をする愚劣な知識人にならずにすむ。
「モンテ-ニュの『エセ-』を、文字通り座右に備えて、この上なく愛読している」だってさ。ふざけンじゃねえ。