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ある日、有名な評論家の書いた『読書のよろこび』を読んでみた。
この人は、高校から大学にかけて、久保田 万太郎や鈴木 三重吉などの「可憐な」小説を愛読したという。この評論家は堀 秀彦。
「ところで、そうした小説は私に何をもたらしたのか」と彼は反問する。
ようするに、一種のセンチメンタリズムに過ぎなかった、という。
「私はいまになって、あたら、よき青春の日を、浪費したような気がしてならない。私はもっと偉大な人間の記録をよむべきだったのた・・・いまにして思えば」という。
私は笑いだした。このほうがひどいセンチメンタリズムではないか。
石川 啄木や、堀 辰雄、津村 信夫を読んで感動する若い読者に、きみはあたら青春の日を浪費しているというのだろうか。
堀 秀彦は、もっと偉大な人間の記録を読むべきだという。彼があげるのは、モロアの『ヴィクトル・ユ-ゴ-』、ツヴァイクなど。「私たち平凡な人間にとって(ここにケタはずれの実在の人間がいる!)ということを私たちにいや応なしに教えてくれるからだ」という。わるい冗談だなあ。表面には出ていないが、いやらしいエリ-ト意識と卑下慢めいたいいかたが鼻につく。なにもモロア、ツヴァイクなんか無理して読む必要はない。
私はいまでもモロア、ツヴァイクに深い敬意をもっている。ただし、ここにケタはずれの実在の人間がいる、などということをいや応なしに教えてもらったからではない。
私がモロア、ツヴァイクに深い敬意をもったのは、その評伝を偉大な人間の記録としてではなく、人間の偉大な記録として読んできたからなのだ。
読書論なんか書かなくてよかった。