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60年代から80年代の中頃まで、私は映画批評を書いていた。毎日のように映画の試写を見るので、京橋から新橋にかけて歩いたものだった。
銀座では、私よりもずっと先輩の飯島 正、双葉 十三郎、植草 甚一たちや、私と同世代の田中 小実昌、佐藤 重臣、虫明 亜呂無たちの姿をよく見かけたものだった。築地の「松竹」の試写室で見かけたばかりの人が、そのまま新橋の「コロンビア」や土橋の地下の試写室ですわっていることもあった。
もっと昔の、敗戦直後の西銀座を思い出す。いたるところに防空壕が掘られていた。白昼、焼け跡のビルから若い女の悲鳴が聞こえてきたり、復員兵くずれの辻強盗が出たり。新橋の地下鉄の出口に、外地から復員してきたらしいボロボロの軍服の男が階段にすわり込んでいた。日に焼けているが、痩せて、眼ばかりギロギロしていた。うしろの壁に新聞紙を張りつけて、金釘流で、大きく「いのち売ります」と墨書してあった。通りすがりの人々も、ほとんどが眼も向けなかった。そんな時代だった。
その頃、久保田 万太郎の戦後の短編を読んだが、そのなかに、
「しかしだね、さァ、こんなものはもういらなくなったんだ、景気よく埋めようぜと、三味線太鼓でのお祭り騒ぎで埋めることができればいいが、おおきにそう行かないで、それこそ涙片手に、泣く泣く埋めさせられなくッちゃァならないことにでもなったら、そのとき、おれたちは、一たいどういうことになるんだろう?」
とあった。
今の西銀座、街のたたずまい、空気まで、すっかり変わってしまった。環境の破壊や汚染、耐震強度の偽装、監視カメラや、格差ストリ-ト。