清水小路の表通りには、小さな市電やバスが通っていたが、あまり乗客がなかった。
商店らしい店もなく、印刷屋、糸屋、ミシン屋、タクシ-屋がならんでいるだけで、長びく不況のせいでひどくさびれていた。
ミシン屋の横の路地を通ると、すぐに道幅がひろがって、そこに数軒の住宅が向かいあっていた。父が見つけてきた借家に移ったのだが、もとは武士の長屋の跡地だったらしく、奥に大きな武家屋敷があった。
タクシ-屋の車は一台だけで、たまに急病人を乗せて、大学病院に行ったり、婚礼の式場に花嫁さんを乗せるぐらいで、車はいつも狭い駐車場に入っていた。
このタクシ-屋にはマサコちゃんという娘がいた。ひどくおきゃんな、元気で活発な女の子だった。一歳下の私はいつもこのマサコちゃんと遊んでいた。オママゴトや、オハジキ、お手だまといった遊びではなく、チャンバラごっこや、石蹴り、メンコ、ケン玉などを教えてくれた。私は、マサコちゃんが好きになった。
やがてマサコちゃんが小学校に入って、私には遊び相手がいなくなった。マサコちゃんにはあたらしい遊び相手ができたようだった。私は家で妹と遊ぶようになった。
ある日、母からマサコちゃんがいなくなったと知らされた。車で病院にはこばれて入院したが、そのまま死んだらしい。
仲よしの女の子が不意にいなくなってしまった。幼い私は、マサコちゃんはどこに行ったのだろうと思った。あんなに仲がよかったのだから、なぜ、さよならをいわなかったのだろう。
それからあと、マサコちゃんと遊んだ路地や、軒の下に何度も行ってみた。マサコちゃんはどこにもいなかった。
そのうちにタクシ-屋は引っ越してしまった。
はるか後年、明治の作家、押川 春浪が少年時代に清水小路に住んでいたことを知った。私の住んでいたあたりだったのかも知れない。