ずいぶん昔、東南アジアの仏教のお寺を見て歩いた。
日本人の私には驚くばかりの違いだった。
私の知っているお寺のひっそりともの寂びたたたずまい、幽玄な静寂とはまったく趣きを異にしている。とくに道教の影響のつよいお寺は想像をこえていた。
元始天尊、北斗神君、さらには関帝、大伯公、謝将軍や苑将軍たちがずらりとせい揃いしておわします。赤い垂れ幕に金字の聯。やたらと派手にしか見えなかったが、畏れ多いので長居はしなかった。
サイゴンでは、お寺の境内にくずれた面体の人たちがたむろしていて、通りすがりの私に手をさし伸べてきた。そのときのつよい衝撃は忘れられない。
ヒンドゥ-の寺院は、入り口に大きな塔がそびえて、さまざまな人物像、動物が、びっしり幾つもの層に嵌め込まれている。ハシバミのような眼を見開いた女神は豊満な肢体をみせて、強烈なエロスを感じさせる。
日本のお寺しか知らなかったので、それからの私の宗教観は変わった。
どこの国の宗教も、その民族にふさわしい、それぞれの歴史に正確に対応した、あざやかな過去をもっている。
ようするに、想像力の問題なのだ。