明治維新まで、市ヶ谷に屋敷を構えていた五百石の旗本、榊原家は、神田、末広町に引き移って、お汁粉屋をはじめた。
なにしろ、趙 子昂(ちょう・すごう)の筆法で、御汁粉と、墨痕あざやかな看板を出した。
殿様自身がアンを煮たばかりではなく、奥方がお鍋のアンコをかきまわし、お嬢さまが女中になって店にお膳をはこぶ。
お客がひやかしにきたが、お帳場に紋付き、袴の殿様がおすわりになり、奥方がお客にうやうやしく頭をさげる。お嬢さまがおはこびになられるお膳の器(うつわ)は、源氏車の金高蒔絵の定紋つき。
アンはアク抜き、白玉を浮かして、まことにお上品な味。おまけに値段がめっぽうやすいときている。たちまち繁盛した。
殿様もご機嫌ななめならず、イヤ、商いというものは多分の儲けのあるものよナ、と仰せられた、とか。
ところが、客が入れば入るほど、だんだん資本が足りなくなってきた。売れていながら、金子(きんす)につまるというのは奇怪至極。殿様、大いに頭をいためた。
殿様、奥方、お嬢さまと額をあつめて考えたあげく、ハタと思い当たったことがある。 毎日の売り上げを残らず儲けと思っていたことに気がついた。これでは、繁盛すればするほど資本がつまってくる。
旧旗本の殿様がはからずも資本主義の経済原則にめざめたわけ。
明治の講釈師、悟道軒 圓玉が榊原の殿様からじかに聞いた実話。