お隣りに新婚の夫婦が引っ越してきた。ある日、その奥さんが私の妻に訊いた。
失礼ですが、ご主人はどこかおからだでも・・?
いいえ、別にどこもわるくありませんわ。妻が答えた。
日がな一日、家にひきこもって何か書いているのだから、えたいの知れない人間に見えたのだろう。その頃の常識では、失業者か、病人、それも肺結核か神経衰弱の患者と見たらしい。
どんなお仕事を・・?
もの書きですけれど。
ああ、代書をなさっているのですか。
あとでその話を聞いて私は大笑いした。
当時の私は、翻訳を二、三冊、あとは雑文を書きつづけていた程度のもの書きだった。毎日、犬をつれて近くの公園を散歩したり、ときどき訪ねてくる若い人たちを妻の手料理でもてなすぐらいがせいぜいだった。私のところに遊びにきてくれた仲間に、常盤 新平、志摩 隆(後年、「パリは燃えているか」を訳した)、鈴木 八郎(劇作家)、若城 希伊子(後年、女流文学賞を受けた)たちや、若い俳優、女優のタマゴたちがいた。
みんな貧しかったが、そろって勉強好きで、それそれ自分のめざす世界に向かってつき進んでいた。
いわゆる土地の名士だった岳父もずいぶん肩身が狭かったらしい。何を書いているのかわからない無名のもの書きに娘を嫁がせなければならなかったのだから。
昭和28年頃のこと。