双葉山は不世出の名横綱だった。
ほかの横綱、玉錦、男女ノ川(みなのがわ)、武蔵山たちも、双葉山には負けつづけた。誰が双葉山を敗るか、連日、興味が集中していた。
小学生の私のご贔屓は三役では鏡里、小結の綾昇(あやのぼり)、平幕の鯱里(しゃちのさと)たちだった。玉ノ海、名寄岩などは、性格、取り口が荒っぽいせいで、あまり好きになれなかった。
いまでも双葉山が安芸ノ海と対戦した日のことをおぼえている。
ラジオにしがみついて、取り組みを聞いていた。
この日、双葉山が敗れるとは誰ひとり思っていなかったに違いない。
結果として双葉山の70連勝が阻まれた。場内は騒然、というより、歓声、怒号、叫喚の坩堝で、座ぶとんが飛び、まるで暴動でも起きたような騒ぎになった。アナウンサ-の声も聞きとれないほどの騒ぎになった。
私は母に知らせに走り寄った。
「お母さん! 双葉山が負けたよ!」
母の宇免は洗いたての割烹着、小ざっぱりした身だしなみ、おしろいもつけず、無造作に髪をたばねて台所で水仕事をしていた。まだ20代の後半で、相撲に関心がなかった。私があまり昂奮しているのであきれたらしい。私にひとこと。
「可哀そうに。だけど、あしたッからまた勝ちゃいいじゃないの」
私は茫然とした。