1875 東山 千栄子(3)

はじめて東山 千栄子が復活したのは、戦後すぐ(1945年12月)の「桜の園」だった。東山 千栄子の「ラネーフスカヤ」である。戦後の私は、3度の戦災で、ひどく窮乏していたから、「桜の園」東劇公演の印象は、まるではじめて「宝塚」でも見たような、まるで夢でも見たような気がする。その後の「桜の園」の印象と重なりあったせいか、全体の印象もぼうっとしているが、東山 千栄子のラネーフスカヤだけは、あまり何度も見たせいか、照明のゼラチン・ペーパーを何枚も重ねたように、その印象がくっきりと浮かびあがる。

そうなると、たとえば、岸 輝子の「カーロッタ」はどうだったか、とか、何幕何場の楠田 薫はどうだったか、三戸部 スエとは、ここでどう動いていたっけ、などといろいろと思い出す。

戦後の翌年の3月、ゴーゴリの「検察官」の東山 千栄子もよく覚えている。それも、へんなことで。

幕があがって、市長夫妻が町の名士たちと登場する。和気藹々とした雰囲気でそれぞれが大きな食卓につく。ここで、皇帝陛下の「検察官」が、何の前ぶれもなく、この小さな街の視察にやってくることが知らされて一同に衝撃が走る場面だが、食卓にむかって、10人ばかりが腰をおろす。

最後に若い俳優が席につくのだが――椅子がない。
大道具方の手違いだったのか。
その俳優は自分の居どころがわからないので、ウロウロと椅子の位置に目を投げる。
みんなが着席しているのに、若い俳優ひとりが立ち往生している。出トチリである。

若い俳優がうろたえているのは、観客にもわかった。はじめは、誰しもそういう演出なのだろうと思ってみている。しかし、1秒、2秒、3秒と、時間がたって、さらに数秒も過ぎれば、この役者がなんらかの事情でトチったばかりか、そのトチリで芝居の流れがとまったことぐらい、観客にも見えてくる。
ありえないトチリだった。
観客席の私は、自分までがあわてふためいて椅子をさがしている役者になったように、息をのんでみていた。同情する、とか、軽蔑するといった感情ではなく、この役者がどうしていいか、冷や汗をかきながら必死にうろたえている姿を見ていた。「必死にうろたえている」というのもおかしな表現だが、私自身が「必死にうろたえて」いた。

さらに数秒たった。
と、食卓の中央に座った東山 千栄子(市長夫人)が、席から立ちあがって、その役者に優雅に会釈しながら、羽飾りのついたやや大ぶりの扇を動かした。隣りにいた俳優が、腰を動かして、若い俳優を着席させた。つまり、一つの椅子にふたりが着席したことになる。この役者は、若い役者より先輩だが、まだ中堅俳優ともいえない永井 智雄だった。

ようやく、ドラマが動きはじめた。とりとめのない思い出だが、私の内面に、この舞台の東山 千栄子の姿が刻みつけられている。

コロナ・ウイルスのニューズの氾濫している新聞に、東山 千栄子を詠んだ俳句が載っていた。この俳句から、これまたとりとめのないことを書く。