2020年4月7日(火)晴。
この1~2週間前に公開されていた映画を記録しておく。「パラサイト 半地下の家族」(12週目)、「犬鳴村」(8週目)、「スマホを落としただけなのに」(6週目)、「ミッドサマー」(6週目)、「仮面病棟」(4週目)、このほか4週目に入ったばかりの「一度死んでみた」、「ハーレクィンの華麗なる家族」、「弥生、3月」、「サイコパス 2」など。このほか、スーダン映画「ようこそ、革命シネマへ」、「白い暴動」(イギリス映画)、「囚われた国家」(ロバート・ワイヤット監督/アメリカ映画)など。
私は、この映画を1本も見ていない。せっかく公開されながら、こうした映画の大多数は、誰にも見られないままオクライリになってしまう。これらの映画が再上映されるかどうか。おそらく、その可能性は低いだろう。コロナ・ウィルスが収束しても、そのときはもう誰の記憶にも残っていないだろう。
これらの映画の製作に当たった監督、制作スタッフ、出演者たちの無念は察するにあまりがある。
今回の中国コロナ・ウィルスのおそろしさは、「サーズ」と違って私たちの文化に回復できないほどの傷を与えることにある。
他人にとっては、とるに足りない些細なことでも、本人にとっては忘れられない光景があるだろう。私のように平凡なもの書きでも、幼年期から少年期にかけて、今でも忘れられない情景がある。
私は、戦前の大不況をいくらかおぼえている。1930年代初期、私が5歳のころ、外資系の会社に勤めていた父の昌夫は、突然失職した。母、宇免は2O代になったばかりだった。昌夫は三日間、あたらしい就職先をさがして、やっと別の外資系の会社に就職がきまった。ただし、あたらしい就職先は東京ではなく、仙台だった。
私は、このとき、大不況ということばを知った。経済用語としてではない。幼い自分をふくめて、家族3人が何かおそろしい運命に翻弄されているという、漠然とした不安が「大不況」だった。その不安は、はっきりしたかたちをとってはいなかったが、幼いながら、自分たちの行く手に何かおそろしいものが待ちうけているような気がしたのだった。
はじめて、仙台に着いたときの印象は、はるか後年、「おお、季節よ、城よ」のなかに書きとめてある。貸家をさがしまわって、広瀬川にのぞむ高台の小さな公園に立って、沈む太陽を眺めていたとき、幼い私はふるえていた。
中国ウイルスの感染が拡大して、ついに「緊急事態宣言」が出たとき、かつての幼い私とおなじような不安を感じた幼児がいるかも知れない、と思った。