最近、私の書くものに過去のことが多くなったとしても、それは仕方がない。すでに老いぼれた作家に未来があるはずもないからである。記憶はまだ少しはしっかりしているが、記憶していることときたら、当然、過去のことばかりである。
とすれば、私が過去のことを多く語るようになっても、それは自然なことと見ていい。老人の特徴としては、判断力の衰えと、自分ではそれに気がつかないか、気がついてもそれを認めないことにある。
日頃の生活も、だいたいきまりきったことのくり返しになる。考えが硬直してくるのも当然だろう。
知性も、少しづつ、または急激に失われて行く。私は、たいしたもの書きではないが、なけなしの自分の知性がこれからどうなるのか興味がある。(そもそも私に知性などというものがあったっけ?)
変わりばえのしない一日にまたつぎの一日を重ね、一年に一年を重ねて、やがて、確実に完了する。「中田 耕治のコージートーク」は、そういう私の「現在」の小さな報告にすぎない。
それでいいのだ。