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コロナ・ウイルスの感染拡大で、まだ緊急事態の宣告にいたっていない。(編注:この記載のあと間もなく緊急事態宣言が発令された)
こういう時期にブログを再開したのはよかったかどうか。

これまで勝手に何かのテーマをとりあげては何か書いてきたのだが、この1年、どういうものかブログを書く気力がなくなって、ただぼんやりと過ごしてきた。

そんなとき、親しくして頂いた先輩たち、あるいは、私と同時代の作家、詩人たちのおもかげが、ふと頭をかすめる。その人たちはすでに幽明世界を分かっている。

たとえば、澁澤 龍彦。

個人的に澁澤さんと親しかったわけではない。

昨年、礒崎 純一という人の「龍彦親王航海記 澁澤 龍彦伝」(白水社)が出た。著者は、晩年の澁澤 龍彦の担当編集者。このタイトルは、澁澤さんの最後の作品、「高丘親王航海記」にちなんだもの。
500ページの大冊で、澁澤 龍彦に関して最高の評伝といってよい。

この本の中に、私の名も出てくる。むろん、名前だけだが。
私は、澁澤さんが編集にあたった「血と薔薇」の執筆者のひとりだった。

それまでの澁澤の交友関係からみてめずらしい部類に入るのは、植草 甚一、
中田 耕治、堀口 大学、杉浦 民平、高橋 鐡、川村 二郎、倉橋 由美子、
野坂 昭如、武智 鉄二といったところか。特に、中田 耕治と植草 甚一を執筆
者に選んだことを、澁澤は得意に思っていたらしい。前衛歌人の塚本 邦雄が
小説に手を染めたりも、「血と薔薇」での澁澤の執筆の依頼がきっかけだった。
「龍彦親王航海記 澁澤 龍彦伝」 P.277

これだけの記述から、「血と薔薇」の編集会議のようすや、デューマの「ルクレツィア・ボルジア」上演(村松 英子が主演した)後、赤坂の旗亭で、めずらしく澁澤さんと、親友の松山 俊太郎がはげしい論争をくりひろげたことがよみがえる。
このとき、龍子夫人が同席したが、私はその後、作家になった若い女性を同伴していたのだった。観劇後、酔余に澁澤さんと松山さんがはげしい文学論争をはじめるなど想像もしなかった。

ただし、そのあとは、澁澤さんが戦時中の歌を謡いはじめ、松山さんも、私も合唱することになって、和気あいあいとした酒席になった。

そんなことが、とりとめもなく私の心によみがえってくる。

(再開 7)