1815〈1977~78年日記 62〉

1978年4月2日(土)
朝、5時に起きた。寒い。
久しぶりで、「グループ」みんなで散歩。例によって、新宿駅。吉沢君、石井 秀明と会う。安東夫妻は、少し遅れた。
――久しぶりだから、温泉にしよう。
これで決まり。御嶽から大岳。散歩といっても、地図に破線のない場所を選んだ。
大岳までは普通のハイキングコースだが、12時に食事。
高宕山の先は、ほとんど人が通らない。したがって、道は荒れていない。下りばかりだが。変化があっておもしろい。
春の華やかな日ざしが山肌を這っている。私たちは夏に大きなプランを立てているので、この程度のコースは、あくまでその準備にすぎない。
バークリーの丘陵地帯をあるいたことを思い出す。

帰宅したのも早く、7時には、千葉に着いていた。
山を下りる途中で、10センチばかりのツゲと、あまり見たことのないサンシュウの枝をとってきた。
百合子に、小さな鉢に植えてもらう。
夜は雨になった。

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1978年4月3日(日)
池の水を少し放流して、雨水が入るようにした。
この池は、百合子の設計。写真でルネサンスの庭園を見て、気に入った池をモデルにしたもの。といっても、直径、わずか2メートル半、深さ、60センチ、コンクリートの円形の池。円周をレンガにしただけ。「ルネサンスの庭園」というのは、むろん冗句(ジョーク)。それでも、金魚、コイなどを入れてある。

山でとってきたツゲと、サンシュウを、百合子が鉢植えにしてくれた。バークリーでひろってきた木の実も植えた。

午後、百合子が、平野 謙さんの訃報を教えてくれた。

平野 謙 1907~78 評論家 八高時代に、本多 秋五、藤枝 静男と知り合う。東大文学部社会学科に入学、左翼の運動に参加。転向後、美学科に再入学。
昭和11年、(1926年)、同人誌「批評」に参加、作家論で注目された。
1946年、「近代文学」の創立メンバー。中野 重治を相手に「政治と文学」論争。自ら「平批評家」と称したが、膨大な「文芸時評」(昭和38年/1963年)がその代表作。
1961年~62年、「純文学論争」を起こした。
「さまざまな青春」で、野間文芸賞、1977年、芸術院恩賜賞を受けた。

 小川 茂久に電話したが、不在。

深夜、「ガリバー」の原稿を書いているところに、小川から電話。小川も、平野さんとは親しかった。しばらく、雑談。一昨年、平野さんが手術を受けたとき、大学は休講なさったが、小川からそのあたりの事情を聞いたことを思い出した。
いっしょに葬儀に行くことにした。

 

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1978年4月4日(月)
午後2時。「ジャーマン・ベイカリー」で、「レモン」、広瀬さんに原稿をわたす。
池上君に、校正を。

吉沢君と食事しながら、平野さんの思い出。夜、もう一度吉沢君と会うことにした。

小田急線、喜多見駅。小川 茂久に会う。
外に出たとき、偶然だが、「筑摩書房」の原田 奈翁雄君、「明治」の大野 順の両君に会う。原田君は、私の1期後輩。彼の「恋人」だったYさんが、私と同期だったので、お互いによく知っているのだが、この日、はじめてことばを交わした。Yさんと私が親しかったことは、小川 茂久も知らない。

平野邸には、多数の人が弔問に訪れていた。どんどん押しかけてくる感じだった。「河出」の藤田 三男が、受付できりきり舞いしていた。
つぎつぎに有名作家や、批評家がやってくる。井上 靖の姿もあった。
たまたま、坂本 一亀に会った。ここで坂本さんと会っても、別に不思議ではない。私は、「近代文学」で、坂本 一亀に会っている。「文芸」の編集長になってから、坂本一亀とはきわめて親しくなった。「文芸」の同人雑誌評は、私ひとりが匿名で書いていた。「文学界」の林 富士馬、駒田 信二、久保田 正文さん4人の批評家たちに、ひとりで対抗したのだから、かなり苦労した。
坂本 一亀は、そこまで私を信頼してくれたのだった。もっとも、こんな仕事を頼めるのは私しかいなかったせいもある。

室内に白い幕をめぐらして、弔問客は廊下をまわって焼香する。たいへんな数の文学者がつめかけて、ごった返している。
廊下の左側に、これも白い幕を張った部屋があって、親しい友人が沈痛な表情で集まっている。
埴谷 雄高さんの声が聞こえた。私は、その部屋に「近代文学」の人々がきていると思ったが、どこから入っていいのかわからない。
お焼香をすませて、外に出た。そのあたりに居合わせた人たちに挨拶する。
各社、文化部の記者たちも集まっていた。

小川が、私の腕をとって先に立って歩き出した。
このままでは、動きがとれなくなる、と見て、人々の流れから私をつれ出してくれたのだった。外に出た。駅に戻る途中、野口 富士男さん、青山 光二さんに挨拶した。

寿司屋に寄った。小川と飲みながら、平野さんの思い出を語りあう。
平野さんを明治の文学部の教授に招くことになった経緯(いきさつ)。まだ学生だった私が舟橋 聖一先生に直談判して、平野さんを文学部に招いてもらった。このことを知っているのは、斉藤 正直と小川くらいのものだろう。

小川は、中村 光夫、中村 真一郎、さらに「明治」の先生たちがくるはずなので、しばらく時間をつぶすことになった。私は仏文科ではないし、とくに中村 光夫の顔を見るのも不愉快なので、小川と別れてお茶の水に向かった。

「あくね」で、吉沢君に会う予定だった。
駿河台下に向かっていると、女の子が声をかけてきた。
――先生。卒業できたわ。
私のクラスにきていた石川 幸子だった。出席日数が足りないとかで、卒業できるかどうか、ぎりぎりまでわからなかった。それが、やっと卒業できたという。
――よかったな。
――ありがと。だけど、先生のクラス、今年も出るからね。いやな顔しないで。
――お祝いしてやろうか。
――「あくね」でショ。どうせなら、クラブ、つれてって。
――今夜はダメ。
石川 幸子は、けらけら笑って去って行った。

「あくね」で、原稿を書いていると、「福音館」の遠藤君がきて、アメリカから無事に帰国したことを祝福して飲もうという。久しぶりに会ったからうれしい、という。
吉沢君がきてくれた。原稿をわたした。

帰宅。終電。

 

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1978年4月6日(水)
アメリカから、たてつづけに本が届いてくる。どうしてこんな本を買ったのか、自分でもわからない本もある。買いたかった版画を思い出した。アンディ・ウォーホルの「マリリン・モンロー」。旅費を全部使えば買えないわけではなかったが、まだ、どこに行くかきめてなかったので、あきらめた。
「集英社」、桜木 三郎君から電話。
「週刊現代」、入江 潔君から電話。明日、会うことにする。

沼田 馨君が、「双葉社」をやめた。「漫画アクション」の編集者だった。
私に、マンガのオリジナル・ストーリーを依頼してきたので、「ケルンに愛の墓碑銘を」というストーリー」を書いた。
沼田君は、いつも誠実で、私にとってはありがたい編集者だった。

沼田君は、登山が好きで、いつも一人で行動していた。私は、それを知って、登山にさそうようになった。安東、吉沢、石井たちのレベルなら、沼田君もよろこんで参加してくれたはずだったが、もっと低いレベルの初心者が多かった。それでも沼田君は、みんなをサポートしてくれたのだった。

私は、安東たちを呼んで、沼田君を囲む集まりをもちたいと思った。せめて、沼田君をねぎらってやりたい。
しかし、沼田君の都合がつかなかった。
故郷(青森県八戸)に帰って、父君のやっている特定郵便局の業務を引き継ぐという。
父君が老齢に達したため、介護しなければならなくなったらしい。

 

 

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1978年4月7日(木)
夕方、5時。「山ノ上」。
「週刊現代」、入江君、インタヴュー。
「九芸出版」の伊藤 康司君がきた。ピーター・ボグダノヴィッチの「ジョン・フォード」。武市 好古の「ヒップ・ステップ・キャンプ」をもらう。
安東 つとむ、鈴木 和子がきたので、入江君、伊藤君に紹介する。伊藤君はそのまま帰ったが、入江君は、安東、鈴木と、「弓月」に行く。ここですっかり意気投合して、話かはずんだ。
「あくね」に移った。小川 茂久がきた。
私もかなり酔っていた。ブランデー、2杯。
10時過ぎ、「あくね」を出たが、入江君は、すっかりご機嫌で、
――先生、寿司を食べましょう。おごります。
そこで、神田駅前に行く。
寿司を食べたのだが、外に出ると、
――先生、ラーメン、食べましょう。おごります。
という。安東 つとむ、鈴木 和子も笑い出した。
入江君は、すっかり楽しくなって、私たちと別れたくなかったらしい。

 

 

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1978年4月8日(金)
快晴。あらゆる木々が芽ぶきはじめ、あざやかな色彩をまき散らしている。いのちの芽ぶき。生きてあることのありがたさ。

朝、6時に起きて、池のコイとキンギョにエサをやり、リンゴを小さく切って、月桂樹の小さなトゲの枝に突き刺しておく。何のトリか知らないのだが、黒っぽいコトリがやってきてついばむ。

種村 季弘さんから手紙。私がエッセイで、種村 季弘さんの仕事にふれたので、その礼状。

思えば小生の伝記作法などは中田さんをはじめとする先輩諸士の方法的コラージュにすぎなかったことを嫌というほど悟らされました。そして多分、御高著の細部を読み落としていたのではなかったかと、あの早きにすぎたブランヴィリエ侯爵夫人を読み返しているところです。

ありがとう、種村さん。あなたのお仕事は、他の追随を許さないものです。はじめから、誰の「方法的コラージュ」などというものではない。
したがって、「あの早きにすぎたブランヴィリエ侯爵夫人」という表現には、いささかのアイロニーが含まれているものと心得ます。

それでも、あなたが「ブランヴィリエ侯爵夫人」を読んでくださったことを心からうれしく思っています。

今、書いている「評伝」は、種村さんの「カリオストロ」に劣らぬ大きな仕事になるだろう.

 

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1978年4月9日(木)
もう、桜が咲いた庭の木の芽もゆたかに息吹いている。塀のツタが葉を出しはじめた。
このツタは、母、宇免が残して行ったもので、私が塀に伸ばしている。仙台の地震で、ブロック塀が倒れて死傷者が出たという。私は、ツタを這わせれば、地震が起きても倒壊だけは防げると考えた。
S・B・クライムズの「ヘンリー八世」を読む。資料としては、すぐれている(と思う)のだが、評伝としてはおもしろくない。学者が書く評伝は、どうしてこうおもしろくないのか。
本の整理。アメリカから送った本がたくさん届いたため、なんとか書棚におさめなければならない。
映画の資料は、段ボールにつめ込む。自作の短編、発表できなかったエッセイ、その他。いずれ、みんな焼き捨てるつもり。
ヴェトナムの地図(航空用)が出てきた。アメリカ空軍のもの。こんな地図は、誰ももっていないだろう。しばらく保存しておく。

ルイス・キャロルは、42歳になったとき、自分がやろうと思っている文学的な仕事が多いので、文学以外の仕事(たとえば、数学、写真など)をすべて断念したという。
しかも、42歳で in my old age と書いている。
この日記に、オレが、in my old age と書いたら、みんなが笑うだろうな。

 

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1978年4月10日(月)
こんな記事が目についた。

北ヴェトナムは、150万人という国力に不相応の軍隊、官僚の非能率、ルーズさのために、多くの食料、消費物資が不足し、多くの必需品が南ヴェトナムから密輸されている。
ハノイから20キロ離れたゾンビエン地区の農業合作社の管理人の月収は約30ドン。自転車1台を国営商店で買うには1カ月分の収入が必要だし、自由市場で買うには、3年分の収入を当てなければならない。ただし、実際に自転車が買えるとしての話だが。
南北ヴェトナムでは、(戦争が終わった)現在でも、別々の通貨を使用していて、北ではアメリカ・ドル、1ドルの公式レートが、2.4ドン。旅行者のレートで、3.65ドン。南ヴェトナムでは、公式レートが1ドル=2.82ドン。南のドンは、価格が低下したが、それでも北の1ドンに対して、1.25ドン。

ホーチミン(旧サイゴン)では、北のドンを南のドンと交換することもできない。
南のドンは、北ヴェトナムでは、公式の支払い手段と認められていないが、ヤミ市場では、自由に買い物もできるし、交換もできる。

北ヴェトナムでは、一般市民の食事も切りつめられている。公式には、1人1日、1200カロリー。「国連食糧農業機構」(FAO)の規定する最低生活を維持する食料のほぼ半分が保証されているにすぎない。

北では鶏肉、1キロ、16ドン。農業合作社の管理人の月収の半分以上。マメ、1キロ、10ドン。生活物資はきびしい配給制で、砂糖は、子どもにかぎって、1か月に100グラムが配給される。乳幼児には、このほかにミルクが月に、1.2リットルの配給がある。農民には、砂糖の配給はないが、都市生活者には、1月に500グラムの配給がある。肉は、1人あたり、年に4キロ。

南ヴェトナムでは、食料の配給制が導入されているが、肥沃なメコン・デルタをひかえているだけに、配給カードの役割は北に較べてずっと小さい。

北ヴェトナムでは、官僚主義が大きな社会問題になっている。
航空券1枚を買うにも、いろいろな書類を書かされたり、いろいろな窓口を歩かされたり、神経がヒリヒリする。窓口にふんぞり返っているお役人さまは、並んでいる市民などどこ吹く風とおしゃべりに花を咲かせていたり、付箋がベタベタ貼りつけられた山のような書類にのんびりサインをしたり。

ヴェトナム全体としては、建築資材や食糧が不足しているのだが、各地の港湾施設には、セメントや小麦粉が放置されたままになっている。ときには雨ざらしになっている。
南ヴェトナムは、外観といい客観的な状況といい、北ヴェトナムとはまったく違う国家に見える。たとえば、南では2000万人の住民が200万台のテレビをもっているのに、北ヴェトナム、3000万人の所有するテレビの台数は、わずかに5万台。
南ヴェトナムの相対的な繁栄にもかかわらず、ハノイは、「南はできるだけ早く北を規範にして、社会主義に移行すべきだ」と主張している。

北ヴェトナムの工場は国有化され、中央集権的な計画制度のもとに稼働している。
しかし、南ヴェトナムでは、商業資本は国有化されたものの、工場は国有、私有、あるいは両者の混合か合作社のかたちで運営されている。

南ヴェトナムの農民は、自発的に農業合作社に参加するように勧誘されているが、革命事業に参加した多くの中農層が合作社への算すを拒んでいる。農業集団化を早めようとすれば、深刻な軋轢を生じるだろう。

ユーゴースラヴィアの記者団の観察では――北の政治、経済、社会制度のすべてが、急速に南に移植されつつあるが、ときには南ヴェトナムの特殊性がまったく無視されている印象を受けた。

南ヴェトナムの高官の多くも、北の出身者に交代させられている。これはハノイの決定である。南ヴェトナムの革命指導者、旧南ヴェトナム解放戦線すらも、重要性を失いつつある。一部の推定によれば――ヴェトナム共産党の党員数は、全国総計で160万人だが、南ヴェトナムの党員数は、10万人という。

ながい引用になった。

北ヴェトナムの食料、消費物資の不足は、1930年代からすでに恒常化していたとみていい。したがって、これはヴェトナムの結果ではなく、むしろ遠因と見る。私は、ヴェトナム南北の経済的な格差が、「戦争」の動機として作用したと見ている。
北では食料、消費物資が不足し、多くの必需品が南ヴェトナムから密輸されていることも事実だろう。多数の商人が、非合法なブラック・マーケットを支配しているし、市民のあいだでも、物々交換や、単純な闇取引が行われているものと見ていい。これは、やがて、政治に対する批判、経済政策に対する不服従を生む。

ホーチミン(旧サイゴン)では、北のドンを南のドンと交換することもできない。南のドンは、北ヴェトナムでは、公式の支払い手段と認められていない。
革命が官僚主義という鬼子をうむとは、レーニンもホーチミンも想像しなかったに違いない。だが、その官僚主義こそ革命を生むのだ。
わずか10万人の意志が3000万人を支配する。官僚主義が生まれないはずはない。
ヴェトナム戦争は終わった。しかし、ヴェトナム人民の苦悩はここにはじまる。

「双葉社」を退いた沼田 馨君に、登山の写真を送る。

 

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1978年4月11日(火)
曇り。

NHKから、今日のインタヴューの予定を変更したい、といってきた。
「九芸出版」、伊藤君。「共同通信」、戸部さん。「淡路書房」、渡辺さん。「アサヒ・カルチャー・センター」から電話。いよいよ、本格的な戦線復帰になる。
アメリカから帰ったときは、雑文を書かない決心をしたが、現実には編集者を困らせることになるし、義理もある。

午後、去年植えたツタを移し換える。

夜、テレビ。「オールスターものまね王座決定戦」を見た。いろいろな歌手が、それぞれ趣向をこらして、別の歌手の真似をする。つまらない番組だが、それぞれの歌手の才能、個性、スポンタネな声質、いろいろなことが見えてくる。
香坂 みゆき。自分の歌はダメだが、ものまねは才能がある。榊原 郁恵は、疲れている。清水 由貴子、荒木 由美子も、山口 百恵をやったが、これは本人の個性が出すぎた。このレベルでは、浅野 ゆう子、荒木 由美子、松本 ちえ子たちが、全体によくない。
ずーとるびが「カナダからの手紙」。これはおかしかった。原田 信二をやった研 ナオ子と、双璧。ものまねも、選んだ歌手の特徴をあえてグロテスクに誇張したほうがうまく行く。マイムなどとおなじかもしれない。
2回戦。
ずーとるびの新井が、河島 英五。狩人が、森 進一。角川 博が、三波 春夫を。研 ナオ子は、「よいとまけの唄」を。
その他。残ったのは、狩人。角川 博。田川 陽介。西条 秀樹。
ここまで聞いて、飽きてきた。
私は、歌謡曲、流行唄が好きだが、個々の曲よりも、むしろその唄を歌う歌手の表情というか、その曲を自分のものにしてゆくプロセスを見るのが好きらしい。ものまねだっておなじことだが、どうも違う。

こういうところはなかなか説明できない。

羽左衛門が「菊畑」の「虎蔵」をやった。これを見た正宗 白鳥が、
――自分がかつて見た五代目(菊五郎)の虎蔵以上であっても、けっしてそれ以下で
はない」と激賞したという。
五代目も羽左衛門も「虎蔵」は見たことがない。(六代目は見ている。)だから、白鳥の意見がただしいかどうかわからない。しかし、芝居通なら、白鳥の感嘆はすぐに理解できたに違いない。
たかが、ものまねだが、このテレビを見ていて、角川 博、田川 陽介に感心しなかった。西条 秀樹が、「あんたのバラード」で、優勝した。まあ、世良 公則以上であっても、けっしてそれ以下ではない――ほどではなかったが。

 

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1978年4月12日(水)
午後2時、青山斎場に行く。
故・平野 謙さんの葬儀。

外にたくさんの人があふれていた。
若い女性が立っている。私のクラスにきている女子学生だった。
声をかけてやると、平野さんの講議をとっていたという。斎場にきたが、有名な文学者がたくさん列席しているので気おくれして、外でうろうろしていた、という。
――じゃ、中に入れるように、ぼくの隣りにいなさい。
この女性は、高校の国文の教師だが、名前は知らない。しかし、どこかの大学を出てから、明治の二部(夜間)にきて平野さんの講議に出ていた。ついでに、私の講義も聞いていたらしい。

最初に、本多 秋五さんの挨拶。誰もが、平野さんと本多さんの長い交遊を思ったはずだが、最後に本多さんが、平野さんの著書を挙げた。文学上の盟友を失った悲しみに、万感、胸に迫ったらしく声が途切れた。満場、寂として声なく、胸を打つ情景だった。

「集英社」、文庫の山崎君が、私を見て、すぐに挨拶にきた。
会葬者の行列ができて、私の前に、針生 一郎、関根 弘がいた。その前に、瀬戸内寂聴、中島 河太郎、中野 重治など。さすがに、平野さんの交遊関係らしく、たくさんの作家、批評家が列席している。
平野さんの大きな写真を見ながら、「近代文学創刊の頃」を思い出した。

外に出ると、中村 真一郎さんが声をかけてきた。めざとい真一郎さんのことだから、私が若い女の子、それも作家志望の女性をつれていると見たらしい。たぶん、先日、小川 茂久と会ったとき、私の話が出たに違いない。
私は、同道した女子学生の名前もしらない。だから、真一郎さんに紹介もしなかった。
(この女性とは、その後、親しくなった。 後記)

5時半、「山ノ上」。「朝日カルチャーセンター」の蒲生 真理子さんと会う。
夏のレクチュアについて。この夏の私は、自分でも大きな仕事をしようと思っている。
「朝日カルチャーセンター」のレクチャーは、ありがたい話だが、ここにきて、引き受けたら、かならず仕事に影響する。
蒲生 真理子さんも、あとに引かない。困った顔をするので、つい引き受けてしまった。8月から9月、毎週、金曜日の夜、6時半~8時半。

「サンリオ」、若月 敏明君と会う。レズリー・ウォーラーの新作の翻訳。ついさっき「朝日カルチャーセンター」の話を引き受けてしまったばかりなので、「サンリオ」の仕事を引き受けてもいいのだが、この夏の私は、現在とりかかっている大作に全力をあげている予定なので、少し考えさせていただく。
「深夜叢書」、斉藤 慎爾君。「演出ノート」出版の件。
私の演出したテネシー・ウィリアムズ、レズリー・スティーヴンス、ムロジェク、ジャスドヴィッツなどを中心に、克明にノートをとってある。できれば、そのまま出したいのだが、これとは、別に、フランスのルイ・ジュヴェ、シャルル・デュラン、ジョルジュ・ピトエフたちの「演出論」を書いてみたい。こんな本を出してくれる出版社はないので、斉藤 慎爾君と話をした次第。斉藤君ならこんな本でも出してくれそうな気がする。

斉藤 慎爾君の話では――私が音楽の本も出したいといっていたという。

そんな話をしているところに、菅沼、大内のふたりが、「山ノ上」にきた。斉藤 慎爾君が帰ったので、ふたりをつれて「弓月」に。
その後、「あくね」に行く。
ここに、斉藤 正直、唐木 順三、両先生。
私は、唐木 順三に対して含むところがあるので、無視する。

 

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1978年4月13日(木)
私は、個人的な私怨を書くつもりはない。しかし、日記に書いておく分にはかまわないだろう。

「弓月」は、夕方、5時頃から店をはじめる。

江戸っ子の老人と、山形、庄内生まれで、気のつよいオバサンがやっていた居酒屋だった。ふたりのあいだに、30代後半のひとり娘がいた。「かるら」さんというめずらしい名前だったが、美人で親孝行、未婚だった。

「弓月」は、土間に木のテーブルを並べただけの居酒屋だが、土間つづきの奥に5,6人の客が入れる四畳半の和室。冬はその部屋だけ障子が立てられて、火鉢が置かれる。この部屋は、靴を脱いであがるため、何かの集まりの流れで、二次会に使われたり、親しい仲間が2.3人で、他の客と顔を合わせずに飲んだりする。
小川 茂久は、よくこの部屋で友人の誰かれと飲むことがあったが、私は小川と一緒でも、この部屋を使ったことがなかった。

小川 茂久は、この店の常連客で、4時頃から店に入って酒を飲みはじめる。いろいろと店の手つだいをしてやったり、客の誰かれと親しく話をしたり。私のように、小川に会うために「弓月」に通っている客もいる。

「弓月」は、私にとって忘れられない思い出がある。

ある日、私は小川 茂久と口明けの「弓月」にいた。4時過ぎで、ほかに客はいないはずだった。ところが、思いがけず、先客がいて、四畳半の和室に入っていた。
障子が立てられていたので、先客は私たちが入ったことに気がつかなかったらしい。
客は、文学部の大木 直太郎先生と、唐木 順三教授だった。

しばらくして、思いがけないことを耳にした。
――なんだって、あんなやつを呼んだんだい。
唐木 順三がいった。
「あんなやつ」といのは、中田 耕治という講師のことだった。

大木先生は、中田 耕治が優秀な講師であるとして、陳弁につとめられた。唐木は、助手のOを講師にすべきであったと主張した。私は、大木先生の蹤慂(しょうよう)によって、講師をひき受けたのだが、まさか唐木が私に反対していたとは知らなかった。

自分のことが、こうして論じられている。「弓月」の四畳半の密談なので、いやでも耳に入ってくる。小川は、無言で、席を変えようとしたが、私は動かなかった。
屈辱感と、怒りがあった。
と同時に、私のためにあらぬ非難をあびせられている大木先生に対して、申し訳ない思いがあった。

私が講師になった当時、明治の文学部の先生は、ほとんどが東大、東京教育大の出身者で占められていた。明治出身の先生は、大木 直太郎、斉藤 正直、青沼先生をふくめて、6名。私が講師になって7名という状態だった。
大木先生としては、私を講師に呼んだのは、明治出身者をふやしたかったせいもあったと思われる。

唐木は、ねちねちした口調で、大木先生を問詰していた。

私の目に涙があふれてきた。

私も、文学者のはしくれだったから、私にたいする批判は、甘んじて受けよう。それは、もの書きとしての覚悟だろう。しかし、私を大学に招いたことで、大木先生を糾弾するのは不当ではないか。しかも、これを学内の派閥争いにしようとしている。唐木は、大木さんに教務主任を辞任するように迫っているのだった。これはもはや文学者としての批判とは思われない。

私は、もともと文学者の確執に興味がない。しかし、この日から唐木は私の不倶戴天の敵になった。

売られたケンカなら、いくらでも相手になってやる。しかし、私相手に啖呵を切るならまだしも、大木 直太郎を窮地に追い込むのは許せない。

その後、小川はこのときのことに関して、まったく口外しなかった。私もふれなかった。しかし、小川が、私に同情したことは間違いない。唇を噛みしめて、涙を流している私に、黙って酒を注いでくれたのだった。

今夜の私が、唐木に挨拶もしなかったので、斉藤 正直も唐木に対する私の敵意に気がついたはずだった。唐木に対する私怨は消えないものになった。

 

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       1978年4月14日(金)
4時に起きる。小説を書かなければならないので。
10時半、完成。ほっとした。
「山ノ上」。渡辺 安雄さんに原稿をわたす。
本戸 淳子さん。いっしょに、「ワーナー」に。
「オー!ゴッド」(カール・ライナー監督)を見た。
スーパーの野菜売り場主任(ジョン・デンバー)のところに、トボけたジイサマ(ジョージ・バーンズ)がやってくる。人間は破滅に向かっているので自分が救済にきた、というご託宣。カルト宗教の風刺。このなかで、ジイサマが「エクソシスト」をやり玉にあげ、「少女に悪魔がとり憑く映画があったが、少女がフロアにオシッコをもらしたのでウケただけじゃないか。それなら、カミさまが映画に出てきたっておかしくないだろう」という。これはおもしろかった。
このあと、「ルノワール」で、しばらく雑談。
本戸さんが帰ったあと、「フォックス」で、「愛と喝采の日々」(ハーバート・ロス監督)を見た。
「ディーディー」(シャーリー・マクレーン)と「エマ」(アン・バンクロフト)は、同じバレエ団で、ライヴァルどうしだった。「エマ」の勧めで、「ディーディー」の娘、「エミリア」(レスリー・ブラウン)が、「エマ」のバレエ団に入って、「ユーリー」(ミハイル・バリシニコフ)と愛しあう。
この映画はアカデミー賞の候補になったが、私にとっては、いろいろと考えることができた。アン・バンクロフトの芝居は、「卒業」の「ミセス・ロビンソン」と、どう違うのか。バレエ映画として、「赤い靴」、「ホフマン物語」以上のものなのか。芸能界の裏話に母ものを重ねたような内容だが、アーサー・ローレンツは、いつから、こういう器用なシナリオを書くようになったのか。
ミハイル・バリシニコフは、はじめて見たが、さすがに世界最高のバレエ・ダンサーらしい動きを見せている。レスリー・ブラウンは、若き日のヴィヴィアン・リー、「赤い靴」のモイラ・シャアラー、今のジェニー・アガターに似た美人だが、リュドミラ・チェリーナのように、バレリーナ/映画スターになれるかどうか。
そんなことばかりアタマをかすめる。
私の結論。この映画は、アカデミー賞をとれない。主演女優賞もとれない。残念だが、レスリー・ブラウンは、映画界には残らないだろう。私の予想が当たるかどうか。

めずらしく、「すばる」の編集長、水城 顕といっしょに富島 健夫が、「あくね」にきた。富島君は、「河出」時代に知りあったが、当代切っての流行作家になっている。流行作家になったとたんに、文壇の大家みたいな口のききかたをするようになった。

 

 

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1978年4月15日(土)
1時半、竹内 紀吉君が迎えにきてくれた。

「文化会館」で講演。盛況。
「小林秀雄と本居宣長」。

私のグルーピイがきている。石井 秀明、中村 継男、菅沼 珠代、安東 由利子、工藤 惇子、宮崎 等たち。

中村 継男、宮崎 等は帰ったが、あとはみな、わが家にきた。

百合子は、「中田組」のみんなが居心地よくすごせるように気をくばっている。いつだったか、歌手の***が遊びにきたときも、彼女は百合子とすっかり気があって、いっしょにブランデーを飲みながら、身辺のことを話しあっていた。

あとで、安東 つとむ、鈴木 和子が合流する。7時過ぎに、竹内 紀吉君かきたので、みんながよろこんだ。竹内君も、もう「中田組」のみんなとは旧知の間柄のように、いろいろと話をする。とくに、小林秀雄について。

 

 

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1978年4月16日(日)
本日天気晴朗なれど、風強し。

3時半、桜木 三郎、ソノ夫妻が、お嬢さん2人をつれて、挨拶にきてくれた。可愛い女の子たち。真紀子ちゃんは、目下のところ、恐竜に関心があるという。理恵ちゃんは、目鼻だちのしっかりした美人だった。
桜木君は、あい変わらず多忙な毎日を送っているらしいが、たまたま暇ができたので、久しぶりに挨拶にきてくれたもの。

楽しい一日になった。

桜木君一家が帰ってから、10時からNHKの「若い広場」を見た。桜木君が、本宮ひろ志を担当しているので。この番組に、本宮 ひろ志が出てくる。
現在の日本のマンガの実態をうかがうことができた。
女流マンガ家のなかには、竹宮 恵子のように、25歳で、大家と見られる人もめずらしくない。
桜木君の話では、「集英社」のマンガだけで、実質、60億の売上げ。本宮 ひろ志のマンガもベストセラーで、実収、10億ぐらい。
現在の出版状況で、純文学などははじめから比較にならないが、こうしたマンガのおかげで出版されているようなものだろう。

「サンデー・タイムズ」の記事。

「ジャッカルの日」で知られている作家、フレデリック・フォーサイスは、72年、ナイジェリア内戦で敗退した、ビアフラの人々のために、新しい国家建設のため、赤道ギニア領、マシアス・エングエマ島(旧名・フェルナンド・ポー島)を占領する計画を立てた。この計画の実行のため、作家は10万ポンドの私財を投じ、武器を調達し、兵士を募った。この傭兵部隊がスペイン南部の港から出発する直前、スペイン政府が介入したため、計画は失敗に終わった。

世界的な流行作家ともなると、考えることが違う。
それにしても、10万ポンドの私財なんて、日本のマンガ家の収入の10分の1にみたない。

私のような貧乏作家には想像もつかない話だが。

 

 

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1978年4月17日(月)
曇り。やや肌寒い日。昨日は風が強かったが、今日は小雨がときどき降っている。

10時半、NHK/教養、山田 卓さん、来訪。5月放送の「マリリン・モンロー」の打合せ。

2時過ぎ、「サンケイ」、四方 繁子さんに、原稿を電話で。

アメリカから、怪奇・恐怖小説が届いた。シスコの「アルバトロス」で買ったもの。なつかしいサン・フランシスコ。

思いがけない電話。松山 俊太郎さん。小栗 虫太郎・解説について。
松山さんはご自身が非常な博識家なのに、私のことを買いかぶっている。私のことを博識と思って、話の途中で、つぎつぎに思いもよらないことを話したり、私に訊いたりする。はじめ、わざと意地のわるい質問をあびせてくるのかと思ったものだが、そうではなく、私が当然知っているものと思ってお訊きになるらしい。こちらは、ただ恐縮するばかり。
私が、たとえばコリン・ウィルソンの博識にさして驚かないのは、身近に、澁澤 龍彦、種村 季弘、そして松山 俊太郎がいるからである。
小栗 虫太郎に関して、いろいろと訊かれたが、ごくありきたりな返答しかできなかった。申しわけない。

 

 

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1978年4月18日(火)
曇り、のち雨。夜、9時過ぎから強風。

1時半、水道橋。「地球堂」にフィルムの現像を依頼した。「北沢」。「チューダー朝の女性たち」。キャスリーンの部分だけを読む。ギャレット・マッティンリからの引用が多いが、それなりによくまとめてある。

「泰文社」に寄るつもりはなかったのだが、外を通りかかったとき、主人と目があってしまった。素通りするのも気がひけて、つい立ち寄った。本を買う。
3時、「サンリオ」の若月 敏明君に会って、仕事の話をする。アナイス・ニンの話も。あまり、アテにはならない。

新年度、最初の講義。教室いっぱいに学生がつめかけている。女子も多い。
いきいきした空気があふれている。中田ファミリーの顔も見えた。

しかし、すぐに5月病にかかって、出席者は半減する。私は、小人数のほうがいい。
例によって、いろいろな質問が出た。
――先生は、おいくつですか。
女子学生が訊いた。みんなが笑った。
――いくつに見える?
――38ぐらいですか。
また、みんなが笑った。
――先生は結婚なさっているんですか。
これで、またみんなが笑った。
この学生は、私の小説を読んだらしい。それで、私が結婚しているかどうかたしかめたかったらしい。私の結婚には道ならぬ色恋沙汰が描かれているからだろう。
――作家なんて、いつも妄想にふけっているキャラクター障害か、アルコール中毒だ
からね。結婚しているかどうか、ときどき忘れちゃうんだよ。

帰りは、いつものように、安東夫妻、工藤、中村、下沢、石井たち。及川という聴講生も誘って「丘」に行く。この及川さんは、2年前にも前期だけ私の講義を聞いたという。そういえば、いつもひっそりと後ろの席にいた女の子だった。