1814〈1977~78年日記 61〉

1978年3月16日(木)
やはり、時差ボケで、寝る時間がおかしくなっている。バークリーに着いたときとおなじ状態。千葉に帰って、7時に寝てしまった。
起きたのは11時。食事をして、また寝てしまった。
甥の松村 信之がきた。春休み、姫路の両親(大三郎、純子)のところで過ごしたが、仙台に帰る途中、寄ってくれたらしい。私がアメリカから帰ってきたばかりと知って驚いていた。
来年、東北大を卒業したあと、高校の教師になるか、大学院に残るか、どちらかきめなければならないという。
信之にアメリカ土産と、お小遣いをやる。うれしそうな顔。

「図書新聞」、大輪 盛登君から電話。
アメリカから帰ったばかりで眠いというと、ひどく恐縮していた。
種村 季弘の「カリオストロの大冒険」を中心にして、評伝を書くという問題をエッセイに。ちょうど、そんなことを考えていたので引き受ける。
大輪 盛登君は、私がミステリーの批評をはじめた頃から、早川 淳之助君といっしょに私を応援してくれたひとり。

 

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1978年3月18日(土)
まだ、睡眠時間がバラバラ。朝、4時半に眼がさめてしまった。夜明けにバークリーの丘陵地帯を歩いたことを思い出す。

姫路から、松村 純子、かおるが上京するまで、信之は千葉に残る予定だったが、アルバイトがあるとかで、仙台に帰って行った。
信之が帰って、30分後に、純子、かおるがきた。みんなで残念がった。
純子は、このところ体調がよくないので、人間ドックに入って精密検査を受けるという。かおるは、来年、就職する予定。信之も、かおるも、しっかりした性格で、松村家は安泰。

「夕刊フジ」、平野 光男さんから電話。原稿の依頼。
――ろそろ帰ってきたんじゃないか、と思って。アハハ。
「れもん」、原稿。
時差ボケなどといっていられない。しかし、バークリーのことばかり思い出す。
夜、7時に寝てしまった。10時半に起きて、原稿を書く。1時間で眠くなる。3時に起きて、すぐに別の原稿を書く。時差のせいで、脳が混乱しているらしい。いや、からだがもとの生活に戻ろうとしているのに、精神はバークリーに残っているせいだろう。
ジーン・クレインに似た、ほっそりした、郵便局の美人。フォーチュン・クッキーをたおやかに掌につつんで、割ってくれた中国人の娘。

深夜なのに、ヘリコプターが上空を飛んでいる。何か起こったのか。成田空港にジェット燃料の輸送が始まって、過激派のテロを警戒しているのか。
成田はまだ開港していないが、交通、燃料、宿泊施設など、すべての面で、問題は山積している。ホテルは三つがオープンしている。あと二つがオープンする予定。室数、2000室。しかも、このうち、1500室は航空会社のクルーや、旅行業者の客用に長期契約で抑えられている。さて、残りは、500室。ふつうの観光客の利用を見込んでも、宿泊費が高過ぎる。
朝の便で成田を出発するとして、カウンターの手続き、通関に2時間、つまり7時までかかる。千葉からでさえ1時間かかるのだから、朝、出国する人は、6時に家を出なければならない。東京から成田に出る人は、4時起き。それがいやなら、千葉か空港近くのホテルで1泊しなければならない。不都合な話だ。
帰国の場合も、夜の9~10時に、到着便が集中したらどうするのか。気象条件によっては、到着が遅れた場合、東京には出られなくなる。千葉に住んでいる私の場合、タクシーを利用するからいいが、普通のツーリストにとっては、ずいぶん迷惑な話だろう。
シスコや、バークリーの、堂々たる安ホテルを思い出す。

 

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1978年3月19日(日)

 亡き母、宇免の三回忌。

 百合子は、朝から、いろいろな仕度に追われている。
私も、百合子にいわれて「そごう」で買い物。
昨日からの雨は、10時過ぎにあがった。雨はやんだが、曇りで、うすら寒い日になった。

湯浅 かおる(百合子の母)。
義兄、小泉 隆、賀江夫妻。杉本 周悦。
中田 まき代(亡父、中田 昌夫の従妹)、鷹野 昌子(西浦 勝三郎の三女。私の従妹)。西浦 満寿子(宇免の弟、勝三郎の妻)、洋子。
高原 恒一(宇免の隣人)、鵜沼 こま(宇免の母、西浦 あいの友人)。

親族たち、そして親しい友人たち。

私が挨拶する。
そのあと、会食。百合子が、メニュを考えて、千葉の老舗のレストランからわざわざ届けさせたもの。
こういう追善の集まりには、口上書に配りもの、手拭いとか、扇面などを添えて、一同に配るのが礼儀らしいのだが、百合子はそのあたりまで気にかけているようだった。

後年、百合子は、宇免について書いている。

早口ではっきり物を言う人だから、きつい性格と思われがちだが、決してそうではなく、さっぱりとして物事にこだわらず、裏表のない、素直な人だった。昌夫が亡くなったあと、埼玉県大宮の自宅に一人住まいになるので、心配した耕治と百合子が、千葉に来てくれるように頼むと、長く住みなれた土地やたくさんの友達に未練を残さず、あっさりと千葉に引っ越してくれた。百合子は宇免と、足かけ六年ほど嫁と姑として暮らしたが、ただの一度も喧嘩したこともなく、いい思い出だけを残してくれた。

みんなが、それぞれ宇免の思い出を語りあったが、楽しい雰囲気になった。

夜、みんなが帰ったあと、昌子が残った。10時頃、鷹野君が迎えにきた。埼玉県東松山まで帰るので、鷹野君が車で迎えにきてくれたのだった。

みんなが帰って、疲れが出たらしく眠ってしまった。こんなことは初めてだった。

 

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1978年3月20日(月)
朝、4時に起きた。

「日経」、吉沢君の電話。久しぶりに元気な声をきく。
午後、東京に。
できれば映画を見ようと思ったが、遅くなったので、水道橋。「地球堂」にフィルムをあずけ、その後「南窓社」に行く。岸村さん、不在。
「集英社」、「文庫」の山崎君に会う。「シャーロック・ホームズ」の文庫化は、来年になるらしい。
私としては、ウィリアム・サローヤンを、「コバルト文庫」に入れたいのだが。編集部の新海君に紹介された。眉目秀麗な美男子だった。
「二見書房」に寄るつもりで歩きはじめたが、うっかりして「潮出版社」のほうに出てしまった。
「二見書房」、長谷川君に会って、堀内社長に挨拶する。お選別を頂いたので。しばらく、アメリカの話をする。

「山の上」。吉沢君と飲む。
とくに、シスコで見た「スター・ウォーズ」。バークリーで見そこなった「異聞猿飛佐助」のこと。

 

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1978年3月21日(火)
朝、「ユリイカ」、特集「埴谷 雄高」を読む。
この特集に、私も短いエッセイを寄せている。「埴谷雄高は、当時の私がもっとも尊敬した一人だった」と書いたが、これは偽りではない。ただし、この尊敬は、埴谷さんの存在感に対する畏敬に根ざしたもので、埴谷さんの文学、とくに「死霊」に感動したわけではなかった。いつ終わるとも知れぬ長編を書き続けていることに圧倒されたが、その内容は私の理解のおよばぬものだった。
埴谷さんの影響は、私に於いて、別の領域にあらわれた。「フランドル画家論抄」や、ドストエフスキー論がそれで、私の出た「テレ朝」のハンス・メムリング解説には、あきらかに「フランドル画家論抄」が響いているだろう。
私が中世、あるいはフランドル画家に関心をもったきっかけは、じつは埴谷さんの訳にあった。その意味で、埴谷さんの存在は、私にとってありがたいものだった。

竹内 紀吉君、安東 つとむに電話。26日に講演することをつたえた。
――に行ってもいいですか。
――けれど、大したことをしゃべるわけじゃないから。
――が何をお話になるのか、みんな興味津々ですよ。
――な話なんかないよ。アメションだもん。

 

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1978年3月23日(水)・
午前中、快晴。午後、曇り。夕方から雷鳴をともなう雨。

松村 純子、かおるは、11時半に帰った。純子は、大宮の家の処分がやっと解決したのだった。私は駅まで送ったが、これで、しばらく純子たちと会う機会もなくなる。

帰りに、通町の岳父を訪問、帰国の挨拶。しばらくアメリカの話など。

バークリーの大沢君に、友松 円諦、鈴木 大拙の本、4冊。エリカに、アラン・シリトー、サリンジャーなど、7冊を送る。

武谷 祐三君が、「本郷出版社」を離れたとつたえてきた。残念。はじめから、あまり期待しなかったが、これで、「演出ノート」の出版は消えた。
日本の出版ジャーナリズムは、エージェントがいないため、著者と編集者の暗黙の了解で本の出版がきまったりする。その編集者が、なんらかの事情で出版社を離れると、それまでの著者との約束はホゴになってしまう。こうした場合、著者の側は、「文芸家協会」に仲介してもらうとか、違約金をもらうとか、なんらかの補償があってもいいのではないか。

仕方がない。原稿はいずれ焼き捨てることにしよう。

 

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1978年3月24日(木)
NHK、「スタジオ102」。神田 日勝の絵を見た。解説、宗 左近。
この画家の「自画像」(昭和45年)が出てきたが、私は「独立展」で見た。このときは少しショックを受けた。
狭い部屋の壁に、新聞紙が貼りつけてある。その壁を背に、男がひとり、うずくまるようにすわって、正面をじっと凝視している。男の足もとに、フランス人形が投げ出されている。タバコの吸殻を放り込んだ紙袋、缶詰の空カン。リアリズムで描かれているが、何か荒涼とした心象風景と見えた。
初めて見たとき、ほんものの新聞紙を貼ってあるものと見たが、実は全部、画家が自分の手で描いたものと知って驚いた。見出しから記事まで、丹念に、というか、ひたすらオブセッシヴに描いている。この執念に、この画家の魂のあげる息吹きを感じて、ただ茫然と眺めていた。
宗 左近の解説で、神田 日勝はこの絵を遺作として出品したことを知った。この画家は、北海道の帯広近郊の農村で生まれて、絵を描きつづけ、32歳の若さで亡くなった。絶筆、「馬」は腰の部分まで描いて、未完成のまま残されている。
この一枚の絵を見て、画家のすさまじい孤独を感じたが、その生涯については何も知らなかった。何も知らなかったほうが、純粋に画家の「自画像」として見ることができたと思う。

1時、久しぶりに「東和」に行く。「カタストロフ」の試写。ところが、1時になっても試写が始まらない。映写室に行ってみたが、要領を得ない。試写室にもどった。私以外にも、この試写を見にきた人が3人。
1時20分に試写が始まった。
私のカン違いだったのか。「東和」としては、3時から試写を始める予定だったらしい。試写が終わったとき、川喜多 かしこさんが、試写室にきていた。何か手違いがあって、私たちが試写にきている、と宣伝部がご注進に及んだらしい。
試写室の外に、淀川 長治ほか、かなり多くの人が待っていた。
何があったのかわからずに、外に出た。

これも久しぶりに「フォックス」に行く。
「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)の試写。リリアン・ヘルマンの自伝の映画化。劇作家、「リリアン・ヘルマン」(ジェーン・フォンダ)は、ハード・ボイルドのミステリー作家、「ダシール・ハメット」(ジェースン・ロバーズ)と同棲している。「ハメット」は、「リリアン」をはげまして、文学的に助言したり、政治的にもナチス反対の立場をとっていた。
「ジュリア」(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)は、「リリアン」の少女時代からの親友。ユダヤ系の富豪の娘。イギリスで医学を専攻し、ウィーンで、フロイトの精神医学を学ぶ。ウィーン滞在中に、反ファシズムの地下運動に参加している。
モスクワの国際演劇祭に招かれた「リリアン」は、「ジュリア」の頼みで、ベルリンの反ナチの組織に運動資金を届けることになって、パリから国際列車に乗り込む。その運動資金、50000ドルをひそかにドイツに持ち込む。
ジェーン・フォンダとヴァネッサ・レッドグレイヴが共演しているのだから、圧倒的な迫力がある。「リリアン」は、「ジュリア」と再会する。しかし、「ジュリア」は睡眠中に、ナチの秘密警察の手にかかって殺害される。

今年の最高の映画だった。私は、リリアン・ヘルマンを訳したことがあるし、ダシール・ハメットも訳したことがある。そんなこともあって、この二人が事実上の夫婦関係だったことに関心があった。
ヴァネッサは、父のマイケルが名優で、イギリスきってのメソッド派。それかあらぬかヴァネッサは、スタニスラフスキー直系の冷徹な演技を見せる。ジェーンほどの女優でも、舞台で鍛えたヴァネッサの前に出ると影が薄い。これは驚くべきものだった。
「ジュリア」は、もともとジェーン・フォンダがやる予定だったらしい。フレッド・ジンネマンも、ジェーンの「ジュリア」でシナリオの改稿をつづけた。途中で、ジェーンが「リリアン」の役をやりたいといい出した。プロデューサー、リチャード・ロスは、ジェーンを「リリアン」にして、急遽、ヴァネッサ・レッドグレイヴを「ジュリア」に起用したらしい。
ロスは、「追憶」(シドニー・ポラック監督)の共同プロデューサーだったはずで、「追憶」と「ジュリア」が、どこか似た雰囲気をもっているだろう。そのあたり、この映画を批評するポイントになる。ただし、「追憶」のバーブラ・ストライサンドは、ヴァネッサに遠く及ばないけれど。

吉沢君ならどう見るだろうか。
私にとっては、別の問題がある。この映画を新聞のコラムで短く紹介するのはむずかしい。いい映画を見たあと、いつもおなじことを考える。アメリカの批評家だったら、一面全部つかって、この映画を批評するだろうな。
ルルーシュの「続・男と女」は、旧作、「男と女」の退屈なリメイクもの、「コンボイ」のサム・ペキンパーはもはや形骸だけ。「サタデイ・ナイト・フィーバー」は、「アメリカン・グラフィティー」程度の新味はあるもののただのダンス・フィーバー。そんななかで、「スター・ウォーズ」のような巨大なテクノロジーSFが登場している。「ジュリア」は、「スター・ウォーズ」に拮抗できるわずかな映画と見ていい。
しかし、私のコラムではそこまで書けない。残念だが。

6時、「山ノ上」。安東 つとむ、石井 秀明、鈴木 和子と会った。みんなと無事に再会できたので、「共栄堂」で食事。みんなが私の帰国を待っていたという。「弓月」で飲む。
「弓月」でいちおう散会。お茶の水駅前で、安東 由利子、工藤 敦子、松本と会う。またまた、みんなを引き連れて、「丘」に行く。
偶然だったが、「河出」、坂本 一亀、「光風社」、豊島さんに会った。坂本 一亀は、私の恩人のひとり。豊島さんは、豊島 与志雄先生の令息。やはり、私に好意をもってくれたひとり。女の子たちを引き連れてくり込んだので、驚いたようだった。

千葉に戻ったとき、月蝕がはじまった。11時33分から皆既月食。

 

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1978年3月25日(金)
高階 秀爾の「歴史のなかの女たち」を読む。

池で飼っている金魚の一尾が、どうも白点病らしいことに気がついた。すぐに隔離して、クスリをつけてやったが、うまくいくかどうか。

 

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1978年3月26日(金)
快晴。
正午、竹内 紀吉君が迎えにきてくれた。司書の渋谷 哲成君、宇尾 房子さん(「日本きゃらばん」同人)が同乗していた。宇尾さんは「文芸首都」出身で、庄司 肇さんの雑誌に小説を発表している。
茂原。竹内君の案内で、喫茶店で、コーヒーを飲みながら雑談する。宇尾さんは、私の講演に興味をもって、わざわざ聞きにきてくれたのだった。
会場は茂原図書館。規模は小さいが、感じのいい図書館だった。

1時半、講演。出席者は少ない。25名。私のグルーピーもふくめて。
テーマは、谷崎 潤一郎。

講演は、うまくいった。

終わったあと。質問。
老婦人が――最近、若い人の自殺が多い。これは、かつて日本の美風だった道徳の頽廃によるものではないか、という。私は、こういう意見があまり好きではない。
私の答え。若い人の自殺率は、今後ますます増加するものと思われる。だからといって、それは道徳の頽廃によると見るわけにはいかないだろう。経済的な不況によるものかも知れないし、前途に希望がもてないと若い人が考える、何か漠然とした絶望感がひろがっているせいかも知れない。
いつの時代でも、先行の世代は、後ろの世代に道徳の頽廃を見てきた。敗戦直後の日本の道徳の頽廃を、私たちは見てきた。それに較べれば、今の「頽廃」など多寡が知れている。
私としては、道徳という論点よりも、自殺は自分自身に対する他殺なのであって、殺人が許されない罪である以上、若い人に「殺してはならない」という倫理を説いたほうがいい。
そうでないかぎり、自殺は今後ますます増加するだろう、と答えた。

つづいて、若い人が――どうすれば、外国語をマスターできるのか、という質問。
これも、私の嫌いな質問。ほんとうは答えられない。
ある日、「近代文学」の集まりで、平野 謙が、中村 真一郎に、

――きみはいいなあ。外国語ができるからなあ。
と、いった。これは、平野さんの本心だったに違いない。
――フランス語なんて、かんたんに勉強できますよ。半年もあればマスターできますからね。
すぐ近くにいた私は、これを聞いて、中村さんにひそかに反感を持った。こちらは、フランス語の動詞さえ頭に入らないのに、半年でマスターできるなどとよくもいえるものだ。まるで自分に語学習得の天分があると自慢しているようなものではないか。

 後年の私は、翻訳家としても仕事をつづけるようになったが、あのときの中村さんのことばは、あながち荒唐無稽なものではなかった、と思うようになっている。自分の経験に照らしても、英語など半年もあればマスターできる、と思うようになった。
むろん、その方法論めいたものはあるけれど。

3人目は――谷崎源氏と谷崎作品について。

これも、即座に答えられる質問ではない。

帰りに、竹内君が、茂原から一宮に連れていってくれた。芥川 龍之介が泊まった旅館があって、そこに記念碑が建っているという。作家が泊まっただけで、記念碑が建つのか。海に出たとき、風が立って、もう春の海だった。旅館の近くの魚屋で、タイラ貝、サザエを買う。
帰宅したとき、安東夫妻、甲谷 正則、鈴木 和子、石井 秀明、工藤 惇子たちが待っていた。みんなが私の講演会にきてくれたのだった。つまりは、サクラということになる。期せずして、私の家に集まってくれたらしい。みんな、正月を私の家で迎えた連中ばかり。

百合子は、私の収入が増えるに応じて、私の周囲の人々をもてなす機会が多くなった。不時の来客にはなれている。その人数によって、すぐに大まかに接待の手順をきめる。お茶だけということはない。かならず和菓子を添えて出す。ときには、かなりの出費になることもある。それでも、文句ひとついわずに、いつも笑顔で、アルコール、食事、なんでもそろえてくれる。
冷蔵庫も3つあるので、編集者や、テレビ・クルーが入っても、困らない。
今日は、私の買ってきたタイラ貝、サザエを料理したので、皆がうれしがって、ビールで乾杯。

新婚当時、私たちは、たいへんな貧乏暮らしだった。
ろくに食べるものもなくて、庭で作った赤カブやソラマメを食べながら、私の原稿を整理したり、月末、千円札一枚もなくて、百合子が実家の母に金をせびりに行ったり、いつも百合子に、肩身の狭い思いをさせたものだった。

それでも百合子はめげなかった。

百合子はいつも私をささえてくれた。口に出すことはなかったが、現在の私があるのは、ひとえに百合子のおかげなのである。

今日も、私の帰国を祝う会になってしまったが、百合子は嫌な顔をみせずに、みんなをもてなしてくれた。

 

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1978年3月27日(土)
午後3時、「図書新聞」、編集の見習いみたいな女の子が原稿をとりにきてくれた。
名前を聞くのを忘れたが、短大卒。アルバイトで「図書新聞」に。
原稿は、「カリオストロ」の評伝を中心に評伝という表現形式を論じたもの。
コリン・ウィルソンを読む。
「一枚の地図」、半分ばかり読む。私のエッセイも載っている。

 

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1978年3月28日(日)
雨。こういう日はどうも気分がよくない。不快というのではないが、なんとなく鬱陶しい。あまり元気がないので、1時からの試写はキャンセル。

新聞のニューズ。

エドアール・ジャン・アンパン男爵。さる1月に、過激派によって誘拐された大富豪。
「アンパン=シュネデール財閥」の会長。40歳。
26日夜10時、(日本時間、27日未明)、パリ・オペラ座の前で釈放された。
犯人一味は、1700万スイス・フラン(約20億円)のランサムを要求していたが、これは犯人側に支払われてはいないという。
パリ警視庁の発表では、犯人側にランサムをわたす交渉が成立したが、これを受取にきた5人と銃撃戦になり、犯人のひとり、アラン・カイヨル(35歳)が負傷、逮捕された。26日、ラジオを通じて、仲間に男爵の身柄を解放するよう呼びかけたため、仲間がこれに応じた、という。

さながら、フレンチ・ノワールの世界だな。
私は、オペラ座を思い出したが、アンパン男爵が、どのあたりで解放されたのか見当もつかない。

3時、「CIC」で、「海流の中の島々」(フランクリン・J・シャフナー監督)を見た。ヘミングウェイだからね、見ないわけにはいかないさ。
戦時中の西インド諸島。ドイツのUボートが出没している。その動きを警戒している画家「ハドスン」(ジョージ・C・スコット)のところに、元妻2人と、息子3人がやってくる。次男は父に対して、反抗的だが、マーリンの釣りをおしえられてから、父を理解しはじめる。皆が帰ったあと、初婚の妻(クレア・ブルーム)が長男の戦死をつたえにくる。ヘミングウェイの自伝的な作品の映画化で、ポーリーン・ファイファー、マーサ・ゲルホーンたちとヘミングウェイ自身の「関係」もかくや、と思わせる。しかし、映画としては、たいしたことはない。
ジョージ・C・スコットは、「パットン将軍」でアカデミー賞を受けたが、それを拒否した。その気概は認めよう。しかし、スコットは、「海流の中の島々」のヘミングウェイよりも「パットン将軍」でもやっていたほうがいい。

6時、安斉女史と会う。いろいろな企画を話す。
大川 修司に説得されて、バレエの台本を書くことになった。これも勉強だなあ。

この日、バークリーから送った本、10冊ずつ、朝と夕方に届いた。オークランドの「ホームズ」で買ったもの。これからしばらく、この本たちとつきあって行く。

帰宅して、百合子から思いがけない知らせを聞いた。鈴木 武樹が亡くなったという。まさか。いそいで、夕刊のオービチュアリを読む。もう一つ、驚きが待っていた。
三枝 康高が亡くなったという。またしても、びっくりした。丸茂 ジュンの父君である。ただし、面識はない。
鈴木夫人に当てて弔電を打ってやりたいが、こんなに遅く、電報がとどいたら、かえって迷惑だろう。それにしても、鈴木 武樹が亡くなるとは。

 

 

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1978年3月29日(日)
朝、鈴木 勘也君から電話。
鈴木 武樹の訃報。
私が「近代文学賞」を受けたとき、鈴木 武樹、鈴木 勘也両君といっしょに、赤坂のバーで、ささやかな祝宴を開いた。百合子もいっしょだった。鈴木 勘也は、私より一期、後輩。「犀」の同人。
今は、青山学院大の事務系の仕事をしている。

弔電。電話で弔文を送ったが、声がふるえた。

鈴木 武樹を紹介してくれたのは小川 茂久だった。
鈴木君は、なぜか、親しくしてくれた。彼も圭角の多い人物だったから、不器用な生きかたをしている私のことを気にかけてくれたのかも。
著書、訳書をいつも送ってくれた。
私が、キャスターをやっていたテレビに出てもらったこともある。

いつの正月だったか、中村 真一郎さんのお宅に伺ったことがある。
批評家の菅野 昭正、西尾 幹二、 作家の北 杜夫、水上 勉、その他、「秩序」や「犀」の若い人たちが多数集まっていた。私は、小川 茂久につれられて出席したのだが、この席で、鈴木 武樹と、西尾 幹二が、論争した。

「秩序」の同人たち、とくに、菅野 昭正が、ふたりの間に入って仲裁したが、激烈な論争で、二人とも譲らなかった。
けっきょく、西尾 幹二が席を蹴って退出したが、たまたま私の横を通り抜けようとしたとき、低い声で、
――もう二度と、こんなところにくるものか。
とつぶやいた。私に向かっていったのではなく、はげしい怒りをこめて自分にいい聞かせたものらしい。そして、だれにも挨拶せずに帰って行った。

このときの論争のテーマが何だったのか私は知らない。

小川 茂久が鈴木 武樹を紹介してくれたのは、それから後のことだった。私は、鈴木君と親しくなったが、西尾 幹二との論争については、ついぞ話題にしたことがなかった。若い批評家どうしの論争に驚かされただけのことだったが。
心から、ご冥福を祈る。

今日から、東ドイツのグリム童話映画祭がある。東ドイツ文化省・後援。日比谷。
とくに、今日は「白雪姫」を上映するので、ディズニーの「白雪姫」と比較する意味でも、見にゆくつもりだった。
しかし、鈴木 武樹に追悼の思いをこめて外出しない。

夜、「日経」、吉沢君に電話で送稿。

 

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1978年3月30日(月)
午後、「サンケイ」。文化部、四方さんに挨拶。「夕刊フジ」、金田さんの前のデスクで書評を書く。書き終えるのを待っていたように、金田さんが私を誘ってくれた。神田駅前の店。いろいろ話をした。
金田さんは、「サンケイ」でもトップクラスの文壇通。彼の目に、私など、何でもござれの便利屋(ファクトテム)に見えているだろう。むろん、他人がどう見ようと構わないが。
2時半、「サンバード」で、「DONDON」の池上君に会う。校正を受けとる。
これは、すぐには見る時間がない。
3時、「CIC」で、「原子力潜水艦浮上せず」(デイヴィッド・グリーン監督)を見る。
原潜「ネプチューン」が、タンカーと接触、深さ、450メートルの海底に沈む。「ゲイツ大佐」(ジョン・キャラダイン)が開発した深海潜水艇「スナーク」が、「ネプチューン」の位置を確認し、救助艇で原潜艦長(チャールトン・ヘストン)たちを無事に救出する。原題は Gray Lady down。どうも、ひっかけだなあ。

ハイ、みなさん、よかったですねェ。(淀川 長治ふうに)。

 

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1978年3月31日(火)
曇り。
午前中、三隅 研次の「丹下左膳」を見た。
大河内 伝次郎、高峰 三枝子。
書こうとおもえばいくらでも書けるが、何も書かない。

バークリーから本がつぎつぎに届いてくる。グリゴロヴィウスの「ルクレツィア・ボルジア」があった。