1810〈1977~78年日記 57〉

 
1978年2月16日(木) 。
成田空港の上空には、常時、乱気流があって、着陸の際、機体がはげしく揺れるなど、安全性に問題があるという。
空港の滑走路、4000メートルが、ほぼ南北に延びていて、その日の風向きによって、一方からの向かい風で発進する。冬は北風。乱気流の影響をもっとも強く受けるのは南側からの着陸の場合という。
新設空港が成田にきまったとき、用地に関して、当時の自民党の有力者たちが利権がらみで動いた。成田ときまったとき、パイロットから気象条件がわるいという指摘があったらしい。今頃になって問題になっている。

ムハメッド・アリがスピンクスに敗れた。

10年も前のこと、ヴェトナム戦争で召集されたムハメッド・アリは、戦争反対を表明し、徴兵を忌避した。そのため、全米コミッションからタイトルを剥奪されたばかりか、試合に出ることも妨害された。その結果、2年間もリングから追放されていた。
選手としての全盛期に、試合に出られなかったムハメッド・アリに対する制裁は、実質的には人種差別だった。
その後、ムハメッド・アリは復活して、74年、タイトル奪還に成功した。私は、ムハメッド・アリの傲岸不遜なキャラクターが好きではなかったが、それでも、彼のボクシングはずいぶん見てきた。今回は、スピンクスという選手を知らなかったため、たぶんムハメッド・アリが勝つと思って試合を見なかった。
失敗したなあ。

 

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1978年2月17日(金) 。
3時、「CIC」で、「恐怖の報酬」(ウィリアム・フリードキン監督)を見た。
いうまでもなく、クルーゾーの「恐怖の報酬」(53年)のリメイク。製作費は、フリードキン映画のほうが、はるかに大きいだろう。
油田で火災が発生したが、消火の手段がない。300マイル離れた製油所から、トラックで消火用のニトログリセリンを現場にはこぶことになる。
食い詰めた男たちが、金につられて、ニトログリセリンの輸送に応募する。
オリジナルでは、イヴ・モンタン、シャルル・ヴァネル、フォルコ・ルリ、ピーター・ヴァン・ダイク。それぞれ強烈な個性の俳優たちがドライヴァーを演じていた。
フリードキンの映画では、ロイ・シャイダー、フランシスコ・ラバルたちが演じたが、まるでB級アクション映画の俳優たちにしか見えない。監督の力量が違うと、こうも低俗な映画しか作れないのか、と感心する。
映画が終わって、最後のクレジットに、れいれいしく、「アンリ・ジョルジュ・クルーゾオにささぐ」と出てきた。おもわず、失笑した。
フリードキンとしては、先人の仕事に敬意を表したつもりだろうが、わるい冗談にしか見えない。

吉沢君が、最近のつかこうへいの芝居について話してくれた。「ひもの話2」と「出発」(俳優座劇場)。つかこうへいが田中 邦衛を使っているそうな。クセのある役者だが、つかこうへいなら、うまく動かしてるんだろう?
――そうでもないみたいです。なかなかいうことを聞かないらしくて。
――見に行けばよかったな。
芝居の入りはいいらしい。

 

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1978年2月18日(金)
パスポートを受領した。

午後から、小説。

10時から、「夜の蝶」(吉村 公三郎監督)を見た。
京 マチ子、山本 富士子主演。「松竹」の伝統を守りながら、良質な風俗劇として評判になった映画。銀座のバーが描かれているが、今では、どこの土地にもある程度の内装で、昭和の高度経済成長の変化が見られる。当時、銀座のバーは200軒。
数寄屋橋、尾張町の風景が出てくるが、車の往来も少ないし、ネオンサインもわびしい。

 

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1978年2月20日(日) 。
2時近く、地震。震度/3程度。
震源地、宮城県沖、震度/6.8。仙台、盛岡など、震度/4。仙台では、重傷者、1人。東京、銚子、震度/3。

大阪の大手プレハブ・メイカー、「永大産業」が合板部門と信用不安のため倒産し、更生法を申請した。負債総額、1800億円で、50年8月の「興人」の倒産に匹敵するできごとらしい。
これまで、「大和銀行」、「協調融資銀行」が支援をつづけてきたが、ここにきて見放した。その背後に何があるのか。
大蔵省、日銀などは、恐慌を回避するためには企業の倒産もやむを得ないと判断したらしい。

 

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1978年2月21日(月)
さすがに、疲労している。

「ガリバー」、三浦君から電話があったが、原稿は書けそうもない。はじめて、ことわった。
この前、アメリカに行ったときは、オスカー・ワイルドを訳していたが、半分だけ内藤 三津子さんにわたして、あとはアメリカで、毎日訳したっけ。

1時、河合君に会った。意外に時間がかかったため、約束の2時半に、「阪急」の都築君に会えなかった。
3時15分、航空券を受けとる。
5時半、「山ノ上」。本田 喜昭さんに、原稿をわたす。「二見書房」、長谷川君が、社長、堀内 俊宏さんからの餞別を届けてくれた。ありがたく頂戴した。
吉沢君を待たせて、その場で原稿を書く。
杉崎 和子女史がきた。
長谷川君、吉沢君も、みんな顔なじみ。

杉崎さんは、ケイト・ショパンの「めざめ」にサインして贈ってくれた。杉崎さんとしては、はじめての翻訳。
長谷川君、吉沢君と別れて、杉崎さんと、三崎町に向かった。
「平和亭」で食事。杉崎さんは、背水の陣のつもりで、アメリカの大学で講義する決心らしい。ヘンリー・ミラーにインタヴューする予定。
いろいろな話題が出た。杉崎さんは、私が、少年時代に批評家として登場して、翻訳家としてもベストセラーを出しつづけ、演出家としても仕事をつづけ、作家としても認められている。すべて順風満帆に見えるという。
私は驚いた。現実の私は、挫折ばかりくり返してきた。批評家としては、大衆文学に足を踏み込んだために、純文学系の批評を書く機会がない。翻訳家としても、ミステリーの翻訳をしたために、純文学系の作家の翻訳の依頼はない。演出家としては、一度も失敗しなかったが、役者たちの内紛で劇団を解散したため、劇場費だけでなく、美術、照明費、一部の俳優、女優たちに出演料の支払い、とにかくひとりで負債を引き受けた。いそいで小説2本を書いて、この印税で穴埋めした。作家としても、ほんとうに書きたいものは書けず、注文をこなしているポットボイラー。大学の講師をつとめているが、お鳥目は、スズメの涙。
――作家の敵は何だと思いますか。
――さあ、わかりません。何でしょうか。
杉崎さんが私を見る。
――酒と税金です。

 

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1978年2月22日(月)
午後、「小泉のおばチャマ」がきてくれた。
私たちにとっては、小泉 賀江は恩人のひとり。貧乏作家の私をいつも応援してくれたのは小泉 賀江だった。結婚当初、住む場所もなかった私たちに、一戸建ての平家を貸してくれたのも賀江だったし、百合子が肩身の狭い思いをしないですむように心くばりをしてくれた。
賀江は、アメリカ行きに何かお餞別をくれるという。いちおう辞退したが、エリカにも何かおみやげを、という。
百合子といっしょに「そごう」に行く。
コート、ズボン、下着など。「小泉のおばチャマ」のおかげで、どうやら、私の赤ゲット旅行の仕度がととのった。
留守中、エリカから電話。こちらからかけた。
養命酒をもってきてほしい、という。エリカは、私に似て小柄なので、アメリカではいつも子ども扱いらしい。養命酒を飲んで、少し肥りたいという。