1978年1月24日(火)
塚本 邦雄のエッセイ。田歌の異本にふれて、
「異本とはダブル・イメージ、トリプル・イメージをもたらしてくれる巫覡(ふげき)にほかならぬ」という。
若い者の立ち会いと香の濡れ色は見よいものやれ、香の濡れ色はな紅梅は濡れて
見事や女性は濡れて踊るぞ
これが、広島の田歌では、最後の「女性は濡れて踊るぞ」が「女性は濡れて劣るぞ」となっているそうな。わずか一字の違いで、意味が変わってしまう。この田歌から、塚本邦雄は、べージュに近い香色を思い描き、紅梅には劣るが濡れ手も踊りやまぬ女を連想して楽しい、という。
私は、塚本 邦雄と違うことをイメージするが、ここには書かない。
1時、中央図書館に行って、また松本 清張を調べた。その場で、原稿を書く。
5時半、「山ノ上」。「至文堂」の金澄君に原稿をわたす。「NP出版」の内田君にも。もうひとり、鈴木君を待ったが、こなかった。
「弓月」で、小川 茂久、岡崎 康一と会う。岡崎君は、この春、ロンドン留学がきまっている。
いいご機嫌で、「あくね」に移る。
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1978年1月26日(木)
「日経ショッピング」、「公明新聞」のコラム。
水道橋。「地球堂」に寄って、パネルを。すぐに「山ノ上」に。
「ショッピング」、秋吉君。「公明」、名前を失念した。「映画ファン」のアルバイトの女の子。みんなに原稿をわたす。
「小鍛冶」で、岡田と。外で待っていると、彼女が外に出ようとする姿が見えた。
「テアトル・エコー」。
ジョン・ボウエンの「トレヴァー」。1968年初演。「コーヒー色のレース」(1幕)と一緒に上演された。この二つのドラマは、基本的におなじ装置を使って、同じ俳優が演じることを想定しているのだが、「テアトル・エコー」は、「トレヴァー」だけ。
ロンドン。ヴィクトリア朝の建物がアパートになっている。
最上階に、「ジェーン」(安田 恵美子)、「セアラ」(森沢 早苗)が住んでいる。たまたま、「セアラ」の両親がロンドン観光のついでに、娘に会いにくる。両親は、「セアラ」が若い男と婚約して、すでに同棲していると思っている。実際は、そんなこともないため、話の辻褄をあわせるため、「セアラ」はパブで知りあった若い役者に、「トレヴァー」という架空のフィアンセの役をやらせようとする。
そこまではよかったが、「ジェーン」の両親もロンドンに出てきたついでに、娘の婚約者に会いたいというので、こんどは「ジェーン」があわてる。
「セアラ」の両親がきている。「トレヴァー」を紹介したばかりのところに、「ジェーン」の両親が押しかけてきたため、苦し紛れに「ジェーン」も「トレヴァー」を婚約者と紹介してしまう。このため、話がおかしくなって、つぎつぎに混乱が起きてしまう。
要するに、「キプロク喜劇」だが、イギリスの風俗喜劇らしい、際どいエロティシズム満載、いささか悪趣味なくすぐり。笑った。
ジョン・ボウエンは、1924年生まれ。私より、3歳上。
出演者は、新人を起用しているが、やはりヘタ。私は、「新劇場」の女優たちを思いうかべた。なつかしい女の子たち。
岡田をつれて、恵比寿駅前の炉端焼きで、食事。
恵比寿は、思い出の深い町。Y.Kと。
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1978年1月27日(金)
新聞記事から。
カリフォーニア、サンタ・バーバラ。白血病に苦しみ、死期を悟った7歳の少年が、看病している母親に頼んで、生命維持装置の酸素ボンベのコックを閉じてもらって、安楽死をとげた。
この少年は、ブラジルの外交官、クラウディオ・デ・ムーラ・カストロ夫妻の息子、エドワルド少年。昨年から白血病を発症した。みずからの死期が近いと知って、
――ぼくはとても苦しい。死んで天国に行けば、この痛みと苦しみはる。僕は、 8月12日、7歳の誕生日までは生きられるように神さまに祈った。誕生日のあと、1週間ぐらいには死にたい。
という遺書を書いた。
それから4カ月以上も、酸素マスクをつけながら生きたエドワルド少年は、今年の元日、母に向かって、
――ママ、酸素を切って。もう、いらないから。
と訴えた。
カストロ夫人は、
――わたしは、酸素ボンベのコックを閉じました。あの子は、わたしの腕をつかみ、顔をほころばせて、「イッツ・タイム」とつぶやき、そのまま逝きました。
と語った。
この記事を読んで、胸を打たれた。
暗然たる思いと、同時に、エドワルド少年の優しさに涙した。
霜山 徳爾(上智大教授)が、コメントしている。
「7歳の少年が安楽死をするというケースは、初めて聞くことで、ただ驚くばかりだ。まだ、7歳では死の概念もない。子供にとって、それが死に到る病とは考えないのがふつうだ」
という。
しかし、そうだろうか。7歳には7歳の死の概念があるのではないか。私のような者でも、8歳(満7歳)のとき<死にたい>と思ったことがある。今でも、そのときの状況は心から離れない。そのときの私に、私なりの死の概念がなかったのだろうか。
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1978年1月29日(土)
レオン・ユリスの「QB Ⅶ」という映画を見た。
超大作。上映時間、6時間。ストーリーを要約しておく。
ポーランドの強制収容所に入れられた医師が、収容者の医療に当たっているが、ナチスの生体実験に加担し、ユダヤ人の去勢手術をしたという疑惑を持たれている。この医師は、戦後、イギリスに亡命して、後にサーの称号を与えられている。
これが、メイン・プロット。
もう一つは――ユダヤ人として育った作家。映画のシナリオでも、アカデミー賞を2度も得た作家が、父の死で、ユダヤ人としての自覚をもち、大作をかく。この作品のなかで、ナチスの強制収容所で去勢手術に当たった医師の名をあげ、名誉棄損で訴えられる。
法廷で、この強制収容所で何があったのか、はげしい論争がくり広げられる。
ここまでの上映が、第二部まで。(「第三部」の上映は、29日。)
出演者が、多数。
例えば、レスリー・キャロン。はじめは、強制収容所で医師に協力する看護婦だが、「戦後」は老婆になっている。リー・レミックは、作家に恋をする上流夫人、「戦後」は、裁判に協力する貴族の未亡人、というふうに。この「作家」が、レオン・ユリスということになる。
夜、「チップス先生 さようなら」を見た。テレンス・ラティガンの脚色。
ブリット(イギリス人)の堅苦しい性格、そのうしろ側に隠されている、地味ながら、ヒューマンな心ばえ。ピーター・オトゥールは、才能、容姿、演技、どれをとっても秀抜で、こういう俳優こそ名優といっていい。
午後、柴田 裕、悦子夫妻がきてくれた。
2月に仙台に出張するので、作並(温泉)に泊まるという。近く、悦子さんの友人が、米子で結婚する。裕君が米子まで、悦子さんを送って行って、その夜は、倉敷で泊まるという。
幸福そうな二人を見ていると、こちらまで幸福になる。
原 耕平君から、電話。遅ればせながら新年の挨拶。彼も、私たちが月下氷人をつとめた一人。
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1978年1月30日(月)
ずっと、エドワルド少年のことが胸を離れない。
深谷 和子(学芸大・助教授)という人が、エッセイを書いている。
この安楽死について、テーマは二つある、という。
一つは、安楽死の是非論。これについては、日本では結論がでていない、として論じない。
もう一つは、(かりに安楽死を認めたとしても)、子どもたちにこうした重大な決定をまかせていいのかどうか。
この先生は、子どもの臨床心理学の立場から、幼い子どもたちにとっての死の概念とそれをめぐる判断の問題に入る。私などにも納得できる明快な論旨だった。
しかし通常の自殺とエドアルド坊やの自殺(安楽死)とは話はまた別であろう。
子どもの判断(決定)とくに生命の尊厳にかかわるような重大事についての判断が、おとなと同じくらいに尊重されるべきだとするならば、三歳の子どもに喫煙や飲酒だって時には認めなければならなくなる。
しかしこの場合重要なのは、おそらくそれが「子どもが望んだから母親がコックを閉じた」というような単純な状況だったとは考えられない点だ。そこにいたる、病に対する二人の戦いには、第三者の想像を絶するものがあったに違いない。
そしてあの日、「コックを閉じて」と坊やが言った時、同時に母親の判断もそこにあったのだろう。
それにしても、七歳の子どもの最後の望みが死であり、親としてもはやそれしか贈る物を持ち合わせなかったということ――それはわたしたちおとなの胸に、永遠につきささったままの悲しみであろう。
私は、七歳の子どもの最後の望みが死であるような小説を書く作家ではない。書こうと思ったところで、書けるはずもない。だが、母親がコックを閉じたとき、顔をほころばせて、「イッツ・タイム」とつぶやき、そのまま逝った少年のことを考えることはできる。
エドワルド少年のことを考えることで、自分の内部に何が起きるか、それはわからないが、そのときの私に何かあたらしいものをもたらさないといえるだろうか。
「ロータス」。本田 喜昭さんの紹介で、雑誌の編集者、渡辺 康雄さんに会う。三流雑誌だが、渡辺さんの人柄がよかった。小説を書く約束をした。
「日経」に行く。「未知との遭遇」(スティーヴン・スピルバーグ監督)の試写がある。今日は、吉沢君は別行動らしい。試写は川本さんが行くことになったらしく、「日経」の車で「有楽座」に行く。
「未知との遭遇」については、「日経」以外にも、エッセイを書く予定。ここには書かない。エドアルド坊やの自殺と、この映画の幼い少年の姿が重なってくる。
「有楽座」は、たいへんな混雑だった。長い行列ができている。新聞各紙が、つぎつぎに乗りつけてくる。川本さんが先に下りて、ドアを開けてくれたので、恐縮した。まるで、VIP扱いだった。放送人の木島 則夫が、行列のなかから、こっちを見ていた。この試写に誰か有名人がきたのか、たしかめようとしたらしい。
「コロンビア」の宣伝部が総出で、招待客の応対をしている。
新聞記者たちは、すぐに劇場の中に入ってゆくので、私も首尾よくもぐり込んだ。映画批評家たちも、前の席に集まっている。
久しぶりで、劇場に興奮した気分が渦を巻いている。
スティーヴン・スピルバーグの来日が噂されていたが、スピルバーグはこなかった。
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1978年1月31日(火)
「自由国民」、田岡さんから、督促。申しわけない。昨夜、スピルバーグの映画の試写を見たので、書けなかったともいえないし。
「レモン」も督促。
杉崎女史から電話。
――もう、(日本に)いらっしゃらないか、と思って電話したんです。
――まだ、動きがとれないんです。
――先生は、いつもお忙しすぎるのよ。
――いや、才能がないから、原稿が書けないんですよ。
杉崎女史は、9月、ロサンジェルスの大学に招聘されて、日本文学の講義をするとのこと。
竹内 紀吉君が、小酒井 不木を届けてくれた。さっそく拝読。引例は豊富だが、残念ながらそれほど充実した内容ではなかった。小酒井先生を貶めるつもりはない。あの時代に、これほどのことを試みた小酒井 不木に深い敬意をおぼえた。
夕方、義母、湯浅 かおる、来訪。百合子と三人で、夜食をともにする。そのあと、百合子が送って行った。戻ってきた百合子は、太郎たちと麻雀。私は原稿を書く。
武谷君と電話で、「演出ノート」の出版をきめた。
パリ。ヨーロッパ有数の富豪、エドワール・ジャン・アンパン男爵が過激派に誘拐されて、1週間になる。
この事件に関心はない。しかし、アンパン男爵が、16区アヴェニュ・フォッシュ33番地のマンションに住んでいると知って、にわかに興味がわいた。私が訪問したジャン・ラウロ博士の自宅が、すぐ近くにある。ラウロ博士は、戦時中は、海軍中佐で、「戦後」はドゴール大統領の歯の主治医で、レジョン・ドヌールを受けている。私は、岳父、湯浅 泰仁が、歯科医師会の副会長だったため、ラウロ博士夫妻が来日したとき、通訳をつとめた。
私がフランスに行ったとき、ラウロ邸を表敬訪問したが、住所がアヴェニュ・フォッシュ30番地だった。アヴェニュ・フォッシュは、パリでも最高級の住宅地で、パルク・モンソォの近く。私はモーパッサンの胸像を仰ぎ見ながら、永井 荷風もこの胸像を仰ぎ見たのか、と思うと、いささか感慨をもよおしたことを思い出す。
アンパン男爵の名は、日本人にはおかしい響きだが、Empain と書く。アンパン=シュネデール財閥の当主。アンパン男爵のランサムは、史上最高の25~50億フランといわれている。
もうひとつ。
ダミアの訃報。
「暗い日曜日」はもっていたはずなので、原稿を書いたら、探してみよう。
あとでダミアを聞いた。シャンソンのコンピレーションで、ついでにリュシエンヌ・ボワイエ、イヴェット・ジロー、コラ・ヴォケール、エディト・ピアフも聞いた。
なつかしいパリの歌姫たち。過ぎ去った時代の。