1977年1月10日(火)
風が強く、寒い日。
1時、「東和」で、「ボーイズ・ボーイズ」(ドン・コスカレリ監督)を見た。
「ケニー」(ダン・マッキャン)は、仲間の「ダグ」、「シャーマン」と遊んでいる。彼の悩みは、愛犬の「ボビー」の病気と、ワルの「ジョニー」にいじめられること。愛犬は、獣医の手で、安楽死される。残ったのは、「ジョニー」との対決。
どこでも見かける地方都市の日常の、ローティーンの少年たち。
しかし、この街の背景に、死が翳りを落としている。愛しているイヌを、獣医の手で安楽死させるシーン。死んだような街を、ただ歩いている老人。この映画には、ヴェトナム戦争後の、しらじらとしたアメリカが露呈している。
ドン・コスカレリは、23歳。製作、脚本、撮影、編集、何もかも自分でやったらしい。ときどきでてくるアンファン・テリブルのひとり。問題は――彼がこのまま10年、20年と、映画の仕事をつづけていけるかどうか。
六本木に行く。「テレ朝」のプロデューサー、小島 閑さん、チーフの戸田さんに会う。正直にフランドル派について、ほとんど知らないとつたえた。ふたりも予期していたらしい。メムリンクのドキュメンタリをみせてもらった。
キリスト教初期に殉教した聖女を中心にした構成を考えているらしい。
六本木は、私にとってはなつかしい街である。「俳優座」の養成所の講師をしていたから。私の愛した「アルクメーヌ」はどうしているだろう。「シュザンヌ」は? そして、「ブランチ」は、どこに行ってしまったのか。
せっかく六本木にきたので、本をあさったが、欲しい本もなかった。
寒い日。
スズキ シン一の個展(東銀座)を見に行きたかったが、凍えそうなのであきらめた。六本木で陶器の人形を買う。
「山の上」で食事。
このホテルも、私にとっては青春の一部。若い頃、このホテルの前を通ると、カンヅメになった作家たちが出入りしていた。高見 順、山本 健吉、平林 たい子たち。
いつか、このホテルで仕事をするもの書きになりたい、と思ってきた。その私が、今では、毎日のようにこのホテルに立ち寄っている。私の仕事の大半は「山の上」で書いたものばかり。
夜、「弓月」。安東夫妻、工藤 惇子、鈴木 和子、石井 秀明、菅沼 珠代たち。
みんなと別れて「あくね」。
小川 茂久と。
1977年1月12日(木)
「共同通信」、戸部さんの原稿を書いていた。戸部さんに原稿をわたしてほっとしたところに、「テレビ朝日」の撮影班がきた。スタッフが多い。これを見た戸部さんは、私を売れっ子作家とカン違いしたらしい。他社の編集者がつめかけているし、私の指定する場所に、つぎからつぎに編集者がくるので。
戸部さんは撮影を見ていたかったらしいが、撮影のスタッフが多いので、あわてて帰った。
「テレビ朝日」の戸田さんが私に質問する。これに私が答える形式。
なんとか恰好はついた。
撮影班が帰ったのは、4時近く。
6時頃、友人の飯島君、来訪。1月1日に、母堂が亡くなられたという。
飯島家は、代々、医家。飯島君は、「大映」の脚本部に入ったが、1本も映画化されないまま退職。その後は、高等遊民のように暮らしている。
飯島家は、千葉の名家なので、葬儀はたいへんだったらしい。
1977年1月13日(金)
出かける仕度をしているとき、「自由国民社」の田岡さんから電話。至急、お目にかかりたいという。こういう場合、誰か有名人に依頼していた原稿をスッポかされて、急遽、代役を立てなければならなくなった、そこで、中田 耕治を思い出したということに違いない。
私は、12時半に、新橋で、中村 継男と会う約束がある。こういう場合、連絡のとりようがない。
特急。12時35分、新橋着。
「ナイル」で「自由国民社」の田岡さんと会う。原稿、2本。やっぱり、そういうことか。引き受ける。田岡さんは、ほっとしたようだった。私を、そんなに多忙とは見ていないらしい。
――これから、どちらに?
――銀座で、映画を見るつもりです。
田岡さんの原稿を引き受けて、すくに「アート・コーヒー」で、中村 継男とあって、試写室に行く予定だった。しかし、田岡さんと会ったため、「ワーナー」の試写に遅れた。これは残念だった。見たかったのは、「ボビー・ディアフィールド」(シドニー・ポラック監督)。アル・パチーノ、マルト・ケラー。私のご贔屓、アニー・デュプレーが出ているので、ぜひ見たかったのだが、あきらめた。
中村君をつれて、画廊めぐり。林 宏樹という写真家の個展がよかった。少し遅い食事をとる。
3時から、「東和」第二試写室で、「白夜」(ロベール・ブレッソン監督)を見た。むろん、中村君もいっしょに。中村君は映画のタイトルも知らずに試写を見たので、映画よりも、有名な作家や映画批評家がつめかけている試写室の雰囲気に感動したらしい。
6時、「山ノ上」で、武谷 祐三君と会う。長編の打合せ。中村君が帰ったあと、菅沼がきた。
そのあと、菅沼を連れて、「あくね」に行く。小川 茂久と会う。
――お、今夜は別な女の子とごいっしょか。
――山おんなだよ。
小川はケッケッケッと笑う。
私が、しょっちゅう違う女の子をつれて、「あくね」や「弓月」に姿を見せるので、みんなが私を「女好き」と見ている。中には、私がつれて歩いている女の子と「タンドル・コネサンス」(get into her pants)と見るやつがいる。それも、ひとりではなく、複数。
ある集まりで、私が10人ばかりの女の子といっしょに話をしていると、しばらく見ていた新聞記者が、私に寄ってきて、耳もとで、
――みんなとヤッたんですか?
と訊いた。何のことだろう? 私が、けげんな顔をしていると、
――だから、この女性たち、全部をモノにしたんですか?
思わず笑ってしまった。まるで、ドンファンではないか。誰ひとり口説いたこともないのに。
私には、いつも女性に対する親しみ(アフェクション)がある。そういう女たちを、いつも「恋人」と呼ぶことにしていた。エロティックな関心がないとはいわない。もともと「俳優座」の養成所や、幾つかの劇団で、若い女優たち、あるいは、演出部、美術、音楽、衣装係の女性たちに囲まれて過ごしてきた。私のアフェクションは、身辺にいつも協力者として女性を配置する習性というか、いつも、たくさんの女性をはべらせていたせいかも知れない。
帰宅。もう、映画に食傷しているのに、テレビで、「天国への階段」を見てしまった。ディヴィッド・ニーヴン、キム・スタンリー。
若い頃に、この映画を見た。今、この映画を見ることは、自分の青春時代を見ることにほかならない。
内村 直也先生に、この映画の話をして、ぜひ見に行ってください、とすすめた。この映画を見た内村さんは、大きな刺激を受けたらしい。その後、私がすすめた映画はかならず見るようになった。思い出のひとつ。
1977年1月14日(土)
昨日、「あくね」に行く前に、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとってきた。Y.K.と山に登ったときのスナップ。去年の暮れ、書斎を片づけたとき、未現像のカラーフィルムを見つけた。暮れだったので現像に出さなかった。
韮崎からサワラ池に出て、山荘に一泊。翌日、甘利から御所山に登ったときのもので、山頂付近で撮ったショット。
Y.K.は、汗を拭くために、タオルを胸に当てた。
――誰も見てやしないよ。シャツを脱いで、からだを拭いたほうがいい。
Y.K.は、わるびれず、シャツを脱いでからだを拭いた。
1978年1月15日(日)
昨日、伊豆で地震。死者、10名。行方不明者、15名。
今日も、各地で余震が続いている。暖かい日で、夕方から風が出てきた。何の根拠もないのだが、地震があったらいやだな、と思う。地震予知連絡会が、東大地震研究所で、緊急会議を開き、今後の見通しなどを検討した。それによると、14日のマグニチュード7の地震以後続いている余震は、大島の西の近海付近、伊豆半島中部でも発生し、二つのグループにわかれているという。
マグニチュード7の地震では、余震域は直径30~40キロに及ぶという。伊豆では群発地震がしばしば起きているが、今回の震源は5キロ前後の直下型なので、最大震度 5の強震が起きるおそれがある、という結論だった。
私は地震に対する警戒心が強い。父母から、関東大震災の恐怖を聞かされてそだったせいもある。戦災も何度も体験しているので、地震や火事に対する警戒心が強いのだろう。