1977年12月28日(土)
池が完成した。
ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
あとは、正月明けにようすを見にくる。
仕事収めなので、酒をふる舞う。
下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。
1977年12月29日(日)
どうしても、東京に出かけなければならないため、1時に家を出た。
「日経」、吉沢君のデスクで、原稿を書く。
いつも、いろいろな記者が、忙しく動いているのだか、さすがに年末なので、少しだけ、落ちついている。文化部のデスクで、原稿を書く作家はいない。おそらく、私だけだろうと思う。私の場合、おもに映画評を書くので、試写を見たらすぐに書いたほうがいい。
私は、「戦後」すぐに、「時事新報」のコラムを書きはじめたせいか、新聞のデスクで、記者たちと雑談しながら原稿を書くのが好きなのだ。
文化部、青柳 潤一、竹田 博志君が、挨拶にくる。みんな、吉沢君の同僚記者である。
おみやげに、イギリスのウイスキ-をわたしてやる。みんなが、よろこんでくれた。
神田に出た。
正月中に読む本はある。
「悪魔の種子」、「キャンデ-はだめよ」、「34歳のミリアム」、「朝までいっしょに」、「緑の石」、「血と金」、「砂漠のバラ」。これだけで7冊。しかし、2日もあれば読めるだろう。
「あくね」に行く。小川に会う。この日で「あくね」の年内営業は終わり。
あとで、矢牧 一宏、内藤 三津子のおふたりがくるはずだったが、会えなかった。
帰宅。最後にショックが待っていた。
百合子が、私の顔をみるなり、
――「イジケ」が死んだのよ。
という。
「イジケ」は、「チャッピ」の生んだメスで、性格的にイジケているので、「イジケ」という名をつけた。駐車場の内部で死んでいた、という。
酔いがさめた。
私は、「イジケ」を特別に可愛がっていたわけではない。ただ、いつもイジケて、私の膝にも寄ってこなかった。私が、ほかのネコを抱いてやっているうちに、なんとなく私のそばに寄ってくる。その首をつまんで、抱きしめてやると、やっと安心して、抱かれている。そんなネコだった。
しかし、どういうものだろう。今年は、我が家のネコがつぎつぎに非業の死を遂げた。
「チャッピ」が病死したあと、「シロ」が失踪した。エリカがつれてきたネコで、今、我が家にいるネコたちの、母親。そのあと、私が、いちばん可愛いがっていた「シロ」(「シロ」の子の「ルミ」が生んだオス)が交通事故で不慮の死を遂げた。その「シロ」より、1シ-ズン遅れて生まれた、目の青い、これも可愛いコネコ、これも病死した。
そして、「イジケ」である。計、5匹。迷信深い人なら、カツぐところだ。
歳末ぎりぎりになって、こんなことになるなんて。
「イジケ」を埋葬してやる。私の家の庭には、すでに何匹もネコが埋められている。今では、それぞれのネコを思い出すこともないが、それでも、それぞれの死を思うと、涙がにじむ。
1977年12月30日(月)
つごもり。
今年、最後の短編を書く。
最初の一行が書ければ、あとはなんとかなる。
やっと書いた。
あまり、できがよくないのはわかっている。
夕方、5時、「れもん社」、三浦 哲人君がとりにきてくれた。
やはり疲れたらしく、眠ってしまった。
眼がさめたので、テレビをつけたら、「お熱いのがお好き」(ビリ-・ワイルダ-監督)をやっていた。解説、虫明 亜呂無。つい見てしまった。
1977年12月31日(火)
大つごもり。
この日記をつけはじめて、だいたい毎日、おもに身辺のことを書いてきた。日記をつけないと、それが気になって、何も書くことがなくても、映画のことを書くような習慣がついてしまった。
この一年は、どういう年だったか。
厚生省。日本人の平均寿命、女性は77歳。男性、72歳と発表した。
村山 知義、長沼 弘毅、石子 順造、吉田 健一、今 東光、内藤 濯、和田 芳恵、稲垣 足穂、海音寺 潮五郎。この方々が逝去した。
面識があったのは、和田さんだけだが、それでも、この人たちの仕事は心に残っている。和田さんが、最後のご本、「自伝抄」を送ってくださったことは忘れない。
ジョルジュ・クル-ゾ-、ジョ-ン・クロフォ-ド、ロベルト・ロッセリ-ニ、エルヴィス・プレスリ-、グル-チョ・マルクス、レオポルド・ストコフスキ-、マリ-ア・カラス、ビング・クロスビ-、チャ-リ-・チャプリン。
みんな、亡くなっている。
プレスリ-については、「共同通信」で。チャプリンについては、「日経」で、コメントを発表した。
ほかの人たちについては、何も語ることなく終わるだろうが、これらの人々の仕事を知らなかったら、私自身の「現在」はあり得なかったと思う。ジョ-ン・クロフォ-ドに対しては、いささか反感めいた思いがあるのだが、それでもこの女優の映画も私の一部になっているだろう。
部屋を片づける。一年分の埃がたまっているので、片づけるのはたいへんなのだ。
安東 つとむ、由利子、鈴木 和子がきてくれた。もっと早くきてくれれば、片づけをてつだってもらうところだが、一日早い年始回りになった。
百合子はよろこんで、三人をもてなしている。なにしろ、しょっちゅう人がくるので、時ならぬ来訪者にいつも対応しなければならない。作家の女房というのも楽ではないのに、いつも笑顔を忘れない。
しかし、安東たちがきてくれたのはうれしかった。大晦日に知人といっしょに新年をむかえることは一度もなかった。
百合子もまじえて、たあいもない話をしながら、酒宴になった。
1977年(昭和52年)、何が流行ったか。
「母さん、ぼくの帽子、どうしたでしょうね」。これは、角川映画、森村 誠一原作の映画のコマ-シャルから。この宣伝費だけで、4億5千万円。森村 誠一フェアに5億という。これだけの金をかけて、この流行語ができたと思えば安いものだろう。
もう一つ、これも映画から。「天は我らを見放した」。「八甲田山」で、北大路 欣也が、雪中行軍で、暴風雪で遭難したときのセリフ。
――先生、あの原稿、どうしたでしょうね。
――書けなかったよ。ごめんね。天は我らを見放した。
こんなふうに使う。
――先生、原稿、これっきり、もうこれっきりですか。
――それは、去年の流行語だろ。
大つごもりなのに、たあいのない話をしてはみんなで笑った。
これも流行語だが、「ル-ツ」。10月に「テレ朝」が放送したドラマのタイトル。私は、いろいろな小説を読んできたが、この名詞にぶつかったことは、ほとんどない。ところが、このドラマのおかげで、何かの起源に関して、すぐに「ル-ツ」という言葉が使われるようになった。「紅白」を見たあと、「八十日間世界一周」(マイケル・アンダ-ソン監督)を見た。3時頃、さすがに眠くなってきた。
広間に寝具を出して、安東たちを寝させた。私たちは、2階の寝室に。
これで、私の1977年は終わった。