1802〈1977年日記 49〉

 

1977年12月23日(月)
寒い日。
午前中から、メディチ家のノ-ト。

あい変わらず、本、雑誌がたくさん届いてくる。
伊藤 昌子さんから、原稿が届いた。吉沢 正英君から、「真夜中の向こう側」(チャ-ルズ・ジャロット監督)の試写の日程。春の公開作品だが、師走になって試写に力を入れはじめたのか。
試写室通いをしていると、その映画が当たるか当たらないか、試写の予定からでも想像がつくようになってきた。
「三笠書房」、三谷君から電話。

夜、岳父から、池田さんのご母堂の病状をつたえてきた。
義弟、湯浅 太郎に、私から知らせた。その一方、すぐに小泉 まさ美に連絡して、「並木」にいる太郎と、義母、湯浅 かおるを迎えにやる。
太郎と、義母、湯浅 かおるが、小泉家にきたら、百合子も、いっしょに同行させることになった。

 

 

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1977年12月24日(火)
深夜2時、岳父(湯浅 泰仁)から電話。
池田 美代さんの死去をつたえてきた。予期していたことだったが、親族の死なので、にわかに忙しくなった。すぐに、これも親族の杉本 周悦につたえた。
美代さんは、享年、82歳。陸軍中将夫人。

臨終に当たって、
――このひとも後生がいいわねえ、クリスマスの日に死ぬなんて。
と放言した親族がいたという。

この夜、通夜が行われた。私も出席した。小泉 隆、賀江夫妻の隣りにひかえた。
美代さんの甥にあたる池田 豊弥さんと話をする。このひとは、厚生省の麻薬取締官で、まさに快男児といってよかった。大麻に関して、最近、「小説宝石」で小堺 昭三のインタヴュ-をうけたという。私が映画で見たフレンチ・コネクションや、東京ル-トのことなどをきくと、何でも答えてくれた。

 

 

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1977年12月25日(水)
池田家、葬儀。

25日が一般のお通夜で、27日が葬儀という。格式を重んじて、そうきめたらしい。

夜、「日経」の吉沢君から電話。チャ-リ-・チャプリンの訃報。すぐに感想を口述する。明日の朝刊に出る。

チャプリンの死因は、老衰という。臨終にはウ-ナが付添い、ジェラルディンほか子や孫、8人が見まもったという。葬儀も家族葬ということらしい。

 

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1977年12月26日(木)
テレビ、チャプリンの「キッド」を見た。
解説、荻 昌弘。最初に、チャプリンに哀悼をささげたが、その眼に涙をうかべていた。やはり、深い感慨があったのだろう。

私の個人的な意見。
「殺人狂時代」以後の作品のチャプリンは、やはり衰えを感じさせる。
芸術家の晩年。どういう晩年を生きるのか。

チャプリンが、20世紀有数の芸術家だったことは疑いもない。
だが、チャプリンの場合も、映画監督という仕事が、老年の演出家にとっては、困難な仕事になったのではないだろうか。
「戦後」のアメリカが、チャプリンにその天才のじゅうぶんな展開を許さなかったことは否定できないが。

 

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1977年12月27日(金)
池田 美代、葬儀。

百合子は、連日、池田家に行って、美代さんの葬儀の準備に奔走している。従妹の内山夫人が動けないので、いろいろな雑事まで、百合子が引き受けたらしい。このため、昼になって、美容院に行く時間がなくなってしまった。
葬儀は、宗胤寺で行われた。この日、快晴。
これまでの私は、お葬式に出ても、遺族にモゴモゴお悔やみを申し上げたあと、そそくさとお焼香をして辞去する。葬儀に出られない場合は、お通夜に出て、列席の方々に、ヘコヘコ頭をさげて、お葬式に出られないお詫びを申し上げて失礼する。
もっと忙しいときは、お香典を、妻や親しい知人に託して、義理をはたす。
そんなことで済ませてきたが、今回は、百合子の大伯母に当たるオバアサンの葬式なので、百合子といっしょに近親者として、弔問の方々の挨拶を受ける側なので、まことに居心地がよくない。
葬儀そのものは、ご多忙中の参列者の方々のために、厳粛、かつパンクチュアリ-に式次第が進行する。お坊さまによる読経は、まことに、音斗りょうりょうたるもので、どうもふつうのホトケさまの法要の何倍も「ありがたい」ものだったらしい。百合子は身じろぎもせずに控えているが、私は、はなはだ不謹慎ながら、死者と生者の別れの儀式は、できるだけ、生者のタイム・スケジュ-ルにあわせていただきたい、と願っている。
足がしびれ、すわっている感覚がなくなってきて、ようやくゴングが鳴って、木魚のリズムが聞こえたときは、サッカ-の、ロスタイムに入ったような気がした。

人の死さえも、こちらの都合にあわせるなど、まことに無礼千番と心得てはいるが、読経につづいてのお焼香になってありがたいと思った。やっと席から立てるからであった。

葬式の挨拶は、きまりきったことしかいえないので、口にするのもはばかられるのだが、読経が終わったあと、居並ぶ親族が、口をそろえて、故人は身勝手な一生を過ごしてきたが、まったく後生のいい人だといいあう。

岳父(湯浅 泰仁)の実姉なので、各地の名士からの弔電が多数。

葬儀のあと、百合子といっしょに帰宅した。疲れた。

夜、ひとりで飲んだ。チャプリン追悼の意味で。

 

 

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1977年12月28日(土)
池が完成した。

ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
あとは、正月明けにようすを見にくる。
仕事収めなので、酒をふる舞う。

下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。