1800〈1977年日記 47〉

1977年11月19日(土)

11時に家を出て、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとる。
新宿。「アルプス7号」。安東夫妻、吉沢 正英、工藤 敦子、鈴木、石井たち。
塩山で、バスに乗る前に、近くの「港屋」でナタを買った。

はじめは、増富ラジウム温泉に泊まって、木賊峠、長窪峠、八丁峠、そして清川というプランだった。しかし、明日が日曜日なので、増富が混んでいることは予想できた。
木賊峠までは林道が長いので、泊まりは黒平温泉のほうがいい。ところが、電話で問い合わせると休業したという。
仕方がない。甲府の奥。古湯坊に泊まって、帯那山、水ノ森のコ-スはどうか。これまた、いっぱいという。不況なのに、どこの温泉も混んでいる。
私たちの登山は、物見遊山ではないのだが、なるべく温泉に泊まりたいという気もちは、日本人らしい発想なのかも知れない。
万事休す。地図を睨んで、川浦の奥の雷(いかずち)、日乃出荘に泊まれば、大島山、大久保山のコ-スが考えられる。朝、マイクロバスで送ってくれれば、雲法寺から小楢山も歩ける。よし、これにきめた。
日乃出荘に電話。予約。

いつも、ザックは準備してある。
ヴェトナム戦争で使われた実戦用の小型のザックに、すべて叩き込んである。これに、ツェルトを持って行くのが、私の基本的なスタイル。

歩きはじめる。
やがて、雑草を踏みわけて、登山コ-スにでると、肌寒いほどの気温になってきた。山に近い盆地なので、温度差がはげしいのか。草の匂い。正面の山の上は、朝焼け。これは、警戒が必要だろう。わずかな畑、その上の空がいちめん、澄みきった紅に染まっている。私と吉沢君は、しばらく空の色に見とれて、草原のなかに立ちつくしていた。

雷(いかづち)で下りた。「日乃出荘」のオバサンが、私のことをおぼえていた。夜食は、イノブタ。おいしい。
5時半。マイクロバスで徳和まで送ってもらう。

6時5分、歩きはじめる。
川沿い、北上する。堰堤を三つ過ぎたところで、渡渉。
工藤 淳子が、またしても特技をご披露した。どんな小さな水たまりでも、かならず足をすべらす特技。このときも、私がうしろに立って、カヴァ-してやったのに――川に落ちた。下半身ずぶ濡れ。みんなが笑ったが、笑いごとではない。
安東と石井に、近くの木を2本、切らせた。(ナタを買ってよかった。)この木を川に掛けて橋のかわりにする。菅沼はうまく渡ったが、鈴木がバランスを崩して、足を濡らした。
歩き出したとたんに、こんな事故を起こしたのはめずらしい。
予定変更。川原で、火を起こして、朝食。その間に、工藤と鈴木は、できるだけ早くズボンを乾かすことにした。

崩れかけた橋(丸木)の手前から、岩の多いガレ場を登って行く。

きつい斜面を登って、大カラス山の東の支峰に出た。ここで赤マ-クを見つけた。道らしいものは残っていたが、誰も通る人のない廃道らしい。
こういうコ-スこそ、私たちの本領とするところなのだ。足の下に踏みつける土の感触が違う。
やがて、1773の三角点を見つけた。
ここで、昼食。

鈴木がバテたらしい。
やむを得ない。彼女をここに残して、あとのメンバ-で、大カラス山をめざした。なにしろ、道らしい道もないのだから、途中、岩に這いつくばってやっと通り抜けた。
大カラス山の往復に50分かかった。

帰りは、夕方4時55分のバスに乗らなければならない。道は、東御殿の先から荒れ果てている。松を切り倒したあたりから、道ではない斜面を下ることにした。
大久保山の下からできるだけ東の尾根をたどり、徳和をめざした。

午後、4時にバス停についた。期せずして、拍手がおきた。
久しぶりに、おもしろい山行になった。

――おれたちって、スゴいんじゃね?」
だれかがいった。
――だれも登らない山を登るって、おもしろいですね。
私はいった。
――バスに乗れなかったら、ここでビバ-クするぞ」

 久しぶりに、おもしろい山行になったので、みんなが笑った。

 

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1977年11月21日(月)

埴谷 雄高さんから「蓮と海嘯」をいただいた。

夜、「スロ-タ-・ハウス」(ジョ-ジ・ロイ=ヒル監督)。
中年の検眼士が、時空を越えて、さまざまな場所に出没する。現在のSFがどういう状況なのか、ほとんど知らないのだが、カ-ト・ヴォネガットの小説は、これからの文学の一つの指標と見ていい。

昨日、新聞で、フランスの俳優、ヴィクトル・フランサンが亡くなったことを知った。私は、この役者についてほとんど知らない。「旅路の果て」で老俳優をやったヴィクトル・フランサンを思い出す。
「運命の饗宴」の第3話、貧しい作曲家(チャ-ルズ・ロ-トン)が、コンサ-ト・ホ-ルで自作を指揮することになる。妻(エルザ・ランチェスタ-)がやっとのことでタキシ-ドを見つけてくる。作曲家は指揮をするのだが、タキシ-ドが破れて、失笑を買う。
そのとき、会場にいた名指揮者が、自分の席でタキシ-ドを脱いで、貧しい作曲家に、指揮をつづけるように指示する。この名指揮者をヴィクトル・フランサンがやっていた。
その後、エロ-ル・フリンの西部劇、「サン・アントニオ」(デヴィッド・バトラ-監督)で、あの美髯を剃り落として、悪役をやっていたヴィクトル・フランサンに胸を衝かれたことを思い出す。

 

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1977年11月22日(火)

芥川 龍之介を読む。

夏目先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は過去に於いて、十二分に仕事をされた人である。が、先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、その頃或転機の上に立ってゐられたやうだから。すべての偉大な人のやうに、五十歳を期して、更に大踏歩を進められやうとしてゐたから。

「校正の后に」という文章の一節。
漱石の死を悼む真情はよくあらわれているが、なんとなく空疎な感じがある。おそらく、忽卒のうちに書かれたためだろう。
それはともかく、五十歳を期して、更に大踏歩を進めようとするのは、漱石のような大作家にかぎったわけではない。
私は、しがない「もの書き」だが、それでも、五十歳を期して、いささかあらたな歩みを模索している。

武谷君と仕事の話。長編を書くことになった。これも一つの「転機」というべきか。

5時。「南窓社」の岸村さん。アナイスの小説を出してくれないかと相談する。「実業之日本」には、アナイスを出す気がないのだから、私としては、「南窓社」あたりに話をもって行くしかない。またしても杉崎女史は失望するだろう。どうして、これほど苦労させられるのか。

「あくね」。小川 茂久と。

小川は、私と違って、かぎりなく酒を愛している。しかし、彼はおよそエピキュリアンではない。一見、そんなふうに見えるのは、じつは彼が一種の宿命観をもっているせいではないかと思う。
1945年、もはや敗戦必至の状況で、小川は招集を受けた。

「三月九日夜半から十日未明にわたるすさまじい東京大空襲を、大森で見聞していたし、六月二十三日の沖縄守備軍全滅の報道も知っていたので、入隊の時には、戦い利あらず、一命を落しに行くようなものだと覚悟した。諦め易い質の私はその忍び寄る死に対して、まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった。

こうした一種、ニル・アドミラリの姿勢は、私にもある程度、共通しているはずだが、小川は表面こそ「まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった」ように見えながら、現実には、人いちばいきびしい正義観をもっていた。たとえば、戦争責任者に対する彼の眼は苛烈だった。
文学に対しても、彼の内面は繊細で、柔軟だった。
いつも、ほのぼのとしたおもむきをたたえながら、内面に機知をわすれない。

お互いに、たいした事を話題にするでもなく、ひたすら酒を飲みしこる。こうして、私は小川 茂久と三十年も過ごしてきた。そのことを人生の幸福と思っている。

 

 

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1977年11月23日(水)・

快晴。無為。

「毒物」について。しばらく勉強するつもり。
たいへんな領域だと思う。(ずっとあとになって、このときの知識が「ブランヴィリエ侯爵夫人」を書くのに役立った。 後記)

和田 芳恵さんのエッセイに、柴田 宵曲のことばがあった。

私は五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むことにしている。学者や批評家が、長いあいだに、多くの作品を篩に書けているから、無駄な苦労をしないですむ。

和田さんは、柴田 宵曲の影響を受けたという。
岩波文庫で宵曲を読んだだけだが、和田 芳恵さんのエッセイを読んで、あらためて読み直してみようと思った。
できれば私も「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むこと」をこころがけようと思う。

 

 

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1977年11月24日(木)・

快晴。ただし、寒い。
国電ストは、6時半から平常に戻ったが、混乱は避けがたい。それにしても、国労、動労は、どうしてこういう無意味なストを打ち出すのか。

昨日のロンドン、円相場は、1ドル=239円38銭。
円相場は9月末から上昇をつづけ、10月6日に、260円。28日に250円。ここにきて、230円に突入した。
国内の不況は、先月の、菅原君、小野君、内藤君、三人の話でもわかったが、これから日本はどうなって行くのか。

 

 

 

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1977年11月25日(金)・

先日の登山で、めずらしく石井 秀明がバテた。どうやら風邪気味だったらしい。
今は、私が風邪をひいている。手の肘、膝のうしろ、ヒカガミのあたり、痛いほどではないが、キヤキヤした感じ。

「ビリ-・ザ・キッド」(サム・ペキンパ-監督)を見た。
アウトロ-の世界に、奔放に生きて、最後にみずから進んで友人の手にかかる、「ビリ-・ザ・キッド」(クリス・クリストファ-スン)。一方、開拓者の時代の終わりを測々として感じながら、どこまでも旧友、「ビリ-・ザ・キッド」を追いつめて行く保安官、「パット・ギャレット」(ジェ-ムス・コバ-ン)の対決と友情の物語。
ほんとうにいい映画だが、サム・ペキンパ-の映画としては、一昨年の「ガルシアの首」のほうがいい。こういうことは、短い映画評では、なかなかつたえられない。
サム・ペキンパ-は、メキシコが好きで、多分、メキシコの女も好きなのだろう。「ガルシアの首」に、イセラ・ベガを出したように、この映画で、カテイ・フラ-ドを出している。「真昼の決闘」(フレッド・ジンネマン監督/1952年)のカテイは美女だったが、この映画では、中年のオバサン。女優として、いい年のとりかたをしている。
音楽はボブ・ディラン。しかも、ボブは、この映画に出ている。芝居をしているわけではない。ただ、クリス・クリストファ-スンのそばに、ムスッとした顔つきで立っているだけ。それだけで存在感がある。

できるだけ安静にする。しかし、夜になって、37度9分。

 

 

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1977年11月26日(土)

連日、ドル安、円高がつづいている。日銀が介入して1ドル=240円。ここまで円高というのは、異常事態で、このままでは世界じゅうで円がスペキュレ-ンの対象になるおそれがある。

中国。「人民日報」が、この21日に座談会をひらいて、茅盾、劉 白羽、謝冰心、李 李などが出席。ここでも――江 青たちは、劉 少奇批判を口にしながら、党指導の社会主義文芸路線を毛 沢東の思想と対立する反社会主義的なものときめつけたという。

 

 

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1977年11月27日(日)
風邪のため、一日じゅう寝ていた。
関節、とくに肘が痛む。発熱。本を読む気が起きない。

 

 

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1977年11月28日(月)

「白鯨」を読みはじめた。
田中 西二郎訳。田中さんが、署名して贈ってくださった。
「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読む」つもり。

 

 

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1977年11月29日(火)

しかし、ひどい目にあった。咳をすると、とまらなくなる。肋骨にヒビが入ったように、痛い。痰を吐いたあとも、ゼロゼロしたものが胸に残る。声が出ない。出ても、自分の声とは思えない。とにかく、ひどい目にあった。
「小泉内科」で注射してもらった。
原稿は何も書けない。
「日経」の原稿だけは書いた。

貧乏作家なので、ついつい雑文ばかり書いている。収入は安定しているので、いつまでもポット・ボイラ-をつづけなくていい。もう少し仕事をセ-ヴしよう。
そろそろ、念願の大きな仕事にとりかかったほうがいい。