1977年11月13日(日)
レオポルド・ストコフスキ-が亡くなった。95歳。
残念なことに、ストコフスキ-のレコ-ドをもっていない。だから、思い出のなかのストコフスキ-の演奏を思い出す。(ストコフスキ-が指揮したディアナ・ダ-ビンをもっていたはずだが、これも探し出せなかった。残念。)
久しぶりで山歩き。
「マリア」がいっしょなので、ぐっとレベルを落として、低い山を選んだ。相模湖から明王峠に出て、陣馬山というコ-ス。初歩のコ-スだが、相模湖から逆に歩くコ-スは、誰も通らない。あまり低すぎてつまらないが、誰も通らないだけに、ピクニックにはいい。明王峠から陣馬は、人が多いので、別のコ-スに。
相模湖から、やや冷たい風が吹いてくる。あたりに人影はない。
峠に出て、一服する。
「マリア」は、落ちついた足どりでついてくる。何度か山歩きをつづけて、ハイキングの楽しさがわかってきたのか。
途中で、姫谷に出ることにした。林道まで、たかだか1800メ-トル。だが、このコ-スも楽しかった。じつは、私の目的は、二色鉱泉だったが、休業しているというので、姫谷に変更したのだった。
姫谷で、シカの刺し身、イノシシ鍋を食べた。
「マリア」はひるまずに、イノシシ鍋をつついている。これまで一度も食べたことのないものでも、おいしい味はおいしいのだ。
帰り、高尾で乗り換えたのだが、電車のなかで、思いがけず、知り合いに会った。以前、「あくね」にいた女の子だが、寺山 修司の劇団、「天井桟敷」の研究生だった。
「ネスカフェ」のCMを歌っているマデリン・ベルに似たハスキ-な声。
「マリア」を見て、
--先生、お楽しみね。
もともと、青白い顔で、暗い影のある女の子だったが、すっかり健康な感じになっていた。今は幼稚園の保母さんになっている、とか。
1977年11月14日(月)
内村 直也先生、藤枝 静男さんから、「私のアメリカン・ブル-ス」受贈の礼状。
藤枝さんは――埴谷 雄高さんの話では、サルバド-ル・ダリに、バルトロンメオ・ヴェネトの絵にわざわざ髭をつけて「自画像」と題した絵があると書いてきた。この絵は私も見たことがある。藤枝さんは、全集(「筑摩書房」)の月報に、ヴェネトとダリの絵を並べてみたい、という。
内村さんは――(私がとりあげている)ア-サ-・ミラ-、テネシ-・ウィリアムズは、アメリカ現代戯曲の最高峰。これ以後の劇作家は完成品とはいえない、という。こういういいかたは、内村さんに特徴的なものだが、私の意見では、ミラ-、ウィリアムズ以後の劇作家にもすぐれた人はいるし、ウィリアムズにしても、もう完成した劇作家とはいえないと思う。
テレビで、マニラのホテル・フィリピナス焼亡のニュ-ズ。これには驚いた。
マニラ滞在中、このホテルに泊まっていた。マニラで知りあった、ス-サン、キテイ、名前も知らないオジイサンのタクシ-・ドライヴァ-のことを思い出した。
マニラに行ったのもまったくの偶然だった。
――あなたは疲れているのよ。しばらく、旅行でもしてみたら。
ある日、妻の百合子がいった。
――どこへ?
――行ってみたい場所よ。ひとりで。
百合子がすすめてくれたのだった。
当時、私は、ある週刊誌の仕事を終わっていた。これは、私のはじめての挫折といっていい。しばらく立ち直れなかった。つぎの仕事にとりかかる気力もなかった。そのくせ、毎日、雑文を書くのに追われていた。多忙だった。これは当時も今も変わらない。
外国に行ってみよう、という衝動的な思いつきが、それからあとの、慌ただしい出発に結びついた。
サイゴンに行った。この「旅」は私に大きな変化をもたらした。
その帰り、マニラに向かった。
当時、フィリッピンは、マルコス政権の時代で、ヴィェトナム戦争の影響を受けていた。フィリッピン全土は、ヴィェトナムとおなじように夜間外出禁止(カ-フュ-・タイム)だった。
ある日、私は、松林につつまれたマニラ郊外のナイトクラブに行った。その帰り、カ-フュ-・タイムになってから、マニラのホテルに帰ることになった。パスポ-トをホテルに預けてあるので、戒厳令下のフィリッピンでは、外国人にはいろいろと不都合な事態が起きることも予想されたのだった。
たまたま、老人の運転するボロ・タクシ-に乗った。途中、この老人とほとんど口をきかなかった。
マニラ市街に入ってから、老運転手は、私の空腹を察したらしく、自宅に寄って何か食べさせてあげよう、といった。
オジイサンの家は、平屋で、貧しい暮らし向きだった。コンクリ-トの三和土(たたき)に、机が一つ、木の椅子が二つ。これほど貧しい生活は――東京の、空襲で焼け出された当時の私の生活に似ていた。
オジイサンは、クロワッサンとバタ-、コ-ヒ-だけの夜食をふる舞ってくれた。
このとき、オジイサンは、戦争中のマニラで、日本軍が無差別に市民を銃殺したことを話してくれた。そのことばに、怒りはなかった。ただ、たんたんと、そうした事実があったことを話しただけだった。
戦争の記憶は遠くなったにしても、マニラの市民たちのあいだでは、まだまだ反日感情が強いと聞いていた。
しかし、オジイサンのことばに怒りはなかった。
私は異国に旅をしていることで、考えが単純になり過ぎていたのかも知れない。土地の変化や、時の移ろいは、自分で想像する以上に、私の思考や意識を変化させているに違いない。そう考えると、無差別にマニラ市民を銃殺した日本の兵士たちの狂気を、この老人が私にむかって非難しても当然だった。
しかし、オジイサンは、ただ、おだやかな口ぶりで、1945年にそうした事実があったと話しただけだった。この老人の話は私の内面にえぐりつけられた。
人間の犯してきた愚行の、最悪の狂気も、この見知らぬ国の暑さの中で私がずっと見つづけてきた、いわば既知のもののようだった。
翌日、私は、マニラからバギオに向かった。ここで、幼い少年たちと知りあったが、これも貧しい子どもたちだった。私は、この少年たちから、何かを教えられたような気がした。
ホテル・フィリピナスのことから、いろいろなことを思い出した。
1977年11月15日(火)
ホテル・フィリピナスは全焼した。
7階建てのビルには、窓が黒く焼けて、日の廻りが早かったことがわかる。悪いことに、マニラは、13日の夜から季節はずれの台風に襲われて、消火作業が遅れたらしい。死者、42人。
午後1時半。「サンバ-ド」で、杉崎 和子女史に会う。杉崎さんは、アナイス・ニンの一周忌に会合をもつことになり、その準備にとりかかっている。このために「牧神社」の菅原 孝雄君に会うことにしたのだった。菅原君はなかなかこなかった。しびれを切らしてこちらから電話をかけた。やっぱり、約束の時間を間違えていたことがわかった。
このときの話は、「アナイス・追悼」の会場、会費をどうするか。
「あくね」。小川 茂久と飲む。お互いに話をするわけでもない。盃が空になると、酒を注ぐ。そのくり返し。
思い出したように、小川がいう。
――「こんどの真一郎さん、読んだかい?」
――「読んだよ」
――「どうだった?」
私は感想を述べる。小川 茂久は黙って聞いている。中村 真一郎は、お互いに少年時代からの知りあいなので、よく話題になった。「こんどの」というのは、その時期の「文学界」だったり、「群像」だったり、「そのときの」作品を意味する。
しばらくして、小野 二郎が内藤 三津子女史といっしょにきた。私は、すっかり酔っていた。
「あくね」のママが、しきりに内藤女史にからむ。こういうとき、私としてはほんとうに困る。どうしていいかわからないので。
1977年11月16日(水)
ストコフスキ-が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。
マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリの自宅で心臓発作で逝去。享年、53歳。
私は、センチメンタルな男かも知れない。いや、センチメンタルな男なのだ。
この日はマリア・カラスばかり聞いていた。
夜、「マリア」から電話。その応対を百合子が聞いていた。
彼女が私にひどくなれなれしい口をきくので、百合子が、
「どうして、あんな口をきくのかしら」
と、私をなじった。
1977年11月17日(木)
前夜から、風雨がつよい。雨は午前中も降りつづき、10時頃は、あたりが暗くなった。キンモクセイが全部倒れてしまった。可哀そうに。
池袋、「西武美術館」で、「ソビエト映画 三大巨匠展」をやっている。
ソヴイェトの映画は好きではない。しかし、見ておく必要はあるだろう。エイゼンシュタイン、プドフキン、もう一人は誰だろう?
ついでに、ファッション・ショ-を見ようか。ニュ-・フォ-マルと毛皮のファッション・ショ-、ゲストに今野 雄二。これは、19日、1時と3時。
池袋に行くのなら、すぐに山の帰り、ついでに「西武美術館」に寄ろうと考える。何でも登山に結びつけて考える習性がついている。池袋なら、秩父に行けばいい。
久しぶりに単独行を考えた。
いつも、グル-プで行動する。行き先だけは、当日の天候とにらみあわせて、私がきめる。あとは臨機応変に、みんなで意見を述べる。行き先はきまっても、現地に行ってから、きゅうにコ-スを変更することもめずらしくない。
単独行の場合は、自分で何もかもきめるので、いつもより綿密にプランを考えることになる。
1977年11月18日(金)
小林 秀雄の「本居宣長」が出た。
伊勢、松坂にあって、思想家として生きた本居宣長は、古典に、人生の意味を匡し、道の学問を究めた。小林 秀雄が、「新潮」に11年連載したまま、今まで出版しなかったもの。
これは、ぜひ読んでおきたい。
本屋に行った。
棚に、「本居宣長」が並べてある。棚の前に、母子づれが寄って行った。母子の話のようすから、男の子は中学1年生らしいことがわかった。
男の子は、どうしても「本居宣長」を読みたいと思った。ただ、自分では買えない値段なので、母にせがんで買ってもらうことにした。それだけのことだったが、もし私が、中学生だったら、母、宇免は「本居宣長」を買ってくれるだろうか、と思った。
4000円の本である。中学生には、おそらく読みこなせない本とわかっていて、なおかつ、母、宇免は「本居宣長」を買い与えてくれるだろうか。
宇免だったら、なんのためらいもなく、私にこの本を買い与えたに違いない。理由はまったく薄弱なもので、たとえ読みこなせない本とわかっていても、息子が読みたいといったのなら、即座に買い与えたに違いない。
私は母に本を買ってほしいとせがんだことは一度もない。(子どもの頃の話。)欲しい本は自分のお小遣いで買って読んだ。その私が母に買ってほしいとせがんだのなら、たとえ自分の食事を抜いてでも買い与えてくれたと思う。
その男の子は「本居宣長」を抱えてカウンタ-に行った。
希望がかなえられた少年は顔を輝かせていた。
私はこの母子の姿を見て胸を打たれた。いい光景だった。
夜、「キャバレ-」(ボブ・フォッシ-監督)を見た。
あらためて、ライザ・ミネッリに感心した。しかし、テレビなので、ラストはライザが「キャバレ-」を歌うシ-ンで終わっていた。映画では、カメラがステ-ジから客席に引くと、その客のなかに親衛隊の将校や、ナチのメンバ-がいる。それで、この時代の恐怖がまざまざと感じられる「演出」だった。
テレビでは、それが全部カットされている。そのため、ただのミュ-ジカルのハッピ-・エンドに変わっていた。
テレビでこの映画を見た人は、「キャバレ-」に、ハッピ-・ゴ-・ラッキ-なものしか見なかったにちがいない。