1797〈1977年日記 44〉 

1977年10月25日(火)

短編を書いた。

もう10年も前の話。
当時、「読売」で、大衆文学時評をはじめた。これは、文化部の高野 昭さんの企画で、佐々木 誠さんが担当した。
このコラムで、「ハヤブサ・ヒデト」というペンネ-ムを使った。
高野 昭さんも佐々木 誠さんも、このペンネ-ムについては異議を唱えなかった。おそらく、「ハヤブサ・ヒデト」について何もご存じなかったと思われる。
ハヤブサ・ヒデトは、戦前の「大都映画」のアクション・スタ-で、連続活劇が専門だった。少年たちは、悪人たちを相手に戦うヒ-ロ-、「ハヤブサ・ヒデト」の活躍に胸を躍らせたものだった。「恋人」は、「大都映画」の美少女、佐久間 妙子ときまっていた。私は、後年、「忍者アメリカを行く」という愚作を書いたが、その主人公を「隼 秀人」と命名した。自作のなかで、少年時代のヒ-ロ-を登場させたかったからだった。
ある日、佐々木さんから、一通の手紙が回送されてきた。
読者からの手紙だった。鉛筆で書かれたものだった。

 

前略
3月7日夕刊、”大衆文学時評”、ハヤブサ・ヒデト氏は本名は何と言われる人でしょうか――おさしつかえなければ御知らせ頂ければ幸甚です。
私――戦中、映画、自作自演、自監督をしたことあり、その頃のペンネ-ムと同じものなので、何か、かつての私と何等かのかかわりのある方なのか――と右お願いまで
二月八日                   広瀬 数夫

 

私は驚いた。
ハヤブサ・ヒデトは、もう、亡くなったとばかり思っていたから。かつての活劇スタ-が生きていて、私の「ハヤブサ・ヒデト」の書いている「大衆文学時評」を読んでいる!
しかも、住所は、埼玉県小川だった。

埼玉県小川町は、私の母が、幼い少女だった頃、貧しい暮らしをしていた土地だった。そして、ハヤブサ・ヒデトの本名が広瀬 数夫と知って、これにも少し驚かされた。私自身が「広瀬 たけし」というペンネ-ムを使って、雑文を書いていた時期があったからである。

私は、すぐに返事の手紙を書いた。
少年時代に、ハヤブサ・ヒデトのシリ-ズのファンで、毎週、かならず見に行ったこと。批評家になってから、大衆文学批評を書くことが多くなって、「読売」が、新設したコラムに、私を起用してくれたこと。そのとき、私にとって貴重な「ハヤブサ・ヒデト」の名をペンネ-ムに選んだこと。
この手紙で、本名を明かしたわけではない。手紙を読んだあと、どうあっても私の本名を明かせというのなら、よろこんで明かしたい、と書いたのだった。

広瀬 数夫さんから返事はなかった。
昭和初期に、自分の活劇に夢中になっていた少年が、大衆文学批評を書いていることに、なにかしら、くすぐったい思いがあったのではないか、私はそんなことを想像した。

1969年のことだった。

ハヤブサ・ヒデトは、翌年に亡くなったはずだが、よくは知らない。ただ、この大衆文学時評をハヤブサ・ヒデトが読んでくれている、と思いながら書いたのだった。

 

 

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1977年10月27日(木)

作家、稲垣 足穂が亡くなったという。知らなかった。

「山ノ上」。「IDA」、井田 康雄君が教えてくれた。
このとき、「青春と読書」を受けとった。先日会ったリチャ-ド・バックのインタヴュ-。これは、録音を終えたあと、「山ノ上」に入って、徹夜で書いたものだった。
自分でいうのもおこがましいが、いちおうよく書けていると思う。

安東夫妻と、先日の高畑山の思い出を語りあいながら飲む。
Y.T.は、山登りが好きになったらしい。石本に、小説の原稿をわたして、Y.T.を送らせる。
残ったメンバ-を、三崎町の「平和亭」につれて行く。最近、「徳恵大曲」という中国酒が気に入っているので、みんなにふる舞うつもりだったが、これがなかった。別の酒を飲んだが、白乾児に似た味でがっかり。

 

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1977年10月28日(金)

「素顔のモンロ- アンドレ・ド・デイ-ンズ展」 を見た。
マリリンが19歳のときから、4000枚も撮影した写真のなかから、初期のノ-マ・ジ-ン時代、モデル時代、私生活など、初公開の写真、60点。
渋谷「西武B」。今日まで。

19歳のマリリンは、写真家、アンドレ・ド・デイ-ンズとどういう関係だったのか。むろん、こうしたことに関する資料はない。もっと露骨にいえば、19歳のマリリンはド・デイ-ンズとSEXしたのか。

ド・デイ-ンズのマリリンは、彼のカメラがマリリンのエロスをどうとらえているかにあらわれている。ド・デイ-ンズは、数年後にマリリンが、アメリカを代表する映画スタ-になるとは夢にも思っていなかったはずだか、この19歳のマリリンは、すべてが無邪気なハイティ-ンなのに、すでにしてセックスだけで生きている女なのだ。
この「マリリン」は、生命力であり、活力なのだ。

戦時中に、陸軍の報道カメラマンに撮影されているが、そのとき、「マリリン」はこのカメラマンとSEXしている。
モデルになっていた「マリリン」が、ド・デイ-ンズとSEXしなかったとは考えにくい。「素顔のモンロ-」には、いわば、ド・デイ-ンズと私たちが「マリリン」の秘密を共有しているといった親密な雰囲気がただよっている。

 

 

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1977年10月29日(土)

見たい映画。「マルタの鷹」。これは東京12チャンネル。
あまり見たいと思わないもの。「ソヴイェト名作映画祭」。むろん、見ておいたほうがいい映画――「アンナ・カレ-ニナ」、「カラマ-ゾフの兄弟」。

 

 

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1977年10月31日(月)

宝塚、11月「雪組」をみるか、暮れの「花組」、春日野 八千代を見るか。

オスカ-・ワイルドはいう。

快楽のために生きてきたことを、私は一瞬たりとも悔いはしない。私はこころゆ
くまで味わったのだ。人はそのなすべきことをすべてなすべきであるように。
私の経験しなかった快楽などあるはずもなかった。

私は、こういい放ったワイルドにさして羨望を感じない。

おのれの行状をこうまでみごとに裁断するワイルドには敬服するほかはないが、私自身は、おそらくわずかな快楽すら経験せずに生きてきただけのような気がする。
たとえ、わずかばかりの快楽のために生きてきたとしても、私は悔いない。

 

 

 

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