1794〈1977年日記 41〉

 

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1977年10月5日(月)

作家、和田 芳恵さんが亡くなった。71歳。

和田 芳恵 (1906~77)作家。北海道・長万部町生まれ。中央大・独法科卒業。新潮社に入り、「日本文学大辞典」の編纂、「日の出」の編集に当たった。1941年、自作が芥川賞候補になる。新潮社を退社。戦後」、中間小説の先駆的な雑誌、「日本小説」の編集。
樋口一葉の研究をつづけ、1956年、「一葉の日記」で芸術院賞を受賞。
1963年、「塵の中」で直木賞。1774年、「接木の台」で読売文学賞、今年、「暗い流れ」で日本文学大賞を受けた。  (後記)

 文壇の大家たちとまったく無縁だった私に、どうして和田 芳恵さんが親しく接してくださったのか。もともと文壇の大家の知遇を得ようとする下心はまったくなかった。ただ、少年時代の私は、慶応のグル-プに出入りしていたとき、野口 富士男さんに和田 芳恵さんを紹介されたのだった。
その後、ほとんど無関係に生きてきたのだが、たまたま、私が大きな新聞の「大衆小説批評」を書きはじめて、和田さんの小説をとりあげたことがあった。

もともと批評家として出発したため、批評家の友人は多かったが、北 杜夫以外の文壇作家たちとは無縁だった。北海道、三重、千葉の同人雑誌作家たちに友人ができたが、その人たちの集まりにもほとんど出たことがない。
この数年、たまに文壇の集まりに顔を出すことがあって、和田さんを見かけたときはこちらから挨拶をするようになった。
和田さんにすれば、慶応の集まりに出ていた少年が、いつしか薄汚れたもの書きになっていたぐらいのことだったに違いない。しかし、和田さんはそんな私に対して、いつもわけへだてのない態度をとってくれた。

私にとっては、ただ一人の文壇の知己であった。

和田 芳恵さんのご冥福を心からお祈り申しあげます。

種村 季弘さんから、グスタヴ・ルネ・ホツケの「絶望と確信」を贈られた。むずかしそうだが、こういう本が読めるのはうれしい。
とりあえず礼状を書いた。
内村 直也先生から、「日本語と会話」を頂く。
大畑 靖君から、創作集「ミケ-ネの空は青く」を。

 

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1977年10月6日(木)

たくさんの美少女を見てきた。ス-ザン・ジョ-ジは、そういう美少女のなかでも出色のひとり。
久しぶりに、「12チャンネル」で「クレイジ-・ラリ-」(ジョン・ハフ監督)を見た。「クレイジ-」なエ-ス・ドライヴァ-、「ラリ-」(ピ-タ-・フォンダ)は、「メリ-」というカルい女の子(ス-ザン・ジョ-ジ)に声をかけて、首尾よくベッドイン。これが「ダ-ティ」な女の子。「ラリ-」たちといっしょに近くのス-パ-を襲って10万ドルをせしめて、警察に追われてもヘッチャラ。
かなり昔のフランス映画の――セシル・オ-ブリ-(「情婦マノン」)、ナタリ-・バイ(「アメリカの夜」)、エチカ・シュ-ロ-(「青春の果実」)といった「戦後派」の無軌道な娘たちを思い出すが、このス-ザン・ジョ-ジほど、あっけらかんとして、「ダ-ティ」な娘ではなかった。ス-ザンは、「わらの犬」(サム・ベキンパ-監督)で、ダスティン・ホフマンと共演しているが、この映画でも、頭のなかがカラッポで、何に対してもノン・シャランな態度で、平気で悲劇的な運命に向かって行く。サム・ぺキンパ-好みの女優じゃないかな。
見ておいてよかった。つまらない内容でも、心に残る映画のひとつ。

 

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1977年10月7日(金)

野口 富士男さんが、和田さんの追悼を書いている。

階段を二段ほどのぼりかけると、もう肩で息をしなければならぬほど、和田さんは弱っていた。だれの眼にも最悪の健康状態におかれていたことは明白すぎるほど明らかだったのに、書いて、書いて、書きまくっていた。明日どころか、今晩死んでも不思議はないと、私は外で、和田さんに会って別れるとき、いつもそう思っていた。その癖、私は仕事をよせとは言えなかったし、身体を大事にしなさいよということも言えなかった。役者なら舞台の上で、相撲なら土俵の上で死ねば本望だろうと私は思っていたからであった。

私が和田さんに最後にお目にかかったときも、和田さんは弱っていた。呼吸するのも苦しそうだったので、ただ挨拶しただけだったが。「だれの眼にも最悪の健康状態」だったと思う。最後の和田さんの仕事には鬼気せまる気迫が感じられた。
野口さんの追悼で思い出したが、私がはじめて和田さんにお目にかかったときも、野口さんは和田さんとごいっしょだった。野口さんが和田さんを紹介してくださったのだった。この席で、原 民喜さんが、私の肩に手を置いてくれたような気がする。
晩年の和田さんは、私にいささかの好意をもっていてくださったと思う。それは、実現することなく終わったのだが、その経緯はここに書く必要がない。ただ、私はほんとうに和田さんに感謝したのだった。