1791 〈1977年日記 38〉

 

1977年9月20日(火)

東京に出て、吉沢君と会う。「ヤマハ・ホ-ル」で、「おかしな泥棒 ディック&ジェ-ン」(テッド・コッチェフ監督)の試写を見ることにした。
「ディック」(ジョ-ジ・シ-ガル)と「ジェ-ン」(ジェ-ン・フォンダ)は、ごく平均的な夫婦で、ささやかな幸福な家庭をもっている。子どもはひとり。ところが、「ディック」が失業する。たちまち、ささやかな幸福も雲散霧消してしまう。これを解決するために、二人が実行するのは、泥棒稼業だった。
ジェ-ン・フォンダが、ホ-ム・コメデイをやるのだから、きっとおもしろいだろうと思った。たしかに、演技力はあるし、女として魅力もある。しかし、ジェ-ンが、いくら熱演しても、こういう「役」は、ジェ-ンには向かない。テッド・コッチェフの演出も、昔のRKOのコメデイのような、軽快なタッチでもあればまだしも、まるでコメデイ向きではない。例えば、ドジを踏んでも、本人はいつも我関せずといった顔をしている、それが、観客の笑いを喚ぶアイリ-ン・ダンのような、女優なら自然に出せるのに、ジェ-ン・フォンダがやると、「あたしなら、こういう女になれるわ」といったドヤ顔になる。
ジェ-ンは、いつも自分の表情や、筋肉の動きを統制する。ある瞬間に表情や筋肉を自在に働かせて、「役」を自分の意のままにふる舞う。だから、観客をとらえて、自分のほうに引き寄せようとする。「ジェ-ン」はいつも、明るい、愛情をこめたまなざしで「ディック」を見つめる。「あたしは、こういう女なのよ」。これが、ジェ-ン・フォンダなのだ。だから、笑える部分でも、ほとんど笑えない。

ジェ-ン・フォンダが、最高に「ジェ-ン・フォンダ」だったのは、ロジェ・バディムと結婚していた頃の「バ-バレラ」あたりだろう。悲劇的でありながら、おかしい喜劇女優だった。アイリ-ン・ダンは、ふつうの女優としては最高のレベルにたっしているが、名女優ではない。ジェ-ン・フォンダは、別の次元で、名女優といっていい。

外に出たとき、雨が降っていた。台風が接近している。

「ジャ-マン・ベ-カリ-」で、「南窓社」の松本さんから、校正を受けとる。
そのあと、三崎町の写真屋で、写真を受けとって、本をあさった。
ガリレオの研究、イタリア、フィレンツェの名家の研究、ボ-マルシェの評伝など。
帰宅。ジョン・ト-ランドの「最後の100日」を読みはじめた。「ル-ツ」(社会思想社)が送られてきた。これはすぐに読む必要はない。

 

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1977年9月21日(水)

午後2時半、「ジャ-マン・ベ-カリ-」で、「月刊時事」の編集者に原稿をわたす。この原稿は、先日、特急のなかで書いたもの。
下沢君といっしょに「ワ-ナ-」に行く。「ビバ・ニ-ベル」(ゴ-ドン・ダグラス監督)を見た。バイクのスタント・レ-サ-、「イ-ビル・クニ-ベル」(本人)が出ている。このところ、いい映画を見ていないので、少し期待して見たのだが、これがどうにも挨拶のしようがない。昔、「新興キネマ」が、子ども向けに「ハヤブサ・ヒデト」のシリ-ズを作ったが、あのシリ-ズのはるかなる果てにこの映画がある、と思えば、それなりに楽しいだろう。
こんな映画の試写を見にくる人はいないだろうと思ったら、意外や意外、田中 小実昌が見にきていた。私に気がついたコミさんは、おトボケ顔で、
「ねえ、中田さん、お通夜に、お香典をもって行ってもいいだろうか」
と聞く。
何かあらぬことを言いだして、私をカツぐのではないか、と思った。
「これから、行くの、お通夜に?」
「うん、今 東光さんがイケなくなっちゃったんだ」
え、今 東光が亡くなったのか。
「そりゃ、たいへんだ、お香典はもって行ったほうがいい」
私は答えた。
私としては――知人が亡くなった知らせを受けて、さっそくの弔問にお香典を持参するのは、ひかえたほうがいい、なぜなら、急な事態に、先方は祭壇さえかざっていないコトもあるだろうし、親戚、縁者でごったかえしている最中に、挨拶もそこそこにお香典をだせば、とりまぎれたりすることもある。
むしろ会葬のときに、御香典を霊前に供えるほうがいい、と考えている。
医師で、同人作家として小説を書いていた三浦 隆蔵さんの訃を知らされたとき、私は、すぐに花輪を贈る手配をして、ご自宅に急行した。このときは、お香典はいかほど包むものかわからなかった。
ただ、コミさんが、いつものようにラフなスタイルだったので、できれば喪服に近い恰好のほうがいいよ、といった。新聞記者、編集者が押しかけているはずだから。
田中 小実昌は、私の意見を聞くと、
「ありがと。助かったよ」
といって、すぐに、近くの「松阪屋」に入って行った。おそらく、御仏前の上包みを買いに行ったのだろうと思う。

日比谷公園まで、歩いた。銀杏の実がびっしりついていた。
もう秋だなあ。
暮れかかるビルの空に、長い影がひろがりはじめていた。

6時、「山ノ上」で、画家のスズキ シン一に会った。下沢君を紹介して、3人で、ホテルのテンプラを食べた。
スズキ シン一は、マリリン・モンロ-のヌ-ドしか描かない芸術家だった。私は、偶然、彼の個展を見て、たまたま、テレビに出たとき、彼の画業を紹介した。そのときから、親友になったのだった。
この夏、彼は、エジプトに旅行した。そのおみやげに、カイロで、エジプトのガウンのような服を買った。それを私にプレゼントしてくれた。私は、酒に酔った勢いで、その服を着た。
時間が遅かったので、下沢君を帰して、スズキ シン一といっしょに、駿河台下のバ-、「あくね」に行った。

私がエジプトの服を着ているので、「あくね」のみんなが、驚いたり、笑ったりした。いつも私についてくれる「順子」も、ママも傍に寄ってきて、みんなでワイワイさわいだ。こちらにご光来くださった方は、エジプトのカイロ大学のえらい教授先生だぞ、と紹介した。
みんなが信じなかった。
前に、スズキ シン一をこのバ-につれてきたことがあって、そのとき、画家と紹介したことを忘れていた。

 

 

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