1790 〈1977年日記 37〉

 
1977年9月14日(水)

13日、レオポルド・ストコフスキ-が亡くなった。95歳。

1882年、ロンドン生まれ。ポ-ランド系ブリット(英国人)。23歳で、アメリカに移住、10年後、アメリカに帰化した。
指揮者として成功したのは、1912年、フィラデルフィア管弦楽団の嘱託指揮者になってから。40年代には、NBC交響楽団、ニュ-ヨ-ク・フィルの指揮者として、世界的に知られた。
私は、ストコフスキ-が出た映画、「オ-ケストラの少女」(ヘンリ-・コスタ-監督/1937年)を見ている。父、昌夫がつれて行ってくれたのだった。私は9歳になっていたので、映画の内容はわかった。 ただし、この映画で、ストコフスキ-がノン・タクトでやった音楽が何だったのか、知らなかった。
戦後になって、「オ-ケストラの少女」が再上映されたとき、リストやチャイコフスキ-だったことを知った。
これも戦後になって、公開されたアニメ-ション・ミュ-ジカル、「ファンタジア」(1940年)は、ストコフスキ-がフィラデルフィア管弦楽団をひきいていた。戦後も、10年たってからの公開だったので、私もいくらか音楽にくわしくなっていた。
ストコフスキ-の指揮にあまり興味がなかったので、彼が来日して、読売日響、日本フィルを指揮したときも聞きに行かなかった。

それでも、彼のヒンデミットや、ストラヴィンスキ-を聞いたし、彼が「恋人」グレタ・ガルボと結婚するというゴシップが気になったりした。「オ-ケストラの少女」は、父の思い出と、ディアナ・ダ-ビンという少女に対する淡いあこがれと、みごとな銀髪をふりたてて指揮をとるストコフスキ-の姿が重なって、私にとっては忘れられない映画になった。

そのストコフスキ-が亡くなったのか。

 

 

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1977年9月17日(土)

ストコフスキ-が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。
マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリで心臓発作で亡くなった。享年、53歳。

私の好みは、いつも世間の人と反対らしく、マリア・カラスに対しても、絶対的な尊崇をもっていない。カラスと並ぶプリマドンナ、レナ-タ・テバルディと比較するわけではないが、マリア・カラスを聞いたあとで、レナ-タを聞くと、なぜかほっとするときがある。レナ-タを聞いたあとで、マリア・カラスを聞くと、ああ、これは別世界なのだ、と納得するのだが。

カラスが、ジュゼッペ・ステファノを相手に復活して、世界各国でリサイタルを開いたが、さすがにかつての声は戻らなかった。
1970年、「王女メディア」(パオロ・パゾリ-ニ監督)に出たカラスには驚嘆した。オペラ歌手なのだから、演技がうまいのは当然だが、この映画のカラスは、名演技などといったレベルではなく、すさまじい迫力を見せた。
私の勝手な妄想のなかでは、サラ・ベルナ-ルとエレオノ-ラ・ドゥ-ゼを合体させて、さらに、マリ-・ベルとヴァランティ-ヌ・テッシェを加え、それに、ファニ-・アルダン、ジャクリ-ヌ・ビセットといった女優をかきまぜて、やっと、「王女メデイア」のカラスのレベルになる。
いろいろなオファ-を受けていたカラスが、そのいくつかを実現していたら、どれほど貴重なものになったことか。

わずかながらカラスのCDをもっている。「ラ・ノルマ」でも聞こうか。せめて、カラスを聞こうというのは、われながらさびしい、かなしいことだが、思い出には、いつもわずかながら、さびしい、かなしいものがまざっている。

マリア・カラスの訃報は、かんがえないことにして……

この日、久しぶりに山歩き。メンバ-は、安東、吉沢、石井、鈴木、菅沼の5名。
原稿は、石本に届けてもらった。

黒磯からバスで、大丸温泉に行く。
夕方から歩いた。峰ノ茶屋の尾根にとりついたときは、もう日が暮れていた。懐中電灯を頼りに山道を辿って、三斗小屋に着いたのは7時。

隣りの部屋で、東北日大高の0Bの一行が宴会をはじめた。12時過ぎて、みんなが出かけたので、安心したが、3時頃、戻ってきた。みんなが酔っていて、一人はヘドを吐く始末。さすがに私もたまりかねて、外にでてどなりつけてやった。

朝、4時に出発の予定だったが、5時に変更した。前の晩、小屋の近くにテントを張った女子高生3人と、高校生3人は、国体に出る訓練をしているという。引率していた福島岳連のリ-ダ-のオジサンとしばらく話した。オジサンも、昨夜の日大高の0Bたちの乱行に眉をひそめていた。
こちらが出発というとき、まるで土佐犬のような大型のメスのイヌが私たちに寄ってきた。
「おい、一緒に行くか」
と声をかけると、ことばがわかったらしく、シッポを振って走りまわった。

睡眠不足なので、はじめはきつかった。熊見曽根をたどって、三本槍にでる途中まで、ずっと霧だった。霧雨。
須立山から甲子に下る道は、雨に濡れて、すべりやすく、けっこう苦労させられた。

坊主沢の避難小屋は、前にきたときは、荒れ果てていたが、行政の手が入ったらしく、しっかりした小屋に建て替えられていた。登山者のマナ-が悪かったのだろう。

甲子温泉に着いたのか4時。旅館で入浴させてもらう。これも、前にきたときは、薄汚れていたのに、すっかり温泉ホテルふうになっていたのでおどろいた。
ずっとついてきたイヌと別れた。
イヌは、そのままどこかに行ってしまったが、夜道を戻るのかも知れない。あのイヌの足なら、ほんの2時間もあれば、三斗小屋に戻るのではないか。
帰りはうまくすわれたが、さすがに疲れた。

 

 

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1977年9月19日(月)

私は、じつはセンチメンタルな男なのかも知れない。
マリア・カラスばかり聞いていた。

パスカル・ペレのサッカ-を2度見た。これだって、さびしい、かなしいものがまざっている。
最初の試合、ラスト1分前に、ペレが、みごとなバナナ・シュ-トをきめた。これは、みごととしかいいようがない。しかし、日本チ-ムも、「コスモス」も、この試合がペレの引退試合と知っているので、最後に、ペレ一世一代の花道を作ってやる「演出」に見えた。私の猜疑心によるものだろうか。
観客は、みごとなバナナ・シュ-トをきめたペレを讃えて、熱狂的に拍手喝采したが、私はかすかに、このプレイは、はじめからこういうシナリオだったような気がしたのだった。むろん、それならそれでかまわないけれど。

なにしろ、センチメンタルな男かも知れないので。

 

 

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