1787 〈1977年日記 34〉

 

1977年9月1日(木)

私の失敗。

クレジット・カ-ド、銀行のカ-ドなど、いっしょに入れておいた紙入れを紛失した。どこを探しても見当たらない。山に行くときは現金だけもって行くので、まさか紙入れごと失くしたとは思わなかった。

この一年、物忘れをするようになった。老化現象なのだろうか。
本を読む。本の内容はおぼえているのに、ある文章がどの本に書いてあったのか、忘れることがある。毎日、1冊以上の本を読むせいだろうか。誰かがこういうことをいっていたな、と思う。さて、誰がいっていたのか、その本を探すのはたいへんなのである。三日もすれば、少なくとも、3冊から十数冊の本を読んでいるわけだから、誰がいったのかおぼえていないことになる。

物忘れをするようになったことから、思い出したことがある。

いつだったか、「千葉文学賞」の選考に呼ばれて出席した。
このとき、はじめて窪川 鶴次郎に会ったのだった。

窪川 鶴次郎(1903~1974)中野 重治などと「驢馬」を創刊。佐多 稲子と結婚。「日本プロレタリア芸術連盟」に参加。1930年、「ナップ」の文芸評論家として活動する。1931年、非合法下の共産党員になる。翌年、逮捕され、転向。「再説現代文学論」(1944年)は、文学批評の古典と見られている。
戦後も、左翼を代表する文芸評論家だったが、「近代短歌史展望」(1954年)
あたりから、研究者になり、文芸評論から離れた。 (後記)

 私が「戦後」はじめて登場したとき、窪川 鶴次郎は痛罵を加えた。私は、はじめてジャ-ナリズムの攻撃にさらされたが、窪川 鶴次郎の攻撃にふるえあがった。こちらはまったく無名なので、反論したくても反論できなかった。
このときから私は窪川 鶴次郎を敵視するようになった。むろん、会ったこともなかった。千葉に移り住むことになって、たまたま「千葉文学賞」の選考を依頼されて、窪川 鶴次郎と同席したのだった。
現実に眼にした彼は、ただの老いぼれに過ぎなかった。

このとき、「文学賞」最終選考に残った作品は5編。いずれもせいぜい同人雑誌クラスの作品で、10万円の賞金にふさわしいものではなかった。ところが、「千葉日報」としては、どうしても当選作を出したい、出す必要があった。当時、この「文学賞」には県からも補助が出ていたためもあった。けっきょく、この年の当選作は、若い女性の叙情的な作品にきまった。

選考に当たったのは、窪川 鶴次郎、福岡 徹(富安 徹太郎)、恒松 恭助、峰岸 義一、そして私。当時、近藤 啓太郎も審査員のひとりだったが、これは名ばかりで、こんな「文学賞」の選考などに出席するはずもなかった。私が審査員に選ばれたのは、近藤 啓太郎の欠席を予想しての起用だったらしい。

今なら、コピ-した応募原稿がわたされるのだが、当時は、生原稿を廻し読みするので、能率がわるく、審査は午後から夜までかかることもめずらしくなかった。
窪川 鶴次郎は、熱心にノ-トをとりながら、原稿を読んでいた。しかし、原稿を読むスピ-ドが遅く、いちばん先に読んでしまった私は退屈した。

けっきょく、二次審査だけに5時間もかかって、6時過ぎに酒宴になり、その席で、それぞれが感想を述べることになった。

長老の窪川 鶴次郎が、最初に意見を述べたが、作品の優劣に関してはほとんど何も発言しなかった。むろん、応募作品のレベルが低すぎて、批評しなかったのかも知れない。しかし、口ごもったように、不要領なことばを述べただけで、意外な気がした。
たとえば、これも最終選考に残った作品の一つについて、

・・・これはどうも、ぼくには興味がありませんでね。なんだか、ニヒルでアナ-キ-
なものを感じましたね。

 といっただけだった。
ビ-ルを飲みながら、みんながつぎつぎに感想を述べたが、ビ-ルのせいで和気あいあいといった感じになった。福岡さん、恒松さん、峰岸さん、いずれも談論風発の酒豪ぞろいだった。

窪川 鶴次郎は、酒を飲まなかった。ただ、なんとなくようすがおかしい。しきりに、何か考えているようだった。

 隣りにいる峰岸 義一をつかまえて、
・・あの女子学生の小説は何でしたっけね」
小声で訊く。
・・あれは、・・・の「・・・」ですよ」
峰岸さんが教えた。しばらくすると、また窪川 鶴次郎が、
・・あの女子学生の出てくる小説は何でしたかな、題は」
と訊く。峰岸さんは、おだやかに、
・・だから、「・・・」でしょう、先生のおっしゃるのは」
・・「ああ、そうでしたね」

 私は、このやりとりを興味を持ってみていた。
これが、あの窪川 鶴次郎なのか。佐多 稲子と結婚したり、田村 俊子と愛欲生活を送ったり。戦時中は、当局の厳重な監視下におかれながら、自分の立場をくずさなかった文学者なのか。
また、ひとしきり雑談がつづいて、窪川 鶴次郎が口を開いた。

・・私は、あれがいいと思いましたね。あの女子学生が出てきて、清潔な、なんというのかな、学生生活を描いた小説、何でしたかな、題名は」
・・「・・・」ですよ」
・・いや、そうじゃなくて、ほら、あの、もう一つあったような気がしますね。女子学生が出てきて・・。」
峰岸さんは黙っていた。このときは、恒松さんが話をひきとって、当選作の内容を子細に説明した。
けっきょく、この作品が、あらためて当選ときまったが、窪川 鶴次郎は、まだ納得できないのか、ひとりごとのように、
・・あの女子学生の作品は何だったっかな。
と、つぶやいていた。
それからあと、窪川 鶴次郎はまったく沈黙してしまった。

 私は、いたましい思いでこの先輩批評家を見ていた。信じられないほどのボケ老人になっている。当時はまだ認知症とか、アルツハイマ-といったことばもなかった。だから、ただの「ボケ」として認識したのだった。「戦後」の窪川 鶴次郎が、この数年、何も書かなくなっていることは知っていたが、これほどの老廃と化しているとは。
まだ白頭の老人とも見えないが、顔は茶色を帯びて、メガネの奥には、何かに驚いたようなまなざし。
これまで実際に面識のなかった窪川 鶴次郎に、ひそかな敵意を抱いてきた。その窪川 鶴次郎が、ようやく箸をつけて、選考を終わった人々の雑談にも加わらず、遅ればせながら食事を続けているのだった。
私は、文学者の老年をしきりに思った。たとえば、幸田 露伴のように、老いてますます高雅、潁明さらに盛んになる人もいる。あるいは、その趣味は俗悪、その人格は低劣とそしられながら、老いてなお、un petit loppin de maujoint を美しく描いた永井 荷風のような老健の人もいる。
いずれ、私も年老いた日に、窪川 鶴次郎のようにならない、とはかぎらない。そう思っただけで、うろたえた。

やがて閉会になった。
窪川 鶴次郎も、蹌踉(そうろう)として席をたったが、テ-ブルの上に飲み残しのビ-ルを見つけて、いそいで飲み込んだ。恒松さんが、ウイスキ-に切り換えたとき、飲み残したビ-ルだった。

 

 

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1977年9月2日(金)

駿河台下の銀行に行って、カ-ドの変更を申請した。偶然だが、銀行に鈴木 君枝がいた。そして、石川 幸子と会った。二人とも、私のクラスの学生。

「週刊サンケイ」、長岡さんに書評をわたす。